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小説 「 ―いつか、 きみは 」

「幽霊になっても恋がしてみたいと思う?」
そういうとカノジョは少し考えてから、うなずいた。
「また…誰かを好きになればね」
空が茜色に染まっている。
夕焼けに照らされたカノジョの顔は、なぜか悲しそうで、儚げで美しかった。


T公園には幽霊が出るらしい。
そんな話をきかされたのは職場の後輩の弓坂からだった。
「知ってます?あの話」
「あの話って?」
俺はパソコンに商品のプライスカードの値段を打ち込みながらきいた。
「T公園ってもともと小さなアパートが建ってたんですよ」
「ふーん」
「それで、十年前の震災のとき」
「弓坂、今日の青果の発注って済んだの?」
「って聞いてないし!?」
弓坂はツインテールをひらめかせながら、わめいた。
俺は笑いながら答える。
「あー、ユウレイ?ユウレイ。…あー、幽霊の話ね」
「出るんですよー。あそこの公園、夜になると」
「へー、俺、理系だからそういうの、信じてないんだよね」
「あたし、見ましたもん!」
弓坂が目を爛々とさせていった。
「へ?」
「だから…見たんですって!幽霊!」
「見たの。へー」
「信じてないでしょ」
「うん、まあね」
でも、見たんです、と弓坂は意味深に遠くをみるような目をした。
―女の人でした。
「美人だった?」
「ソコ、重要!?」
「そりゃ重要だよ」
「ほんと、男の人って女の人が死んでもソウイウ目で見るんですかね!!」
「見てみたいじゃーん。そんな幽霊だったら…。こっちもちょっとは話に興味がわくってもんだよ」
ムムム、と弓坂はうなっていたが思い返したような目をして視線を投げた。
「…美人だったと思います…」
「…ふーん」
弓坂はそういうと、「あっ」といって何かを訂正するように
「あ、でもなんか、そういう先輩が使うイヤらしい意味での美人じゃないですからね」
「美人にも種類があると…」
「なんていうか…ほら」
そういうと弓坂は困ったような顔を浮かべた。
「彼女は誰かを待ってるんじゃないかって気がして…」
「ん?」
「だから、えーっと」
弓坂にしては、気になる発言だった。
しばらく弓坂の言葉を待っていると、弓坂はとつとつと、自分が見たモノを語りだした。
「あたしが見たとき、彼女は夕暮れの公園のベンチに座っていました。なんで彼女が幽霊かわかったかって。彼女が透明だったからです。夕日の光を浴びて、その夕日を見つめるでもなく、…彼女は静かにうつむきがちにベンチに座っていた。…なんだかね…。先輩。その姿が誰かを待ってるように見えたんです。あたし…。」
俺は静かに弓坂の話をきいた。弓坂も俺の様子をみて、続きを話しだした。
「そのとき、なんかあたし怖さを感じなかったんですよね。なんだか…それは…そうだな」
「…うん」
弓坂の言葉を待つ。
「そのとき感じたのは…憧れだったんだと思います」「んん?憧れとは?」
「待ってる人。それも何か思いを秘めて、もがくように待ってる人って美しいじゃないですか…。彼女の心にはそれがある気がしたんです。それはあたしの思い込みや、想像かもしれない。でも彼女には内面がある…。そう感じたんです。そんな姿だった…」
「それに憧れを感じたの?」
そういうと弓坂は顔を少し赤らめて
「だって、あたしも、分かりますもん。なんかあの人が持ってるかもしれないモノを。だから、ああいう風に佇んでみたいなって…。そんな少し憧れを感じるくらいの姿でした」
「それ、弓坂。つれてかれるってやつじゃないか?」「え?ソウナンデスカネ!?」
「うん…。そうだと思う」
そういうと俺は笑った。
―ほんとに、その人が幽霊ならな!
先輩、また疑ってますねー、とはしゃぐ弓坂を後ろにして、俺は医薬品売り場に向かった。
俺と入れ違いではいってきたパートの徳田さんに「きいてくださいよー」と弓坂は不満をぶつける。
―弓坂、お祓いは忘れずに。
「いらっしゃいませー」
といいながら従業員部屋から売り場に俺は出た。


俺の住む街は海を臨む平凡な街だ。
といっても、十年前。
この街は大きな震災に見舞われ、死者だけでも甚大な被害がでた。
十年といっても世間の十年は長い。
いろんなことが世間では起こる。
いちいちその一つ一つを記憶していたようでは日常生活はままならない。
しかし、この街では違う。
十年経った今も、みんなふつうの日常を生きてはいるが、その奥底には震災の傷があり、どこか影がある人が多かった。

結婚するはずだった相手をなくした独身会社員、
子供が行方不明になったまま見つからなくなった主婦、
自分の親を見捨てなければならなかった学生、

みんな、ふつうの日常を生きて冗談もいって笑いあっていたが、口にできない個々の深い傷があった。
ただ毎日をみんな必死に残酷なまでの「普通の日常」をもがくように、生きていた。
先程の弓坂とて、震災を機に家族を失い、一人っきりになった身だ。
それを考えれば
―幽霊か…。
オカルトに走りたくなる気持ちも分からないではない。
そんなドキドキするような話で日常を楽しめるなら、オカルトというのも身を壊さない程度にあっていいと思う。

かくいう俺は、この街の、小さなドラッグストアで働いていた。
そして、俺の生まれは、この街ではない。
ただ運命のいたずらから、今の会社に就職後、この街の小さな支店に配属になり転勤してきただけだ。
まあ、もっとも俺の実家があるのは隣の県だ。
いざとなれば高速を使って、車を一時間飛ばすだけで帰れる。
ちなみに家族は健全だ。

この街に引っ越してきた気分は…まあ、悪くはない。
小さな街ではあるが、街の中心には小ぶりな古城があるし、海が近いこともあって晴れる日が多く、風が穏やかだ。
―また、この街の夕焼けは格別にいい。
そして、なんだかんだいって海産物が好きな俺には、魚介類が安く手に入るのがいい。
都市部だと、こうはいかない。

「レジ変わりまーす」
俺は、徳田さんに声をかけた。
「あ、次の時間、野栄くん?助かるよー。早めにきてくれて。俺、青果発注しないといけないんだよねー」
―ということは、あいつ…さては、あのあと発注忘れたな…。
弓坂の顔を思い浮かべながら、
「弓坂、また忘れたんですかねー」
と俺はいった。
「うん、忘れてる!」
と徳田さんが元気よく返す。
そして、ガラス張りの店の外を眺めながら、―風出てきたねーといった。
たしかに店の外で、のぼりがはためくぐらい風が出てきている。
「今日、夜、雨降るみたいですよ」
「うぇー!きいてないよ。俺、傘忘れちゃった」
「ははは」
そう笑ったあと、徳田さんは急に店の自動ドアの方をみながら
「今日はよく、勝手に、人もいないのに、あの自動ドア開くんだよね」
とポツリといった。
「あー、たまにありますよね」
たしかに、何事もないのにうちの店の自動ドアは開くことがあった。
「うん…あるね」
そういったあと冗談めかしに徳田さんが
「幽霊の仕業じゃないかなー」
といった。
「かもしれないですよねー」
「ねー。やっぱりこの街にはそういうの多いから」
といいながら徳田さんはレジを出た。
―ちょうど、十年前の地震の日もこんな風の日だった…。
そうポツリと、すれ違いざまに徳田さんがいった。
「いらっしゃいませー」
と俺はレジに入る。
徳田さんにはいってない。俺がそういうことを信じないのを。
第一、俺は自動ドアが勝手に開いたり閉まったりする理由にある程度、見当がついている。
自動ドアが勝手に閉開する頻度が高いのは、風が強く、店内と外で気温差が大きいときだ。
強い風と共に外気が自動ドアが開いた瞬間入りこむ。そして空気の圧の形状を保った、その外気は、寒暖差から店内の空気全体に押されて自動ドア付近で密度濃く固まる。
その微量な空気の変圧をドアのセンサーが拾うことで、人がいないのにドアが開く。
大方そんなところだろう。
―しかし、徳田さんにだって…。
「いらっしゃいませ。当店のポイントカードはお持ちですか?」
接客をしながら、外をちらりと見る。
空はどんどん暗くなってきていた。
―まあ、今夜は当分の長雨だろうな。
俺はすっかり幽霊の話を忘れて、接客にいそしんだ。


夕方を過ぎて、降りだした雨は勢いよく街を濡らした。
「うわー、めっちゃ降ってるよー」
徳田さんが最悪そうな顔でいう。
「店の傘ありますから使ってください」
「え?いいの?ありがとー」
「いいえ、風邪引かれても困りますから」
店を閉めながら徳田さんとそんな話をして、俺は外を見ていた。
「先輩!お先、失礼します!」
弓坂が私服に着替えて、自動ドアの前にたっていた。
「おう、気をつけてかえれよ」
「先輩もですよー」
弓坂は軽く会釈して帰っていった。
「若いっていいねー」
徳田さんがメガネの奥で目を細めて、弓坂を見送りながらいった。
「いきなり、なんですか?」
「あの子、これから、きっと好きな人のとこいくんだよ」
「なんでわかるんですか?」
「なんとなくだよ」
「……そんなもんですか」
「そんなもんだよ」
徳田さんは優しげにいった。
実際、俺はそういう人間の機敏に疎い。
人に心があるのか?という問いには「そういうのはあるように見えるだけなので、実際はない」と必ず答えてくるようにした人生だ。
徳田さんがそういうから、そうなんだろう。
俺はパソコンの画面にきている店舗指示書のメールにさっと確認しながら、店の電気のスイッチを落とした。


ポツポツと雨が降っている。
スーパーで今日の晩酌のアテにするための割引のつまみを買い、明日から使う野菜を買って俺は家路についていた。
ポツポツとビニール傘に雨粒があたる音がする。
本来、俺は雨の日が嫌いだ。
余計な持ち物が増える。
あーそうだ、今日の晩、昨日の鍋の残りがあったなー、あのダシなにかに使って料理作るかー、などと考えながら歩いていると、ちょうど、弓坂が話していた件のT公園の前まできた。
T公園は通称で、その名の通り、Tの字になっているまあまあ大きな公園だ。
しかし、立地としては海が見える高台にあり、ブランコなど乗れば海風を受けながら、青く澄んだ海原が見渡せる。
―まったくここで遊んで育つ子供は羨ましい。
とぼしい公園の街頭が公園の所々を照らし、ぼんやり公園全体の輪郭を浮かび立たせている。
“知ってます?あの話…”
弓坂の言葉が脳裏によみがえる。
「ユウレイね…」
俺には目に見えないものが見えたためしはない。
目に見えるものしか信じない。
九歳のときから、そうだ。
俺はずっとそうやって生きてきた。
―これからも…。
そのとき
ふと、公園の奥のベンチに人影が見えて俺は立ち止まった。
「…ん?」
それは公園の奥。奥まった場所にある一つのベンチだった。
そこは真上に街頭があり、ベンチを照らしているのだが、そこに一人の女が座っていた。
―ん?
そこまではいいのだが、その女が変であることに俺はすぐ気づいた。
この雨のなか女は傘をさしていないのだ。
「なんだ…あれ…」
そしてさらに奇妙なことに、女の顔はよく見えないが、その顔はずっと一点を見つめるように動かず、まるで人形のようだ。
―まるで、あの場所だけ時が止まっているような。
さらにこんなに雨が降っているのに、女はずぶ濡れになっているようには見えない。
いや、それは遠目にみて見えないというだけなので、実際かなり女は濡れているのかもしれなかった。
それにしてもあの落ち着きかたは
「異常だ…」
―おかしい。
あきらかに自然法則にいろいろ反している。
なんだ…アレは…。
そう頭が混乱して理性が鈍った俺の頭に反して、俺の足は、なぜか女の元に向かっていた。
なぜか、わからない。
なぜか、そうした方がいいような気がした。
―だって…。
自分の意に反して、俺の足はズンズン女の座っている場所に向かっていた。
近くにつれ、やはり女が異常であることが、はっきり見てとれだした。
女はベンチに座っているが、体は海月のように透けていた。
そして、その体はまったく濡れておらず、街頭の明かりをその場だけ透かして、そのベンチに座っていた。
雨の音がポツポツとする。
周囲の音がよりいっそう聞こえる。
「傘ないんですか…」
俺は、なぜか目の前の女にしゃべりかけていた。
女はしばらくぼーっと一点をみていた。
が、やがてこちらを見てなにかいった。
「                」
声がきこえない。
透けているのに声が聞こえないというのは俺の知っている限り、ホログラムぐらいのものだ。
しかし、なぜか俺は目の前の女からどこか生きている者特有の感情のようなものを感じていた。
「風邪引きます…」
もはや俺自身この状況で、自分が何をいっているのかわからなかったが、なぜか怖くはなかったのだ。
―なぜか…。
女はこちらを見ていたが、やがて諦めたように目を反らした。
―ああ、この人に今あるのは自分の声が誰にもきかれないという深い絶望なんだ…。
俺は、その切なそうな顔からそんなことを思った。
俺はしばらく立っていたが、おもむろに傘を持ち上げる。
そして、横に顔を背けるしょげたような女の頭の上に傘をさした。
雨粒が俺の頭をなで始める。
パラパラと髪を雨粒が濡らした。
「濡れてしまう。…これ、さしてください」
女はいきなりのことでびっくりしたのか、俺の顔をみた。
目が驚きで丸くなっている。
相変わらず雨が降っている。
「                               」
女の口元が動きなにかいった。
なにをいったか俺は聞き取れない。
この女が幽霊でもなんでもよかった。
実際、俺のなかではただの人だ。
俺のなかでは「幽霊」は存在しない。
だとしたら、今目の前にいる女は、俺にはやはり「人」に違いはなかった。
女の髪は、ミディアムヘアで毛先が肩に、しっとりとのるほどの短さで、服装は薄灰色のジャケットに青色のシャツと、紺色の中程の丈のスカートをはいて、そのすらりとした足をベンチから投げ出すようにL字に折り、コンパクトに座っていた。
そして、その体は悲しいくらいに透き通っている。
傘をさしても、ささなくても女が濡れることはない。そこにまるで体だけがなく、存在だけがあるかのように、街頭で照らされて薄くなった、その体を雨がポツポツと突き抜ける。
俺は目を見張った。
しばらく俺と女は見つめあっていた。
そのうち、女がなぜかなにかは話そうと口を開いたが、発する言葉より先に女の目から涙が溢れていきていた。
女は傘へおそるおそる手を伸ばす。
ようやく傘の柄に触れそうになったとき、思わずその儚い指先を俺の指が握り返そうとしていた。
―空を指が掴む。
女の指も傘の柄を握れず、空をつかんだ。
二人だけのすれ違い。
指が触れることなく、お互いの指の間をお互いの指がすり抜けあった瞬間だった。
ポツポツと雨が降る。
俺の頭は、すでに雨でぐっしょりだ。
はたから見れば女と俺と、どっちが不気味かというのでは断然、俺の方が不気味に見えるだろう。
なにせ、俺が傘を差し出している相手は―。
ふと、気がつく。
俺はなにをしているのだ?
そう気づくと一瞬で、風景が目に入りだした。
雨が降っている。
街頭が公園を照らしている。
ベンチがある。
そのベンチには―?。
…そのベンチには誰も座っていなかった。
雨音だけがいっそう耳に音を立て入り込んできた。


