小説「“雪女” /アゲハ蝶の雪 」
第二章 そして雪の日、お前と出会った…
―そして雪の日、お前と出会った…。
菊太はかじかんだ手で木戸をあけた。
もう季節は年の暮れだ。
ふわりと雪混じりの北風が顔にあたる。
そして、ほのかな雪の香りがする。
家の外の庭先は一面の雪景色だった。
菊太は納屋から予備の火鉢を取るため外に出た。今日はあまりの雪のため猟は休みだ。
わらじを履いた足の半分が埋まり、冷たさが足裏から響く。
「寒…」
思わず誰もきいていないのに声を出す。
今日の夜は山菜とシシ肉の鍋にでもしよう…。…シシ肉は凍らせておいてある。そう思った菊太は、ついでに納屋にシシ肉鍋用の鍋も取りにいくことにした。鍋を小川につけて洗うにはこの寒さは嫌気を覚えさせる。
しんしんと雪が降る。あたりは昼間なのに寝静まったように静かだ。
時折、家の裏から、どさりという雪塊が落ちる重い音がする。
くぐもった雪をふむ音だけが庭先を響いていく。
―どさり。
雪が屋根から滑り落ちる音がする。
垣根の上には雪が積もっていた。
遠くを見れば他の家々も雪で埋まりそうで、空は灰色だった。
明日晴れれば早めの雪かきが必要だろう。
またこの雲行きならば近いうちにまた大雪がふる。
―どさり、とまた雪がどこかで落ちる音が聞こえる。あれは家の裏手の向かいの林のものだろう。
「きーくた!」
ふとききなれた高い声がしたので垣根のほうを見みると薄緑の着物に、すげぼうしをかぶり蓑を羽織る紗代子がいた。
この雪の白のなか着物の薄緑色が際立つ。
「ああ、紗代子。…きてたのか…」
「うん…」
―きちゃった…。
どう?うれしい?と言わんばかりの嬉しそうな顔だ。見ているこちらも嬉しくなってくるくらい無邪気だ。
「あたしの家の雪かき終わったからさ…。菊太のとこ手伝おうと思って…かあさまにいって、菊太の家…きちゃった…」
「そうか。…大丈夫か。その格好寒くないか。…来てもらってあいにくだが雪かきは明日にしようと思う。この間の猟で腕をやっちまったのと、この調子だとしばらく雪降るだろうからな…」
「えー、なにそれー。せっかく来てあげたんじゃん」
「それもそうだな…。せっかく来てもらってそれも悪いので、…どうだ。ゆっくりして夕飯でも食べていくか?今日は休みだ」
「いいの?…。もちろんだよ!」
紗代子ははしゃいでいた。
“手伝いに来たんじゃないのか?”と菊太は半ば呆れた笑いを浮かべた。
囲炉裏に火を焚いて湯を温め茶を淹れる。
菊太は紗代子の前に茶の入った湯呑を置いた。
「どうぞ」
「ありがとう…」
「あったかいうちに飲んだほうがいい」
「…そうする…」
紗代子が両手を湯呑にそえて、こくりこくりと茶をゆっくり飲む。
「んー…あったかい…」
菊太は紗代子のその様子があまりにも可愛らしかったので微笑んだ。紗代子の吐く息が少し白い。
「…よかった。もうじき火が回って温かくなるからな」
―うん、と紗代子は頷いた。そして少しため息をしていった。
「あたし、菊太の家好きだなー。小さくてこじんまりしてて…かわいくて…少し天井が低くてほのあたたかい。…。それが気分をおだやかにしてくれるの。小さなこの場所だけの、そんな居心地のいい場所」
「褒めてくれてありがとう。今日はやたら機嫌がいいな」
「そんなことないよ。ふつうだよ」
「そうか?でも小さいから、なにかと不便もあるよ。お前は変わり者だな…小さい家がいいだなんて」
「家は広さじゃなくて、その場所が落ち着けるかどうか、居心地がいいかどうかだよ」
紗代子は少し上目づかい気味の顔で菊太をみた。
「そんなものかなー」
「そんなものだよ」
「…まあ、いつも俺が押しつけてばかりなので、ここは押しつけられておこうかな」
菊太は得意気な顔を作って、紗代子にみせた。
「なにそれ。全然納得してないじゃーん」
紗代子は必死になって菊太をみていた。
口端には登らせないがそういう姿もかわいいと菊太は思っていた。
日が暮れてきたのか障子越しの外の光が暗くなっている。もうすぐ火を灯さなければならない。
ぼんやりとたそがれの温かなほの暗さが居間に満ちる。
菊太は行灯を手に取ろうと立とうとしたとき、紗代子が少し菊太にもたれかかりながら小さくいった。
「……ずっとこの場所にいてね…。菊太?」
その言葉のあとにゆっくり人の体温の温かさが伝わる。菊太は少し息を止めた。“この場所”がこの村なのか、今自分の座っている場所なのか、どこを指しているかわからないが、菊太は自分の心臓の鼓動がゆるやかに早くなるのがわかった。それが紗代子に伝わらないように息をゆっくり吸込み菊太は確かめるようにいった。
「…うん、いるよ…」
そういうには菊太には小さな勇気が必要だった。なぜこんな当たり前のことを改まって確認しなければいけないのだろう…、と半ば惚けた頭の片隅で菊太は思う。
お互いが暗に前提にしている当たり前に心が触れると心がざわつく。
いや、きっとそういうことを確かめあうのが誰かが隣にいる、という当たり前のことなのかもしれない。
―ドサッ、とまた遠くで雪が落ちる音がした。
「外、雪降ってるのかな?…すごい雪だね…」
「―うん…」
外は風が出てきているのか葉がカサカサと鳴る音がする。…。
しかし………。
―若干なにか変だ。
…………。
……?……
…菊太にとって先の音は少し変な違和感があった。
雪は通常軽いので、重量感のある音はしない。その上で、先程の音は重みを帯びたものが雪に埋まるときの音のようにきこえた。
“……?…”
菊太は山で培った勘から耳をすませる。
紗代子は相変わらずもたれかかったまま隣でゆっくり茶をすすっている。
菊太はさらに耳を研ぎ澄ませ、神経を家の外の様子を把握することに集中させる。
…きこえる…。
体の大きな生き物が息を荒く吐く音だ…。体をわずかに引きずる音、“スチャリ”と手か前足を雪につく音。
「紗代子…なにかの音が外からきこえる。…ここにいろ…」
…なにかが…外にいる…。
「え?」
菊太は羽織を拾い上げると紗代子の肩にふわりとかぶせ障子を開けた。
外はもう暗くなりはじめ、かろうじて遠くの雪の山々が連なっているのが見え、田んぼも雪で上を覆われている。
その田んぼの白が夕闇に浮き上がる。
家の前の道も白い。
家の前の門が目に入ったとき、そこに着物をまとった女が一人倒れているのが菊太の目に入った。
菊太は咄嗟に振り返って叫んだ。
「紗代子!人だ!人が家の前に倒れてる!」
「…え…」
驚く紗代子を後ろにして菊太は縁側から草履を履いて飛び出した。
「待って。菊太!?どこに?」
後から紗代子がついてくるのを気にせず、菊太は門の前に歩みよった。
そこには遠目にみえた女が倒れていた。
女が来ている着物は動きやすいもので白く、すらりとした細い体をそのうちに包んでいた。
髪は長く顔が隠れて見えないが、荒く息をしている。
「はあ…は…はあ…は、…」
菊太はその女を抱き起こした。
その体はほの温かく雪のように軽い…。
しおれたような髪が垂れて顔が見える。
まつげがほっそりと長く、その唇は少し紫がかっていた。
そして、力なく口から一筋、唾液が流れ出ている。
腕にも力がない。
「大丈夫ですか!?」
返事はない。かはりと女は咳をした。その唇から泡が流れ落ちる。
「しっかり。しっかりしてください!」
「どうしたの!?菊太?その人は?」
紗代子も後ろから追いついてきて倒れた女に目をみはる。
「わからない。外から音がしたんで出てみたら倒れてた」
紗代子は口を手で覆っていった。
「大変!」
「とりあえず紗代子は佐吉さんを呼んできてくれ」
「今日、父さま家にいないよ!?」
「じゃあ、よしのさんでいい。俺の家の前で人が倒れてたとだけ伝えてくれ」
「…!?わかった!菊太は?」
雪が降り出した。あたりはますます暗闇に沈んでいく。
菊太はもう一度女を見た。直感的にヤバい状態だ。この女が何者か分からないが、外傷はないところを見ると病か毒かで体が内側からやられているのだろう。しかも悪くなって長時間がたっているようだ。この寒さのなかずっと外にいたのだろう。脈は弱く、体は温かみを失いつつある。
時間との戦いだ。
菊太は冷静に考えた。
病人の介抱ができるのは村では神社の巫女である、あやめだ。
このまま自分以外の助けを呼ぶ時間と、神社までこの女を自分が背負って運ぶ時間では後者のほうがこの女が助かる案配の歩合は幾分高い。
「俺はこの人をあやめの所まで運んでいく」
「あやめさんのとこって村の神社まで!?けっこう距離あるよ?」
「大丈夫…」
「あたしも行く。一緒に背負う…」
菊太は顔色を変えずにいった。
「大丈夫。俺一人でいける」
「でも…」
雪が降ってくる。ふわりとした雪がゆっくり目の前を降り落ちる。
「紗代子はよしのさんに伝えてくれ。その後…もし来れたら神社にきてくれたら助かる。…でもお前にはお前の家のことがあるだろ。俺は一人身だ。時間ならなんとかできるから」
紗代子が不安そうに見つめてくる。
「大丈夫なの?無茶してるんじゃ」
「山で何回もこんなことはあったよ」
菊太は紗代子に笑いかけて、女を抱き起こし、―すみません、と小さくささやきながら持ち上げた。
菊太は歩き出す。
「これ!あたしの簑。使って…」
後ろから紗代子が簑を菊太に被せた。
「…ありがとう」
「この簑、あったかいんだからね」
「…おお。…あったかいな…」
―頼んだぞ?と菊太はまた笑った。
そして、また歩き出す。
冷たい雪が草鞋の裏から体温を奪う。冷たさが足からせりあがる。
降る雪が時折目に入り、視界を妨げる。
そのなかを菊太は一歩、…また一歩と着実に歩く。
時折女をおぶり直し、時折足を休むため立ち尽くす。
“もしこの人が、もたなくて亡くなってしなったら今のこのキツさも無意味なのかな?”という思いがたまに頭の底をかすめる。
それでも菊太は一歩一歩着実に歩く。
女の息が時折止まったように感じるとき、菊太は歩みを強める。
歩け、歩け…歩け………。…あるけ。
「もっと力を抜いて頼ってください…」
聞こえているかはわからないが、背中で息をかすかにする女に向けて菊太はいった。それは自分が女を背負っているということを自分自身に思い起こさせ自分を鼓舞する目的をもった言葉でもあった。
「きっと…もうすぐ助かりますから…」
歩け…。
“きっと大丈夫…”
歩け…。
“自分が苦しんで、この人が救われるなら”
歩け…。
“この苦労の結果に見合うものじゃねえか”
―あるけ!!…。
「もってください。もうすぐそこが神社だ」
榊原あやめは菊太の小さい頃からの幼なじみだった。
あやめは神社の一人娘で、父と二人神社の隣の家で暮らしている。父の榊原道玄は神主だ。
あやめの母はあやめが十歳のときに亡くなり、残されたその父である道玄は鋭い目をした底の知れない男で、厳しかった。
その父に育てられるなかであやめは反発することが多く、十五歳になるとすぐ勝手に家を飛び出して山を越え、街で遊郭に転がり込み働き、様々な生業をしながら一人で暮らし、七年を経てようやく村に戻り、現在は父と和解し、神主である父の手助けする巫女をしている。
女一人で村の外に飛び出しただけあって、そのなかで得た経験は豊富で、医学の知識もその出奔のなかであやめ自身が危機にさらされながら機転をきかせながら身につけた活きた知恵を知識の下地にしているものだった。
「話はよしのさんヅテに聞いているよ」
神社の神主の家にたどりついたとき、よしのさんから話を受けたあやめがすでに介抱のための準備をしてくれていた。
「…で?…そちらがあんたの家の前で倒れてたって人?」
あやめは紫の巫女袴で、湯上がりなのか少し湿気のある長い髪をたゆらせながら勝手口へ降りてきて、冷静な瞳で菊太の背中に背負われた女を見つめた。
「そうだ…。あやめ…。この人は助かるか?」
「…こっちに寝かせて。準備してあるから」
あやめは家の奥間に菊太を背負われた女を案内した。
「菊太…来たか…」
奥間に入ると道玄が寝床をしいて枕元に行灯を灯し、そのそばで座ってこちらを鋭い目で見つめてきた。
「道玄さん…ご無沙汰しております。夜分遅くにすみません」
「ここへ」
道玄は敷かれた上布団をあけた。
そこでようやく菊太は背中の女を床に降ろすことができた。
「すごい雪だったでしょう?…よくここまで運んだね」
あやめがすかさず様々な器を持って奥間に入ってくる。
「ああ…きれいな、いい雪だったよ」
「まったくあんたは昔から強がるくせがあるね。そういうとこ大したもんだと呆れるくらいだよ。…その腕、大丈夫なの?その方もその方だけど、あんたもたいがいに心配されなきゃいけない身であることを忘れずに」
「あんまり心配するな?惚れるぞ?」
「バカ」
菊太はにやりと笑った。その途端ドッと内側から疲れが出てきた。
意識がぐにゃりと歪む。
「菊太?…あんた…。あー、もう。父さん、こいつの分もこの人の横に寝床敷いてやって」
「すまねえ…」
「本当に…よくがんばったね…。菊太…」
「助かるのか…その人」
「わからないよ。…助かるも助からないも私たちが決めれることじゃない。それは、もっと大きなものの理…」
あやめは菊太に背を向けて女を見ながらいった。
「…でも、あんたがここまで運んできてくれたんでしょう。だったらここからは私が受け持つよ」
「…頼んだ」
菊太は唇を少し噛み締めていった。
道玄が布団を持ってきた。
「菊太、ここへ寝転べ」
「ありがとう…ございます」
あやめが女の瞳孔を確認しながらいった。
「父さん、これハシリドクロだよ」
「うむ……」
「ハシリドクロ?」
菊太は布団からきいた。
「別名、ユキワリソウ。今の時期は新芽で、それがフキノトウと間違われやすい。いかにも食べれそうな風体で生えている。…食べると数刻のうちに興奮状態になり、そのままもだえ死ぬ。食べた者が走り回り死ぬような様からハシリドクロと言われている。大方、この方はその毒草を食したのだと考えられる」
道玄が説明してくれた。
「そうなんですか…」
「しかし、そうだとすれば症状から見れば、食べてからかなりの時間が経っており、すでに体に毒が深く根づいた状態だろうな」
「あやめ…」
菊太は急に不安になり懸命に処置をするあやめに声をかけた。
「大丈夫なんだよな…その人…」
あやめの背がいきなり頼りないものに見える。
「…わからないよ…」
あやめは皿のなかの様々な薬草を調合させながら、小さくいった。
「でも…。この人がどんな人か知らないけどさ。女一人でこの雪のなかを歩いてたんでしょ…。私も昔、いろんな危険な目にはあったことはあるんだあ…。同じ…。気持ちはわかるんだよね」
そういったあと続けざまに、―父さん、薬庫からカキシブをとってきて、あと牛黄、龍脳、…蔵から公益秘事大全!といった。
道玄は顔色を変えず
「あい分かった」
と一言いって席を立った。
「助かるか助からないか神さま次第。それでも人は最後、神様に祈ることができる。…助けを求める声をあげられる。苦しみのなかからでた叫びも祈りだよ。そして、人の祈りの手助けして、人のそばで一緒に神頼みをするのが巫女の役目」
「あやめ…」
菊太は布団から背を起き上がらせた。
「俺も一緒だ」
「できればこの人の手を握ってあげて…。たったそれだけが人の命を分かつかどうかに関わったりするものだから。私はこの人の体のなかに巣食う毒をできる限り薄めて掬いだす処置をしてる」
「わかった」
菊太は手を握るため女の布団に近づいた。
そのとき菊太は改めて女の顔をゆっくりみつめる機会を得た。
全体的に荒く息をしているが、その女の顔はいつか深い山奥の高原でみた湖の水面を思わせるような静かな顔に見えた。
髪は垂髪だ。
鼻筋は均質で整っている。
まつげが反り返り、そのまぶたの底には感情を言葉にしないような静かなたおやかさがたゆたっているようにみえた。
唇の血色は悪いが、本来であれば膨らみのいい、艷のある大人の唇だろう。
時折、薄くしなるように額を線取る眉が歪む。
そのほのかに白い額には汗が浮き出ている。
首筋は細く、肩は美しく均整が取れている。
胸は柔らかなふくらみを帯びて、そのなかに秘めるなにかを包み豊かに丸みを保っている。
菊太はなにも考えずただ、―きれいな人だ、と思った。
…しかし同時に、菊太の胸の奥底には理由の知れない、どこか不穏で歪な一線の感情が一瞬走ったのも事実だった。
菊太は戸惑いながらも、おもむろにその女の手をとった。
女の手のひらは乾燥して乾いている。
その皮膚の下に確かに血がまだ流れている感覚が温かみと共に伝わる。
生きてるんだ…。
菊太はその手を柔らかく強く握った。
そのとき女の手が反射的な動きで、わずかに弱々しく軽く、それを握り返した…。
あやめと、この人を信じるしかない…。どうしようもなくいたたまれない…。
紙のろうとを作ったあやめが女の唇伝いに調合した薬を流し込む。
道玄が手に茶色い根をいくつか持って奥間に入ってきた。
「あやめ、取ってきたぞ」
「ありがと。そこのお皿の上、置いといて」
あやめが薬研で薬草をすりつぶしながら答える。
女の顔色は先程よりじゃっかん赤みが戻っているように見えた。
………。
この女がどのような過程を経て、あの場所に倒れていたかわからない。
見覚えのない顔である上に、村に最近転居してきた者があることもきいていない。
だとすると、なにかの事情で家に帰れず遠い場所からさ迷い歩いてきたのかもしれない。
この女の背景になにかしらよからぬ事情があることは察せられる。それがさらに菊太の心配を誘った。
「なぜこの方が倒れていたのか考えていたのか?」
後ろから道玄の声がしてハタ、と菊太は振り向いた。
道玄は鋭い目で女を捉える。
「…ええ。まあ…」
「……」
道玄はしばらく黙っていたがやがて口を開いた。
「菊太…少しいいか?」
「はい?なんですか」
「ここではなんだ。廊下で話す。あやめ、菊太と少しここを外すぞ」
「わかった。でも、菊太…大丈夫なの?」
「ああ…」
道玄は菊太を家の外に面した廊下に連れ出した。
薄暗い廊下から見える外はまだじゃっかん、小ぶりでふわふわした雪がほつりほつりと降っていた。
「率直に言おう。あの方は助かる」
「…え…ほ、本当ですか!?」
道玄は物事を鋭く捉えるところがあり、だいたい道玄の言うことは当たる。今回も道玄のお墨付きが出たということは、かなり希望の持てる話だろう。
「よかった。…よかった。…ありがとうございます」
「―だが」
道玄はそこで厳しく鋭い顔になった。
「この場所に長くはいさせることはできない…。今日中にでも引き取ってもらわなければならない」
「なんで…」
「神社は村の者を見ることはできるが、素性の知れない女を神社に置いておくことは役人たちが黙っていない。…また今こちらは村方の役人たちと確執があってな。あやつらに睨まれるのは避けねばならないのだ」
「…そんな…」
「今、あやめが彼女の処置をしている。できる限り処置をして大丈夫だとなったら神社から素早く立ち退いてもらうしかない」
「でも、あの人、頼る場所があるかどうかも分からないじゃないですか」
「………」
道玄は黙って菊太を見つめた。
菊太は声を噛み締めた。
―あんたは昔からそうだった。あんたは…あやめの母さんが死んだときも…。
あやめの、あのときの泣き顔を思い出す。
「どうしても…ダメなんですよね」
「…ああ」
―わかれ、菊太。とその鋭い目の奥から語られているようだった。
菊太は唇を噛み締めて言葉をにじりだした。
「…わかりました。どうしても、ダメなんですね」
「…………。」
「俺の家で、俺一人で、一旦あの人を預かることにします」
「あの女はおそらくただの女ではないぞ?…あの女からは獣のにおいがする…。もしかすれば」
「もしかすればもないですよ」
道玄は驚いたように菊太を見たが、すぐに鋭い視線に変わった。その目からは静かな怒りを感じた。
「…無礼したならすみません。でもあの人を俺は、ほっておけないんです。人ってその程度の生き物じゃないですか。それ以上のなにものでもない。そんなことして危険に身をさらしてもしかしたらどうにかなってしまうかもしれない。でもそんな程度の…そんな程度の、程度の低い愚かしい生き物じゃないですか」
村で様々なことがあった、あの時に俺の隣にあやめがいたように、今隣にいるあの人がどんな人であろうと、もう見捨てることはしたくない。
道玄は口を固く結んで鋭く菊太を見ていたがやがて口を開いた。
「その心根が良く真っ直ぐなところは悪くない。お前は昔からそうだったな。変わらないことは良いことだ。だが、その真っ直ぐさには責任が伴うことも事実だ。なにかあったときのお前一人の責任よりも、わしら村全体への責任はより重い。それを理解しておくことだ。人一人を見捨てんがために多くの他人を危険にさらすかもしれない選択をする必要や義理はどこにもない。それは多くの他人への迷惑の押し売りしていることを自覚しておいてくれ」
「………」
「誰かが隣で生きているということはそういうことだ…」
道玄がいっていることも菊太には痛いほどよくわかった。素性も知れない女を家におくというのはもしかすれば危険な場合もある。ことに家には紗代子などもたまに来る。なにかあった、となれば後悔することになるだろう。
「すみません。道玄さん。少し冷静になりました」
「本当にあの女のことをお前の家でみるのか?」
………。だとしても、答えは変わらない。
「はい。俺が責任を持ちます。なにかあれば俺が責任を負います。だからどうか引き取らせてください」
道玄は目を細め、口を真一文字に結んでからいった。
「あいわかった。できる限りの処置をあやめにとらせよう。お前の家へは弥助にあとで運ばせることにする」
「いいえ、自分で背負って帰ります」
「お前…」
「俺に、あの人を背負わせてください。これは俺の判断だ。負担をできる限り誰かにかけるのは避けたいです」
道玄は少し考えこんだ。
「無理をするのは違うぞ?」
「無理ならそのときは助けてくれっていいます。でも、できる限り今は俺だけでなんとかしようと思います」
それがあの女が村に軋轢を生まない小さな一歩だと思う。あの女がこの村に留まるにせよ、体が回復すればどこかに行くにせよ、そうしておいた方がどっちみち村とのかかわり合いの上では後々いいはずだ、と菊太は判断した。
道玄は頭をかきながら応えた。
「はたから見ていると不安になる無理だぞ」
やはり、この人にもあやめに似た血が流れているらしい…。菊太は道玄の顔を見ながら思った。
「俺からしたら昔そんな無茶しなくちゃやってけなかった過去がある。村が俺にそうさせた。だとしたら、それを責めたりしない代わりに今の俺の心根を察して、少しは汲んでくださいよ…」
道玄は困ったように上目になりやがて力なくいった。
「僻んだ言い方だな。それは少し違うと思うが…。今のお前になにか言ったところで変わりあるまい。ひたむきに走る野馬のようなものだからなあ。…明け方までにはあの女の養生も一旦一区切りつくだろう。しかし、無茶がたたりそうになったらすぐにここに戻ってこい…。神社としては神前に使える者が死者を出すことはできんのでな」
―わかりました。
座敷に戻ると、女は力なく目をつぶったままぐったり仰向けに寝ていた。その姿は出産したあとの妊婦のようだった。あやめがその隣で女の額の汗を拭ってやっている。あやめの顔が小さな安堵を伝えている。どうやら山場は去ったようだった。
「…、戻ったの。菊太」
「…おお」
菊太は―ありがと、と小さく口にした。
「毒は発汗作用のある煎薬をかなり飲ませて汗にして出させた。今お水飲ませて、かなり薄まってるはずだけど油断禁物だよ」
「すまない。俺がいない間に」
「いいよ。お父さんから込み入った話でしょ。大方想像はつくけどさ…。で、どうだったの」
「その者は今日中に菊太の家に運ばせる」
菊太が口を開こうとしたとき道玄が後ろから現れた。
「……まだこの人弱ってるんだよ?……」
「だが処置は充分なはずだ。縁のない身に対する義理の範疇で我々は最善を尽くした。あとはもう処置をする義理立てはない」
「そんな言い方…」
あやめが道玄に噛みつこうとしたとき、菊太は口を開いた。
「俺がその人を連れて帰るよ。あやめ」
あやめは菊太をみた。
「連れて帰るって、こんな真夜中だよ」
「ああ、いいんだ。道玄さんにはもう迷惑かけられない。もともと俺の家の前で倒れてた人だ。あとは俺が面倒をみる」
「雪はもう止んでいるな…」
道玄が縁側の方に目をやりいった。
「でも菊太。そんなの菊太が大変じゃんか。父さんもなんで…」
「俺が決めたんだ。俺の家でしばらくこの人が元気になるまで預かるって」
「無茶だよ」
「お前だってこの人を助けるために無茶をしただろう」
―あやめの今の、その表情の底に沈む疲れがそれを物語っている。
「あとは俺に任せてくれ…」
菊太は静かにいった。
あやめは声音を抑えながらいった。
「父さん…。この人は確かに身寄りもなくて身元も素性もわかんない。それは事実だよ…。でもこの人と一緒に今さっきまで毒をなんとかしようと奮発してて思うんだ…。この人は悪い人じゃないよ。だいたい毒にあたって苦しむって私達と同じ苦しみを抱える人間じゃんか…。なんで父さんはそうやって…」
「思いやりがあるな…。だが思いやりが常にいいことだということはない。それは奢りでもある。自分が誰かを助けたと思うのは助けた者にとっても傲慢だ。我々は現実に対して常に無力だ」
「はあ!?なにそれ」
「あやめ」
あやめと道玄の口論になる前に菊太が割ってはいった。
「この人をおぶえる道具を貸してくれないか。今から連れて帰る」
「今日は泊まっていきなよ。また雪降るかもしれないじゃん」
「だからだよ。…雪は止んでるから」
はあ、とあやめは深いため息をついた。
「その返しは、あたしがあんたの立場でも思い浮かばなかっただろうね」
「心配かけてすまない…。今日は謝ってばっかだな…。」
「謝るなら自分の体に謝って。あんたの体はあんたのもののように見えてもみんなとつながってるものなんだから。あんたの魂がこの世に唯一接点もってるのはあんたの体のおかげであることを―」
お忘れなく…とあやめはまたさらにため息をつくようにつけ足した。
もう諦めているのだろう。
「ただあたしはこの人のことが心配だね。少しでも異変を感じたらすぐ引き返すことだよ」
「わかった…」
「用意する」
とあやめは立ち上がった。その際にあやめは道玄をみて
「父さんの性分も昔から変わってないね。…歳なんだから少しは柔らかくなってもいいのに」
と毒づいた。
神社の鳥居まであやめが送ってくれた。そして、神社の鳥居にたどりつく頃には雪は止んで空の雲が徐々に薄れてきていた。
「だんだん晴れに向かってるな」
菊太は女を背負うと空を見上げていった。
「冬の天気は変わりやすいんだ。今晴れてるからって気をつけて。それと今背負ってるその人の体調もね」
菊太は頷いた。
あやめが貸してくれた人を背負うためのセオイコは丈夫に出来ており、神社の階段を降りるときも背中の揺れは少なく作りはしっかりしていた。これなら途中で女が揺れたりすることでの背中の安定を気にすることは少なくてすみそうだ。
「今日はありがとう。あやめ。いろいろと」
菊太があやめをみると、あやめは視線をそらせ、その長い黒髪を少しくしゃりと触って気恥ずかしそうに
「いや…まあ、当たり前のことをやっただけだよ」
といった。
菊太は内心こういうかわいいところはあるよな、と思いつつ神社に背をむけた。
「―あたしも」
後ろからあやめの声がきこえる。
「折みてまた様子見に行くから」
「…おう…」
菊太は振り返らず返事だけして再び歩きだした。
ぎゅっ、ぎゅっと自分が雪を踏む音と、風で梢がなる音、時折雪が枝から落ちる音以外は静かで聞こえない。
冬の林は眠るように静かだ。
暖かいときには林を蠢いている命のざわめきが動きを止め極限まで静まっているように感じる。
この雪の世界で目的をもって活発に動いているのは自分自身くらいのものだろう…。
そう思うと菊太は急に背中の女のことが不安になり、背中の気配に神経をやる。
幸い、女の微かなすー、すーという深い呼吸が聞こえてきて菊太は安心して歩調をまた進めることができる。
菊太はふと自分がこの女を背負っていることはなんの因果なんだろうと思う。
ふとした拍子に縁というのはやってくるものだ。たとえそれを自分が拒んでいたとしても…。
“縁も因果も俺なんかみたいなのが考えたってわからねえ…。ただそれはどこぞの遠くからやってきて、いつも気づけばすぐそばにあるもんだ”
道を半分まで折り返したところで夜空の雲が晴れた。
満月が雲間から顔をだす。
それは雪のような優しい明かりがふわりと降ってくるようだった。
「そっか。今日満月だったんだな…」
気づかなかった。
菊太は立ち止まる。
吐いたときの白い息が目の前をかすめていく。
ジンジンと冷たさが足から上がってきたが、しばらく休息もかねて、菊太は夜空を見上げた。
夜空を埋める星の位置がだいぶ明け方の位置へ傾いている。
背中ではまだすー、すーという息の音がきこえる。
星に囲われた空と時折雲がかかる月の下、菊太は再びゆっくり歩きだした。
―背中の温かみはなくならない。
家の戸の前までついた。
平衡を保ちながら木戸をゆっくりあけ、なかにはいる。心なし体にあたる風がとまり、少しの温かみを感じた。
菊太は布団を敷いて女を優しく寝かせた。
さきほどより顔の血色が良くなった気がする。
囲炉裏の火を起こし、居間を温め竈で煮汁を炊いた。「精のつくもののほうがいいんだろうがなあ」
ありあわせの干した野菜と粟稗で粥を作る。
そういえば何事もなければ紗代子と今日はぼたん鍋を食べるつもりだったのだ。
もう紗代子は寝ただろうか…。繊細なあいつのことだから寝られなかったら心配だな、と菊太は思い、そう思った自分を、なんでそこまで心配するんだ。俺は家族か、とたしなめた。
家族…か。
家族とはなんだろう。
同じ家の下で、お互い知り合うまで時を共にして暮らせば、それは家族なのだろうか。
紗代子とはかなり長い間一緒に過ごしてきた気もするし、過ごした時間が短く感じるくらいそこまで一緒だったとは思えないようにも思える。
女の布団の近くまでいくと、女は目をあけていた。目が充血して少し赤い。
「…ん」
菊太は思わず声を出していた。
「起きたのか」
女は菊太と目があうと、なぜか顔を横に向け見えないようにした。
「大丈夫だ。なにもしない…」
菊太は女が不安がっているのかもしれないと考え、できる限り平素にいった。
―まだ、しゃべれる気力はないかもしれないな…。
菊太はなにも言わず、女の枕元に煮汁と粥を置いた。「寝たきゃねてればいい…。一応稗粥と煮汁を作った。精がわいてきた、と思えば食べればいい。そんで今晩はここで眠てればいい」
菊太は一人ごとをいうように横を向いている女に向かっていった。
「俺、この家にひとりだから…。もしあんたが不安なら俺隣の襖隔てた座敷で寝るよ」
女からなにも返事はない。
困ったな…、と思いながら菊太は女が安心しなくては体の回復に差し障りがあるかもしれないと思い、隣の座敷で寝ることにした。
菊太自身、誰かが家にいるということに慣れていないのもある。菊太にとって夜は一人の方がよく、見ず知らずの家で目を覚ました今のこの女にとってもそうだろうと思った。
「―じゃあ…ねる。なんかあったら隣にいるから襖を叩いてくれ。もっとも…。もし歩けるくらいになったら、俺が寝てても勝手に出ておってもらってもかまわない。そんときは気をつけて帰ってくれよ。お前を助けたやつには俺から礼を言っとく」
そう言い置いて菊太は襖をしめた。
察するに女はかなり動揺しているのだろう…。
今は話せる状況でもないのかもしれない。明日の朝目が覚めたとき、女がいるならいるで、しばらく様子をみよう。
「気をつかうな」
そう一人つぶやくと疲れがどっと体を襲った。
倒れるように敷布団の上に重なる。
倒れると自分の心臓がドクドクと脈打っているのがわかる…。
まぶたが重い。
すーっと意識が眠りの海に音も立てず沈んでいくようだった。
そして、
―夢をみた。
「菊太…」
菊太は母の膝の上に寝転んでいる。体がふわふわとした感じがある。菊太は小さい頃、母の膝の上が好きだった。その母が菊太を見下ろして菊太の目をみつめている。
体がふわふわする。不安定に感じる。
ともすれば自分の体が母から離れて飛んでいってしまいそうな錯覚を覚え、母の膝の上なのにいくばくの不安を菊太は抱いていた。
「菊太はもう寝なさい」
母が手で頭をなでてくれる。なでてくれているがその感触がしない。
でも菊太は母がなでてくれているということに嬉しさを感じた。
寝たくなかった。いつまで続くかわからないこの状況をしっかり味わっていたかった。
だって―おっかあは…。
そう思って、ふと気づくと次の瞬間、暗闇のなかを菊太は飛ぶように浮かんでいた。
自分の周りを闇が流れているのをかんじる。
自分が闇のなかをある方向へ飛んでいるのか、周りの闇の景色が自分を中心に動いて流れているのかわからない。
菊太は体の不安定さをはっきり感じたが、なぜかそれは心の安心を伴うものだった。
「そうだ…そうだよ…」
これが…現実の手触りだ。
闇と闇をみつめる自分しかいない。
いや、その闇をみていると思い込んでいる確固たる自分でさえ実は幻ではないかと思う。
自分が生きている場所以外は本当は真っ暗闇だ。その闇のなかでもがくもの、―「人」。もがいてもがいてそうやって力尽きて、いつか人の生は終わる。
そんなことを考えていると、うっすら意識が遠のいてやがて目が覚めた。
相変わらず朝の座敷は静かで、時折鳥の声がきこえる。ふと見ると畳の上に小さな虫が死んでいるのが菊太の目に入った。
冷たい畳の上にモノと化した小さな屍が力尽きて小さな宝珠のように光って転がっている。
自分もこの虫となんの違いがあるだろう…。菊太は虫を見つめながら寝起きの頭でぼんやりそんなことを思った。
この混沌とした世界で、虫は虫なりに人は人なりに手探りでもがきながら生きるしかない。
そう思うと急にはた、と隣の部屋にいる女のことが気になり、襖を開けた。
「すまない。開けるぞ」
すっと開いた襖の目線の先には女が布団から上半身を起こしてぼーっとしていた。
「起きてたのか」
女はなにか緊張した面持ちで、一点を見つめていたが、やがてこちらに目をやった。
はじめて菊太が女と目があった瞬間だった。
唇はほっそりと落ち着いている。
なで肩だが、どこかに力を秘めるような華奢で力強い肩だ。
すらりとした上半身に、少しぱさりとして乱れた黒髪が束なり、顔立ちははっきりとしている。
静かさを縦にしたような鼻立ち。大きく瞳の黒々した一重の目。
ふくよかな胸。背筋のほっそりしたしなやかな体…。
菊太は、はじめて心のどこかでどきりとした。
そういえば、落ち着いてまじまじと目の前にいる女が起きている姿を見たのははじめてだった。目の前の女がしっかり生きていることを現実味をもってかんじる。
「こ、こういう改まったのは、は、はじめて、だな。俺は…菊太だ。あんんたが昨日の夜うちの外で倒れてて、それで」
―それで、なんなのだろう。
なれない状況で菊太が言葉を探していると、女はふと視線を落とした。
…?…。
どう声をかければいいのか自分でもわからない。
しばらく二人の間で変な沈黙が続いた。
女は少し遅れて後ろから空になった器をさしだした。
「食べれたのか…よかった」
菊太はそれを受け取る。
女は菊太の目を見つめた。
…もしかして、…しゃべれないのか?
菊太は膝をついて女の前に座った。
「大丈夫か?」
相変わらず女は菊太を見つめている。
その目の色が変わらない。その目はまるで…。
「大丈夫だったら、ききたいことがあるんだ」
女は相変わらず菊太をみている。
「名前はなんていうんだ?なんでうちの前にいた?」
ほかにもききたいことは山程あるが、ここは少しずつのほうがいいだろう。村の者にこの女について聞かれても、ある程度のことを答えれるようになっておかなければならない。いや、もしかしたらそれ以前になにか突発的なことが原因になり、この女は今しゃべれないかもしれない。
案の定、女は少し耳をそばだてたように見えたが、しばらくじっと内省するように黙ったあと、体を横にして布団にこもった。
“これは…たぶん、大丈夫じゃ、ないってことだよな…”
女は再び目を閉じてゆったりと布団に横になった。
これでは自分が邪魔をして起こしてしまったみたいな形になったな、と菊太は思った。
見ず知らずの他人が家のなかにいるというのは気を使うものだ。
もっとも、なんというか、今の反応である程度わかったことがある。この女のもつ雰囲気は少し「奇妙」ということだ。
なんというか、全体的に少し変だ。
―あの女からは獣のにおいがする…。
ふと道玄が昨晩言っていた言葉が菊太の頭をよぎった。たしかにあのとき動揺して一番自分が周りの状況をしっかり見ていなかったかもしれない。感情的になり目の前の状況を見失いつつあった自分の横で道玄はすべてを冷静に俯瞰しながら観察していた。
あのときの道玄に対して菊太は憤りを感じていたが、その実は自分が一番足りていない立場から物事を見ていたのではなかったか?
そう思うと、菊太は途端に自分の立ち位置が不安に揺らぐのを感じた。
―俺はこの素性のわからない女の面倒を見きれるのか?この小さな家でどうやって?いつまで?
途端に自分が今やっていることへの確信が持てなくなってくる。
やめておいたほうがいいのか?覚悟を決めるべきなのか?
わからない。
「名前は…ゆな…」
ふいに女がしゃべった。
「え?」
「あたしの名前…」
「あ、ああ」
お前、しゃべれたのか?などとはきけなかった。
―ゆな、とまた小さく女はなにかをたしかめるようにいった。
「ゆな、ていうのか」
女はなにも答えなかった。
「そうか。ゆな、か。ゆな…ゆな…。ゆな…今日はよく寝ろ…。で、また起きてたらいろいろ教えてくれ」
―お前のこと。
女はやはりなにも答えなかった。だが、不思議と女のまとっている雰囲気からは悪いものは感じなかった。
菊太は襖を閉めた。
腹の底から不安がわきあがってくるのを感じた。
明日、いや明後日…それ以降も…俺の暮らしは大丈夫なのか?