家に帰る。
俺の家は、T公園からしばらく離れた場所にあるマンションの一室だった。
ドアを開ける。
外気から切り離された、部屋の吹きだまった空気が俺を迎え入れる。
全身ずぶ濡れだった。
髪から滴が落ちる。
足がグショグショだ。
あー、サイアクだな…、と思いながら冷静に今日のことを思い返している自分がいた。
あの女はなんだったのか。
彼女はたしかに自分の前に存在した。
存在した?…。
俺はなにをいっているのだ。
存在したが、彼女は消えた。
それはなにを意味しているのだろう。
それは彼女は、存在しているということだろうか。
タオルで髪をガシガシとふく。
―なんだったんだろうな…あれ。
そう思いながら、彼女の顔を思い出していた。
なんとなくあれは…。
雨のなか、なにかを諦めて、それでもなにかを求めて発した彼女の口元を思い出す。
彼女の眼差し、…静かな目を思い出す。
『ありがとう』
そのとき、記憶のなかの彼女がはっきり今頭のなかで声を発した。
『…見つけてくれて…声を…かけてくれて…ありがとう…』
一瞬で様々なことが思い浮かぶ。
様々な思考が頭を駆けめぐる。
「こんな不合理なんて…な」
“ありがとう”
言葉が頭をかけめぐる。
彼女は寂しかったのだ。
―彼女はいたのか?
…いや、今もいる。
「…うん…」
耳元でささやき声がきこえた。
俺は振り返る。
誰もいない。
しかし、今たしかに…。
途端にリビングでガタンという音がする。
あわてて、リビングにいって電気をつける。
そこにはいつもと変わらないテーブルとイスがある。
そのイスが、斜めに大きくずれていた。
俺の髪から滴がしたたり落ちる。
鼓動が早くなる…。
まさか、そんな…バカな。
「そこに…座ってるのか…」
そういうと、それに答えるようにテーブルをコンコンとなにかで叩く音がした…。
また鼓動が早くなった。
「あなたは…―誰なんだ?」
しばらくじっとしていたが、何も聞こえなかった。
気が立ちすぎているのか?と自分を疑っていたとき、すぐ耳元で
「サヨリ」
という声がきこえた。
「え?」
耳を疑った俺は、思わず聞き返した。
―サヨリ、と声は言った。あの女の名前だろうか。
だとすれば、女がついてきた、ということだろうか。
頭が混沌としてくる。
「あなたは…幽霊…なのか?」
ほとほとバカげたような質問を部屋の中にいる誰かに向かってする。
―コン、と返事をするように机がなった。
はあ、と大きく、俺はため息をついた。
いくらなんでも疲れすぎだ。
日々の残業が祟って、幻聴や幻覚が見えるようになっている。
これは、明日は休みを取らねばな…。
また自分で、そこまでストレスを抱えている自覚はなかったが、もしかしたら統合失調症の手前の可能性もある。
俺は服を着替えて、シャワーをあびると、ササッとつまみを食べてビールを飲みほし、棚から睡眠薬と、精神安定剤をとりだした。
水と一緒にそれをのむ。
「まあ、明日が全部解決してくれる」
なんたって毎日の眠りと日々の時間は、大抵のものを正常に戻してくれる自然の恩恵だ。
俺は深くベッドに倒れこんだ。
ふかりと寝心地が心地いい。
リビングが見えて、テーブルが見えた。
彼女は、まだあそこに座っているだろうか…。
薬の効果でどんどん視野がまどろんでいくなか、灰色のジャケットをきた、ミディアムカットの女が一人、リビングに座っている姿がぼんやり浮かんでいる気がした。



夢をみた。
俺はT公園でブランコに乗っている。
目の前には海が住んでいる街並みが広がり、海が青く広がっている。
晴れていて、風が心地いい。
俺は気分がよくなって、ブランコを漕がす。
キィ、キィ、キィ、キィ…。
ブランコがきしむ音がする。
それとともに見えている景色が上下する。
海の帯が太くなったり、細くなったり見ていて楽しい。
キィ、キィ、キィ、キィ… 
もっと漕ごうとしたとき、
キィ、キィ、キィ、キィ…
俺のブランコの漕ぐ音にズレて隣からもう一つブランコを漕ぐ音が重なってきこえた。
驚いて隣をみる。そこには―。
「隣、いい?」
あの公園で見た女がブランコに座って、こちらを笑顔でみながら漕いでいた。
灰色のジャケットに青色のシャツ、紺のスカート…。公園で見たあの姿のままだ。
「あ、…うん…」
俺はいきなりのことに唐突に答えた。
キィ、キィ、キィ、キィ…
…キィ、キィ、キィ、…キィ…
二つのブランコの音はハミングするように重なりあう。
不思議となぜこの女が隣にいるのか、疑問はわかなかった。
それが自然な気がした。
「公園で…雨のなか…座ってたよね」
俺は隣の女に聞いた。
「…うん…」
女は前を見ながら答えた。
風が彼女の髪を遊んで、さらさらとその髪をなびかせる。
「なんで?」
俺は静かにきいた。
キィ…キィ…キィ…キィ、と彼女のブランコがきしむ。
「うーん?なんでだろ。最初はあたしにも理由はあったかもだけど、もう忘れちゃったよ…」
彼女はあっけらかんと答えた。そのあっけらかんさに俺は笑って
「それって、どうでもいい理由ってこと?」
ときいた。
「そだねー。今となっては」
彼女は笑って答えた。
「君の名前は、サヨリっていうの?」
「うん、サヨリ。二十歳」
「二十歳?見えないな…。もっと大人だと思ってた」
「それってふけて見えるってこと?」
「ううん、落ち着いていて、…なんというか、かわいいというより美しいという言葉がふさわしい雰囲気ということだよ」
―アハッとサヨリは笑った。
「お兄さん、面白いね」
「ありがとう」
「お兄さんのお名前は?」
「俺?俺は野栄謙吾。歳は…三十二」
「そうなんだ。もっと若いと思ってた」
「よくそれで職場の後輩からなめられるよ」
「まだまだ若いってことじゃん!」
「これでも若作りの努力はしてるからね」
「それでいうと、生きてるとき、あたしも大人っぽい女の人に見られるよう努力してた」
気になる発言だった。
「君はもう死んでいるの?」
俺はきいた。
「うん…」
―うん、死んだよ。
彼女は青い空を眺めながら答えた。
「十年前の、震災でね」
俺は口をつぐんだ。
そこはどうしても触れてはいけない気がした。
「そっか…」
俺は前を見ながらいった。
「じゃあ、歳は俺と一緒ぐらいってことだね」
「あ、そうかも!」
その彼女の無邪気さに笑ってしまった。
「一緒だとしたら、飲み友達とかなってたら楽しそうだったかもなー」
「あたしお酒飲めないんだよね」
申し訳なさそうに彼女がいう。
俺は笑った。
「そっか」
「ねえ、お兄さん。頼みがあるんだ」
大きな瞳で俺を見つめながらサヨリさんはいった。
「お兄さんのとこに、ちょっとの間だけ置いてくれない?」
「なんで?」
そういうと彼女は、少したじろいでブランコを漕ぐのを止めた。
俺も止める。
「もうすぐあたし消えちゃうんだ…」
「消えるって…死んでるのに?」
「うん、存在自体が消えちゃうんだよ」
―なんだ…それは。存在自体って。
「死んで、さらに二度死ぬってこと?」
「うーん、死ぬってことじゃないんだよなー。あたしバカだから上手く説明できないけど…」
彼女は肩先の髪をクルクルいじりながら答えた。
「いずれあたしは小さな玉みたいになってこの世界から完全に消えちゃうんだ…。もとからこの世界にいなかったことになるみたいに…そんな感じになるの…。サヨリって女の子は元からこの世界にいなかった…。そんな風に世界が書き変わっちゃうんだよ…」
―それ、死ぬよりつらくないか?
俺はあまりの話に言葉につまった。
「そうなんだ」
「アハッ!お兄さん、顔暗すぎ!大丈夫!あたしは気にしてないから」
彼女は笑っていった。
…でも、気にしてなかったら、なんで、あのベンチであんな顔してたんだよ。
「それで、なんで俺のところで?」
「うーん、お兄さんとならなんとなく波長が合うというか…。なんというか…楽しそうというか…」
―なんだよ、ソレ。
俺はきいて笑ってしまった。
なにも考えていなさそうで無害であることは間違いようだ。
「だから、最後は誰かと一緒にいたいんだ…。誰でもいいんだ。でもお兄さんがあたしを見つけた。はじめてあんな風に優しくされた。…あたしそれが…嬉しくってさ…」
そういいながらの彼女の目からは涙が溢れてきていた。
「ずっと一人ぼっちで、…こんな訳のわかんない世界に…訳のわかんない状態で一人ぼっちになっててさ…。あたし、なにも…考えられなくってさ…。どうしたらいいかわかんなくて」
彼女の目から止めどなく涙が溢れる。
きっと十年ぶりの涙なんだろう。
とてもきれいな涙の筋が彼女の頬を伝う。
人は泣きながら生まれてくる。
彼女の涙を拭こうと指をのばす。
なぜか、止めなければと思った。
「さみしかったんだね…」
俺が理解した、はじめての人間らしい感情かもしれなかった。
「うん…」
彼女の頬に指が触れそうになったとき、ふっと目が覚めた。
指先が涙の滴をつかもうとする形になっていた。
「朝か…」
カーテンから入ってくる朝の光は外が晴れであることを告げていた。
カーテンを開け、テーブルの花瓶の水をかえる。そのとき、テーブルに二、三水滴が固まって落ちているのが見えた。
あ、あの子、夢のなかで…泣いてたっけ。
俺はしばし、その涙のあとらしき滴をみつめる。
そこあと俺は花瓶の水をかえ、花びらを二、三枚寄りあつめて、白い紙を用意した。
そこに
“いたいだけいればいい”
と書いて、そのあと少し考えてから
“ただし悪さはするなよ”と小さく付け足して、その紙の上に花びら二、三枚を置いて、滴のそばに添えた。
まあ…実際そうだ。
悪ささえしなければ別に幽霊だろうが、精霊だろうが、いても問題ない。
また彼女なら、まんざらでもない。
夢のなかでの泣きじゃくった彼女の顔を思い出す。
なんだか昨日はいいものをみた気がする。
仕事にいくため家を出る際、ドアを閉め際に
「昨日の、あの泣き顔…みせられたら、ね…」
とつぶやいてドアを閉めた。
なんとなくそれを彼女が聞いている気がしたから。