しかし…。
そういっても、深く気にしてもいられない。
人の心配など他所に日々は進んでいく。
菊太は顔を少しあげて小さく
「…。これは、これから毎日生きる張り合いができたってことだ」
とつぶやいた。張り合いって、こんなものだったか?と自嘲しつつ、そんなことを咄嗟に考えているような自分が少し新鮮でおもしろかった。
菊太は、ゆな名のる女を家に置くことに決めた。
家の外では、カッコウが静かに鳴いていた。
雪で覆われた地面に“キョウ―、”と鹿のさびしげな声が響く。
菊太はゆっくりと自分が林のなかに仕掛けた罠の方へ歩いていた。
“キョウ―”
また鹿の声がこだまする。何度もききなれたその声だが、菊太にとってはじめて“それ”を行った日から心の底にその声への鈍い響きの跳ね返りがあるのは変わらない。
菊太は太い幹枝を雪の上に引きずりながら黙って歩く。
できるかぎり息を殺す。
菊太は林のなかを歩いていた。
昨日、鹿を捕るための罠を仕掛けたからだ。
やがて菊太は罠を仕掛けた一本の木の下にたどり着いた。
その根元では鹿が脚に紐をひっかけて、横たわって時折もがいていた。鹿は菊太の存在に気づくとなお一層あばれた。
この状況で自分がどうなるか、獣の方もわかっている。
菊太は鹿の目に混乱をみてとる。
鹿は跳ねようともがいて、そのまま紐に引っ張られて倒れを繰り返しながら、上を向いてあがき、時折菊太をみつめて、しばらくしてまたとびはねる。
菊太は鹿の前でとまった。
じっとして鹿が落ち着くのを待つ。
冷たい風が少し強く吹いてきた。
頬に冷たい風があたる。
つめたい。
しばらくすると、鹿もじっとしだした。
じっとりとした時間がすぎる。
菊太は、このとき久遠に向う命の時間をみてとる。
鹿は菊太をみつめる…。
菊太は―。
バキっという音が一つする。
ガクンと菊太の手に柔らかい反響が伝わってくる。
“コウ!…”
と鹿が一声鳴いた。
間髪入れずに菊太はもう一度幹枝を重みにまかせて自然な軌跡で振り落とす。
憐れみを抱くからこそ、そうする。無心になる。
自分がやっていることを確かめるように何度も、何度も幹枝を振り落とす。
鹿は片足をピンとあげ、やがて動かなくなる。
しばらく林のなかに沈黙が降りてくる。
さっきまでのあのいきいきとした声を埋めてしまっていくような、静けさが林に戻る。
菊太は鹿をみつめた。
その瞳のなかに動かない空をうつす鹿の瞳は純で、まるでそうなることが当たり前であるかのように優しかった。
手をあわせる。
交わす言葉はない。言葉をかけるというのは軽々しい。
“ごめんな”そういう言葉すらこの儀式の前には軽々しくて、安易に形にしたくはない。
菊太はこの時間を、じっと自分の鼓動をきく時間にする。
菊太は縄を取り出すと鹿の脚に巻き付けた。
雪の上には花弁のような鹿の血が散っていた。
家の表は静まりかえっていた。
木戸をあける。
居間が目に入る。
その奥は襖が開け放たれた座敷がある。
そこにいるゆなと目が合う。
ゆなは柱に頭を持たれかけて明かりのもれる障子の方を力強くなく見つめていた。
「……おお…誰かきたか?…」
ゆなはこちらをちらりと見たがすぐ視線を戻した。
「…そうか…。誰も来なかったか」
この女が来てから家に猫がいるような感覚だ。
ゆなは、こちらから聞かなくては答えることがほぼなく、また答えることも稀だ。
そして、いつも現に足がついていないかのように、どことなく、ぼーっとしている。
風呂も入っている形跡がない。もとより、菊太の家には風呂がない。菊太の家に限ったことではなく村では家に風呂があるのは、各庄屋の家くらいだった。だから家に風呂のない者はみ最寄りの庄屋の家に時間帯をずらして風呂を借りにいく。
ゆなは菊太の知る限り一度も家から出たことがなかった。もっとも家から勝手に出てフラフラされても困るのだが…。
たまに帰ってきたとき、ゆなの髪が湿気ているときがある。
おそらく、家の裏手の小川で菊太のいないときに水浴びをしているのだろう。
家から出るのはそれくらいで、あとはゆなはずっと居間か、納戸の隅で身を包むように座っている。
ゆなの肌は白いので、午前中でもほの暗い家のなかではそこだけほのかにぼぉぅ、と光っているように見えた。
「あれは幽霊か、白い影だ」
そう菊太は佐吉にしょばらく前に語ったことがあった。
「まあ、幽霊も白い影みたいなものだからな」
「いや、佐吉さん。そうじゃないんだ。…もし、そうだとしても、あいつは、坊主の読経や朝日を浴びせれば成仏したり消えたりするもんじゃない。そこが厄介なんだ」
「また厄介なのに恵まれちまったな。お前も」
どこか他人事のように軽くすましている佐吉を横に菊太はいった。
「佐吉さんは他人事だからだよ。あんなのが家にいたら…そりゃ…」
「そうはいっても、俺だって、四人で一つの家に住んでる。一つ屋根の下に人間四人が居合わせるとなると、相当なもんだぞ。絶えず気がかりになることの連続だ。女房や子供ってんでもしょせんは他人よ。血や世帯はつながってるかもしれねぇが、心のうちは別々。そんなところまでは流石に、なんのつながりも道理もない。そういうなかでうまーくやってくしかない。俺だってそのうまーくが未だにわかんねぇよ。…たぶん、人と人が一緒に暮らすってのはそういうことだ」
「またうちの旦那の御高説きいてあげてるのかい。菊太。まったく酒の勢いでしか大層なこといわないんだよ。この人は。だから村の寄合でも借りてきた猫みたいになって急に家に帰ってきて亭主になりだすんだよ。あんたの気ままにできる範囲は家のなかだけだから家の外で自由きままにして堂々としてる猫を見習いな」
よしのが奥から顔出して佐吉を茶化す。
「……へ、だったら、じゃあ俺は犬になって出世してお上のお膝のうえでちやほやされてみたいもんだぜ」
「この口ゃ、まったくなにいってんのか。例えあんたが犬猫になったとしても、あんたに足りないのは犬猫にあるような愛くるしさだよ」
そうよしのから言われると佐吉は「…へ、へへー…」とわざとらしく、愛くるしそうに小さくいった。
どうやら佐吉も大変なようだ。
「誰かが隣にいるっていうのは楽しそうなもんだな。佐吉さん」
ぐいと菊太は猪口の濁り酒を飲み干す。
「あー?こんなのが楽しいわけねぇだろう」
と佐吉は朗らかに笑いながら返す。
やっぱりなんだかんだ楽しいんじゃねぇか、と菊太はほっそり思って、少し心細く寂しくなる。
「だがなあ、菊太。そんなことより、お前の家にいるあの娘。村の他のやつがいろいろ言い出すと厄介なことになるぞ。あの娘だけじゃねぇ。俺の耳にもいくつかお前のことで、よからぬ類いの話‘は入ってきてる。村にはよくわからねえ輩がいることを快く思ってないやつらもいるのは事実だ。それにあの娘、器量はいい方だろ。そしてお前…」
といいかけて佐吉は話を止め、少し力のない穏やかな顔になり、半ば諦めたような顔でいった。
たしかにゆなは言葉も発さず背景もわからず謎めいてはいるが、その謎をおおい包むかのような美形な鼻筋の顔と、静まった、世を見放したような高山の花に似た雰囲気を持っていた。
「とにかく他人に注意して考えて動くことだ。人のつながりがあるところでは上手く結び目を手繰って考えることよ」
「佐吉さん、そんな表面を撫でるようなこと言われても役立たねえよ…」
「そういう表面のことから人は足元救われるもんだろ。お前もひとかどに猟やってたらわかるじゃねぇか」
「まあ、せいぜい気をつけるよ」
少し前に佐吉の家で夕飯を呼ばれたときに佐吉と話したことを思い返しながら、菊太は釜に使う水を小川で汲んだ。
そういや、佐吉さん、そんなこと言ってたなー。
家に入り、水を鍋に流し込む。
薪に火をつけて、行灯にもあかりを灯す。
柴の籠ったふわりとしたにおいが辺りに立ち込める。
「ゆな。火みててくれるか?」
菊太はゆなに向かっていった。
ゆなはうなずいた。
「俺、浅見さんのところへいってくる」
ゆなは菊太を見つめたままなにもいわなかった。
外に出る。
風を受ける。
冬がもうすぐ終わるとはいえ、夜の外の寒さはまだ根深く残る。
透き通るような空気だ。
空には星の海がまたがっていた。
目の前の田んぼが闇の中で黒い段々として見え、山は深い墨汁の塊のように視界の遠景に横たわっている。
手持ち提灯の油は少なくなっているのかどこか弱々しい。
油を足してくればよかったな、と思うも今から家に戻るのもめんどくさい。
紗代子の家くらいまでは持つだろう。
着いたら油を少し別けてもらおう。
少し歩くと小高い丘になっている場所に出る。
そこから住んでいる村が一望でき、菊太はそこから見る様々な季節の照り返しを受けた村の姿をみるのが好きだった。
菊太はふと立ち止まって、丘の上にたって点々と明かりがつく点の集まりのような村をしばらく見つめた。
こうしてみると闇にのまれそうなその明かりの集まりが頼りなくも、どこか頼もしくみえ、自分もそのまた明かりの一点を作っていることを自覚する。俺はそのなかの一人の人なんだろうな、と菊太はそう思った。
…―当たり前のことだ。
ふとそんなこと考えた自分が滑稽で、そんな自分にくすりとしてしまった。
この今にも闇にのまれて消えてしまいそうな点の集まりを俺たちは仮に「ヒト(人)」と呼んでいる。
「あ、菊太じゃん。こんなとこでどうしたの?」
声のした方を見ると赤い着物を着た紗代子が提灯をもって立っていた。
「お、紗代子じゃんか。ちょうどお前んちに行こうと思ってたんだ。お前の方こそ、こんなとこでどうしたんだ」
「家で母さまがおこわ炊いたんだけど、余っちゃって。お稲荷さんに上げてきなさいって言われて。それで…ついでだから、菊太のうちにも寄ってこうかなって…」
みるとたしかに笹の包みが腕にくるまれている。
「そっか。この辺に狐の穴があるのか」
「うん、そこの林を少し入ったところ」
「あの暗いなかを一人で進むのか」
「ううん、一人じゃないよ。動物さんたちもいるから平気」
「なんだそれ。余計、心配になったわ」
相変わらず危なっかしいやつだ。この世に危険なモノなどないとでも思っているのか。
「慣れたら、そんなでもないよ」
「こういうときに心配しなきゃいつ心配するんだよ」
ふふっと二人で笑いあう。
「最近どう?」
紗代子が少し間を置いてきいてきた。
「どうって?」
「んー。いろいろあるじゃん。大変とか、大変じゃないとか」
「じゃあ、大変じゃない」
「…大変なんだね」
「なんだ。ソレ」
と菊太は思わず笑う。
「だって菊太は強がるときの顔は固いんだもん。いつも近くで見てれば…わかるよ」
「そんな顔してたのか。俺」
そういうと菊太は紗代子の前で、ふざけて目一杯顔を崩してやった。
「顔崩れても男前じゃん」
「ここは冗談をいうところだぞ…」
「じゃあ、いまの冗談」
ニコッと紗代子が人懐っこく笑う。
あまりにもその笑顔がふい撃ちで、菊太は思わず顔を上向けた。
相変わらずなんの感情もないような透き通ったきれいな星空が眼に入った。
「…こんなとき、……こんな星空みたいに静かに笑えればいいんだろうけどな」
「ん?なんかいった?」
「…いいやなんでも」
「ふーん」
と紗代子は静かにいった。
そこでしんみりした時間が流れた。
「最近、風が穏やかだよね」
「そうだな。もうすぐ春だ」
「桜、もうすぐ咲くかな?」
「ああ、咲くよ。もう山の方の桜の芽は膨らんでる」
「今年も、一緒に…みんなで…お花見できるといいね」
紗代子が指を組んで腕を伸ばしながらいった。
「ああ…」
「…菊太の家にいる…あの人どんな感じなの?」
臆病で心配性の紗代子らしい言い回しだ。
「うーん、変なやつだよ」
「そうなんだ」
「気になるか?」
「まあ、多少はね。あの雪の日やっぱり関わったからっていうか」
「そんな気にする必要はないぞ」
菊太は目を遠くに流しながらいった。
「気にするとかじゃないよ」
―ただ、菊太が…。
とすごんだように紗代子が小声でいった。
「俺?俺か?俺はー…」
と菊太がしゃべりかけたとき、ふわりと菊太の体周りが温かくなった。
隣にあった紗代子のふっくらとした細い腕が、菊太を後ろからやわらかく抱きしめている。
「…紗代子…?」
「なんでもない…なんでもないの…ただ少し風が冷たいなって…」
紗代子が背に顔を押しあて、堪えるような声でいった。
菊太は紗代子の回した腕に少し触れた。
指先に生きている者の温かみが伝わる。
「…どうしたんだ…紗代子…」
急なことに状況が飲み込めないことを不思議と可笑しく思った菊太は、少し控え目に笑いながら紗代子に問いかけた。
「なんでもない…なんでもないの」
「……そうか……。なんでもないか」
菊太は落ち着きを取り戻して、できるだけ穏やかに紗代子に語りかける。
「そうなの。…なんでもないの」
…紗代子がそういえばそうなのかもしれない。物事は千差万様、いくらでも捉えられる。きっと、何事もなく瞬くこの星空の星のように、今この瞬間もなんでもない瞬間なんだろう。
「ねえ、菊太…。思い合うってどういうこと?男の子と女の子が同じように相手を見つめ合うってどういうこと?…思い合うって少しの間、お互い夢をみあうってことでしょ…それだけなのにあたし、時々変になって分からなくなるの…」
―唐突だな、と菊太は思ったが、体を少しそらし方向を変え、紗代子に向かいあった。
紗代子の目が赤いことが暗闇でもわかった。
「なんだ…いきなり。………。俺もそれは…よくわからない。でも……そうだな…」
菊太は少し上向きになって考えた。
「お互い、見つめ合うのもそうだけど、そのとき相手の瞳に自分が映って、自分も相手の瞳に映る。…それは結局、同じ方向を向くってことじゃないか」
―それが例え、一時の偶然によるものであっても。
人は同じ方向を隣の人と眺めれるだけで、喜びを感じる素朴な生き物だ。
「じゃあ、今は?」
「すくなくともこの星空をきれいだと紗代子も思うだろ」
「うん…」
「じゃあ、おなじ方向を向いてる」
頭上ではコウモリが時折、星々をかすめとるように羽ばたいている。
相変わらず当たりは、木立のそよぐ音や、枝がこすれ合う音以外になにも聞こえず静かだ。
菊太は紗代子の肩に手を置いて、紗代子をみた。
思えば、最近は忙しくてあまり紗代子とも会えていなかったことを思い返す。
その間に、紗代子もいろいろと不安になることを抱えこんでいたのだろう。
菊太は息を吸い込んだ。
「…でも一緒にいてもな…。ずっとは同じ方向を向いていられないんだ。偶然や、気まぐれや、思い違いで、きっと一緒にいても全然違う方向を人はいつしか見るようになる。星空はいつでもきれいなのに、星空に変わりはないのに俺たちの方が変わっちまうんだよ。…でも、たった少しの間でも、きれいな星空を一緒にみれたことが重要なんだ。それが人の魂にとっては重要なんだ。この世界も悪くねぇって思える理由を、一つでももって小さなことで満足できる時間を重ねる方が…いい」
紗代子には今一伝わらなかったようで、紗代子は少し首を傾げて、目をそらしてから菊太をみていった。
「なんだか、それ…さみしいじゃん」
「ん?さみしくはないと思うぞ。…さみしさ以上にもっと多くの感情がそれには含まれてるよ」
―それはさみしさだけではない。
「でも、わたしは誰かと一緒にいたいよ」
紗代子が強く思いのこもった言葉でそういった。
「そっか…」
そこで菊太は、紗代子の唇を奪おうとしたが、ふと止めた。
紗代子は一瞬ドキリとした顔になった。
紗代子の顔はほてっている。
その艶々の髪の上に菊太は手をおいて、なでた。
「…いつか、きっと誰かとそうなるよ…」
―さあ、さっさと狐にご飯あげて帰ろう。それこそ母さまが心配するぞ。
菊太は自分の内面が顔に表れないよう、何事もなかったかのように顔を流した。
一瞬、さびしさが菊太の心をかすめた。
「…うん…」
紗代子はうなずいた。
菊太と紗代子は手はつながなかった。
それは、なにかの決意表明でもあった。
そして、それは静かな決意表明だった。
そのあと二人で、暗い林を進んだ。
その様子を静かに星が見守っていた。
どろりと間の空気が生ぬるい熱でぬかるむ。
そんな空気が風呂場を満たしている。
湯気が辺りには立ち込めている。
その湯気のなかに影が二つうごめいていた。
男の影と、小柄で丸みをおびた女の影があって二つの影が重なって動いている。
「…はあ、…はあ…ツ…はあ、…はあ…」
影の片方から荒い息がきこえる。…女の息だ。
「はあ…はあ…あ!!…アア!ツ!…」
徐々に湯気の流れがゆるくなりだすと、その影は一対の裸の女と男がむつみあって重なったものだった。
裸の男は勢いよく女に向けて自分の腰をふっている。
男は中年くらいの小太りで、まげはズレており、一心に荒い息で腰をふっている。
女は無理やりさせられているのか、その度に息を荒くして、誰かに助けをこうようにあえぎ声をあえげている。
「ああ!旦那さまッ!!…ああ!……た、助けて…くだ…さい…。助けて、くだ、さいィ!!……アアツ!!…!!…」
「…どうですか?…湯加減は」
やがて風呂場の入り口にぬっと一つの影が現れた。
孝吉だった。
そして、孝吉のその言葉は、女ではなく、男の方に向けられていた。
「いいぞ!!…いい…!!……見事な湯加減だ!!」
男は相変わらず腰を振りながら女をさし置いてあえぐように言う。
「それは…それは…ご満足いただいてるようで」
孝吉はただ風呂に入りたいといった男に家の風呂を貸しただけだ。そこに女がいた。どこに責任があるだろう。そこで何があろうと、孝吉には預かり知らぬところだ。
孝吉は目を細めて丁寧におじぎをした。
ここは孝吉の屋敷だった。
毎晩この孝吉の屋敷では博打好きが博打をやりにくる。
そして酒やら、料理やらで興を乗らせ夜遅くまで博打を打つ。
それを仕切っているのが孝吉だった。
本来、どこの村でも村内での博打は禁じられていた。
現にこの村の掟でも博打は禁止されている。しかし、どの村でも賭博をひそかに開いて金を儲けようとする者が少なからずいた。
孝吉もその一人だった。いくら厳しくしようと監視の目は田舎の小さな村まで届かない。
村方の重役の何人かは孝吉のご法度の賭博に気づいているが、孝吉が村で立ち上げた立場と重役の弱みを孝吉が作って握っているので、非難ができず我が身の保身のあまり、知っていても咎めずに逆に隠蔽に加担するような者がほとんどだった。
孝吉がお上の明るみの目に晒されるとき、自分たちもまた裁かれて首が飛ぶのだ。
もともと孝吉の元住んでいた街にも岡場所があった。
孝吉の父は寺の住職だったが毎晩岡場所に出入りし、博打を打って、相手を負かせ、負けた相手の妻を寝とることを楽しみとしていた。
そのなかで、孝吉の父と、父の名も知りもしない女が交わり、この世に産まれ落ちたのが孝吉だった。
孝吉はその事実を知らず、すくすく育った。
読み書きができるようになってからは努力した。
実の母ではない女を母だと思い、その母から時折冷たく扱われながら、孝吉はいつか自分の愛されようとする努力が、報われることを信じて淡い望みをもっていた。
孝吉に接する母の目には時折、戸惑いや、深い抑制があった。
それを感じとる度に幼い孝吉は、違和感と心の底に燻るような感情を覚えた。
しかし、父は大きく寛容で、母はその父に誠実で家族には、なんの屈託もなかった。少なくとも孝吉には、そう見えていた。
孝吉にとって、家族とはバラバラでもいずれ一つにまとまるような、そんな存在に思われた。
―だが、それは違った。
告げられ、突き付けられた事実は残酷だった。
父は博打で代々の寺にあった財を食い潰し、寺自体の力が弱まったところに今まで檀家から巻き上げた財で押さえつけていた人の妬みや怨嗟や、疑心や狂気が吹き出し、生活は荒れ果て、追い詰められ父は孝吉に孝吉自身の出自を告げたあと、岡っ引きに引き立てられる前の晩に母と孝吉の目の前で自害した。
もとより父は寺の住職でありなながら、様々な場所に出入りし他の家の女に手をかけていたのだから重い罪には違いなかった。
それまで孝吉はすべての赤子はこの世に祝福を受けて望まれ産まれてくるものであることを疑ったことはなかった。
「人は泣きながら産まれてくる。この世に産まれ落ちたことを喜び歓喜してな」
いつか父が孝吉に語った言葉だった。
父の背中はいつも遠かった。
父といったいつかの街の花火大会で、父の後ろにたって見えた、花火の光に照らされた父の後姿は、いつか自分も父と同じ気持ちで、同じ目でもって花火を眺めてみたいと思わせるような後姿だった。
父の言葉は、孝吉の中の道理を作っていった。
飢饉で人々が喘ぐときも、父はまず人々のなかに分け入っていき、自分も飢えの日々を共にし、飢える人々の隣にたって死んでいった者の話を丁寧に聞き、空に向かって涙を流し、説法した。
廓に行って農村から売られた遊女と、体を抱かずに静かに、しんみりと仏の道についての説話をすることもあった。
父は、人を愛していた。
孝吉は父のあり方から、仏の教えを説いて生きるとは、様々な世に生きる人々と共に生きて、その様々な人々のなかに未来までつらなる、なにか大切なことを残していく仕事なのだと思っていた。