なんだかんだ言ったって日常はダラダラ続く。
仕事場への通勤路。
五月の雨上がりの空の雲は少し夏の兆しを含んでいる。
「ああー、すっかり晴れちまったなー」
昨日のことを思い出して思ったことだが、俺は雨が嫌いなはずなのに、なんで残念がってんだよ、と冷静に突っ込む自分がいた。
なんだかもったいない気がする。
あんな雨の夜をあと人生で何回体験できるんだろう。そのうちの一回だったんだろうか。
―素敵?
よくよく考えれば俺は幽霊に絡まれただけだぞ。挙げ句に家にまでついてこられて、…で、居座られた。
今一度全体を見ると、ホラー映画のシナリオかよ、と。
「ホラーねぇ。たしかにホラーのなかにも素敵な要素が混ざってるかもしれないな」
俺は石をけとばした。
今日はなんだかんだ、独り言が多いな…おれ。
蹴った石は、先にあるT公園のなかに入っていった。
「あ…」
といって俺は公園を見る。
昨日、彼女と出会った場所。
―もう、この際いいや。彼女はいる。死んでも、この世界に存在してる。
死んでも生きている、というのは矛盾を含む言い方だ。
死んでも存在している、というのならば語の併用にも矛盾はないだろう。
そう…存在している…。
彼女は、自身が、その存在自体なくなる身なのだと言った。
存在がなくなる…。想像もつかない。存在がなくなるってどういうことだ…?
俺の見つめる先の公園にはところどころ雨上がりの水たまりが広がり、朝の光を反射してキラキラと輝いている。
こうして見ると、幽霊が出るといわれる公園も清々しくて神社の空気感さえ感じそうだ。
藤の花が垂れて、その花先についた水滴は藤の艷やかな青紫を透明に彩っている。
今日も、少し冷たい気持ちのいい風が吹いている。
朝の新緑は優しい。
「おーっし、仕事すっかー」
俺は公園ごしに見える遥かな海原を見ながら、伸びを一つした。


「先輩…先輩にとって、推しってなんですか?」
「ん?いきなりだな」
「先輩にとって推しとは?」
仕事の休憩中、弓坂が興味津々で身を乗り出してきいてきた。
「推し?推しねー。疑似恋愛の対象じゃないか?なんだ。アプリで、誰かの配信とかきいてるのか」
「先輩はきいてます?てか、推しとかいます?」
弓坂は春雨をすすりながらきいてくる。
たぶん、こいつは、配信も春雨をすすりながらきいているのだろう。
「んー。一回そういうアプリ落としてきいてみたことあるけど、経験したってだけで長くは続かなかったかな。だからそういうのもやってないし、推しはいない。無論、作るつもりもない。結局画面の向こうの存在に、リアルな期待をするようになったら、傷つくことが増えるのは予測できるだろ。だから」
「先輩、賢く生きてきたんですねー。心の傷の痛みなんて、あんまり知ってこなかったでしょー。あー、そういうの、もったいない人生だー」
弓坂がわざとらしく手を額にあてる。
「余計なお世話だ。それよりそんなこときいてくるということは、君は配信をきいていて、かつ、その配信元の配信者に良さを感じている…。あわよくばもっと近づきたいと思っているという理解でオッケイ?」
「グヌヌ…先輩。あたしの話すことなくなっちゃいますよ」
「じゃあ、聞かないことにするから話していいよ」
「そういうことじゃないんですよ!!そこは聞いてくださいよ!!もー先輩はテンネンさんだなー」
「んー?オッケイ。じゃあ。どうした?」
「あたし配信で枠やってるんですけど、そのときずっときてくれてる人がいて。その人がめっちゃ優しいんですよね」
「女の子に優しくしないと、怖いからね」
「そーいうのじゃないんです!!その人は!!なんていうか、紳士的で…。ちゃんとした人って感じ?そういうのなんです!でね、でね!先輩!きいてくださいよ!」
「ちゃんと聞いてるよ」
俺は笑っていう。
「好きなの?その人のこと」
「好きっていうか…ほら、…なんていうか…察してください」
「うん、好きということだ」
「だから、察するの意味!!」
「おうおう、なんか盛り上がってるね」
店長が入ってきて、賑やかな様子を見ながらいった。「あ、店長!!」
弓坂は顔を明るくして、
「店長は今、恋をしてますか?」
というとぼけた言葉を発した。
「恋もなにも、俺、カレー作るのが美味しい奥さんいるし…。そうだな。さしていうなら、恋してるかもな。恋し続けてるかもな。今の妻に」
ぶっふー!と弓坂は鼻血を出すように仰向けに倒れそうになる。
…弓坂。なんて表現力豊かなやつだ。お前は。
「店長…弓坂にそういうのは、あまり刺激が強すぎるんでダメですよ。大人の対応でいきましょう」
「いやー、毎回、弓坂さんはリアクションがウブでいいよね。この仕事就かなかったらYouTuberとかなってたんじゃないかな」
「…やってますよ。店長。うちのチャンネルのチャンネル登録お願いします」
「あ、ああ…やってるんだ…。ま、また見とくよ」
弓坂の急なガチめな変わりぶりに、とまどいながら店長はいった。
―それより、店長!また奥さんとの話、じっくりきかせてください!あたし、勉強したいです!
という弓坂を置いて俺は休憩を終えて、売り場に戻った。
今日も晴れている。
店はまあまあ繁盛だ。


「なあ、お前、幽霊って信じるか」
大学からの友達の安田にLINE通話をしての俺の第一声がこれだった。
「いきなりだな。幽霊?なんで?」
「いや、まあ、いろいろあってさ…」
ちなみに俺も、安田も出身は理工学系で、学生時代に一緒にいても、心霊スポットに行ってみよう、などというイベントを考えつきもしなかった二人だ。
「いやあ、俺はそういうの信じないからな」
「だよなあ」
「なんかあった?」
いぶかしみながら安田がきいてくる。
「んー」
なんかあった…と言えば現在進行中だ。
今も目の前のテーブルの花瓶の花がいじられるように、微妙に揺れている。まるで花びらが指でつままれながら見分されているように見える。
「まあ、気のせいっちゃ気のせいなんだが…」
「まるで静かな恋みたいな?」
「そんなおしゃれな歌の歌詞みたいなことじゃない」
ダダン!と机が鳴るラップ音がした。
どうやらテーブルの向こうの相手は笑っているらしい。
「いや、撤回…そういう恋かもしんないわ」
一気にテーブルの向こうの相手の動きがとまる気配がした。
それでいい…。サヨリさん。…ラップ音を気にしていては通話に集中できないからな。
「お、冬みたいに冷たい心のお前にもようやく春がやってきたか」
「うるさいわ」
「で?相手は、心霊とかオカルト好きとかだったりして、それでそういうのを信じてないお前は、自分で受け入れられないものを受け入れられるか悩んでいるのか?お前は。なんて心のあるやつなんだ。お前は」
「あーめんどくさいし、そういうことでいいやー」
たぶん、サヨリさんはテーブルの向こうで頬杖をついている気がする。
何日か一緒に生活していたら、なんとなく、気配や、ぼんやりしたもので相手がなにをしているかがわかるようになっていた。
幽霊相手なので、そういうかすかなことから、相手を推し量るしかない。
…でも、たしかに、恋も同じかもしれない。
「じゃあ、お前にアドバイス。相手を知ることにまずつとめよ」
「…うん…」
たしかに俺は、サヨリさんのことは何も知らない。
ちなみに、今、目の前の彼女のことを「さん」づけして呼んでいるのも、なんとなく俺にはそういう距離の方が今はしっかりくるからだ。
彼女との距離は遠い。
というか…
「これは恋なのか?」
いきなりの告白に安田は
「え?恋じゃないの?」
と冷静にきいてきた。
「いや、そういうのじゃないんじゃない…」
かと…、と言おうとしたとき、机がコンコンと鳴った。
「じゃあ、どうしたんだよ。こんな時間に通話して」
「いや、なんとなく、お前に…」
―幽霊がいるかどうかきいてみただけ。
「お、おう。幽霊はいない。うん。幽霊はいない」
「ないよなあ。そういうの」
若干悔し目になっている自分自身に嫌気がさす。
好きな人の素敵な部分を友達に打ち明けて、「よくわかんない」といわれている気分というのは、こういう気分なのかもしれない。
しょげている俺に察したのか、安田は自分の持論を切り出した。
「まあでも、俺も彼女できるまで、幽霊とか信じてキャーキャー盛り上がってる女の子のこと全然わからなかったんだよな。…でも、こう思うようになったよ。そういう女の子たちをみてると、けっこう共感能力が高いんだよな。で、ここからは持論だよ?聞き流しといてくれ。…人が幽霊のことを考えるときって、必ずその幽霊がなにかこの世に未練を残して死んで悔しくて、恨めしくて出てくるってのを暗に前提としてるじゃん」
「…うん」
たしかに、一般に想起される幽霊に陽気に出てくる幽霊はいない…。それは人が、その幽霊という像の背景になにかしら負のものを勝手に想定しているからだ。
「幽霊の話って、幽霊がなにか曰くのある場所に出る話じゃん。それって、きっと、そこで死んだ人って無念だったよね、っていう人々の思いみたいなのが根底にないと、幽霊が出てくること自体の話の意味が成り立たないんだよね。つまりさ。それはみんな気づいてないけど、無念だった人のことを考えて、人間の集合のなかに、ある程度共有して保存する、という役割を担ってる類いの話だと思うんだ」
「ふーん」
「幽霊の話があるってことは優しさがまだこの世のなかにあるってことで。そういう話が好きな女の子ってたぶん優しくて、共感能力があると思うんだ」
だからそういう子は、悪い子じゃないよ、と安田はいった。
「それがお前の仮説?」
「うん、そうだな。俺が女の子を観察して得た仮説」
なかなか真実味があるような仮説だな、と俺は一人納得していた。
「どう?少しは参考になった?」
「うーん、そうだな。ある程度はな」
―めっちゃ参考になったっていってくれよ。こんな時間かけたんだから、と安田は笑いながらいった。
「めっちゃ参考になることは、本当にその人の参考になるまで時間がかかる。即効性のある参考はすぐ効力がきれるよ。そういうことだ」
「お、誉めてくれてるじゃん」
「まだ、本当に参考になるかわかんないっていっただけだ」
安田は、そこで明朗に笑った。
「お前は昔から慎重すぎるんだよ。そうやって自分を大切にしてると、自分を大切にしてくれるものを見過ごして取り逃がしちまうぞ」
「自分の大切なものが自由であることをみてるのは心地がいいもんだ。それこそ幸せかな」
―ああいえば、こういう…、と安田はわざと苦々しげそうな声をだしていった。
「そうだな。それが会話だろう」
「あー、わかった。わかった。とりあえず今日は寝る!俺、明日仕事だ。おやすみ!」
「おやすみ」
LINE通話がポロンという音を立てて切れる。
あとには、静かな部屋と俺が残された。
「共感能力か…」
たしかに俺にかけているものかもしれない。
時折、小さく床を踏むような家鳴りが聞こえるのは、気のせいだ。
彼女は今どこにいるのだろう。
そんなことを考えながら俺も目がうつらうつらし、眠りについた。