しかし、反面、孝吉自身、父が抱える、どことなしの危うさに振り返ってみれば、どこかで気づいていたのかもしれないと自分でふりかえって思う。
孝吉が見ていたのは混沌とした世に託した、ただひとつの淡い理想のもたらす幻影だったのだ。
それらがすべて断ち切られ、目の前が真っ暗になったのが二十二歳のときだった。
父が自害した夜、世話人を含めた家の者みなは離散した。
育ての母は気が狂い、川に身を投げて亡くなった。
「最後だって大切にしてあげられなかったね。ごめんねえ。ごめんねぇ」
そう母は孝吉に語るでもない言葉を、目であらぬ方向を見ながら言っていた。
孝吉は最早正気を失った「母」を見捨てたが、その言葉が最後自分に向けられたものなのだ、と感情もなく思った。
孝吉は、夜のなかを当てもなく逃げた。
岡っ引きに捕まれば子供でも家の者として引き立てられ死罪だ。
世話人が証言をし、自分の居場所を推測され捕まらないか不安だった。
孝吉は、様々なところを逃げ回った。
孝吉は乞食同然の生活を余儀なくされた。街中の路地で残飯を貪り、人々に罵られ叩きのめされ、血反吐を吐く目にあった。
雨風をしのぐために他人の長屋の敷地内にある厠に忍び入って眠ることもあった。
孝吉の先には永遠に終わらない闇が広がっていた。
―ならば、この先一切闇ならば、…闇を抱いて進めばいい。
そうすれば、この真っ暗な世界で一人ぼっちでも、自分自身でいられる。
そうやって孝吉は心に闇を抱いてその先を進むことにした。
孝吉は自分を、父を、―「人」を信じた自分の甘さを恥じた。
そんな未熟な自分を責め傷つけ、叱咤し罵った。
―人である自分自身を呪った。
そしてあるときに吹っ切れた。
“頼りにするものがなくても、這い上がってやらぁ…”
そのときから、どろりと孝吉の心のなかでは、なにか歪な歯車が噛み合って動きだしていた。
“…みててくださいよぉ…おとっつぁん”
それは復讐でもなく、なんでもなく生きるための自然な術だった。
“そして、ニンゲンども…”
孝吉は一切の闇を目に宿して生きることにした。
孝吉は自分自身を人ではなく人を呪う「呪い」とすることで、自身を自身の否定の網から解放し、自分を肯定することにしたのだった。
ただし外見は誰よりも他人の思う「人」に似せて。
その似せる、という行為さえ孝吉には自分を「人ならざる存在」に仕立てて、自分に納得させるための儀式だったかもしれなかった。
“ふつう”に生を真っ当に生きている誰よりも狡猾に、理知的に、図太く、深く、そして鋭く。
そして孝吉は身の周りのあらゆる人間を騙し、破滅させ続け、流れ流れて、今小さな平凡な村で、地位を築き、村の人々からの信頼と尊敬をほしいものにしている。
気づけば孝吉は自分が生まれる原因になった「呪い」を人と共有することで喜びを得るようになっていた。
それは生まれたばかりの赤ん坊が、乳房を求めて泣いているようなものであることを孝吉は自覚していた。
今目の前で孝吉の思惑によって犯されている女には亭主がおり、女の亭主が孝吉の口車にのせられて博打にのめりこみ、女に黙って家の金を無心で使って借金まみれになったため、女は亭主に金を貸した者に借金のカタのために体を抱かせていた。
もっとも孝吉とっては女の亭主が最終的に自分で身を滅ぼし破産することは計算済みだった。知っていて、奨めた。
亭主は孝吉にとって、いいカモだった。
仲良くなれば楽しそうに話しをし、いたって平凡で、楽しいときは疑いを抱かず楽しみ、つらいときは率直につらいと口にする。
孝吉が見込んだ男は「平凡な男」だった。
その男を立てつつ、心のすきまに入り込み、孝吉は自分の思うように操っていく。
“人はもろいもので、みんな平凡の顔の皮を被って騙し騙し暮らしているだけ。中身は獣。いや、獣以下。結局それが本来の姿なのだ。自分は本来の人の姿を人に教え導き、世を正しい姿に導いているだけだ”
孝吉には、そのような至って「平坦でまじめ」なそのような思いがある。
―いったい、なにが悪いのか?
立派な寺の坊主が、人の奥深くにある底知れない素晴らしさを褒め称え光を当てたとしても、しょせん人などケダモノでしかない。
その光が強くなればなるだけ、歪みに生まれる闇は濃く深い。
その人を誉めつらう坊主も、どれだけご立派だろうが、どす黒く悲しい四つん這いのケモノが、生きんがために自身で自身を人だと偽って欺いているだけに過ぎない。
高説を垂れる舌の根元は脂ぎった唾液の沼だ。
“―ああ、こいつぁ、人が虫みてぇだ…”
日頃の野良仕事や村のしがらみの軋轢でたまった鬱憤や渇望を、目の前で腕のなかの女に無心で注ぎ込んで、腰を激しくふる男を眺めてほくそえみ、満心しながら孝吉は思う。
博打の勝ち負けは偶然を含み人を平等にする。なので時に地位も歪める。平等になった人間は真の欲望や心をさらけ出す。そのとき人は獣に近くなる。
“醜いねぇ…いいね。醜いね…”
その醜さを直視することもなく目を背け、のんべんたらりと毎日が何事もなく、平坦であるかのように生きている人々が孝吉にとって一番醜くみえた。
―いや、そもそも、そのような目で人間を見ている自分自身が一番醜い。
なのに、そんなことにも気づかず、人々は孝吉自身が思ってもない正論を聞こえのいいように述べれば喜々として称賛し聖人君子のように持ち上げてくる。
そういう人々を孝吉自身が一番コケにして見下しているのに、そんなことにも気づかず、自分を優れたニンゲンだと思って、寄ってきて拝むそんな人々が孝吉にとって一番可愛がって愛してやるべき存在だった。
自分を特別な位置にある人間だと思いこんでる人間ほど、目の前の相手が劣っていれば、すぐ見下しバカにする。なぜなら本性はムシケラだからだ。
そして、そういう人間ほど、自分自身がムシケラだという事実すらわからず、一生迷い続ける。
この類い稀なき深い事実!!!
“皮肉なことじゃねえですか…”
―ああ、人。…人…人…!!
この、愚昧で、汚ならしい、…それゆえに美しさを求めるケダモノ!!
パンッ、パンッ、パンッと腰を振る音だけが悲しく熱気を貫き脱衣場まで虚しく届いている。
女はもう気絶しているのだろう。
…ア…ア…、という微かな女の方の声が湯気の奥からきこえてくるぐらいになった。
それに反して男の方は…はあ、はああ…はあ…、と息が乱れている。
「大丈夫です。旦那。このことは誰にもいいやせんよ」
―ただし、あんたが…あっしに逆らわない限りは。
「でもイカせすぎて殺さないようお願いしますよ。…こんなゲス旦那を選んだゲスな女房が天に昇るような気持ちで極楽にいかれちゃ、いろいろ道理上、マズイいんでね」
孝吉は、にたりと歯で嗤う。
“あっしも、こうやって産まれてきたのかねぇ”
そう思うと孝吉は自分が産まれるときの神秘的な光景をみるような、また滑稽で、そのあまりの滑稽さとそこからくる虚無にたえかねるような、そんな神々しく不思議な気持ちを味わう。
“誰にもこの愉悦はわかりゃせんよ”
わかるはずもない…。
一瞬、変な感情が胸を満たす。
自分の出自。…この村で知る者はだれもいまい。
「ねぇ、大切な妻を寝とられるってどんな気分なんです?」
孝吉は気を紛らわすように、後ろでへらへら顔を震わせながら笑わらって縮まっている男に向かって声をかけた。
男は目の前に違う男に犯されている女の夫だった。
―「へ、へへへ…へへ」
声をかけられた男は絶望に顔を覆われながらも、その顔は震えながら半笑いだった。
男自身の業が招いた結果。
それにより自分の妻が犯されている。
その光景を不条理にも男は指をくわえてみているしかない。
博打と酒で、もはや男にはこの特殊な状況に
対する正常な判断は残っていない。
それは絶望的で恥辱的な状況だった。しかし、男の心を絶望以上のものが支配していた。
人間は絶望の限度を超えると、目の前の絶望を快感に感じてしまうようになることを、孝吉は自分の経験のなかからよく知っていた。
それは見ている男にとって―喜び、だった。
「旦那、…今ご自身の奥さん見てるときのその顔…巡礼者が長い旅の果てに自分が拝みたかった仏像に巡りあって手を合わせて拝むときみてぇな、いい顔ですぜ」
男は、もう自分を失って、どこかこの世のものではないものをみるかのような半笑いの表情になって自分の妻が犯される様をみている。
―ハハ、ハハハハハハハハ!!
孝吉は腹の底から、その美しい光景に清々しくなって嗤う。
自分を、
目の前で人が織り成す光景を、
睦みあっている男女を、
―人の世を。
女の体をつかんでいた男が、ぷはあ、もう無理だ、といって女を離した。
孝吉はニコニコしながら女の元に近寄る。
玩具のように投げ出された女の体が床の上に横たわる。
その体には、もはや女の生き生きとした魂はないようにも見える。
孝吉は女のそばに近寄った。
「あんたはこうして人を喜ばして徳を積むんですよ。仏さまは、いつでも人のことをみてらっしゃる。あんたは人の業を清めてるんだ。だから極楽へいきますよ。…喜びなさい。それが仏の道だ」
孝吉はニタニタ笑いながら女の髪を引っつかみ、耳元にささやく。
「…ね、さなさん」
女はさなだった。振り乱され顔にかかった髪が顔を覆っていたがその女は、さなだった。
そのさなの閉じたまぶたから細い涙が流れた。
「…そんなに俺のやってることが、不思議か?」
米を竈で炊くそばで、立って竈をみつめるゆなに向かって菊太はいった。
「……」
相変わらず、ゆなは顔色一つ変えずに、菊太が藁をくべている竈に、ゆなの眼差しは注がれている。
菊太は煮えきらず、ンン…と唸りながら、竈に注意を戻し、藁をくべた。焔が舞う。
「そんなとこ、立ってても足元が冷えるだけだぞ」
菊太はゆなに呆れたようにいった。
ゆなは一瞬菊太をみたが、また視線を竈に戻した。
「なんで…」
と、また菊太がゆなへ愚痴を言おうとしたそのとき、小さな言葉が菊太の耳に届いた。
「…あたし、手伝う…」
「…は?」
―てつだう…。
また小さな声がもれた。
「手伝うっていっても…」
予想外の言葉に菊太は動揺したが、ほぼほぼ米は炊き終わりで、あとは釜の中で熱が回るのを見るだけだ。
しばらく菊太は様々な思索を巡らしたが、やがて一つのことを決めていった。
「…手伝ってくれるのか…。…ゆな…。…んー……じゃあ、外から三葉を取ってきてくれないか?…」
「ミツ…バ…」
ゆなは首をかしげた。
「三葉って…三葉だよ。知らないのか?」
ゆなは菊太の目をまっすぐみつめるだけだった。
まるで恥じらいなど知らない生き物であるかのようだ。
菊太は少し呆気にとられたが、すぐ気を取り直していった。
「よし、教えるか。三葉はうちの飯でよく使うから覚えといてくれ」
そういうと菊太はゆなを連れ立って外へ出た。
春の朝の清々しい空気が身を包む。
菊太の家の裏手は小川が走っていて、その小さな土手に春になれば三葉がたくさん群生した。
「これが三葉だ」
菊太はしゃがんで、ちいさな葉を宿した小ぶりの草を示した。
「見てみろ」
ゆなもしゃがんで、そのちいさく小ぶりで上品な野草の葉を見つめる。
「これを…そうだな…手のひらいっぱいとる」
と菊太は三葉を集めだす。ぷつり、ぷつりと三葉を一つ一つ選り分けて菊太は選んだ。三葉の香りが少し漂った。
「できるだけ色がいいやつを選ぶんだ。こんな風に若々しい緑色のを」
しばらくゆなも菊太の手の動きをみていたが、やがて三葉を選りすぐって抜き出した。
「お、いいぞ。その調子だ」
菊太は手伝いはじねたゆなの手元をみた。
ゆなの手は抜かりない素早さで、俊敏に色の良い三葉を選び抜いている。
「…へぇ…。けっこういいじゃねぇか。…意外だな」
菊太がそんなことを感心している間にも、ゆなは見る見る三葉を選り分け摘み、手元いっぱいの三葉をとった。
「お、おお…もう、いいぞ、もういい。ゆな」
ゆなは手をとめて、手についた露土を払った。
「一回教えただけなのに、やるじゃねぇか。見直したぞ」
ゆなは褒めているのに顔色一つ変えず、その長い髪を少しかきあげた。
「これだけとれれば充分だ。いい飯ができる」
二人は家に戻り、炊きあがった米をまな板の上にあつった。ほかりと米粒たちから湯気が立ちのぼる。
「いいか。ゆな。…これから三葉の握り飯を作る」
ゆなは、まな板の立ち上がりの米をみている。
「ていっても簡単だ。見といてくれ」
そういうと菊太は味噌と醤油を取り出した。
「まず、三葉を細かくきる」
先程取った三葉を菊太は細かく千切りにした。
「それから、この飯に醤油を少し垂らして、味噌も少し加える」
―そして、混ぜる。と菊太はそれらをしゃもじで簡単にザクザクと混ぜた。
香ばしい香りが湯気とともに立ちのぼる。
「そこに、この切った三葉を混ぜる」
そういって菊太は先程切った三葉をぱらぱらとまぶすように、飯の上に降らせた。
「それでまた混ぜる」
それらをまた菊太はザクザクと混ぜていく。
ゆなは菊太の手元じっと黙って見つめていた。
「これでほとんど完成だ。あとはこれを握るだけ…」
そういって菊太はしゃもじを置いて、熱々の米を手にあつった。
「握り飯は握ったことあるか?」
そう菊太がきくと、ゆなは静かに首をふった。
「そうか。これも簡単だ」
菊太は優しく飯を包み丁寧に三角の握り飯を作った。
「こうやって、うちへうちへ包むように、優しく丸めるんだ」
菊太は二、三個握り飯を作ってまな板の上に並べてみせた。
「やってみろ」
ゆなも黙って、米を手にあつる。
「…火傷しないようにな」
ゆなの細く白い手のひらが、たどたどしくも米を押さえ丸めこむように握る。
「そうだ…いい調子だぞ…」
ゆなは黙って、静かに手で握り飯を握った。
「おう、なかなか小ぶりだな」
まな板の上に置かれた小さな遠慮目に握られた握り飯を見て菊太がいった。
「こういうのは、人の心根がでるもんだ」
菊太は自分が握った握り飯とゆなの握った握り飯を並べた。
ちょうど菊太の握り飯は太く大きく、ゆなの握り飯は優しく小さく、まるで夫婦のようにちょこんと二つの握り飯が並んだ。
春の陽気を含んだ日差しが座敷に入り込んできて、その二つの握り飯を照らしている。
「よし、いいできだ。もっといっぱい作ってくれ。俺はそれを笹で包んでいく」
とりあえず、今は褒めておかねばいつやる気をなくされるとも分からない。
せっかくゆながやる気になっているのだから、ここはそのやる気をなくさせないよう努めるべきだと、菊太は思った。
ゆなが作った小ぶりでかわいらしい握り飯を菊太は丁寧に笹で包んでいく。
静かな時間でお互い会話はないが、なぜか菊太には豊かさを感じる時間でもあった。
思えば、ゆなが家に来てから、菊太は、なにかと気を使ったり、神経を削ることのほうが多かった。
それに比べれば今の状況は、良い方角に、我が家の方向が向き出したと捉えていいだろう。
「…できた…」
ゆなが炊いた米を全て握り終えた。
「お…。ありがとう…」
少し米の湿った粘り気と、小さな米粒のついたゆなの手のひらをみて
「そこに汲んできた水があるから手、洗いな」
と菊太はいった。
「きーくた!」
そうこうしていると、聞き慣れた声が後ろから聞こえた。
菊太が振り向くと、紗代子が戸口に立っていた。
「お、紗代子。もう来たのか」
「もう、みんな河原に集まってるよ」
「早いな。今年も、みんな、張り切ってるな」
「菊太は準備できた?」
―ああ、準備万端だ。
「こいつのおかげでな」
ゆなが手を洗って、戻ってきたところに紗代子とゆなの目があった。
「あ、…その……は、はじめまして…」
紗代子が急にきょどるように、自己紹介をした。
「…浅見です。」
といったそのあと、小声で
―浅見紗代子です…、と紗代子は付け足した。
「こっちはゆな。…ゆな、…こっちは俺たちがいつも世話になってる浅見さんのところの紗代子だ。お前が雪の日倒れてたとき、こいつも一緒になって心配してくれたんだぞ」
ゆなは案の定なにも言わなかったが、少し目を弱めに細めた。
「あのときは…びっくりしました。…その…あの…大丈夫でしたか…?」
紗代子がおそるおそる、きく。まるで小鹿だ。
「…うん…」
ゆなが紗代子に対して答えた。
菊太には、それは意外なことだった。
「…よかったぁ…」
紗代子は、安心して胸を撫で下ろすような、穏やかな声音でいった。
「心配かけたな。紗代子。おかげさまで、だ」
「ううん。あたしは全然なにもしてないよ。あのときは菊太が一番一生懸命だったよ」
「家の前で死んで、成仏できずに幽霊になって出てもらっても困るからな」
「こんなに美人な方だったら、幽霊になって居着いても菊太もまんざらでもないんじゃない」
紗代子が試すような顔でいった。
菊太は笑った。
「いいや。せっかくなら俺は生きてるやつと一緒に住みたいよ。だから今が一番いい」
「じゃあ、菊太にとっても良かったね」
紗代子が、なぜか、じゃっかん悔しそうにいった。
菊太がなにか言おうとしたとき、また木戸の方から声が聞こえた。
「紗代子も来てたの?…菊太。迎えにきてあげたよ」
あやめだった。
今日のあやめは紫袴に白衣を着て、片手には渋柿色の風呂敷包みを持っている。いかにも巫女らしい佇まいだ。
「あやめ。まだ川原へ行ってなかったのか」
「これから行くとこ。せっかく菊太の家の前通るからどうしてるかな?って見に来たんだー。元気だった?」
あやめは、ふとゆなの方をみて穏やかな声音でいった。
「あんたも、元気だった?」
「…うん………………ありがとぅ……」
ゆなが枯れそうな声でいった。
「あやめは、あの日、お前のこと助けてくれた命の恩人だ。あやめがいなかったらどうなってたか、分からない」
「そんな大げさなもんでもないよ。あんたを看てるとき思ったよ。あんたはそんな弱い人間じゃない…。あんたが生きたいと強く願ったから…その願いを、ちゃんと神様方が聞き入れただけ」
しんみりとあやめが言った。
「でも、お前もこいつが死なないように願って祈ってくれたんだろ」
「まあ、いろいろあって人生経てきたけど、曲なりに今は巫女だからね」
「じゃあ、俺からも…ありがとう…」
そういうとあやめは照れたのか
「はいはい。これから花見だってのにこんなにしんみりしちゃ、せっかくの桜も、雨も降ってないのにしおれるってもんだよ。ほら、今日はあやめ特製の長明寺餅も作ってきたんだから、楽しんでもらわないとね!」
といった。
「あやめさん!長明寺餅作ってきてくれたのー!?」
紗代子が飛び付く。
「ほらほら、紗代子。落ち着いて。まったくあんたは昔から甘いものに目がないね。あとで食べれるから…とりあえず、今はみんなで一緒に川原に行こう。みんな、待ってるよ」
「ああ、そうだな。行こうか。ゆな、紗代子」
「……どこに?……」
ゆなが不思議そうにきく。
「川原だ。…ゆな。今日は花見だよ」
菊太は笑って、ゆなに言った。
河原には、すでにたくさんの人が集まっていた。
そして今年も川べりの桜は、爛漫と咲いている。
「おー!菊太きたかー!」
佐吉がすでに、よしのと筵を引いて他の人たちと酒宴をしていた。
その間にも、佐吉は「夫婦仲いいねー」と囃されて、照れながら「そういうことじゃねーよ!」とツッコんでいる。
「父さま、また飲んべえになって、みんなにおぶわれて帰るのはやめてよねー」
紗代子が心配そうに佐吉に向かっていった。
「でぇじょうぶだぁ。俺ぁ、あれだから。あれ。…そう。あれだから」
「もう酔っぱらってるよ。あれ」
あやめがその様子をみて、にやつきながら紗代子にいった。
―ほんと、やめてほしいですよねー、と紗代子があやめにいった。
「ひさしぶりですね。菊太さん」
ふと後ろから声が聞こえた。
見ると、猟師仲間の弥太郎がいた。
「おお、弥太郎」
弥太郎は背中に体の悪い弥太郎の祖母を背負っていた。
弥太郎は菊太の四つ年下だったが祖母と二人暮らしで、細々と暮らしている好青年だ。子供や老人にも優しい。
「菊太、元気だったかい。今日はあったかいねぇ」
弥太郎の背中のお富さんが、のんびりした声でいった。
「そうですね。今日はお花見日和だ。お冨さんも元気だった?」
「あたしやぁ、変わらないよ」
「お富さん、元気だった?こないだ、なんか体の調子が良くないっていってたよね」
あやめがお富さんの手のひらを握って気遣いながら声をかけた。
「あやめさん。ご無沙汰です!」
「ごぶさただねっ!」
「あやめちゃんかい。まあまあ相変わらず優しいね。あんたは。大丈夫だよ。この歳になれば多少不健康を含めて健康っていうものだから」
―そんなこと言われると、心配だよー、とあやめがお富さんと弥太郎と話している。
「どうだ?ゆな」
菊太は、ゆなを見て声をかけた。
隣でゆなは少し遠い目をしながら、咲いている桜と、そこで騒ぐ人を見ていた。
「花見…したことないか…。なら、これが花見だよ。冬の間、ずっと閉じこもって交流が少なかった村が、この春のお花見で交流の息を吹き返す。みんな冬の間、疎遠になってた人や、会えてなかった人に会って“元気だった?”てお互い確かめあうんだ」
ゆなは菊太をみた。
「それだけなんだけどな。ただ。そんなことなだけなんだけどな」
菊太は少し満足そうに、酒宴の席で立ち上がって「うぉあーい!!」と手を叩く佐吉の姿を遠くから眺めた。
「菊太!ゆなさん!」
―こっち、こっち!