「こないだお兄さん、難しい話してたね。あれ友達?」
何度目かの夢での会話でサヨリさんがきいてきた。
「うん…大学時代の、ね。腐れ縁てやつかな」
「いいなー、クサレ縁。なんか仲良さそうだったし」
「仲良いいって自覚は普段ないな。考えたこともない。でも実際、仲がいいってそういうことなのかもね」
きいてたんだな、と思いつつ、俺はブランコを漕ぐ。
隣ではサヨリさんもブランコを漕いでいる。
最近、この夢のなかでブランコ漕ぎながら会話するスタイルというのは、彼女の趣向なのでは?と、なんだかんだ思うようになってきた。
サヨリさんは普段の日中は話しかけてこない。かわりに気配のようなもので彼女を感じることがある。
また、たまにラップ音を鳴らしてくれて意思を伝えてくれることもある。
しかし、基本的に眠ったときの夢のなかでしか、しっかりした会話はできなかった。
「サヨリさんには生きてるとき、仲のいい友達とかいなかったの?」
「え、あたしー?。あたしね、ずっと学校、不登校してたんだ。だから友達そんないなかった。高校も通信制だったし。そこから大学いったんだけどね。やっぱ友達そんな作れなかったな」
―アハハ、あたし社会不適合者、とサヨリさんは笑った。
「それで大学在学中の二十歳のときに亡くなるの?」
「うん、そうだね。あたしが亡くなったのは大学二年生のとき。……まあ、その当時もいろいろあってさ。悩んでた時期でもあるんだよね。そんな最中に亡くなっちゃったんだ」
「そっか…」
俺は少し切なくなって、キィキィとブランコを漕いだ。
「幽霊になって、よかったことは?」
「うーん、特にないかな。しいて言えば体に重さを感じなくなったこと」
「素敵だね」
「そうかな」
「そういえば、サヨリさんって彼氏いたの?」
「いたよー」
そういうと彼女は、ことさら思いっきりブランコを漕いだ。
「どんな人だった?」
「秘密ー」
「本当に大切な人だったんだね」
「そうだねー」
とサヨリさんはいったあと、お兄さんみたいな人だった、と小さく言った。
「俺のことは、お兄さんじゃなくて謙吾でいいよ」
「えー、謙吾さん?」
といってサヨリさんはなぜか口元を押さえてブフフ、と一人笑った。
「そ、そんな変な名前かな」
「いや、慣れてないから、ちょい恥ずかしいだけ」
「じゃあ、ここまでかいた恥だ。もっと大きくかこう。さん呼びもやめていい」
「じゃあ、謙吾?」
「うん。こっちの方が俺はしっくりくるけど…サヨリさんはやっぱ違和感ある?」
と俺はサヨリさんの方をみた。
「いや、アンガイ謙吾さんよりしっくりくるかも」
と意外だ、という顔をしていた。
「そっか。じゃあ、成立だね。はじめまして謙吾です。よろしくお願いします」
俺は頭を下げた。
「アハハ!改まって自己紹介、草」
「ええ、草に新芽がでてきまして」
「面白いね。謙吾って」
サヨリは笑った。
「俺もサヨリさんと話してたら楽しいよ」
「ありがとー」
そうサヨリさんは言ったあと、ブランコを漕ぎながら大きく息をすって、
「こんな時間がもっと続けばいいのにな」
といった。
俺は急に切なくなった。心に、いきなり風がふいたような感覚がした。
「うん。そうだね」
二人の間に沈黙が流れる。
静かな時間がすぎた。
「あたしはお兄さんの記憶にも残らない…。完全に消えて、この時間もきえるんだ…。存在自体が消えるって、…そういうことだから…。はじめからそこには何も存在してなかったってことになるの」
サヨリさんはしんみりいった。
俺は前をみた。
なにか言わねばと思った。
「そこにさっきまで何かあった無と、はじめからそこになにもなかった無は違う。同じ無じゃない。今があるってことは、例えこの今がはじめからなにもなかった無に変わってしまうとしても、変わってしまう、ということのなかに何かが存在する」
「ムズかしい話をするね。謙吾」
「サヨリさんのこと好きだからね」
そういうとサヨリさんは恥ずかしそうに顔を赤らめて「…なにいってんの」
といった。
俺も何気なくいったが、言ったことを思い出して、急に恥ずかしさを感じて胸が高鳴りだした。
「あ、いや…その…ごめん。忘れて」
まったく俺はいつまでたっても恋愛においては子供だ。
大人になれる気がしない。
「ねぇ、謙吾。…お互いが触れられない恋愛は純愛になるのかな?」
サヨリさんが俺の顔をみた。透き通るような瞳だ。世界で、一番今目の前の人が愛おしい。―そう、思った。
俺がなにか答えようとした、そのとき、目がさめた。
心が満ちたりていて、部屋は朝日に包まれていた。
そして、俺は急に頬を伝うなにかがあることに気づいた。
―涙だった。


「お兄さんもあたしのこと“さん”付けなくて呼んでいいよ」
あるときの何回目かの夢で、ブランコを大きく漕ぎながら彼女がいった。
空はどこまでも高く、雲がのびやかに流れている。
「サヨリ…さん。……さより…」
そう、口のなかで名前を転がしたとき、彼女はおもいっきりブランコから飛んだ。
彼女は、ふわりと開く花のようにスカートから地面に着地する。
そして彼女はふりえって笑顔で、優しくいう。
「なあに?」
―謙吾。


朝、職場に行ってみると、弓坂が来ていなかった。
「あれ?今日、弓坂、シフト入ってませんしたっけ、店長」
シフトを見ながら困った顔する店長に俺はいった。
「いや、…はいってるはずなんだけどね。弓坂さん。今朝から電話いれても出ないんだよね」
俺もシフトをみた。
そこには弓坂の名前があり、本人が店にいるはずの時間をとっくに三時間も過ぎていた。
弓坂が寝坊している可能性もある。あいつはたまにそういうことをしでかすやつだ。
だが、俺の胸はなぜかざわついていた。
「店長、どうします?」
「一応、弓坂さんの代わりで、パートの大川さんに来てもらって埋め合わせはしてる…。でも…心配だな…。なにかあったんじゃないかって」
「俺も…それが心配です…」
「もし今日仕事終わりなにもなければ、さ。野栄くん、ちょっと弓坂さん、見てきてあげてくれないかな…。あの子、家族が震災のときあれで…一人暮らしでしょ…」
…そうだ。あいつは一人ぼっちだ。
…たしかにあいつがいない職場は太陽のない太陽系みたいなもので、なんだかふわふわしてしまう。
日頃のあいつの無邪気な明るさは、周りが意識してなかっただけで、実は充分職場の役には立っていたということを、こういう機会に感じるのは、口惜しい。
「わかりました」
俺は、気持ちをひきしめるように静かに答えた。


弓坂の住むマンションの部屋の前まできた。
いざ来てみると、インターフォンを押せば、「はーい。あ、先輩ですかー?どうしたんですかー」などと呑気な声で、うっかり仕事の日と、休みの日を間違えたというド天然なミスの結果ゆえの今日なのではないかと思う。
いや、実はそうだと思いたいというのが、実際だ。
はあ、とため息をついて俺はインターフォンを押した。
「ビー」となったインターフォンのあとに、しばらく静寂が続く。
もう一度、俺はインターフォンを押す。
「ビー」
虚しい音を立ててインターフォンが鳴る。
やっぱりなにかあったのか…。そう胸を曇らせながら、部屋のドアノブに手をかけた。
…開いた。…
一気に不安が込み上げる。
「弓坂!!」
俺はドアを押し開けた。
部屋のなかは電気がついておらず暗かった。
その部屋の中心に弓坂は一人机に突っ伏すようにして座っていた。
「弓坂?」
弓坂は机に突っ伏したままだった。
「…弓坂…」
どういう声をかけていいのか、わからない。
こういうとき共感能力の皆無な俺は、どうしたらいいのか、わからない。
「どうしたんだ…」
長い間があったが、俺はやっとそんなことをきいた。
弓坂は動かず、ぐったり机に突っ伏している。
「なにか今日…食べたか?…」
そうきくと、弓坂はフルフルと頭をふった…。
「…どうしたんだ…」
そうきいて、弓坂からの回答を待つ…。
静かな時間が流れた。
「先輩、あたし、生きてていいんですかね…」
やがて、弓坂が今にも崩れそうな声でそういった。
「なに…言ってんだよ。お前…生きていいに…」
「あたしだけ残っちゃった…。あたしだけ…。どうでもいいあたしだけ。…弟も、お母さんも…お父さんも…」
弓坂は泣きながらいった。
「ほんとなんでなんですかぁ…。なんで…。なんで…。なんであたしだったんですかぁ…。あたしみたいに、なにも考えない能天気なバカがぁ…。ぁあ……アア…。あたしみたいな…」
俺は弓坂の背中に手を置いた。
温かみが伝わる。
なにもいえなかった。
思えば、こいつはずっと能天気にふるまっているように見えて実は内心で、ずっと、この気持ちと戦っていたのだ。
そして、それを周囲の誰にも見せないように、…能天気なキャラであることを演じることで、こいつなりに、見せないようにしていたのだ…。
ああ…ああ…と弓坂は泣いている。
何があったかはわからないが…、ときにはそれが抑えられなくなるときはある…。
バカみたいに笑うことがこいつには、どれだけ戦いだったか…。
それを見せなかった、こいつのすごさを、俺は…俺たちは、どこか突き放して、知ろうとしていなかったかもしれない…。
気づけずに、いたんだよな…俺…。
ごめんな、弓坂…。
「弓坂…」
お前は強いよ…。ほんと…尊敬するくらい…強い…。
俺は、弓坂の背中を撫でた。
泣きたいだけ泣けばいい…。
なにがあったか知らない。でも、…今のお前の気持ちは知ろうと思う。
俺にとって、涙が、なにかわからないことより、涙の意味がわからないことのほうが遥かに問題だったんだ。
俺は歯をくしばった。
「お前…すごいよ…」
震災から時が過ぎて、世間がそれを忘れていき、それでもお前は一人この傷と向き合い続けるしかなかったんだよな…。孤独だったんだよな…。誰にも…いえなかったんだよな…。誰からも触れられなかったんだよな…。でも、それでもお前は耐えたんだ…。世間も呪わず、人も恨まず…ただ自分のなかで向き合い続けた!!
…くそったれ…。
こんなにもすごいことなのに…。
誰にも認められなかった…。
俺はテーブルから離れて、台所の冷蔵庫を開けた。
「弓坂。少し台所、借りるぞ…」
ふぇ、と泣きじゃくった弓坂の顔があがる。
…なんて顔してやがるんだよ…。
「チャーハン、作ってやるよ」
俺は高速でニンジンを切り出した。
「まずは、温かいもの食べろ。それで、よく寝ろ。俺ができるのはそれを少し手伝えるくらいのもんだ…。店長には俺からもいっとく。だから…」
俺は顔をあげて弓坂をみた。
「今は泣きたいだけ泣けばいい」
そういうと弓坂は、また顔を崩して、―せんばぁーい!、と泣き出した。
おいおい、弓坂…。そんなに泣くとチャーハン食べるときに塩辛さが増すぞ…。
俺は静かに具材を調理しながら、微笑した。
…悪いな…。お前の勲章へのご褒美が、俺のチャーハンなんかで。
お前の涙が止まりますように…。いつか本当に笑える日がくることを祈って。
そう思いながら、俺はただ一心に、ニンジンを切った。


「そう…。弓坂さん…。そんなことがあったの…」
休憩室でコーヒーを飲みながら、俺は徳田さんに弓坂が突然休んだコトの顛末を話した。
「あいつも…たまに、限界がくるみたいで…」
「そっか…」
徳田さんは顔をあげて、メガネの奥の瞳を細めながらしみじみいった。
あのあと、俺は店長や職場のみんなに訳を話し、今は弓坂をそっとしておいた方がいいということを伝えた。
弓坂は翌日の出勤に何事もなかったかのような顔で出勤し、
「すみませんでした」
とみんなの前で、深々と頭を下げた。
弓坂は休んだ原因については何も言わなかったが、それはあまりこちらが突っ込まない方がいいだろうと思った。
根本的な原因はそこじゃない…。
なんだかんだで、俺たちは、生活しながらいろんな心の傷と共存している。
「そっか、…そっか…」
ふー、と徳田さんはため息のような息をはいた。
徳田さんも、十年前、震災で妻子を失くしている。
徳田さんはこの店に勤めて長い。
震災の翌年あたりから、この店にいるという。
以前、徳田さんが勤めていた会社は、震災で壊滅的な打撃を受けて消滅して、徳田さんは家庭と仕事を同時に失った。
その後、たまたま、つぶれなかったうちの店にパートとして入り、それ以来ずっと独身のパート生活を続けている。
「俺、弓坂になんて言葉をかければいいか…わからなくて…」
「そうだね…」
―難しいね、と徳田さんはいった。
「俺もそのときになんて言葉をかければいいのか、なんて未だにわかんないよ…。結局、人の苦しみはその人のなかにしかない…。一人一人、苦しみは違うからね」
徳田さんは、そこでコーヒーを飲んで、しばらく黙って考えていたが、やがて小さく
「…ほんと、やるせないよなぁ」
とポツリといった。
俺は黙った。
徳田さんは上を少し見上げるようにして語りはじめた。
「あの震災が起こったとき…。俺、パチンコしてたんだ…。丁度、仕事休みでさ。家にいたら妻からガミガミ言われるから俺休みの日は、逃げるようにパチンコ屋行くのが日課だった…。それであの震災が起きた。妻と五歳の息子は…ショッピングセンターに買い物に行ってたんだ。…そこで、近所のおばちゃんと一緒になったらしくってさ。あとでそのおばちゃんがそのことを教えてくれたんだ…。」
徳田さんは穏やかに静かに語る。
「大きなショッピングセンターでさ…。それでも、屋根が一部耐震的に問題があったんだろうね…。あの震災で一部屋根が陥没して、妻と息子はその下敷きになった…」
「そうですか…」
俺は静かに耳をすませてきいた。
「情けないよなぁ。パチンコ行ってる俺が生き残って、家事育児にずっと奔走してた妻と、これから成長していく未来のある息子を失ったんだから…」
徳田さんの言葉は胸に深く沈みこんできた。
「しばらくの間…俺、生きてる意味がわからなかったよ…。なんでこんな世の中、不条理なのか…。意味がわからなくて一人のたうち回った。…その過程で、犯罪すれすれのことにも手を出したよ…。どうせ、こんなことしたって誰も俺の痛みに気づきはしないだろうって…。やけになって…」
―俺もいい人間じゃないんだよ。
といって、徳田さんは「はあ」と疲れたようなため息をはいた。
「徳田さんは…悪い人じゃない…。それくらい…奥さんと息子さんのことを考え続けたんだ…。そんな人が絶対、悪い人なわけない」
俺は、いたたまれなくなって言葉に力をこめた。
「いいや。…あいつや息子が聞いたら泣くようなことをしたんだ…。俺は…それだけで…何もいう資格はないよ」
―ちがう…。今だって、あなたは…。
「野栄くん…。君は…弓坂さんが泣いている間、逃げなかったんだろう?一緒にその時間を…かなしみの一部を、受け入れて共有したんだろう…。なら…野栄くん…君は偉いよ…。…偉い。弓坂さんには、そのとき誰かそばにいてあげることが必要だったんだ…。偉いよ…。」
俺は泣きそうになっていた。
じゃあ、あなたには…。
「それが俺の言えるすべてだよ」
俺は歯をくいしばった。
自分の無力さに。
励まされて、励まして…。ただそんなことだけなのに、なんでそんな単純なことが、この社会ではできなくなるのだろう。
…ほんと、バカだな、俺…。
「ありがとう…ございます…」
俺は、泣きながら徳田さんにいった。
徳田さんは穏やかにティッシュを二、三枚とって「ほら」と俺に渡した。
「大切なものなら手放さないことだ。失ってわかる大切さならはじめから無くさないようにしてあげればよかったんだよ…」
徳田さんは、そういって口を結んだ。
「もし、今、野栄くんの身の周りに、そういう人がいるなら…そうしてあげてほしい。いつかはいなくなる人だとしても…。簡単に、その人の手を離すようなことはしてあげないでほしい…。ありがとう、と、ごめんなさい、をいっぱい言ってあげてほしい。君とまだ一緒にいたいってことを伝え続けてあげてほしい…」
その言葉で、俺のなかにある一つの顔がフラッシュバックする。
青い空、静かに目の前に広がる海、…その隣で、ブランコに乗る君の横顔。
優しい気持ちのなか、やわらかなその思い出を思いだす。
いつか、消える君に―。
―さより…。
俺は泣いた。
それを徳田さんが、優しく見ていた。
いつもより静かな休憩室には、ただ俺のすすり泣きだけが響いていた。


朝、ふと気づくと、携帯に着信履歴があった。
弓坂からだった。
どうした?またなにかあったのか?と通話に出てみると、
「先輩、今、少し時間大丈夫ですか?」
とやけに慌てたような深刻な声音がかえってきた。
聞いてみると、通勤途中、なんだかヤバそうな人がいたので、一緒にきてほしいということだった。
ヤバそうな人とは?と思いながら、とにかく今は早くきてほしいとのこと。
場所をきく。
俺は、その場所に向かった。
まだ、仕事までには多少なりともの時間はある。
今度は、どんなことが…。
教えられた場所は十五階建てのマンションの下に到着してみれば、弓坂が立っていた。
「あ!先輩!」
と、弓坂が俺を認めるなり駆け寄ってきた。
「あれ!!」
弓坂が指を指す方をみる。
そこにはマンションの屋上のフェンスを乗り越えて、ヘリのギリギリに立つ若い男の姿があった。
「うわ!なんだ、あれ!危ないぞ!!」
「あたしも、さっきから呼びかけてるんですけど、全然きいてくれなくて…」
―自殺、という二文字が頭をかけ巡る。
これは…ヤバい。
遠目からでも、男の思い詰めた並みならぬ雰囲気を感じる。
その場所には、弓坂以外にマンションの住人とおぼしき人が二、三人同じように男を見上げていた。
俺はその人たちに声をかける。
「すみません。ここの住人の方ですか?」
「あ?…ああ、そうだけど」
と、そのなかの初老の男性が答える。
「今、屋上に立ってる男性の方と面識はありますか?」
「いや…俺は、知らない」
「あの人、405号室の人だよ」
傍らにいた中年のおばさんが答えた。
「え、そうなの?あの引きこもりの?」
と初老の男性が驚く。
「じゃあ、あの方はこのマンションの住民なんですね?」
「でも、滅多に部屋から出てこない。いつからかな…。引きこもりになって、かなり長いよ」
「なるほど」
とにかく男性が思い詰めて、よからぬことをしようとしているなら、止めねば…。
たぶん、雰囲気からして時間との勝負になる。
モタモタしていては、今にもそこから飛び降りそうな勢いだ。
俺は携帯を取り出した。
「弓坂!」
「はい!」
弓坂が、びっくりして振り向く。
「警察に連絡!」
「わかりました!!」
俺は、店に電話をかけた。
「店長…。報告があります。今日弓坂と俺、仕事遅れます。」
声音から察したのか、店長は
「なにがあったの?」
と冷静にきいた。
「目の前のマンションで自殺しようとしてる人がいまして…」
「…うん…」
「それを、今から止めてきます」
そういうと店長はしばらく黙ってから、やがていった。
「警察には言った?」
「今、弓坂に連絡してもらってます」
そういうと店長はまたしばらく考えていった。
「…わかった!店は我々でなんとかする…。野栄くん…、弓坂さん…、君たちの今日の仕事は目の前の人を救うことだ。…そして、くれぐれも気をつけて!警察がきたら任せるんだよ!」
「わかりました!!」
そのやり取りを聞いたのか徳田さんが、変わってください、と電話に出た。
「やり取りをきいてた。…野栄くん…目の前に自殺しようとしてる人がいるんだって?」
「…はい…いますね」
そういうと、徳田さんは少し黙ったまま何か考えていたが、やがて
「その人を死なせないでほしい」
といった。
「きっと何かある。…死のうとするやつは絶対裏になにか抱えてる…」
―だから、慎重にいってほしい。
徳田さんの言葉は、重かった。
「わかりました」
「…気をつけて。…頑張って」
俺は携帯を切って上を見上げた。

時間を争う勝負だ。
これは…。

弓坂が俺に
「警察の方に連絡、取れました」
といった。
「おっけい。…よし、弓坂…。今から俺のいうことをきいてくれ…。あと、そちらにいらっしゃる方々もよろしいですか?」
「ああ!」
「どうするの?」
先程の初老の男性と中年のおばさんがやってきた。
―俺は、即座に考えたことを話した。
「できる限り、早めにお願いします。俺も急ぎます」
「おお、わかった」
「了解」
「先輩、気をつけてくださいね…。相手は気が立ってます。だから…」
「弓坂…俺を信じろ」
そういうと弓坂は変に驚いた顔をして
「は…はい…」
とだけいった。
「これは警察がくる前に、あの人が事を起こしたときのための対策だ…。できる限り、俺たちで時間をかせぎましょう」
「おお!」
初老の男性がうなずく。
「では任せました!」
と俺は言って、マンションへ向かって駆け出した。
急げ!間に合わせるんだ!あの人が飛び降りてしまう前に!!
エレベーターを使い、階段を二段飛ばしで、のぼる。
急げ!…間に合え!
足が破壊されそうな感覚を通り越して、ようやく十五階の上の屋上の入り口に俺は立った。
屋上へ続く扉は開いていた。
俺はそこを抜けきる。
「…はあ…はあ…はあ…はあ」
広々とした屋上のヘリにはまだ男がたっていた。
…頼むぞ。弓坂たち。…ここからは俺の勝負だ。
「すいませーん!」
俺は男に声をかけた。男はふりむかない。
「すいませーん!」
二度目の声をかけたとき、男がようやくゆっくり振り向いた。
目の下に深いクマのある髪がボサボサの痩せた男だった。
「どうしたんですか?よかったら話きかせてもらえませんか?」
そういうと男は苦々し気に
「ああああ!?」
といった。
ものすごい気迫だった。
これは、かなり人に話をきいてもらえなかった恨みがある、と俺は分析した。
「お気に触ったなら、すみません!いきなり見ず知らずの人に今自分がしようとしてることのいきさつなんて、話すの難しいですよね!……自己紹介、遅れました。僕は野栄、と申します。…よろしくお願いします」
俺は謝罪の意も込めて深々と頭を下げた。
男はまだ苦々し気に目を細めて俺を見つめている。
「お名前、伺ってもよろしいですか?」
そういうと、男はじっとこっちを見たまま何もいわなかった。
「話が…ききたいんです!!少しの時間だけですが、お兄さん、僕の、わがまま聞いてもらえませんか?」
そういうと男は、自分の髪の毛を引っ張りながら、―ああああああああああああああああ!!!、と叫んだ。
「うるせぇ!うるせぇ!うるせぇ!うるっせぇんだよぉ!!なんなんだよ。あたんたら!俺が死にたいときは、弱音はくな、みんな辛いんだ、死にたいとかいうやつは絶対死なないから大丈夫、とか散々こっちの口ふさいできて…いざ俺が死のうとしたら、話をきかせてくださいだぁ!?いい加減にしろよ!!その善人ヅラ!!みたくねぇんだよ!!結局お前ら誰一人として俺を大切にしてくれなかったじゃんか!!!ふっざけんなよ!!」
俺はそれを静かにきいていた。徳田さんの言葉を思い返していた。
「そうかもしれません…。僕たちはあなたの言葉が聞けていなかった…。あなたのことを蔑ろにしてしまったと思います。初対面ですが、やっぱり僕もあなたのいう「あんたら」に入る人間でしょう。だから、代わりに言わせてください。…本当にすみません。バカで…申し訳ない…。あなたが今飛び降りようとしてる、そのときになって、あなたの言葉に耳を傾けて真剣に聞こうとしているのですから…」
できる限り俺はゆっくり相手に話しかけた。
対話をするんだ…。俺…。
たしかに、こんなときにならなかれば、人は相手の言葉を真剣にきくなんてことはしないかもしれない。
相手がこちらの言葉を聞き取って、向こうからの言葉を待つ。たったこれだけなのに、いつも俺たちはそれを蔑ろにしがちだったんだ。
「遅すぎたかもしれない!」
俺は、感情を込める。
「でも、まだあなたは生きている!!まだ僕はあなたの言葉をきくことができる…」
俺は一歩、男に近寄った。
男は、はりつめた目で射るように俺を視てくる。
「お前なんんんかにっ!…わかるかよ!!」
先程とは矛盾する発言…。しかし、これは男の心が今、揺らいでいだことを示した。
慎重にいけ…、俺。
はあ、と俺は深呼吸をする。
「僕にはもうすぐ目の前からいなくなる人がいます。その人はもうこの世からいなくなるんです…」
男の目が一瞬こちらの目の奥をとらえた。
なにかが届きかけている感触だ。
俺はしゃべり続けた。
「最初は、世の中から消える人がいるということが僕のなかでは、数の上のことでしかなかった…。毎日この世界からはたくさんの人が…いなくなっていますよね…。でもそれが感情を動かすことではなかった。今だって心のどこかではそう思ってます…。でも、違ったんだ。…人が一人この世界からいなくなることは悲しいことだった。なんでもないことなんかじゃなかった。僕は彼女からそれを教わったんだ…。あなたも…。誰かからそれを教わったんんじゃないですか…。だって、あなたの目には今、悲しみがある…」
男は睨むようにこちらの話を聴いている。
「つらかったんですよね…。ずっと…心を閉ざしてきた。でも…心を閉ざすことが、そもそもあなたの精一杯の周りへの主張だったんですよね。精一杯そうやって周りに自分のことを伝えていたんですよね…」
俺はまっすぐ男の目を見た。
男は、悔しそうに歯をくいしばりばがら
「目の前で恋人が死なれたら、そりゃ、正気でいられるかよ!!」
といった。
―わかってんのか!わかんのかよ!あんたに!!なあ!
「僕もわかりません…。彼女がいなくなったあとの世界で僕がなにを考えるかなんて…わかりません。でも、今とは違うことを考えるでしょう…。感情も今とは違うでしょう。そうなってでしか気づけなかったことも出てくると思います…。人間は愚かだから。彼女には、俺の隣にいてくれて、俺はよかったっていうしかありません。今も俺はあなたとこうして会話していることが尊いことだと思う…。あなたがいてくれたことで。僕は彼女が大切な存在だと改めて思えたから。そして、少なくとも、多くの人が…そう思うと思います」
「嘘だよ!そんなの嘘だ!!」
男の目は今やまっすぐ俺の目の奥をとらえていた。
「いいえ」
―俺は弓坂たちを信じた。
「大丈夫ですよ」
「あ?」
「お兄さん…下を見てください」
俺が、そういうと男は一瞬不可解な顔をしたが、おそるおそる、おもむろに顔を下に向けた。
そこで、男の目が丸く大きくはねる。
その男の反応をみて確信して俺も、男に近寄っていく。
―弓坂、よくやった。
「あ?…あああ?」
俺も下を見る。
そこには、マンションの住民全員が、各自の部屋にあるビニールの水のうを持ち寄って巨大なクッションを作り、震災のときに使うための防災用のテント布をみんなで引っ張りながら幕を作って待機していた。
この街では、震災があって以降、マンションにはかならず水のうや、防災対策用具が常備されるようになっていた。
「おーーーーい!和田さーーーーん!なにやってんだよーー!」
「そんな思い詰める前に、なんでもっと早くあたしたちに言ってくれなかったの!!こっちだって心配してたんだからねー!!」
「そんなとこに立ってないでこっちおいで!もっとそばで声きかせてよ!どんな汚い言葉であたしたちのこと罵ってもいいから!!」
「ひさしぶりじゃねーかー!ひさしぶりに見たと思ったら、バカなことしてんなー!なにやってんだよ!!」
マンションの住人が次々に声を張り上げて男に語りかける。
弓坂が、声を張り上げていった。
「お兄さん!みんな、お兄さんのこと心配してマンションの人たち全員でお兄さんが飛び降りてもいいように協力してクッションを作りました!!お兄さんのこと見下してる人は一人もいませんでしたよ!みんな、お兄さんのこと心配してたんです!!」
そこで弓坂は一度言葉を切って、大きく息を吸った。「だから!!お兄さん!!今、思いっきり飛び降りてきてください!!みんなのこと!信じてあげてください!あとはここにいる、あたしたち全員で受け止めますから!!」
男は「あ…ああ…」と目を丸くして立ち尽くしていた。
俺はその男の肩に、そっと手を置く。
「自分を守るために必死だったんですよね。…必死で死ぬくらいの勇気を持ってあなたはここに立った…。今。あなたが死ぬために使おうとしたその勇気を、今度はみんなを信じてあげる勇気に使うことで…少しでも、今ここにいるみんな喜べるようにしてあげてください…。」
「ふっざけるなよ…」
―なんなんだ
あんたら…。
そういって男は、静かに涙を流した。
その涙の意味を俺は、よくわかることができた。
それは大切なものだ。
しばらく男は下に広がる光景を静かにみていたが、やがて顔を上にあげ、目をつむり、穏やかに息をすると、両手を広げた。
男に決心がついた瞬間だった。
「ありがとう。…野栄さん」
「みんなにも言ってきてあげてくれ」
「…ああ…」
そのまま男はゆるやかにヘリから足を外し、みんなが腕を広げて待っている巨大なクッションに向かって落ちた。
―ボスリ!という柔らかな音がして男の体は見事、みんなの輪のなかに受け止められた。
歓喜があがる。
まるで人が生まれたときみてぇじゃねえか。
俺は様子を見守る。
クッションのまんなかに落ちた男にすぐ弓坂や、マンションの住民がかけよる。
みな、口々に心配の言葉や、男が生きていることを喜ぶ言葉をかけていた。
その光景をみて心温かくなりながら俺は目を細めた…。
男は極度の緊張からほぐれた、穏やか顔をしており、満ち足りたように、しばらく、そのクッションのなかに沈みこんでいた。
遠くでパトカーのサイレンが聞こえる。
―終わったな…、と俺はポケットに手を突っ込んで、ヘリから離れ、マンションの屋上をあとにした。
あとには白い雲をまとう青い空だけが残された。