紗代子が花見の席をとるために、桜の木の下に筵を引いていた。
「菊太ー!!あたし、お冨さんたちちょっと案内してくる。そのあと神社の関係で村方役人の人にお神酒注がなきゃなんないから、紗代子たちと、さきにお昼食べててー」
あやめが弥太郎とお冨さんの花見の場所取りを案内しながら、振り向いていった。
「わかった」
菊太は微笑まし気にその光景を眺めて返した。
「お腹すいただろ…」
菊太が、隣にいるゆなにいう。
ゆなは黙って菊太を見返した。
―お昼、食べよう。
改めて周囲を見返してみれば、今年の桜は盛況で、所々にある桜の木の下では、人々が団欒して花見を楽しむ光景が見受けられる。
酒宴の席を回る者、隣の桟敷に自分の作った料理を分けて隣の桟敷と花見を楽しむ者など、賑やかだ。見ていて楽しくなる。
菊太が、久しぶりに見る顔ぶれもある。
紗代子は、よしののところへ行ってお弁当を取ってくる、といって今いない。
菊太とゆなの二人きりだ。
といっても別段話す話題も菊太たちにはない。
ひらひらと桜の花びらがゆなの肩や胸元に落ちてくる。
ゆなは、菊太の隣で、不思議そうにそれらを遠くみつめていた。
「菊太じゃないか」
声が聞こえたので、菊太がふりかえると山寺の和尚の源昭が立っていた。
「源昭さん。こんにちは」
「やあ、こんにちは」
にっこりと源昭が笑って菊太の隣にきた。
「そちらは…新しいお妾さん?」
「違いますよ!変な言い方やめてください」
とぼけたような源昭に、菊太は笑いながら答えた。
「こんにちは。娘さん。源昭と申します。はじめまして」
ゆなは源昭を少し見ただけだった。
「ゆな。この方は源昭さんといって、この村の寺のお坊さんだ。…すみません…。源昭さん。まだこいつ、いろいろあったみたいで、人に慣れていなくて」
そういうと源昭は目を細めて
「そうですか。それはさぞ大変だったでしょう」
と穏やかにいった。
源昭は、この村一帯を檀家にもつ寺の和尚であり、村人に対しても一定の影響力がある。
この和尚の意見は村人の民意が反映され、また習俗的な人の道を示す寺という立場からの発言があるため村では、村の物事を決める中心人物の一人だった。
「源昭さん。こちらの娘は、ゆなと言います。…雪の日に俺の家の前に倒れてて、いろいろあって、今言葉がしゃべれないみたいなんです」
「聞いておりますよ。…ゆなさん、といったかな…。」
源昭はそういって、ゆなをみた。
なんだかんだ穏やかそうに見えて、この源昭は人を探るところがある。
今もその目になにが映っているか、わからない。
「桜の咲く頃にこのような結ばれる縁があるとは喜ばしい限りだ。桜も喜んでいるのではないかな。この桜の下にいる、あなたは似合う」
源昭は穏やかにそういった。
物腰柔らかな言葉に、菊太は少し警戒がとけたが、ゆなは少し首を傾けただけだった。
「あ、ありがとう、ございます」
菊太はとっさにそんな言葉を口にしていた。
「まだ桜は咲き誇ったばかり。そして、これから、これらの桜には、散るという美しさが残っている…。あ、いや、お邪魔してしまったね。とっても桜の木の下にいるのが、お似合いの二人だからつい桜と同じように微笑ましく眺めてしまっていたよ」
「ありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそ。ではお花見の続きを、楽しんでね。お二人がせっかく、その縁を深める機会だ。無粋なことは言えない…。では」
源昭はそういうと立ち上り法衣をひるがえし、また違う桟敷席に移動していった。
軽い挨拶だったようだ。しかし、内心何を思っているかは分からない。
「さっきの人、村では物をいうときに、けっこう幅きかせる人なんだよな。どう見られてるかヒヤヒヤしたよ。まあ、あの調子だったら、お前のことそんなよくないようには見てないみたいだったな」
「そう、なんだ…」
ゆなは、そういいながら気にもとめず、上から、はらりと舞う桜の花びらを受けとるように両手を開いていた。
その白く細い手のなかに、桜の花びらがおさまる。
菊太はふと隣を見ながら雪の日のことを思い出した。
…雪と桜は、この女に似合うのかもしれない。
「きーくたっ!ゆなさん!お待たせ!」
そんなところへ紗代子の春風のような明るい声が吹き込む。
「紗代子、きたか」
「うん、これお弁当!」
といって紗代子は重箱の入った風呂敷を両手に下げている。
「こんなにたくさん食べられるか?もしかして、よしのさんとこから全部持ってきちゃったんじゃないのか?」
「もう父さま達ベロベロに酔っちゃっててさー。それで“もうこれ持ってっちゃいなさい”て母さまが呆れ顔で…」
「そうか、それは浅見家の帰宅は愉快な帰宅になるな」
「ヤダヨー」
「それはそうと…。なら、ありがたくいただくとするか。紗代子も一緒にな」
―うん!と元気よく紗代子は頷いた。
はい、と菊太はゆなに三葉のおにぎりを渡す。
「あと、これも浅見さんからだ。食べようぜ」
菊太はそういいながら、紗代子が持ってきた重箱を開けた。
開けてると、そこにはほとんど手がつけられていない弁当があり、シシ肉の煮込みや蕨やゼンマイが丁寧に見栄えよく、箱に織り込まれていた。
この重箱を詰めた、よしのさんの几帳面さがうかがえる。
「こりゃ、佐吉さん、そうとう酒飲んだんだな」
「うん、お察しの通りだった…」
菊太はおにぎりを頬張った。おにぎりにしみた味噌の優しい味が広がる。
箸で重箱を分けあう。
ゆなもおにぎりを一口、口に入れた。
「三人でいるのって、なんか真新しいね」
紗代子がおにぎりを頬張りながら微笑む。
「そうだな。桜の下ってなると、なおさらのことな」
「ンンン…ンンンン…」
紗代子がおにぎりを頬張って何か言おうとしていた。
「ほらほら紗代子、食べながら話すからそうなる」
菊太は紗代子の背中をさすった。
紗代子はてへへと笑いながら、おにぎりを喉に通し、手を一度口に当ててから
「桜…きれいだよね」
といった。
「…ああ、違いない…」
ふとゆなの顔を見ると下唇の下端に米粒がついていた。
菊太はそれを、指でとった。
ふと、ゆながこちらに気づく。
「ああ、ご飯粒ついてたから…」
ゆなが下唇に手をやる。
「もう、とれた」
そういったあとも、ゆなは不思議そうに頬に指を当てなにか思ったような顔をした。
「ゆなさんは…お化粧のお水とか使いますか。ゆなさんお肌とっても白くて、きれいだから、あたし、真似たいなって」
ゆなは一瞬、紗代子をみたが、目線を下に落とした。
「こいつの肌が白いのは、生まれつきそういう質っていうのもあるんじゃないか。だって、そういうお前だってそれなりにきれいな肌してるだろ」
そういうと紗代子は手を頬に当て
「そうかなあ」
と、なにやら嬉しそうにニコニコ笑った。
「そうだ!ゆなさん、あたしと桜の花びら集めませんか?ちょうど今ぐらいの満開の桜の花びらで作ったお水で毎朝顔を洗えば、とってもお肌にいいんですよ!」
はらはらと上から降ってくる桜の花びらを手で受けとめながら、明るく紗代子がいう。
ふわりと咲いた花びらたちが上で微笑むように風を受けている。
「いいんじゃないか、ゆな。…大丈夫。花びらは勝手に降ってくる。…こうやって、あとは手を開いて、それを拒まなかったらいいんだ…。」
菊太はゆなの手を握って、優しくその手を開いた。
花のような手のひらが桜の花びらを二、三枚受けとる。
ゆなは不思議と抵抗せずに、ふわりとした面持ちで吹いてきた春風を受けた。
ゆなは、いつもより落ち着いているようだ。
そして、はからずしも菊太はゆなと手を握りあう形になった。
ゆなの心が穏やかさを保てるように配慮しながら、菊太はそっと立った。
「ほら、このまま紗代子と行ってきな。俺、ここで待ってるから」
「菊太は?」
紗代子が顔色を伺うようにいう。
「弁当あるから誰かがここにいなきゃいけないだろ。鳥とか、野ネズミとかいるし」
「そっかあ」
「桜の花びら集めてこいよ。今しかないんだろ。…じゃあ存分に楽しんでこいよ」
「…うん」
―行こう、ゆなさん。あっちで桜吹雪舞ってる。
紗代子も立ち上がり、菊太が握っているゆなの手を握った。
“…ゆなを頼んだ”
菊太は紗代子に目配せした。
紗代子は優しく頷いて、ゆなの手を引いていった。
やれやれといった感じだ…。
これから始まる季節と、村の人々の表情のなかにあいつが溶け込めますように…
そんなことを桜の木に、菊太は祈った。
菊太は遠くから紗代子と、ゆなの様子を見守っていた。
はらはらと舞う桜を両手で掬う女と娘。
片一方はぎこちなさそうに、片一方は年頃の娘並に楽しそうだ。
菊太は安心して、改めて周りを見渡した。
庄屋たちの桟敷はいつものことながら明るい。花見というより酒を飲む会合に近い。
あやめが名主の時東さんに酒をつぎながら、口にその手を当てて時折微笑している。…あいつは、こういうときに上手くネコをかぶる術を知ってる。…羨ましい。
弥太郎とお富さんや、他の村の人々も往々にして自分たちの桟敷で桜を眺めたり、持ち前の三味線を引いたり、それを聞きながら歌を詠みあったりして楽しんでいる。
そのなかで、少し気になった顔があった。
…さなだった。
ゆなが家にきた雪の日以来、菊太は気を使ったせいか、あまり村の人々と交流はなく、さなを見かけるのも久しぶりだったが、そのとき菊太が見た、さなの顔は、どこか生気がなく悲しみを秘めているように見受けられた。
「…さな…」
さなの旦那は、さなと結ばれてから周りから羨ましがられ、その仲睦まじい夫婦生活は村でも評判だった。
さなの旦那は村でも有力な庄屋の家の息子であり、さなも嫁いだ先が大きな家で安心だといわれた。
そこには周囲の、添い遂げ人である総司が亡くなったことへの励ましの配慮があったが、菊太にはそれは複雑なことのように思われた。
実際、総司と結ばれていたら、さなの暮らしは、さなにとって安泰なものにならなかったことは事実だろう。総司も、そこまで豊かではない百姓の身分の家だ。
しかし、さなの旦那は菊太から見て、―総司が不慮の死を遂げたとはいえ、どことなく予期せぬ福が舞い込んだかのように思って多少、増長しているところがあったように見えた。
「俺が…亡くなった旦那のかわりにお前のこと養ってやるからよ」
そう、さなの手を取る旦那を遠目にみて、菊太には、その顔の底にある、どこか一時的なわざとらしさを見ていた。
…まあ、菊太がどう思っていたところで、そんなことを口にできる立場に菊太はないし、今もそれは変わっていない。
…しかし…
菊太の真上で白い桜の花陰がゆれる。
「さな!」
菊太は居た堪れず、さなのいる花見桟敷に向かって声をかけた。
にぎやかな宴会の声のなか、さなが、はたと菊太の方を向いた。
菊太は、その目を見つめる。
さな…。
遠くからなので、さなの表情は小さく、今なにを思っているのかここからでは読み取れない。
しかし、その遠くから見つめ返してくる目の奥に、菊太は確かに悲しみがあることを見てとった。
そのさなに、ここから見つめている者がいることを伝えるために菊太は手をふる。
さなも弱々しく遠慮気味に手をふりかえした。
少し、さなのその顔が柔らかく笑う。
“…ああ…同じ村のなかなのに人の距離はこんなにも遠い…。”
そう思っていた菊太の目の前で、さなの旦那がさなが手をふっていることに気づくと同時に、菊太を一瞥した。
そのときの旦那の向けた冷たい非難が漂う目に、菊太は少し肝が冷えるような思いがした。
さなの旦那はすぐに、さなの手を握りなにか耳に囁いた。
さなが旦那の顔を見つめた。
旦那がさなになにを囁いたか分からないが、菊太は、自分がさなにとって悪いことをしたのではないか、という思いが心をよぎり、手を下ろし下を見つめた。
相変わらず、人々の花見の明るい楽しそうな声は途切れることはない。
菊太は奥歯を噛みしめた。
―なぜか、さなの切なげな元気のない顔が目のなかに残った。
“クソ!…ほんとに……さなのこと大切にしやってるんだろうな!?…”
―じゃあ、なんであんな表情…さなは…
ああ、ダメだ。考え出すと疑念の沼にはまる…。
菊太は上を見上げた。
桜の花はやはりそこで静かに咲いている。
空を半分覆うそれらは雲のようにも、星々のようにも見える。
“さな…。”
まばゆい桜の花をみつめて菊太は目を細めた。
「おお!菊太か!」
そんなとき後ろから聞き覚えのある、よく通る声が聞こえた。
「雪村さん…」
「久しぶりだな。菊太」
後ろにいたのは、菊太が、いつかの寄合の帰り道で村を案内した雪村だった。
「お久しぶりです」
「元気にしていたか?」
といいながら雪村は、菊太の隣に立って桜を見た。
「ええ、ゆるくやってました」
「それはよい」
「雪村さんも来てたんですね…」
「ああ、桜はよいものだからな。…それに、この村の名主との顔合わせもある。また、この村だけではなく、近隣の村の長との顔合わせもしているため、近頃忙しかった…。しばしの間だけでも、こうして桜を見られれば心も穏やかになるというものだ」
「お侍さんって大変なんですね」
「まだまだ精進せねばならぬ身なのでな」
さあ、と風が吹いて桜の木が揺れた。そういう忙しい合間にふと一瞬見る桜こそ人の心をさらによりいっそう和ませるものになるのだろう、と菊太は思った。
今、雪村の目に桜はどのように映っているのだろう。
「お待たせ、菊太。あれ、紗代子とゆなさんは?」
あやめの声がしたので菊太は答えた。どうやら村方役人たちの桟敷から戻ってきたようだ。
「今、向こうで桜の花びら集めてる。なんでも桜の花から作った化粧水は肌にきくらしい」
「へー!そうなんだ!」
「あやめどの…。ご無沙汰しております。」
雪村が丁寧に綺麗な角度で会釈した。
「雪村さん、こんにちは。今日は挨拶まわりですか」
「そうだな。先ほどお父上にもお会いさせていただいた」