マンションから飛び降りて助かった男の名前は和田一樹(わだ かずき)ということを後で知った。
そして翌日、新聞に「快挙!マンションの住民全員が協力して、自殺を阻止!」という見出しと共に、ことの顛末が書かれてあった。
一応、俺もあのあと軽く警察の職務質問を受けたあと、弓坂と一緒に職場にいった。
徳田さんと店長が拍手で迎えてくれた。
俺は気はずかしさと共に、なんとなく自分がやったことは、そんなに大きなことではないような気がしていた。
誰しもの日常がただ続く。
それが少しでも壊れないように俺は少し手を添えただけだ。
本来、それは何事もなく続いていくべきものだから。


俺はあの事件のあと、さよりのことについて、分かることのできる範囲で、できる限りのことを調べることにした。
いずれ、そのことが無駄になるとしても、せめて、そうしたいと思った。
「失ってわかる大切さなら、はじめからなくさないようにしてあげればよかったんだよ」
徳田さんの言葉は実感味を帯びてきていた。
それくらい、さよりとの夢の頻度が最近、少なくなってきていた。
もうすぐ、彼女との別れが近いんじゃないか。
俺は最近そんなことを、ずっと考える。
せめてこの世界で彼女が生きた痕跡を、(―それさえ、彼女が消えたあと、俺の記憶から消えてしまうとしても)確かめたいと思った。
彼女はこの世界にいたのだ…。
少なくとも彼女は、今、俺の心のなかにいる。
(―心なんて言葉を俺が真面目に使う日がくるなんて、自分でも思ってもみなかった。)
でも、そこが俺にとっての彼女の居場所だ。


市役所にいって過去の台帳を開く。
十年前のページに飛ぶ。
地図を開く。
場所を確かめる。
印をいれて、自分のノートに調べた記録を書きとめる。
目で文字をたぐる。
何万もの人の名前。
何千もの情報。
その一つ一つに意味があることを今だから、俺はわかる。
一つの人生に無限の意味があるならば、それらの文字の総体は無限の無限乗の意味があるのだろう。
そのなかから俺にとってのたった一つの意味を見つけ出す。
不可能に近い…。
でも、この何百万文字の記録のなかに君の名前があるのなら…。
探しだしてみせる。
絶対に。
君がこの世界にいたことを俺の中に叩き込むために。


ノートを開いて街を歩く。
効率的に調べるため、パソコンで記録を分析する。
T公園のあたりを中心に聞き込みをする。
もう地図も変わっていて、公園の近隣の人にもアパートがあったときのことを知る人は少ない。
昔、T公園のアパートに住んでいた、という人がいれば聞き込みをしにいった。
何も得られないこともあった。
でも、ただ、探した。
君に繋がるわずかな糸を。
十年前へたどり着ける何かを。


「謙吾、最近なにか頑張ってるみたいだね」
彼女はブランコを揺らしながらさびしそうにいった。
「君のことが知りたいんだ」
俺はいった。
「知って、どうなるの?あたし消えちゃうんだよ」
たしかに、そうだ。
無駄かもしれない。
俺が何か言えないでいると、さよりが優しい声音でいった。
「謙吾は…真面目なんだよ…。冷たいように見えて人のことをほっておくことができない。…真面目なんだ。今のあたしがなくなっても謙吾のその真面目さは変わらないでしょ。あたしがいなくなっても大丈夫って思える。…だからお願い。やっても自分の心に傷がつくかもしれないことは…やめて…。あたし、ただ、謙吾と他愛もない話して最後まで…最後まで…ただ、静かに隣にいたいだけなんだ…。その途中で、謙吾がなにかに入れ込んで…それで、傷つくのあたしは隣で見たくない…だから…」
彼女はブランコを止めて顔を下に向けた。
俺は隣でそれを静かにきいていたが、やがて口を開いた。
「傷つかないよ…。大丈夫。ようやく俺、君が…人が…大切なことに気づきはじめたんだ。たしかに君のことを究極的に知るなんてできないかもしれない。でも、それに向かっていくことに意味があると今は思えるんだ。だから教えてほしい。君のこと。どう生きてきたのか、その人生のなかでなにを思ったのか、どうやって亡くなったのか…」
―最後になにを願ったのか。
そういうと、彼女は押し黙って、なぜか悔しそうな顔をした。
「あたしなんか…」
ポツリと彼女はそうこぼした。
彼女は自分のことになると、かたくなに口を閉ざした。
まるで何かを祈るように。
空の雲はゆるやかに、二人の間の時間を流れるように動いていた。


記録を探すことと聞き込みを続けるなかで、俺はある事実にたどり着いた。
「和田…一樹…?」
聞き覚えのある名前に俺は反応する。
「はい…さよりさんの付き合ってた人の名前…たしか、それだったと思います」
俺が聞き取りをした相手は十年前、さよりと同じ大学の教室で学んだことがあるという女性だった。
「さよりさんとあたしは特別接点があるって訳でもなかったんですけど、ふとしたときに一緒になって、それで恋バナになって、そこできいたんです」
「それはさよりさんがいったの?」
「はい…なんか付き合ってる彼氏がいてーって話で…」
俺はノートを閉じて立ち上がった。
女性はいきなりのことにびっくりした様子で、俺を見た。
「ありがとう。その情報」
もっと聞きたいこともあったが、時間がない。
「い、いえ。参考になったなら…」
「お代は俺が払っとくよ」
「あ、ありがとうございます」
そういって俺はカフェの席を立ち、入り口に向かった。
「そうだ」
出口を出るとき俺は女性にいった。
「あなたから見て、さよりさんはどんな人だった?」
突拍子のない質問に女性は「うーん、どんな人だったか?」と半笑いでうなったあと、まっすぐ俺を見て
「素敵な…人でしたよ」
といった。


和田一樹と会うのはあの騒動以来だった。
近場のカフェで待ち合わせた俺たちは騒動以来、顔を合わせた。
和田一樹は、騒動のときよりかは血色がよく、少しずつ周囲に馴染め出しているのが伝わってくる顔色だった。
俺は早速、本題を切り出す。
「あの日のことが知りたいんだ」
しばらくの沈黙があったが、やがて。
「…………あの日は風が強い日でした」
そう和田一樹は静かに語り出した。
「俺、あの日、さよりの住んでるアパートに遊びにいってたんです」
「…彼女は一人暮しだったの?」
「はい…。あいつの家、母子家庭で苦労して大学いって自分で貯めたお金でアパート借りて、いろいろ大変だったんですよね。だからたまに、さよりの面倒見にいってたんです。その日もそうでした」
一樹は目を細めて感情を押し殺すように語った。
俺は言葉を待った。
「あいつ、自分に劣等感持ってて…。いつも、どこか頼りなさげで。この世にちゃんと足がついてるのか分からないような…そんなとこがありました。でも、根はすげえ優しいやつで…」
俺は少し考えてから言葉を放った。
「その日の彼女は、どんな様子だった?」
そうきくと一樹は少し目を落と気味にいった。
「あの日、彼女は少し精神的に不安定だったんですよね。すごくネガティブなこと言ってて、で、俺もムキになって言い返してたんですよ。」
「そうなんだ…」
そういえば、さよりも自分が死んだ時はいろいろ悩んでいた時期だと言っていたな…。
「どんなことで彼女は悩んでいたの?」
そういうと一樹は暗い顔をしていった。
「自分なんかが幸せになっていいのかな?って彼女はいつも言ってました」
「あー、そういうのか」
「はい。そういうのです」
「たしかに難しい問題だ」
俺は、少し考えて質問をかえた。
「地震が起きたとき、どうしてた?」
といって俺はあわてて、
―思い出すのつらかったら思い出せる範囲でいい。…出きる限り詳しく知りたいんだ、と付け足した。
「……俺、彼女のために夕食作ってたんですよね。彼女は大学に提出するレポートに追われてました。今日書き上げなきゃって。いつもみたいに俺は呆れながら、他愛もない話をしながら料理を作ってました。ふと、彼女が、なぜか知りませんが、幽霊になっても恋がしてみたいと思う?って俺にきいたんです。俺、いきなりで、そうだな、恋できるくらいのメンタルだったら成仏するわっていいました。そっかぁって彼女は納得してたような顔をしてた。そのときだった。ものすごい大きな音がして、下から大きな力で突き上げられたんです。とてつもない轟音が響いて、バキバキいう音と共に目の前が砂ぼこりと、粉塵で真っ暗になった。なにがあったか一瞬分からなくて、次の瞬間目を開けたら周りは瓦礫と炎に囲まれてた」
「彼女は…」
「………」
それからしばらく一樹は黙り込んだ。
「思い出すのがつらいことだったら、大丈夫だよ。ごめん」
「彼女は…」
と一樹は声をしぼり出しながらいった。
「俺たちのいたアパートは運悪く倒壊したんです。…それで…彼女はへしまがったコンクリートに体が挟まれた。かろうじて瓦礫のなかの小さな穴から彼女の顔がみえた。……俺が料理してたのと、風も強かったのもあって、炎がコンロから逃げて勢いよく俺たちを取り囲んだ。俺たちの命が助かるには一刻を争う状態だった。…でも、彼女は…。俺、必死に瓦礫を持ち上げようとしました。声の限り助けを叫びながら、思いっきり、何度も、何度も、…何度も…。でも…ダメだったぁ…」
一樹は声をにじませた。
「俺が幸せにするからって何度も、何度も、叫んで、あがいて、…でも、無力で…無力で…。…」
一樹はそこで大粒の涙を流した。
「彼女は最後まで、意識があった。一樹、逃げてってずっと言ってた。もしかしたらものすごく痛みがあったかもしれない。のに、何度も、何度も、いいから逃げてって…。俺…俺…なんで…」
俺は一樹の肩に手を置いてさすった。
「ごめん、つらいこと思い出させて…」
「いいえ、こんなことでもないと、彼女がいたことを思い出して確認するってこと…ありませんから」
一樹は涙をにじませながらいった。
「君は…ギリギリまで逃げなかったんだね。命をなげうってでも彼女を救いたかった…。」
「でも…できなかったんです。炎が俺たちを包んで、俺ここで死んでもいいって思えた、でも、彼女は必死に俺に逃げるよう叫んでた。…俺、最後、…最後…彼女の手を…放しちゃったんだぁ。…彼女を置き去りにして…俺…。俺…。」
「いい…思い出さなくて。いい」
「最後…見た彼女の顔は笑顔だった。それが最後だった。バカですよね!!最後まで!!あいつ!!……あいつ!!」
俺は黙って一樹の背中を撫でた。
「よくがんばったよ…えらい…えらいよ…」
一樹はそこで涙を流して声をあげて泣いた。
その体験は、世間からは痛いものに触れるような扱いを受け、誰からも触れられず、認めてもらえなかったのかもしれない。そして、一樹にはずっと罪の意識だけが上積みされていったのかもしれない。
でも、その始まりには、彼女を身をなげうってでも救おうという原点があった。
俺は一樹を抱きしめた。
遅くなったな…。君を見つけ出すのが遅れて…ごめんな。
「…最後、彼女はなんていった?」
「わかりませんでした。……最後、炎に包まれていくなかで、なにか彼女はいっていた。……でも俺は聞き取れなかった」
「そっか…。……もし、今、彼女に伝えれるならなんて、言葉を伝える?」
そういうと一樹はしばらく静かに考えていたが、やがていった。
「幸せにできなくて、ごめん。大切にできなくて、ごめん。ありがとう。俺、君と出会えた人生、こんなにもつらいけど、それぐらい幸せだったんだってあとになって気づいたよ…バカだよな…」
「わかった…」
俺は、さよりを調べるためのノートを閉じた。
もう知るべきものは知れた。
あとは彼女に会って話をしなければ…。

「あいつのこと丁寧に調べてくださって、ありがとうございます」
最後に一樹は深々と頭を下げた。
「ううん、お礼をいうのはこっちだよ。君の目には意志を感じた。つらかったことを話すためにしぼり出そうとする勇気や、そうすることで前を向こうって強さを俺は話をききながら感じてた。今の一樹君を見れば、彼女は絶対喜ぶよ。君の姿勢に励まされたのは俺の方だ…。強く生きなくちゃな。お互いに」
深々と下げた頭が一樹の人格を物語っていた。
いい彼氏持ったんだな、さより…。
「じゃあ、ね」
夕焼けの茜色の光のなか手を振って、俺たちは別れた。


目を閉じる。
夢のなかに溶け込む。
そこはいつもと同じ公園だ。
いつもと同じ揺れるブランコ。
しかし、空の景色がいつもと、じゃっかん違う。
いつもの空はまだ昼間で、晴れていて、気持ちいい風が吹いている。
でも、今の風景は日がかなり傾いて、もうすぐ夕暮れ間近という景色だった。
「おつかれ」
隣で聞きなれた声がきこえた。
さよりだった。
「おつかれさま…」
俺は、小さく返した。
二人で何もいわずにただ、しばらく小さくブランコをこいだ。
「和田…一樹くんに会ってきたよ…」
そんななか切り出したのは俺だった。
「そなんだ…」
彼女は顔に表情を出さず、ポツリといった。
「…うん」
「元気にしてた?」
「うん…してたよ。頑張ってた。…俺、尊敬しちゃったよ…」
「そっか…」
そういうと彼女は満足そうに笑った。
「君のことをいろいろきかせてもらった…」
「……」
彼女は黙った。
でも、まんざらでもない顔色だった。
「さより…。君がどんな人間だったのか…俺知ることができたかは、わからない。でも、君がどれだけ大切にされたか、今もそう思われてるか…それを知った」
「そう…」
彼女の表情は髪で隠れていてよくわからない。
「君は…やっぱり、素敵な人だった。君がいなくなったことで人生が狂った人もいるかもしれない。和田一樹くんがそうだった。でもそれは、君がこの世にまぎれもなくいたから。そして、今もいるから。人が存在するということは誰かに認められたり、記憶されたり、存在を確認されたりするからじゃない。…そういうことじゃない。名前も記憶も消えても、絶対消えないことがある。誰も気づかないことのなかに、…絶対に失われないものはある。…君は少なくとも俺に、この世界の意味を教えてくれた。それがこの先、消えるなんて思えない。意味はこの世界にくっつかず浮かぶものだから」
そういうとさよりは、楽しそうに
「そんなたいそうな話なの?」
と笑った。
「君がやったことはそういうことだよ」
俺は力を込めて、ブランコをこいだ。
「君がいたから」
俺は土を蹴る。
「空に色があることを知った」
もっと、俺は土を蹴る。
「その色が青であることを知った」
俺はふわりと足を流して浮かせる。
「それが俺のすべてだ」
―意味は消えない。絶対に。
事実が例え失われても、その事実についての意味はこの世界に残り続ける。
例えそれは、この世界が終わっても―。
それが俺のたどり着いた答えだった。
間違っているか、わからない。
ただ今のすべてを彼女にぶつけておかないと、俺は後悔すると思った。
さよりは顔を見せずに
「…次が…最後になるよ…」
とだけいった。
「あたしもう長くないってわかるんだー」
俺は黙った。
「謙吾。一樹が元気で生きてること、教えてくれてありがとね」
「君に感謝してたよ。今、つらいけどそれは自分が幸せだった証だって。大切にできなくて、ごめん。幸せにできなきて、ごめんって」
そういうと、さよりは言葉をつまらせた。
「…あいつ…そんなこと気にしてんの…。バカじゃないの…。あたしは…もう…。」
―もう充分すぎるくらい幸せだよ。
さよりが泣きながらいう。
「最後まであたしを見捨てようとしなかった…。命がなくなるかなくならないかのギリギリまで…。あたし、それで救われたの…。今までのこと全部がそれで…だから…もう、いいんだー。あたしは不幸じゃなかった。願わくば、あたしにそれを教えてくれたあいつも不幸じゃないって思える人生を歩んでほしい。いっぱい幸せになってほしい」
彼女は、そう、涙を浮かべながらどこか楽しげに微笑んでいった。
「なんだかんだみんなに見守られながら、そうなっていってるようだったよ」
「そっかー。あたしの人生にも意味はあったんだねー」
「そうだよ。あったよ」
―充分、あったんだよ。
「そっか!」
と、さよりはブランコから飛び降りた。
午後の光を背に、さよりはいう。
「じゃあ、謙吾。次、会うときまでの宿題…。人と人が一緒にいるってどういうこと?」
そう彼女は涙をまとった笑顔でいった。
「それを考えてきて…。それが宿題ね」
彼女のその楽しそうな笑顔にこちらも笑ってしまう。
「オッケイ。考えて…」
そこで目が覚めた。
目の前にはいつも通りの静かな部屋が広がる。
そして、窓から差し込む、夏の朝の日射しは眩しかった。


さよりはブランコに一人腰かけて座っていた。
そして、あの日のことを思い出していた。
あの日はいろいろあって一樹に当たっていた…。
あたしは、なんだかんだ一樹に甘えてて、その日もいつもみたいに甘えたい感情を上手く処理できなくて、ダラダラ一樹と過ごすことで、人に甘える自分を確かめてた…。
でも、あの日があたしの人生の最期の日だったと、神様がもし教えてくれてさえいれば…あたしは、あんな風に時間を過ごしたりしなかった。
結局、最後まで神様にも甘えようとしてる、あたし…。
そこまで思い返して、さよりは力なく笑った。
―だから…後悔なんか残るんだろうな。
いきなり轟音が聞こえてあたしの意識は飛んだ。
気づいたとき、周りは真っ暗で、熱かった。
暗くて、何が起こったか分からなくて、ただ怖かった。
「誰か!!…一樹?…一樹!!」
あたしは、いきなり下半身に凄まじい貫くような痛みを感じた。
「…あ…が…」
大きな声を出したからか、その痛みは呼び覚まされたように体の下から這い上がってきた。
「さより!!さより!!」
一樹の声が遠く感じるのは耳鳴りがするから…。
「一樹!!」
あたしは叫ぶ。体に痛みが走る。
もう足があるかどうかもわからない…。
体の下半身のあるところから感覚がない…。
熱い…。
とけるような感覚…。
あたしは理解する。
なにがあったか、わからないけど、あたしは大きな何かに挟まれていて、たぶん、これは人の手ではどけれない。
そして、周りは火に囲まれつつある。
一気に絶望が増す。
息が荒くなる。
「さより!!…さより!!…」
一樹の声が近くで聞こえた。
あたしは、一樹を探した。
鼓動がはね上がる。…もしかしたら…。
ようやく一樹の土ほこりと血でまみれた顔が、瓦礫の隙間から覗いた。
「さより!!大丈夫か!!」
「一樹!!…一樹!!…」
体は痛みでどうにかなってしまいそうだったけど、あたしは精一杯恋人の名前を叫んだ。
「一樹!!」
「さより!!今待ってろ!絶対にそいつをどけてやる!!」
どけたところであたしが生きられないのはなんとなくわかっていた。
お別れがこんなにも、いきなりで、呆気ないものだったなんて…と心で噛み締める。
「一樹…」
「アアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
気違い地味た叫び声と気力で、目の前の恋人は本気でこのコンクリートを持ち上げようとしている。
「やめて…」
「アアア!!…アアアアアア!!!…アア!!」
一樹は、何度も何度も腕を放しては、その都度、諦めずコンクリートに飛びついていく。
一樹の背後には明々と燃える炎がみえた。
あたしは悟る…。
もう、自分がだめであることを。
…今まで一樹と過ごした時間を思い返す…。
二人でデートしたあとに乗った電車で見た夕焼け。
楽しく買い物した帰り道、歩いた新緑の坂道。
初めて誰かと繋いだ手。
抱きしめられたときの、静かに背に伝わる温もり。
一樹との思い出を全部思い返す。
バカだな、あたし、こんなに恵まれてたんじゃん…。
こんなにいっぱいしてもらってたんじゃん…。
あたし、もう大丈夫だよ。
…だから精一杯の恩返しをするね。
「俺が!!…幸せにするからっ!!」
―もう、充分だよ。
「俺がぁ!!…」
―もう、大丈夫だよ。
「一樹、…逃げて…あたしはいいから…逃げて」
「なにいってんだよ!!バカ!!絶対逃げない!!」
「もう、充分なんだよ」
「充分ってなんだよ!?なにいってんだよ!!」
あたしは涙を流していう。
痛みが体を支配する。
今のあたしの役目はこいつが、幸せになる確率を少しでも高めること。
最低限生きていけるよう、努力すること。
そのための体の痛みなら、この今を貫ける。
「一樹、ありがとう。あたし、幸せだった…」
「アアアアアアアアアアア!!」
もう死がすぐそこまで迫っている。
大丈夫、…あたし。
最期恋人に向ける顔は涙で彩られた悲しい顔なんかじゃ…ダメだ。
あたしは、今までもらった幸せな記憶を顔で表現する。
あたしは笑った。
それが正しいと思った。
それが唯一今目の前の恋人に報いれるものだと思った。
炎が舞うなか、一樹はあたしを見つめた。
ねぇ、生きて―。
あたしがいない未来までも。
あたしがいけなかった未来までも。
今のあたしにとって笑顔は祈りだ。
いつかあなたも誰かに優しく笑いかけれる日がくることを祈るための、この世界へ向けての表現だ。
一樹の顔から涙が溢れる。
諦めた血まみれの両腕がなだらかに垂れた。
あたしには、わかる。
あなたは、ここで死なない。
一樹が首を後へ振り向ける。
彼なりの決別。
永遠の別れって、こんな感じなんだ。
一樹の姿がどんどん離れていく。
ああ…あたし、これから一人になるんだね…。
…ザンネン。
でも、なんだ心は落ち着いて満ち足りてる。
もうすぐあたし死ぬんだなー。
口元が微笑む。
「―お願い、生きて」
あたしは最後の意識をその言葉に込めた。


休みの日。
特にやることもないので散歩に出る。
俺は、夏の曇り空の下にある街並をただ眺めて歩いていた。
傘は持っていないが、たぶんまだ雨は降らないだろう。
なんとなく、そんな気がする。
俺は灰色の空を見つめた。
どうだっただろう?彼女と出会って。俺、変わったんだろうか。
よく、分からない。
どの道、彼女がいなくなれば今俺が考えてることだって消えるんだ。
―ここは変わったということにしておこう。
そう俺は自分に言い聞かせる。
灰色の空の街並みは、そこに、いつものように穏やかなたくさんの生活があることを空気から教えてくれている。
彼女も生きていたら、俺と出会わずに俺が今感じている様々な人の生活の気配の一つに埋もれていたのかもしれない…。
そう考えるといつもの街並みが、また違ってみえる。
街並みの先には相変わらず海が広がっていて、俺の前に、俺のなかのどうしようもない気持ちを代弁するように無為に横たわっている。
世界から消える…か。
改めて、彼女の消失ということを考えさせられ、そのなかで消失を実際に突きつけられる。
逆説的だが、彼女の消失を考えることができるということは、まだ彼女が世界から消失していないということでもある。
皮肉なことだ。