「あんな仏頂面に忙しいなかわざわざ挨拶なんて…、雪村さんは人が出来てますね」
あやめがニコニコしながら、さりげに父の嫌みをいうのを、菊太はきいて、笑いそうになった。
「菊太、雪村さんと知り合い?」
「ああ。去年の秋に寄合の帰り道一緒になったんだ」
「そのとき道すがら村のことを、いろいろご教授していただいたのだ」
「ご教授だなんて大げさですよ」
「へー、菊太もすみに置けないね」
「そんなたいそうなことじゃねぇだろうに」
「して、あやめどの。向こうにいる方は?この村では見慣れない顔だが」
雪村は紗代子とゆなのいるほうを見ながらいった。
「あ…。あっちの女性はゆなさんです。今、訳あって菊太と一緒に暮らしてるんですよ」
「ほぅ…」
と雪村はゆなをみて一瞬、目を細く細めた。その一瞬の目には鋭さがあった。
菊太がなにか言おうとしたとき、
「あっれぇー。菊太さんじゃないですかぁ」
という嫌な高い声が聞こえた。
孝吉だった。
見ると、村の大年寄と名主と共に孝吉が立ってこちらを見ていた。
大年寄は村の役会をまとめる村の長老だ。その隣の名主は代々村で一番の財のある家の者で、代官や役人と村を繋ぎ、大年寄を助けながら村の財務を任されている。
その二人と孝吉は並んで立っている。前回の村の寄合から一気に村の上層の者たちに近づきになったようだ。
「お久しぶりですねぇ」
孝吉は笑いながら、菊太の方を向いて声をかけた。
「…お久しぶりです」
…これは不味い状況かもしれない。孝吉は前回会ったときから菊太についてよく思っていない。そして、そんな孝吉は村でその地位と信頼を確実に高めつつある。
それは、この小さな村で力を持っていくことを意味する。
そんななか雪村が菊太の隣で
「これは大年寄殿に名主殿…先ほどは…」
と年寄と名主に会釈をした。あやめも、それにつられて会釈する。
「これはこれはあやめちゃんに雪村さん…先ほどは…。そして、雪村さん…うちの村の菊太とお知り合いだったのですねぇ」
「ハハハ、それは先ほど、あやめどのにも突っ込まれました」
「菊太、久しぶりだねぇ。どうだいこの冬は何事もなく越せたかい?」
大年寄はニコニコしながら菊太にたずねる。
「…ええ…まあ…」
「そういえば、…道玄から、なにか雪の日にちょっと騒動があったということをきいているよ。…私は菊太からは何もきいていないなぁ」
じっとりと菊太のなかに緊張がわいてくる。…ゆなのことだ。
「すみません。申し遅れて…。いずれ申し上げようと思っていたんですが…」
なにせ、ゆなは話さない。素性がわからない以上報告するのにかなり問題がある。…そして、ゆなのことを知っていくには時間がかかる。
「拙者は席を外します…。また話があれば後ほど、ききましょう」
と雪村は何か察して、すっと身を翻し、静かにその場を後にした。
「ええ、はい、雪の日に家の前に人が倒れてたんです。…その人をいま介抱しながら生活してます…」
「それは大変だね。何歳ぐらいのどんな人?」
すかさず大年寄がきく。
「歳は…二十歳すぎたあたりぐらいの女の人です」
「その人は、どこから来たの?」
「…わかりません…」
「わからないんですか?」
孝吉の目が光る。
大年寄も
「うううん」
と、わざとらしく唸った。
「旅の途中なのか、山で毒の山菜を食べたらしくて、それで家の前で行き倒れになったみたいです。…どういうわけか言葉を最初はあんまりしゃべってくれなくて…。家族がいるかどうかや素性も、まだ話さないんです。…少し困っています…。ただ」
菊太が続きを言おうとしたとき、孝吉が口を挟んだ。
「村掟にもありますけど、素性がわからない者を村の中に長く居座らせてはいけない…それ、…ご存知ですよね?」
「………はい…でも、あいつは…」
「掟は掟。それを破ったのはあなた。ここのどこに言い訳の余地があるんでしょうか」
孝吉は大年寄を見た。
「それは…」
―掟は掟でも、あいつは悪いやつじゃないからです、と菊太は小さく言った。
言葉では上手く説明できない。ただ…生活の中でじょじょに、手触りとして、ゆなが危険な存在ではないということが菊太には勘でわかってきていた。それは猟師の山での勘に近い。もっとも信頼というのはそういうものではないか。言葉で説明できる信頼は弱い。
今度は名主が口を開いた。
「孝吉さんの言うのは最もだ。掟は村の者が健やかに暮らすために決めたものだ。村に外部の者を村の許しなく留めるな、というのはその者が危険をこの村に運んでくるかもしれないことが多いからだ。…その者が穏やかな者ではないということを誰が示せるのか。近頃は、村に野盗の密偵が入り込み、村のさまざまな事情を賊に流し、村が襲われる被害も多く出ているので、よりいっそうの取り締まりをお上からも言われている。そういうことがあるので、そういう女を勝手に…介抱とはいえ、…長く居座らせるということは私も良いとは思えない」
長年寄は、「ふーむ」と顎ひげに手を当てた。
そこへ、あやめが口を挟んだ。
「菊太の家に倒れていた女の人を看病したのは私です。その人はハシリドクロの毒に侵されてました。たしかに…女一人がいきなりこの村に紛れ込むのは怪しいかもしれません。でも、みんな、いろいろある身だったりするじゃないですか。訳があってしゃべれないとしたら、そんな人を怪しんで、追い詰めるようなことは、どうなんでしょうか」
あやめは、そのようなことを一息で滞りなく話した。
孝吉が忌々しくあやめを見た。
「だいたい孝吉さんも日頃から菊太にキツすぎます。この男はたしかに疎いところがあって、いろいろ人騒がせな勘違いをさせてしまうかもしれません。でも全部疑いからこの男の疎いまでの優しさを責める必要はありません。倒れた人がいたら肩を貸す…。人として当たり前のことを、この男はしただけです」
「それとこれとは話が別だ。じゃあ、なんかあったら、あやめさん、あなたも責任取れるんですか?この話の流れだと、そうなりますけどいいですか?」
「取りますよ?菊太と一緒に。幼なじみなんですから…。ちっさいときから一緒に育ってきて、母さんが亡くなったとき、いろいろ慰めてくれたのはこいつです。大人じゃなかった。こいつが間違うなら一緒に間違いますよ」
「あなたのお父上の苦い顔が目に浮かぶようです」
「器量のいい娘は父親を困らせてなんぼが人の習わしですから。それにあの父親は困ってみるってこともっとした方がいいんです」
あやめがそういうと、孝吉は、たいそうなことをいう、というような顔をした。
「あっしに子供ができるとしても、あなたみたいな娘が生まれないように今後神頼みの祈願に参りましょうかね」
「わかった。わかった。あやめちゃんがそういうなら、私もそこまで突っ込むことはしないよ。…ただね。…なにかあってからでは遅いんだよ。私もこの歳まで生きてきて今さら人生の最後に不覚から、みんなに災難など招きたくはない。老人は良いことができる時間も短いんだ。それだけみんなにとって大丈夫か、心配にもなるさ。菊太…お前は、見通しがたつまで、その人の面倒を見るということでいいんだね」
大年寄がやり取りの仲裁に入った。
菊太は静かにしっかりと頷いた。
「…ただ、たまにどういう様子か報告するようにしておくれ。万が一、ということもある。また定期的に私も様子見にいく。菊太、条件はそれだ。それを守れるかい?」
菊太は顔を上げて頬をじゃっかん紅潮させながらいった。
「はい。もちろん」
その様子を、孝吉は苦々し気に見つめる。名主が横からいった。
「それと問題は村としてその人の処遇をどうするか話し合って決めていないところにある。一度どんな人か、私たちに対面させてもらう機会を設ける。それも条件に入れてもいいでしょう。大年寄。一度その女と顔をあわせていろいろ聞いて、どういう人間なのか我々の目で見ておいた方がいい。それで万が一、代官さまから何かきかれたとき村としての返事を用意したい」
長年寄はうん、と頷いて菊太を見た。
「それも約束してくれるか?」
「わかりました」
菊太は、しっかり応えた。
「わかった。では折をみて家を訪ねることにしよう。訪ねるのは…私とあなたでいいかい?」
「大年寄が、それでよいなら」
「決まりだ」
―それでは菊太、あやめちゃん、あとはお花見の時間を楽しんで。
そういうと孝吉を連れた大年寄と名主は背を向けて歩いて菊太たちを後にした。
「きーくーた!」
そんなところへ紗代子の明るい声が春風と共に吹き込んできた。ゆなと紗代子が戻ってきたようだ。
「紗代子…」
「どうしたの?そんな真面目な顔して…」
紗代子が大きな目をきょろっとさせて菊太を覗き込む。
「いや、なんでもない」
「大人の事情ってやつだよ」
あやめが自分の持ってきた風呂敷をほどきながらいった。
「オトナノ、ジジョウ…」
「紗代子にはまだ早いよ。ほら、これ食べな。楽しみにしてたんでしょ」
「道明寺餅だぁ!やったー!」
紗代子の顔色が変わる。
「さっき食べたばっかじゃないか」
菊太は、その変わりぶりに思わず笑って声をあげた。
「甘いものは別腹なんだよ?」
「いい理屈だ」
菊太はゆなに向き直る。
「どうだった?桜は」
「うん…よかった…」
ゆなは解けたような顔をした。
ゆなの髪も春風に少し遊んだあとのように肩で毛先がほつれている。
「そっか…」
菊太はその顔に不思議な満足感を覚えた。
ゆなが、おもむろに手を差し出した。
「これ、あんたのぶん…」
その手のひらのなかにはありあまるばかりの桜の花びらがふわりと盛られていた。
ゆなの頬が少しゆるむ。
“思えばこいつも、いろいろ今に至るまで俺との生活に慣れるのは大変だったんだろう。なんだか、ようやく始まりだしたものがあるって感じだな…”
菊太は腹の底から温かくなるような感覚だった。
「こんなに集めたのか」
こぼれ落ちんばかりの花びらに菊太は、つい自然にゆなの手を下から支える。
受け取った花びらは菊太の手に優しく移った。
「ゆなさん、たくさん取ったんだよ。けっこうはしゃいでた」
「村の誰かから話しかけられなかったか?」
「ううん、話しかけられなかった」
「そっか…」
「みてみて。私もたくさん集めたんだよ」
と紗代子は腰から薄桃色の巾着を出して、それを顔の隣に並べた。
「今のお前から桜の香りがしてきそうだ」
「桜って匂いがあればもっといいのにね」
「そんな完全無欠な花、みんなから取り合われるだけだろうな」
「いいなあ。それ。私も、ふわっと華やぐような香りを、みんなに感じさせれる、そんな女性になりたい…」
「ハハハ、それはそれで大変だぞ?」
菊太は笑いながら言った。
―年頃の娘はだいたいそんなこと考えるもんだ…。
菊太は、そんな紗代子の明るい顔をかわいく思って見つめた。
「はい、紗代子。道明寺餅」
「わーい。あやめさん、ありがとう!」
貰うなり紗代子はそれをパクリと口に入れ、美味しそうに食む。
「はい、菊太。…それから、…ゆな」
あやめは菊太とゆなにも道明寺餅を渡す。
餅は、小ぶりでかわいらしい手のひらに収まる大きさで食べやすそうだ。
あやめの配慮がうかがえる。
菊太は餅を口にいれた。
甘くほのやかな桜の葉の香りが口の奥に広がった。
日はもう傾いて、もうすぐ夕暮れになる。
花見をする人も入れ替わり、最初きたときより、じょじょに減っていっていた。
ゆなも隣で道明寺餅を食んでいる。
「紗代子。この桜の花びら、どう使えばいいんだ?」
「んー?お水につけて1日おいとくの。その浸けたお水でお顔を洗うんだー。そしたら、お肌きれいになるよ!」
「らしいぞ。ゆな」
ゆなは餅を食べながら菊太を見た。
「紗代子、あたしにもあとで別けて」
「いいですよ」
「この道明寺餅食べ終わったらそろそろ帰る準備しよう。春っていっても、日が落ちるのはまだ早い」
「そうだね。…そういえば…父さま」
「佐吉さんは放って帰ろう。夜露を浴びれば酔もさめる」
「うぇーん」
「ははは!大丈夫。紗代子!こんなこといって佐吉さんに日頃世話になってる御恩が、こいつにはあるからね!ねー。」
あやめがニコニコ顔で菊太に迫る。
「はあ…。佐吉さん、ああなったら毎回お酒お腹に含んで重いんだよ。俺は酒樽持ちですか」
紗代子は「ごめーん!菊太ー。家で父さまに、めっちゃいっとくー」と手をあわせて、しおやかな笑顔を作っていた。
愉快なものだ、と菊太は思った。
「ゆな…」
菊太は隣のゆなをみた。
「なに?…」
―菊太。
ゆなが答えた。
はじめて菊太は、ゆなに名前を呼ばれてびっくりした。
「い、…いや。なんでもねぇっていうか…」
あまりに突拍子もなくて、自分が今嬉しいのか、可笑しいのか、よく分からなくなる。
ただ悪くはない…。
そうだ。…俺は…。
菊太は気持ちを穏やかにしていう。
「ほら、桜が散っていくぞ…。きれいだな」
ゆなの頬に当たる桜の花びらを払いながら菊太はいった。
「来年も…また、見に来れたらいいな」
―みんなで…。
ゆなは、それに頷くような細やかな笑みを口元にわずかに浮かべた。
「帰ったら夕飯だな」
春風とともに優しい誰も傷つかない、ゆるやかな時間が過ぎていく。
それは、ほんの束の間の休息だった。
暮れ馴染んだ夕暮れの紫色の空が広がる。
俺と、あやめと紗代子とゆなは帰り路の途中、それぞれ別々の道で別れて帰った。
手をふる紗代子とあやめの後ろを赤紫色の空が彩る。
ゆなと二人で手を振り返したあと、菊太たちは家に帰宅した。
菊太が木戸を開けると、ゆなが先に、すっと家のなかに入った。
「ただいま」
ゆながしんみりいった。
その「ただいま」には、どこか楽しい時間が去っていったことへの寂しさや侘しさが含まれているように菊太には思えた。
「おかえり」
菊太もゆなのそれにしんみりと答えた。
そうか―。
「ここが我が家だ。ゆな」
ゆながそれに
「わかってるよ。そんなこと…」
と笑って返した。
「そっか。…そうだよな」
―さあ、晩ごはんだ。…作るの、手伝ってくれるか?