俺はT公園の前を通り過ぎた。
彼女と最初に会った場所。
彼女をはじめて認めた場所。
そこを俺は通り過ぎた。
…感傷に浸るのは俺のガラじゃない。

歩く先には鮮やかな紫陽花の花。
この曇空の下で生彩を失わないように、その紫陽花は凛と咲いていた。
俺は立ち止まる。
曇天。
その曇天を見上げ、どうしようもない人間一人がここに立っている。
俺は目をつぶる。
彼女の柔らかな眼差しを思い出す。
―いつか、君は。
いつか君はこの世界からきえる。
また出会う可能性もなく、
そして、君を思い出すこともない。
そんな虚空が目の前に広がっている。
そして。
―いつか、きみは…。
俺は、まぶたを開ける。
…進むんだ。
それがどんなにつらくても。
俺は湿気と、蒸し暑さをまとう曇天のなかを歩き出す。


目を閉じる。
一瞬の深い混迷状態のあと、目を開いて見上げれば、鮮やかな夕焼け空があった。
群青と淡い茜色が視線の先で混ざり会う。
真上には一番星も見える。
夕雲は、紅から紫まで様々に舞い、夕焼けの光がその色彩を彩っている。
―きれいだ。
俺はブランコに座ったまま、その空に見惚れていた。
「や!」
聞きなれた愛おしい声が後から聞こえる。
「さより…」
俺が振り返ると、さよりがかわいらしげに、後に腕を組んで立っていた。
「きれいでしょ。あたし頑張っちゃった」
さよりも空を見上げながらいう。
「お別れにしては素敵な空だ。粋だな。君のセンスがこの先見れなくなるのが口惜しい」
「アハハ!」
さよりは誉められて嬉しそうに笑う。
その小さな穏やかな顔が愛おしかった。
彼女は静かに淑やかに隣のブランコに腰をおろした。
「今日で…あたし、最後です…」
彼女はいった。
「うん…そうか…」
「謙吾が、この夢から目を覚ましたとき、謙吾のなかのあたしも、この世界に残ってたあたしの痕跡もぜんぶ消えるの」
「そうなんだ…」
「最後に謙吾、あたしとしたいこととかある?」
「俺は、さよりと一緒にいれるだけでいい。逆に…さよりはなにかないの?俺と最後にしたいこと…」
「ないなー。あたしも一緒だよ。あたしの願いは最初から変わってない。あたしが消えるそのときまで誰かと一緒に、ただ、いたい。それだけ…」
そこで言葉を区切って少し間を開けてから彼女はいった。
「それが謙吾でよかった…。あの日、あの雨が降ってる日、あたしたち出会ったよね。覚えてる?」
俺は微笑んだ。
「当たり前だよ。…覚えてる」
「懐かしいよね。あたし、あのとき初めて、生きてる人に声をかけられたんだ。おまけに謙吾、傘までさしてくれたよね。あたし濡れないのにさ」
アハハと、さよりがいたずらっぽく笑う。
「ま、まあ、そりゃ、幽霊であっても雨のなか傘もささず座られると傘持ってるか気になると、いうか?…あれは半ば…あの状況で座ってた、さよりのせい」
「ごめん、ごめん、からかって。…でも、嬉しかったんだよ。あのとき」
「そりゃ、どうも。嬉しかったんなら、よかった」
「うん!嬉しかった」
彼女はなんの屈託もなく答えた。
その彼女の体が、少しずつ透明になっていっているのがわかった。
こうやって彼女は消えるんだ…。
俺は、その姿を見ながら言葉を探した。
「いろんなことあったよね」
「うん…」
透けていく彼女の透明さに負けないように、恥じないように、俺はしっかり彼女の目をみつめる。
「謙吾と話してると楽しかった。いろんなこと話してくれたよね。たまに日常で、ふざけあったこともあったよね。昼間、モールス信号で会話したり、ベランダにきた猫を二人で眺めあったり…。ふざけた心霊写真とってみたり…。」
俺は思い出して吹き出す。
「アハハハ、そうだったなー。そんなこともしたっけか」
「うん!したよ!」
その間にも、彼女の体は透けていく。
俺は歯を食い縛りながら、思い出を思い出して泣きそうになる。
…泣くなよ、俺。
笑ってろ。最後まで。
思えばそれらは彼女がいなければ知らなかったことの連続の日々だった。
彼女がいたから、人と繋がれる喜びがあった。
彼女がいたから、気づいた人の痛みがあった。
彼女がいたから、知った悲しみがあった。
幽霊が…こんなにも優しさに溢れた存在だったなんて、初めて知った。
―お前のせいだぞ。さより!!
もっとお前が人を恨んでくれたなら、憎んでくれたなら、俺は、お前を徐霊するだけの話ですんだハズなんだ!!
でも、今ならわかる。
死んでいったやつが願う願いは、どんなものであるにしろ人が幸せになる方向を向いているんだ。
恨みにしろ、憎しみにしろ、無念にしろ、そこには、そうじゃなかった可能性の世界を望む望みがあるんだ。
人間は最期まで、幸せに生きようとする生き物だから。
その根底には、誰しもにとっての当たり前の日常が続いてくことへの望みがあるんだ。
「…さより…」
俺は静かにいう。
「なあに?」
さよりは、優しくその言葉を受け止める。
彼女の体からは光の玉が放たれはじめていた。
まるで夏の夕暮れに飛んでいく蛍みたいだ。
「俺、さよりのこと…大切にできたかな…」
そういうと、さよりは優しく笑って
「うん…してくれたよ」
といった。
―ありがとう。謙吾。
「お礼をいうのはこっちの方だよ!!お礼をいうのは…」
―俺なんだよ、と俺は涙を浮かべてうなだれる。
ああ、こういうときになんていったらいいのか、ゼンゼンわっかんねぇや。
「抱きしめれたなら抱きしめてる。触れたなら、お前のこと忘れないように、手を握ってる。最後まで抱きしめあってお前が消えてからも俺…そうやって…」
さよりは隣でブランコをこぎ出していた。
夕暮れの空はもう終わろうとしている。
太陽が海の彼方に沈む。
空が藍色になっていく。
「謙吾…。最後、ブランコでどっちが遠くまで飛べるか勝負しよっか」
彼女は儚げに明るくいう。
その彼女の提案に、俺は涙を脱ぐってうなずく。
「うん…」
俺も彼女の隣でブランコをこぎ出す。
俺は、一、ニ、三、と勢いをつける。
彼女も足を揺らしながら、勢いをつけて風を捕まえる。
一、ニ、三…
大きな振り子が時計のように、時と振幅を刻む。
「謙吾」
彼女が風に乗りながら隣でいった。
「覚えてる?この前、あたしが出した宿題」
彼女はいかにも嬉しそうだ。
俺も嬉しくなっていう。
「覚えてる!!考えてたよ!」
「そっか…」
彼女は笑いながら前を向く。
一、ニ、三…
「じゃあ問題!」
彼女がこぎながらいう。
一、ニ、三…。次で飛ぶ。
彼女も大きくブランコを揺らす。
もっと飛べ。
もっと遠くへ。
この世界なんかとっくに飛び越えて。
俺より先に彼女がブランコから飛んだ。
ふわりと美しい光の玉が花びらのように振り撒かれる。
そうやって彼女は地面に、優しく美しく着地して俺の方をみて笑った。
「謙吾。…人と人が一緒にいるって、どういうこと?」
そういった彼女の顔は、今までのどの彼女の笑顔よりも、いい笑顔だった。
最後の夕陽の光に透けてみえる、その笑顔は彼女の一番、美しい瞬間の笑顔だった。
それが最期だった。
彼女は光の泡沫となって消え。
あとにはブランコに乗る俺と太陽の沈んだ深い藍色の空が残された。
そこで、俺は目が覚めた。


「あー、仕事終わったー」
俺は伸びをして店をあとにした。
「先輩、いって今日そんな仕事してますー?」
弓坂が、後からついてきながら、声をかける。
「やった、やった。もう二年間くらいの仕事したんじゃないかなー」
「またまた適当なこといってー」
俺は、そうかもなーと、アハハと笑った。
今日は、なにかすごく大切なことを思い出せそうなのに、思い出せないような気分だ。
「まあ、いいじゃん。どんなことであっても仕事は仕事だ」
「先輩、ちょっとは後輩が尊敬するような先輩になってくださーい」
―精進します。
まーた、適当なこといったーと弓坂が隣で躍起になる。
当たり前の日常。
なんだかかんだあったって、俺たちは、この日常を生きていくしかない。
どんなに、不満があったって、その不満を含めても、不満を言い合える、そんな日常は素晴らしいものに違いない。
俺は口笛を吹きながら歩く。
弓坂と俺は、早番で夕方になる前に今日は上がりの日だった。
特に、このあと予定はない。
俺も、弓坂も途中まで道が同じだからという理由で下校途中の学生みたいに駄弁りながら帰っている。
なんだか温かな気持ちだ。
なぜだろう。
隣にこいつがいるから?と思って俺は弓坂を見る。
―な、訳ないか
「なんですかー、先輩?」
弓坂は面白いものをみるようにきいてくる。
「べーつにー♪」
「先輩はー♪素直になれるようにしたほうがいいんですよ?」
「はー。お前の単純さは素晴らしいなー」
「単純さ、それ以外素晴らしいものはありません。シンプルなものが全てを含みますから」
いうようになったなーと、喜びながら俺と弓坂は歩く。
なんだかんだこういう日常を共有できる関係が一番いいような気がする。
途中、T公園の前まで来た。
Tの字になっている、この特殊な公園は、十年前、大きなマンションがたっていたらしい。
公園の入り口を通ったとき、俺はなんとなく、公園からみえる海に目をやって
「久しぶりにブランコとかしてみないか?」
と弓坂にいった。
「えー、ブランコですかー」
「だって、このあと予定ないだろ。その喜びをブランコこぐことで表そうぜ」
そういうと弓坂はブッハッハッハと笑った。
「幸せなら手を叩こ、ならぬ?」
「予定がないならブランコ、飛ばそ」
「やですー。一人でやっててくださいー」
「あ、そんなこというと予定がない時間が逃げていくぞ?」
「意味わかりませんよ」
と俺たちは言いながら、なぜかブランコに乗る。
目の前には夏空と、午後の穏やかな海が広がっている。
海風が額を通り抜けるようだった。
「うわぁ、きれい」
弓坂はブランコに座っていう。
「そうだな…」
なぜか、しっくりくるその風景に、俺は目を細める。
「きれいだ」
「あたし、この公園あんまり好きじゃなかったんですよねー。小さい頃、それこそ、小学生のときよく来てたんですけど、なんかね…この公園の幽霊の噂話、友だちからきいて、それ以来、ここに来なくなっちゃったんですよねー」
「へー、どんな話?」
「先輩、そういう話に興味あるんでしたっけ?」
弓坂からきかれて俺も意外だったが、なんとなく引けなくなって
「そりゃ、否定はせずきくだけのものは持ってますよ」
といった。
―そっかー、と弓坂は変に納得しながら
「いえ、迷信っちゃ迷信なんですけどね、なんか女の人の幽霊がこの公園に出るっていう…」
そういいながら弓坂は俺の顔色をみた。
「そうなんだ…」
俺は静かに肯定して答える。
「先輩?幽霊っていると思います?」
弓坂は、切実な顔できいてくる。
よっぽど小学生のときの噂話がトラウマだったんだろう。
俺は心のなかで静かに胸に手を当てて考える。
俺は、深く世界の底からたぐりよせるように、その答え引っ張り出す。
「…うん、いると思うよ」
そういうと弓坂は意外だ、という顔をして
「先輩…けっこう、そういうの信じれる人だったんですね」
といった。
「まあ、否定はしないというだけ。それだけなんだ…いてもいいだろ。そういう存在も。」
なぜかそういったときの俺の心は温かだった。
まるで誰かが喜んでいるところを想像しているような。
この世界のどこかに置いてきた気持ちを救いあげるような。
そんな温かな気持ちで、満たされていた。
俺は前を見る。
海は穏やかで、風は気持ちいい。
空は晴れていて、これからさらに夏が深まる予兆を感じさせている。
水平線の果てで、空と海の境界交わる。
「ふーん」
と弓坂は言いながら、弓坂のお腹はグーという音を立てる。
「あ、先輩、今のきいてました?」
「んー?きいてなかったよ。お腹の音なんて」
「いや、きいてるやないかーい!?」
アハハ、と俺たちは笑い合う。
なんだか、こんな瞬間を俺はこの場所で体験した気がする。
「お腹空いた?弓坂」
「そういえば、今日あんま食べてないかもです…」
「そっか」
「ねぇ!先輩!そういえば、駅前に新しいラーメン屋できたの知ってます?」
弓坂は目を輝かせて俺にいった。
俺はその目を見つめながら、ああ、そういうことねー、という。
弓坂はウンウンと首をふっている。
全く都合のいいやつだよ、お前は。
「一緒にいきましょう!!」
意気揚々と弓坂はブランコから飛び降りた。
ああ…はい、はい、俺の日常も捨てたもんじゃないわな…。
俺も立ち上がる。
ブランコをあとにして、俺たちは駅前のあたらしくできたラーメン屋に向かうため歩き出す。
ふと、俺は今まで乗っていたブランコの方を少し振り向いて、また踵を返して弓坂が相手いく方向に向かって、再び足を踏み出していた。



(了)

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