うん、とゆなが頷く。
新しい春のある一日。
雪解けのように、なにかが始まりだす。
菊太は万巻の思いで、竈の薪を持ち上げた。
まだまだ困難はあるが、生活には困難がつきものだ。
なんだかんだ隣にいる人間が悪くないなら、恵まれている。
―だったら、二人でやっていけるはずだ…。
菊太は、そう自分を奮い立たせるように竈の火を吹いた。
佐吉は千鳥足ながらも、よしのに支えられながら自力で家に帰ったらしかった…。
同じ刻。
暮れ馴染む赤紫色の空の下。
村の役人の面々と別れたあとの孝吉は一人で自分の屋敷に帰っていた。
孝吉の目線は下に落ちている。
道端の小石をときおり蹴りながら、孝吉は今日あったことを振り返りながら歩いていた。
その歩く影だけが道の暗がりのなかで濃くなっている。
孝吉は、自分に従わない者がいることが腹立たしかった。
自分が完全に他人に対して優位でなければ気が済まないたちの孝吉は、今日の一連の流れのなかであやめに自分の言質に言ってかかられたことが気に食わず、ときおり小石を蹴りながら歩いていた。
せっかくのハレの花見ではあったが、もっとも孝吉は桜などどうでもよかった。
あんなものはただのみなが集まるための口実に過ぎない。そこで花など愛でていては、敵に腹をみせる犬だ。自分はそんなに愚かではない…。
口元を真一文字に結んで帰路を、孝吉は歩いていたが、ふとある考えが頭をよぎった。
歩きながら、その考えを自分なりに見分してみる。
孝吉のなかに黒い愉悦が湧き上がってくる。
「へー。楽しそうじゃないですか♪」
薄暗がりのなかの孝吉は、不気味ににこりと笑って今しがたの自分の考えに心弾ませながら、愉快そうに帰宅を歩いた。
季節は流れるように過ぎていく。
山のなかの小川の川面もきれいな新緑の緑を深く映すようになり、山菜も夏の山菜の芽がちらほら吹き出している。
久しぶりに村に行商のニシン売りが来たので、菊太は出かけた。
村の道端で、髭の生えたニシン売りが塩漬けのニシンやサバを売っている。
「お、誰かと思ったら、菊太じゃねぇか。どうでぇい。元気にしてたかい?」
「ぼちぼちだ」
「なんだ、おめえ。…少し見ねぇ間に、やけにおとなしい顔つきになってるじゃねぇか。…あ、そっか。…さては女でもできたな?」
「半分あたって、半分外れだ」
「なんだよ。その中途半端な答えはよぅ。逆に意味深そうに見えるぜ」
「そうだよ。深い事情の由縁だよ」
「おー?…まあ、いいや!お客さんだしな!魚買って行ってくれたらなんも詮索しねぇよ!」
「そこは魚買わなくっても詮索しないでくれ。…ところで、ニシンの塩漬けは、またあるか?」
「へい!まいどあり!ありますよ。旦那。どれくらい御所望で?」
「けっこう買おうと思う…」
菊太はニシンを、持っている金で買い込んだ。
「まいどあり!いやぁ。こういう商売はいいね!おいらは職人やってるより、地面の上で右から左に、物を転がして稼ぐほうが性にあってらぁ。いろんな人にも会えるしね。毎日、活気があっていいや。物だけじゃくて、いろんな場所できいた話を江戸の街に持っていってすりゃあ、おいらの仕事の株も上がるってもんでさ」
相変わらずおしゃべりな行商だな、と菊太は思いつつ
「話なら、こんなつまらない村にねぇよ。ここでは毎日平凡だ」
「その平凡がいいんじゃねぇか。菊太。この村の人間には平凡でも、違う土地から見りゃまた違ってそれが見えるのよ。平凡ってのはけっこう奥深いもんだぞ。それに平凡ってのは、人そのもののことじゃなくて、そういう人の“あり様”のことをいう。そして、いつでもその裏には平凡でない努力があるもんだ」
―いろいろとな、と行商の男は意味ありげに笑ってみせた。
「そういうもんかね」
「ああ、そういうもんさ♪」
「まあ、…いいや。先があるんで、ここで長話してる暇もない。話はまたあったら今度きかせてやるよ。おいちゃん、毎回ありがとな。魚もらってくよ」
「あいよ!」
右手を上げた行商の男をあとに菊太は、山へ向かう道へ足を向けた。
平凡な日々の裏には平凡でない苦労か。まあ、たしかになー、と菊太は思う。
“物を右から左へ…。言って、俺が今からしようとしていることも同じようなことかもな”
と思いつつ菊太は山道の途中の小さな地蔵の脇から辛うじて続く獣道に分け入り、ある場所に向かっていった。
菊太が目指したのは、村の西側にある小高い「歌山」という山の山頂から少し谷へ下った付近にある、しめ縄がはられた「御結び岩」という大岩が立っている場所だった。
この大岩は、山々を移動して生活しているゴウガシャたちが訪れる場所で、里の一部の猟師たちとゴウガシャたちが情報交換や里とのやりとりをするための場所になっていた。
菊太は、沢の音が聞こえる崖の道を越え、草や木の枝をかき分け細い獣道を突ききって、木立に囲まれた場所に出た。
そこには、その背中に巨大な古木を生やし、くすんだ赤色になった萎びた鳥居をその中心に抱えるように立つ一軒家ほどの大きさの大岩があった。それが結び岩だった。
その結び岩の周囲に背中に荷物を背負ったゴウガシャたちが五、六人ほど座ったり、岩から脇に流れている湧水を飲んだりして、それぞれ屯していた。
岩には新緑の濃い木漏れ日が落ちて、ゆらめいている。
あとは梢がゆれる音と、鳥の鳴き声以外聞こえない。
「今日はすくねぇじゃねぇか。みんなはどうした?」
菊太は屯しているゴウガシャたちにきいた。
「おらたちは先発の偵察だ。群れはまだ少し離れたところにいて、今知らせのやつが、群れのところにいってるよ。じきくるよ」
「そうか」
「今日はどんなもの持ってきた?」
別のゴウガシャが菊太にきいた。
「今回はこれだ」
菊太は持ってきた片手に下げたニシンの塩漬けを見せた。
「おお。海魚か。…腐ってないだろうな?」
「大丈夫。ちゃんとしたやつから買ってるし、それに塩漬けだ。どうだ?」
「よし、いいだろう」
それをきいてゴウガシャたちが菊太の周りに集まりだした。
「菊太。おらたちがくるのよくわかったな」
「お前らには山を巡る周期があるだろ。それから…あとは、なんとなく、今頃この場所にきてそうだなって、勘だ」
「いい勘だな。菊太。お前、俺たちの仲間になれ。きっとお前なら上手くやっていけるぞ」
「嬉しい誘いは勘弁してくれ。群れるのは得意じゃない。お前らにはお前らの群れの地位や掟があるだろ。苦手なんだ、俺はそういうの。長く生きてきて自分の苦手なことで、それだけはわかってんだ。…それよりコレ」
と菊太はニシンを差し出した。
「で、こないだあったとき言ってたカモシカの毛皮は手に入ったか?」
「もうすぐ群れがくる。そのときに、ゴンゾウが持ってくるよ」
そうゴウガシャの一人がいったとき、菊太の耳の端でシャナリ、…シャナリ、…という柔らかい鈴の音が聞こえてきた。
「来たぞ」
先発のゴウガシャたちが立ち上がり音の鳴る方へ顔を向けた。
菊太もそっちをみた。そこには白い翁の仮面をつけた、鈴の杖を持った男を先頭に、編笠を深く被った男や女、子供などの人々が、その男の後ろに続いて歩いてきていた。
…彼らはゴウガシャのなかでも「ワタリ」という名の集団として知られていた。普通、ゴウガシャたちは集団を作るといっても、そんなに大規模な集団形成を好まない。しかし、「ワタリ」はそのなかでも稀有な族たちで、集団内の人間の入れ替わりはあるものの、五十人から七十人程の規模で山を巡回し、集団生活をしていた。
その筆頭のゴウガシャが仮面の男だが、一切言葉を話さず、どのような男なのか菊太も知らない。
仮面の男が立ち止まると、持っている鈴をひときわ激しくシャリシャリと振った。それが休憩の合図らしく、ついてきていたゴウガシャたちは一斉に編笠を脱いで各々岩場や、木の陰に腰を下ろしはじめた。なかには大きな布を張って日除けにして横たわるゴウガシャもいる。
「菊太!」
太く高い声がして、髭の男が近寄ってきた。
「また会えたな!」
「おう、ゴンゾウ。久しぶりだな」
男は握った拳で菊太の肩を叩いた。
ゴウガシャは基本、里の人々の使うような言葉は使わない。山のなかでは、ほぼ人里の人間がしゃべる声や言葉を使わないやり取りをするため、里の言葉をしゃべる者はそこまで多くなかったりする。ゴンゾウや、他の顔見知りのゴウガシャたちは猟師との通訳も兼ねるので、普通の人の言葉を話せる。
「はいよ。言ってたカモシカの毛皮」
ゴンゾウはニコニコしながら、自分の葛籠から大きなカモシカの毛皮を取り出して広げた。
「おお。立派だな」
「こんなのがいっぱいいる俺たちしか知らないカモシカの棲みかがあるんだ。そこでとってきた。」
「毎回、助かるよ」
そういって、菊太はゴンゾにもニシンを与えた。
「へへ、海魚なんて久しぶりだぜ」
「じゃあ、さぞ美味しいだろうな」
「違いない。…でも菊太、これどうするんだ?これから夏なのに」
ゴンゾウは不思議そうにカモシカの毛皮をみた。
「これを海の向こうの異国向けに買ってくれるやつらがいるんだ。俺はこいつを、そのやつらに売るんだよ。そしたら俺は金が手に入る」
「へー、そういうのがあるのか」
「…ああ、弱小の水呑百姓なんでな。上手く生きなきゃいけないところは上手く生きる。俺は一週間分の塩漬けニシンで二ヶ月分の米が買える銭を買うってことだ」
「山以外の平地のことは、よくわからねぇや」
ゴンゾウは頭を撫でた。
「知らないほうがいいよ。俺もできれば知りたくない」
「菊太って、…大変そうだな」
ゴンゾウが頭をかきながらいった。
「まあ。そこは悔しいが、否めねぇな」
ゴンゾウと話していると平地の言葉を話せるゴウガシャの一人の女がニシンを見て近寄ってきた。
「それ、見慣れない魚だね。海魚かい?」
「ああ、ニシンだ」
「一つ貰えないかえ。あたしの作った椀と、とっかえっこしておくれ」
見ると、女の手にはきれいな薄い木椀がおさまっていた。
「きれいな木椀だな。こいつは姉さんが作ったのか?」
「この女はここから遠いところにある鈴鳴山という山の出だ。鈴鳴山に住んでるやつの椀作りは、どの椀作りよりもすごいんだ。近頃は平地でも評判らしくて、わざわざ買いに山に別けいっていく商人もいるくらいなんだ」
ゴンゾウが説明してくれた。
「そうなのか」
菊太はしげしげと美しくしなやかに曲線を描く木椀を見ながらいった。―これは価値がありそうだ。
「わかった。これも貰う。ニシンはあと自分が食うだけしかないが、二個貰えるか?ちょうど椀の取り換えの時期だったんだ」
「ありがとー」
女は椀を二つ腰の袋から出して菊太に渡した。
「良いもの手に入ったな。菊太」
「ああ、これは良いものだ」
木漏れ日を容れるように湾曲したきれいな木目の木の器を見て菊太はいった。
女は嬉しそうにニシンを笹にくるんで、女の子供とおぼしき少女がいるところへ戻っていった。その光景は遠目に、なんだか少し微笑ましく思えた。
「しばらく、ここに留まるのか?」
「いや、そこまで長くはいないと思う。って、いっても決めるのは山の王君だ。王君がここに長くいることを判断すれば俺たちはここにいる。でも今回は長くないだろう」
山の王君とは、ワタリたちの中心にいる翁の面の男のことだ。
「…そうか。前から思ってるんだけど、お前らの頭の山の大君って一体何者なんだ」
「それは俺も詳しくはわからない。…ただあのお方は特別なんだ。以前から山の神様を身に宿してて、もう体のなかは空っぽで魂がないって話をきいたことがある」
「なんだそれ。人間なのか?」
「あの方が化物だろうが神だろうが俺たちにとってあのお方に従うことで、上手くいってるなら、それは問題じゃないんだ」
「でも、そうは言っても不安じゃねぇか?」
「いいや?」
ゴンゾウの目は澄んでいた。
「形にとらわれちゃ俺たちみたいな身上のやつらは生きていけないんだ。俺も里の生活ができずに、最後流れ着いて山の人間になった身だ。だから平地の理のなかで暮らす菊太が、なぜそう思うか、少しわかる。…でもな、菊太。里で暮らしてても自分で気づいてないだけで自分のいる周りは、小さな偶然の縁や、今にも崩れちまいそうなわずかな因果の積み重なりで成り立ってて、よく考えれば自分がなんでちゃんと生きれてるのか不安になるくらい、わからなくなるもんだ。だから今だけ考えてりゃいい。山や水の流れや、風の流れは、みんな、そうなるようにそうなるんだからな。そうなることに理由をもってそうなっちゃいないんだ。我が身を越えた大きな流れのなかで、生きてるってそういうことだ」
ゴンゾウは元々、孤児だったらしい。親族のほとんどが飢饉で死に絶え、ゴンゾウだけが生き残った。それでも頼る身がなく世の生活が上手くいかず、ゴンゾウは山で魚を釣ったり獣を捕まえたりして生きるようになったという。そして、「ワタリ」に拾われ、今こうして「ワタリ」に属して暮らしている。そういうゴンゾウの言葉なら納得もできる。
「つまるところ、相手の正体がわかってなくても、良いように互いの営みが回ってるなら、それで良しとするってことか」
菊太は、少しゆなの顔を思い浮かべていった。
「ああ、だから今はあの方についていけばいい。ヤバくなったら逃げる。それだけさ」
そこでゴンゾウは話を切って、上を見上げた。
菊太も釣られて上を見上げる。
木立の葉が西に傾く日に照らされ、黄緑色に燃えているようだった。
菊太は木椀を持ってきたズタ袋に仕舞った。
「とりあえず、俺は里に戻るとするよ。待ってるのがいるしな」
そういうとゴンゾウは、少し不思議そうな顔をして、
「待ってるって…。家にか?…菊太。お前、所帯でも持ったのか?」
「あー?いや?…でも、同居人ができたってとこかな」
「いいことだ」
ゴンゾウの目は、遠くにある風景を慈しんで柔らかく祝福するような目だった。菊太は、その目を見ながら
「ああ。そうかもな。そういうことにしとくよ…それじゃあ、な…」
といって振り返って片手を上げて、ゴンゾウたちに別れを告げた。
日が西に傾いていた。
「ただいま」
菊太は木戸を開けて、葛籠を土間に下ろした。
ゆなが夕暮れのほの暗い座敷に正座して座っていた。
「暗いだろう。行燈に火を入れよう。…今日はなにか変わったことはあったか?」
「…なかった」
「そっか」
菊太は行燈に火を入れながらいった。
いない間にいろいろ家のことをやってくれると助かるのだが、今はゆなに高望みしない方がいいだろう。
「晩ごはん作ろう」
菊太は葛籠から山道で摘んできた山菜を取り出して台所に並べた。
ほー、ほーと屋根の近くでふくろうが鳴いている。
今日は雨戸を閉めずに寝ているので月の明かりで障子が少し明るくなっていた。
ゆなが障子に向いて菊太に背を向けて眠っている。
寝息が立っていないところを見ると、まだ寝ていないかもしれない。
「…ゆな…」
返事はない。
そうだよな、と思いつつしばらく菊太は何も言わずにただ仰向けで家の天井の木目を見ていた。
「いたいだけいればいいぞ。なんだか俺、お前がいる、この暮らしに慣れてきたし。最初は誰かが家にいるって慣れないことだったけど」
やはりゆなから返事はない。だが、菊太はゆながきいているだろうという気がして言葉を続けた。
「お前が、どんなやつか…、おっかあや、おっとうがいるか、どうかも知らない。今それを話さないことで差障りがないなら、俺は、きかない。お前もいつかいなくなるかもしれないもんな。ふっと出てって、そのまま帰らないなんてことがあるかもしれない…よな…」
ゆなは、やはり背を向けたまま何も答えない。
「お前の好きにしたらいい。ただ俺はお前がいる暮らしがなんだかいいじゃねぇかってようやくだしてきて…。ああ…ごめん。引き止める言葉になっちまうな…これ」
好きにしたらいいといいつつ、どこかでゆなを引きとめようとしている自分がいる。
―そういいながら、さびしんだよな、俺…。
菊太は、そう小さくつぶやいた。
「ごめんな。…いてくれて、ありがとう。…おやすみ。また明日」
菊太は、そういって目をつむった。
礼はまだ早いかもな…。
菊太は暗い闇のなかで、ぼんやり思う。
ゆなに自分の中にある気持ちを、はじめて言葉という伝えた。
言葉にすれば、俺が思ってたのはそんなものか、という驚きと、それだけのものだったか、という寂しさが菊太のなかには同居した。
「…ゆな」
菊太は小さく布団のなかで呟いた。
ゆなは隣で、仰向けになり、安らかに目を閉じていた。
相変わらず時折パチ、パチと鳴る家鳴りの音以外は聞こえない静かな風のない夜だった。
「今日はいい天気だね。この様子だと梅雨ももうあけたようだね」
大年寄が朗らかな顔でいう。
「そう…なんですかね」
「毎年のことを体が覚えていてね」
「流石、大年寄。歳の功ですね」
蝉が鳴いている。菊太の家の座敷でゆなと菊太が大年寄に向かいあって座っている。
「…まあ、そう構えなくていいよ」
「いえ、大年寄がうちに来ることなんてそうないので、慣れないだけです」
「そうかい。邪魔だったかな。でも、これが私の今日の役目でね。すまないが少しの間辛抱しとくれ」
大年寄は愛想よく笑った。
「今日うちに来られた用件は、ゆなのことですね」
聞かれる前に菊太は先手を取った。話の主導を握られる前にそうしいておいた方がいいのではないかと菊太は判断した。
「そうだねー」
「今のところの、村としての、ゆなへの見解はどうなんでしょうか?」
大年寄は、菊太のその言葉に、しばらく間を置いて菊太の顔を真っ直ぐみた。そして、尋ねた。
「ゆなさん、菊太に惚れられたのかい?」
意地悪な質問だ。
菊太は一瞬、言葉をのんだ。
ゆなは静かにただ畳の先を見て座っている。いつも通り、なにを考えているか、まるでわからない。
ゆなは何も答えない。
菊太は膝の上の拳に少し力を込めて、やがてゆるめた。「大年寄。それはどういう…」
菊太はとっさに言った。
大年寄は黙っている。しばらくの静けさのあと大年寄は菊太にきいた。
「菊太。お前はゆなさんのことをどう思ってるんだい?」
菊太は顔を上げた。
胸からなにか突き上げるようなものを感じた。
言葉にしようとしたら、自分の気持ちがなにかわからなくなる。…いや、さっきの大年寄の質問を咄嗟に嫌な質問だと思ってしまったことのなかに、その答えが既にあるのかもしれない。
菊太はできる限り、自分を内省して言葉を探した。
「大年寄から見ての今の俺はそう見えるんですよね」
大年寄は黙って菊太の顔を見つめた。
菊太は息を吸って、しばらく上に視線をやってから考えた。
「なら、俺のその他の人から見た態度のなかに、俺のゆなへの立場があります。俺も、こいつも…同じ人だ。俺たちと、…同じ…人だ。もし村のなかの他の人たちが、こいつのことを怪しい人間だと見ているなら、俺は一人、こいつの側にいる一人としていいます。こいつはあまりしゃべりませんが、そういう性分のやつです。隣で認めるしかありません。そのなかで今は事情的に二人でなんとか暮らすしかない」
大年寄は菊太の言葉を静かにきいていたが、やがてゆなの方に向かって口を開いた。
「ゆなさん…」
ゆなは相変わらず畳の先を見つめている。
「菊太の今の言葉は…裏返せば、あなたのことを知りたいんだ、という気持ちを暗に、その内に抱えて言っている…。なので、なにかそのことについて話してくれないかい?ここで…」
しばらくの間、三人の間に沈黙が流れた。だが、やがてゆなは口を開いた。
「あたしは…」
沈黙が流れた。ゆなは顔色を変えず口を開いたが、一旦口を閉じた。
菊太の鼓動は高くなった。
状況がもう自分でも、よくわからない。
「菊太のことが…好き…」
「―は?」
菊太は一瞬耳を疑い、驚きのあまり耳たぶが熱くなっていくのを感じた。
「なに…イッテ…」
変な間があった。とたん
「アッハッハッハッハ」
と大年寄が大笑いしだした。
菊太はゆなへのなにを言っているのか?という混乱の気持ちと焦りと気の動転で、力が抜けていくのを感じた。
…ああ、もうどうなってもいいかもしれない。
この女は予測不可能だ。
「おやおや…いきなり結論をいう性分とはね。いや…アッハッハ」
大年寄は目に涙をためて続けた。
「長生きはするものだよ。人ってこんなにも同じ隣にいる人を楽しませてくれるものなんだから。そして、いつも男と女の晴れた惚れたの仲は落語みたいにドタバタの連続だ」
「大年寄。申し訳ありません。あの…その…こういうときなんて言ったらいいか俺わからなからなくて…」
大年寄は目を擦りながら、言った。
「簡単だよ」
―菊太、お前さんはどうなんだい?
大年寄が優しい目できいてきた。
ああ、こいつと出会わなければ、こんなとんでもなく気の上がり下がりの激しい一日を体験せずにすんだかもしれないのに…。
菊太は苦々しいやら恥ずかしいやら、それでいて、どことなく嬉しい気持ちやらでまだ胸がうずくなか、畳をまっすぐ見ながらいった。
「もう…わかんねぇや…」
自分で自分のなかのことを言葉にすると笑けてくる。「でも、こういうのわっかんねぇけど…わかんねぇお前が好きなんだ」
最後の下りは一呼吸で言いきれた。そういう自分が不思議だった。
菊太は隣のゆなの手を握った。なぜかそうするのが自然だと思った。
「そうかい…」
その菊太とゆなの手を見ながら大年寄はいった。
「若いねぇ。菊太。つまりこれは、…ゆなさんは介抱されて、いつか出ていくつもりだったけど、ここに留まることになって、ここで夫婦縁組みということかい?いろいろな説明を村にその都度して、説得していきながら、二人でこれからも暮らしていくということかい?」
「はい。俺、こいつに身寄りがないなら、こいつと一緒のいます。俺と、こいつ。二人で」
「ゆなさんは?」
ゆなは目線は静かにそのまま顔を上げた。
「はい、ということでいいね…」
大年寄は頭をかきながらいった。
「困ったことだよ。今日は、ゆなさんの聞き取りのはずが、縁組みの仲人になっちゃったんだから」
「すみません。でも、言葉にしてようやくわかりました。俺、こいつと一緒にいます」
はあ、とため息をつきながら大年寄はいった。
「わかったよ。ゆなさんが菊太と夫婦になるなら、ゆなさんはこれからこの村のなかの立派な一人だ。私からは、なにもいうことはない。旦那に家から出されたり、…旦那ともめて家から逃げ出したり、…人生はいろいろある。だからあんたについて、あんたが今は言いたくないなら、それでいい。あなたの身分はわからないが、その心は本物だろう。今この場の、いろいろなことから察してね。…そうなると菊太…二人の祝言は家であげるのかい?」
「いえ、それはしないと思います。二人で暮らすことが続くというだけで、二人でいられるなら夫婦でいるってだけなんです」
「ゆなさんはどう思っているの?」
「…あたしは、そういうの…よくわからない…」
ゆなは大年寄の言葉に戸惑った顔を見せた。はじめて見せたゆなの人間らしい顔だった。
「そうかい…」
「…でもあんたと一緒にいられるなら、あたしも、そういうのはあってもなくてもいいんだと思う」
「…はじめてお前の口からお前の考えなんてきいたな。…今日は、ど、どうした…」
菊太は嬉しさと動転で再び目を丸くした。
「わかった。ただ結納は正式に村でさせてもらうよ。ゆなさんは、この村の人間じゃないからね。この村のしきたりで、村の外の人と村の人が縁組みするときの結納は村が行うことになっている。そのハレの場で、二人で証文を書いて、ようやくちゃんと村のみんなで認めて、縁組みが定まるんだ。…手続きはいろいろとあるが、話はそのあとだ…。」
―そうと決まったら一旦帰るよ。邪魔したね、と大年寄は腰を上げて腰をさすった。
「なんか、いろいろ急な展開になってすみません。なんと言っていいか」
「いいよ。いいよ。固くなった体がほぐれて血の巡りがよくなった。若いねぇ」
「はい…。すみません」
「老いも若きも仕方がないことさ」
「…すみません」
「さて、お前さんのお父さんとお母さんにも、ちょっと手を合わせてから帰るねぇ」
と、そういって大年寄は仏間で手を合わせてから
「じゃあ、お二人とも…のちほど」
と帰っていった。
大年寄が戸口から出ていったあと、菊太は一気に力が抜けた。
「はあああああ」
ゆなは隣で、しおらしく立っている。
「お前、なに言うかと思ったら、あの場でなに言ってんだよ」
ゆなは黙っていた。
「なんで、あんなこと言ったんだ。俺…俺…情けなくなって恥ずかしくて死にそうだったし、いろいろもう訳わかんなかったわ。あー!、もう!、なんでだよ!クッソ!」
菊太はそのまま畳に寝転んだ。
心臓がドクドクと鳴る。
怒りと恥ずかしさと、様々な感情が一気に菊太のなかで混ざりあった。
―なんなんだ、今日は。
…なんなんだ。…お前は。
なんなんだ…俺は。
「クッソ!…クッソ!」
ゆなはそれを隣で静かに眺めている。
蝉がジリジリと外で鳴いている声が小さく座敷にも降ってくる。
じわりとした熱気のなかで二人の沈黙の時間が交互に続く。
やがて菊太は、今の状態になっている自分がおかしくてフッと笑った。
「あの雪の日さ…。お前が俺の家の前で倒れてた日。お前…覚えてるか?」
ゆなは黙ったままだった。
「あのときはもう腰抜けちゃっててさ。どうしていいかわかんなかったんだよ。…山ではあんなに動揺することないのに、なんで平地でこんななってんだって思った。…でも、冷静でいなきゃって思えたのはお前を背負ったから。お前は軽かった。それで、…雪みたいできれいだった。…なんでだろな。…俺もなんで今こんなこと言ってんだろう。…でも、あの重さ…今でも思い出すんだ…。あの重さがあのときの俺にとってお前だった。儚い重さだよ。お前は。」
菊太はため息をついた。
相変わらずゆなは黙っていた。
菊太はゆなを横目にして、続けた。
「もう一生、あんなことないかもしれないけど、なんだか惜しくってさ。人の儚さを知った…あの経験が俺には貴重なものに思えてさ…。」
―だから…と菊太は言葉を続けようとした。先の言葉は見つからない。もとより菊太の独り言のような話なので、先が見つからなくとも一向に構わないのだが…。
菊太は穏やな顔になった。
「だから、出ていかないでくれ…。俺、はじめて人を背負って、重さを感じて、誰かが誰かの隣で生きてるってこういうことなんだって思ったんだ。今も、そう思ってる。お前は隣にいて、なにも言わなくて端から見れば一見、孤独に見えるのに、お前の心はそれを孤独とも思っていない。それが、言葉じゃなくて実感としてお前から伝わってくる。…わかる。それで俺はずっと…今もこうして独り言みたいに言ってるけど、でも不思議だな。同じように孤独を感じないんだ。お前が孤独を感じていないから。…まるでその目は孤独を知らないみたいで…」
菊太は押し殺すように言った。
「ゆなが…きれいで、…好きだ…」
―だから…。
だから、なんなのだろう。それのなにが、なんの理由になるのだろう…。
気づくと菊太の横にゆなが腰を下ろしていた。そのゆなが、菊太の頭にポンと手を置く。
「フフ…」
と菊太は笑った。
―なんだよ…。
「菊太…」
「うん?…」
「菊太は菊太だね」
「当たり前じゃねぇか」
菊太はゆなの手に自分の手を重ねた。
「なんで笑ってるの?」
「笑ってんじゃねえよ。呆れてんだよ」
「なら、よかった」
「よくねーよ!」
「もっと笑った」
「だから、笑ってねーの!」
―ああ、もうお前は童子か!といいながら菊太は跳ね起きて、赤くなった顔をゆなから反らしながら、仏壇に手を合わせに行った。
相変わらずジリジリと蝉が鳴いている。
そんななか菊太は仏壇の前で手を合わせた。
「おっとう、おっかあ…。俺、大変なやつ抱えこんじゃった…」
仏壇に向かって手を合わせながら、菊太自身は真面目な気持ちで、つぶやいたつもりだったが、その顔がどこか安心と信頼に満ちているように見える顔だったのを見ていたのは仏壇に並ぶ位牌だけだった。
こうして、小さな家で不揃いな心と心が不揃いなまま隣り合って納まるような二人の暮らしがはじまった。
「菊太!ゆなさん!一休みしようって、父さまが!」
紗代子が土手の上から呼ぶ。
「わかった。…ゆな。腰休めだ」
今日は村の持ち回りの土手の草刈りに、菊太の家と浅見家があたったので、菊太とゆなは佐吉、よしの、紗代子と朝から草刈りをしていた。
朝から空は快晴で雲一つない夏空だ。
「三人とも、昼には仕事を終わらせよう。この日照りじゃ昼からはクソ暑くなって仕事どころじゃねぇ」
佐吉が遠くから叫んだ。
今日は藤治郎が寺に預けられているので、よしのも草刈りに精を出せるようだ。よしのは畑仕事などの手際はいい。おかげで予定より早く草刈りの範囲が進んだ。
この調子なら日が真上に上る前には終えれそうだ。
ゆなは声をきいて手を止めてこちらを見た。
てぬぐいから、汗で濡れた髪が少し、するりと垂れるゆなは大人びて見えた。
「ゆなさん、お水飲んでください」
紗代子が気遣いながら言った。
ゆなはゆっくり立ち上がって、こちらを向いた。
土手の木陰に菊太とゆなと紗代子、少し離れた場所によしのと佐吉が座る。
ミーン、ミンミンミン、ツクツクボーシ、ツク、ツクツクボーシと木の上から蝉の声が降り注ぐ。
「今日も朝から暑いね」
紗代子が氷の入った桶から水を椀に注ぎながらいう。
「そうだな」
「お水、たくさん飲まなきゃだよね」
「…この日照りだとな」
ゆなは水が注がれた椀を受け取り、ツツっと唇に当てて飲んでいた。酒を飲んでいるような、上品な水の飲み姿だった。
「…?なに?」
ゆなが菊太の視線に気づき、不思議そうにきく。
「いや、…なんか酒をきれいに飲む、みたいな飲み方してんなって…」
「そう…」
ゆなはなぜか可笑しそうに笑った。
「ゆなさん、調子は悪くありませんか?」
「うん…大丈夫…」
「お前は大丈夫か」
「あたしは…へいき…」
少し紗代子が顔を背け気味にいった。
その顔に菊太は心に隙間風が一瞬、吹いたような気がした。
しばらく、三人の間に静かな沈黙が流れた。
もうミンミンゼミは鳴きやんで、ツクツクボーシ、ツク、ツクツクボーシ、ツクとツクツクボウシだけが鳴いている。
紗代子も水を飲みながら、木陰から空を眺めているようだった。
「ゆなさん…菊太…おめでとう」
ぽつりと寂しそうに紗代子がいった。
菊太はなんと答えていいか分からなかった。
「もう広まってるんだな。俺とゆなが夫婦になるってこと」
「村は、その噂でモチキリ…」
「そんな…たいそうなことじゃないのに…」
「たいそうなことだよ」
―あたしにとっては…。そういう紗代子の心の声が菊太には聞こえてくるようだった。
「だから…」
―おめでと…。と紗代子は、夏の暑さのなかに、つぶやくように小さく言った。
「紗代子…」
「…二人は似合ってるよ…。そんな二人の隣にいれて、あたしも…」
そこで紗代子は言葉を止めた。
目を背けて、どこか遠いところへ思いをはせるその紗代子の横顔は崩れそうで、儚い。
なんでこんなコトになったんだろうな…。なんで今まであたり前みたいに話せてたことが話せなくなってギクシャクして、俺もそのギクシャクをどうにかできること言えないんだろうな…。
菊太は上向きぎみに夏空を見上げた。
蝉の声が遠く感じる。
じわりと熱が体をまとう。
そんなとき、ゆなが紗代子の体を抱きしめた。
「ふ、ふぇ!?」
紗代子が驚いてスットンキョウな声を上げる。
ゆなは黙って紗代子を抱きしめる。
「ゆ!?…ゆなさん!?」
菊太もゆなの唐突な行動に驚いて目を見張った。
ゆなは紗代子の顔を菊太から隠すように、紗代子を覆う。
「ゆ…ゆなさん…あたし…汗で…」
ゆなは紗代子を抱きしめたままでいた。
「今、泣いてもいいよ」
ゆなは優しくいった。
「…エ…。………ゆなさん…今、あたし…」
「なんだかこうしなきゃいけない気がしたから」
「ゆな…さん…」
「…ん…」
「あたし…あたし…」
ゆなは紗代子の頭を擦った。
「なんで、こんなに目が熱いんだろう」
ゆなは菊太に静かで穏やかな顔を向けていった。
「あんたに、この子の涙を見る資格はない…。」
「え…。あ、…ああ」
心をつまびらかにされたようで、菊太はフイと気まずそうに顔を上げた。
「だから、いっぱい泣くんだよ…」
ゆなは紗代子の頭を撫でた。
「ゆな…さん…ふっ…ゆな…さん…ふっ…く…ふぇん…」
菊太は目をつむって、夏の陽気を吸い込んだ。
じわりと夏の熱気が三人を包む。
紗代子のすすり泣く声が、菊太の耳にかすかに聞こえた。
―ああ、暑い…。
今はそれだけしか考えられない…。
やがて、ゆなは紗代子からそっと離れた。
紗代子の頬には涙の筋の跡が伝い、目はキラキラしていて、赤い。
その目がほのやかに地面を見つめる…。
紗代子の涙を見るのは、紗代子が菊太の腰ぐらいの背丈の幼かったとき以来だったかもしれない。思えば、こいつはなんだかんだ人に気を遣って感情を抑える我慢強いやつだった…。
…そっか…。そうだったよな。
迷子になって泣いてる紗代子を連れて家まで送り届けた日もあったっけ…。
また、菊太はこの場でのゆなの行動にも驚いていた。
“こいつ、こんなに人の情を解すやつだったんだな。”
「ゆな…さん…。」
「なに?」
「幸せになってくださいね」
「あんたも」
「あたし、ですか?」
「こんなに泣けるんだったら、あんたは、きっと幸せ者なんだよ」
「泣けるのは幸せだから?」
「そ」
「フフ…。そう…なのかな。…不思議ですね。いつもは菊太からきくようなことなんですけど…。ゆなさんも、なんだか菊太に似てきてる…」
紗代子が弱気に笑ったとき
「あ、紗代子じゃん。菊太も…あんたも…。あんたらのとこ、今日草刈りだっけ?暑いのに頑張ってるねー。…あれ?…紗代子、…その目…どうしたの?」
とあやめの声がした。見ると、目を丸くした巫女袴姿のあやめが道に立っていた。
「あ、…あやめ」
「紗代子…あんた泣いてるじゃん!!菊太…。あんた、もしかして紗代子泣かしたの?」
「チ、違う!!……。…とはいえないか…。いや…涙の理由なんてすぐ説明できるもんじゃねーんだよ」
「原因はどうと、あんたが紗代子泣かしたんだったらタダじゃおかないからね!!…紗代子、大丈夫?」
「あやめさん…エヘヘ…こんにちは…。違うんです。菊太のせいじゃなくって、…あたしの流す涙は幸せ者の上にだけ降る雨なんです…」
「恵みの?雨?…ん?…ん?」
あやめは唇に指を当て、上向きぎみに考えこんだ。
「…って、そうあたしの涙を、ゆなさんが…。あと最近日照り続きだから、あたしの涙で少しでも…みんな…潤えばなって」
紗代子が、そう、おかしそうに涙を拭きながら笑っていった。
あやめはゆな、菊太、紗代子の顔を見ながらやがて言った。
「あー、もうそういうこと!?菊太、あんたってオトコは!?ほんっっとうに昔っから、そういうトコ弱いよね!!」
今ので分かるのか。…というか、責められてばっかだな、俺。
菊太は頭をかきながら、上を見上げた。
今日は俺にはなにも言う資格はねぇや…。
「まあ、そういうコトなんだね…。……だいたい察したよ」
「お前、これから、どこ行くんだ。正装して」
「寄合があってね。父さんの代わりに出るんだ。あの四角顔、夏風邪引いちゃってさ。ほんと自分の体くらい大事にしてほしいもんだよね」
あやめが呆れた顔で空を見上げたとき
「あっれぇー?あやめさんに、菊太さんもじゃないですかぁ」
と聞きなれた嫌な声がした。あやめの後ろから孝吉が歩いてきていた。
「あ…孝吉さんだ。またこんなに暑いなか嫌みでも言いにきたんですかぁ?…ご苦労なことですね」
あやめがその声に即座に反応する。
「そういう、あやめさんこそ、こんな暑いなか、寄合の道草くってなお、よくそんな元気に嫌みが言えるもんです。若いっていいですね」
「それはどうも。素直にお褒めの言葉と受け取ります。ありがとうございます」
あやめが後ろを向いて、孝吉にペコリと丁寧にお辞儀をした。
孝吉はそこへ相変わらずニヤニヤしながら、歩いていきた。
「おや、…あなたは浅見さんところの…」
「さ、紗代子です…」
紗代子はオドオドと孝吉に答えた。
「あ、紗代子さんでしたね。お取り込み中ですか…。これは失礼しました。…で…。」
じとり、と孝吉の目がゆなを捉えた。
「あなたが……ゆなさんですか?…はじめまして」
ゆなは何も答えず孝吉をじっと見つめた。
「きれいだから、無口でいれば、そのきれいさが引き立つとでも思ってらっしゃるんでしょうかね?……。自惚れてるってことですか…。でも、あっしは、礼儀として、そういうの、どうかな?って思っちゃいますよぉ」
「なんのご用ですか?孝吉さん?こんな昼間から…自分が暇だからって、他人が働いているのを見ると惨めになる気持ちは分かりますが」
あやめは強気に出る。孝吉は相変わらずニヤニヤしながら
「あっしも、寄合に行くところなんですよ。暇に見えます?それはよかった。働くって、汗水垂らすことだけじゃない…。話しあって、村のこれからのことを考える…。地味なことですが、本当に大事な働きは目に見えない。そういうことです」
と嬉しそうにいった。
「へー、あの話しあって決まってもだいたい無駄なことがたいていな仲良しごっこにたいそうな考えをお持ちなんですね。孝吉さんは人柄が高潔なんでしょうね…。で、その大事な寄合に早く行ったらどうですか?あたしは、ここで水もらってから後から行くので」
「言わずもがなです。…本当に神社の娘ってだけで、後から行っても、みんなからチヤホヤしてもらって良いご身分だ。それが神に仕えるからというのなら、あっしにも、そのご利益のお恵みくらい分けて貰いたいですね」
と目を細くして孝吉は苦々しく行って、また道を歩きだした。
「あ、そうそう。今回寄合の議題には菊太さんとそちらの方のことが上がるでしょう。まあ、せいぜい首を長くして話し合いの結果を待ってればいいでしょう」
最後にそう孝吉はこちらを向いてニヤリと笑っていった。
そこへ村の子供たちが二、三人、道の先からやってきた。
「あ、加奈子と浩太郎と千代だ…」
紗代子がそうつぶやいた。その先には村の子供が何人かが、くっついたり離れたりしながらこちらに歩いて来ていた。
「あ!孝吉さん!おはようございまーす!これからお勤めですか?」
「孝吉さん!孝吉さんだー!この前は蹴鞠を上手く蹴る蹴り方教えてくれてありがとうございます!」
「孝吉さん、また遊ぼーよ。孝吉さんかくれんぼ得意じゃん。今度は絶対見つけてやるんだから!」
子供たちは孝吉の周りを取り囲んで騒ぎ立てる。
「あー、コラコラ。引っ張らないのー。この着物脆いんですよぅ。あ、わかった、わかったから離してくださいよ」
孝吉はさっきとは打ってかわって軟らかくなる。まるで子犬にじゃれつかれて、攻撃できない狼のようだった。
「孝吉さん!孝吉さん!絶対約束だからね!」
「そうだよー。こないだだって遊ぶっいって、お勤めがあって来なかったじゃん」
「あのときは…すいません…。どうしても行かなきゃいけなくって。ええ…はは、くすったいです。やめなさい、ハハ」
「今日も源照和尚さんのところで、みんなでお経読んだよ。はんにゃーはーらーみったーしんぎょー!」
「あと、ロンゴも、ロンゴも!子曰く、学びてときにこれを習う。亦、よろこばしからずや」
孝吉は相変わらず笑っている。それは意地悪な笑いではない。
あやめは目を丸くして、その光景を見ている。
孝吉は別人のように子供たちにされるがままだ。
「ハハ、やめなさい。まったく…子供たちには未来があるってもんだねぇ…。ね?…今日はこのくらいにしといてくださいよ。あっし、これから行くところあるんで。ね、ね?」
「えー、しっかたないなー」
子供たちは孝吉を離して、孝吉を見上げていた。
そして、不味いものをみられた顔で孝吉はこちらを見ながら、子供たちと別れて、またとぼとぼ道を歩き出した。
「孝吉さんって…子供好きなんだね。」
紗代子が驚いたようにいった。
「ほんとイガイ…。あんな一面があったなんて…。」
あやめも驚きながらそれを見送っている。
たしかに、孝吉のあの顔なら本当に子供のことは良く思っていそうな感じがする。
人には意外な一面があるものだ。
ゆなは菊太の横で孝吉の後ろ姿を見送りながら
「あの人はあたしと同じ…」
とポツリと小さくつぶやいた。
「…え?なんて?」
菊太は聞き返したが、ゆなは首を降るばかりだった。
「さ、ゆな、菊太、紗代子、やろうか…。おう、あやめちゃんじゃねーか。今日はまたどうした?ちゃんとした巫女の格好なんかして…今晩は神社で宴会かい?」
「なんでそうなるんだよ。まったく。ごめんねぇ。あやめちゃん。うちの亭主は酒樽に手足がついたようなもんだから、酒樽がまたちょかいかけてると思って許しておくれ」
「アハ!佐吉さん、よしのさん、暑いなか、お疲れ様です!あたしはこれから寄合なんですけど、紗代子や菊太がいるもんだから、ついでに立ち話していこうと思って!」
「はい、あやめ。水飲んでいけ…。暑いし…お前に倒れられちゃ村の医者がいなくなる」
「え?あ…ありがと…。ホントに水わけてもらっていいの?」
「ああ、飲めよ。…分けてあげてもいいだろ。紗代子…」
「もっちろん!」
「ちょうど、喉乾いてたんだ」
とあやめは水を一杯飲んでから、寄合に出掛けていった。
「なにか言ってたか?孝吉さん」
佐吉がボソリと菊太にきいた。
「特には」
「そうか」
―今日上手く話がまとまりゃ来週がお前らの村での結納の儀だからな…。まあ、まとまるだろうがよ
佐吉がポツリと言った。
佐吉も心配しながら先ほどの様子を見ていたのだろう。
「ま、なんにせよ、この晴天。思い悩んだって泣いたりして雨も恵んでくれたりしめぇ。そう思ってるほうが気楽ってもんだ。ぼちぼちやろうぜ。八部がたの力でやって、余力を二部くれぇ残しながら、きれいに終えるのがいい仕事ってもんだ」
と佐吉が意気揚々といった。
ゆなが立ち上がった。
夏も終わりに近づいた、ある朝。
湿気た埃っぽい雨が降っている。
家のなかは暗い。その暗い家のなかを村の若い女たちが忙しなく行き交う。
菊太は奥の仏間で紋付き羽織を、ゆなは縁側の座敷で白無垢の着付け支度をしている。
結納の衣裳は村で共同で借りあって使う衣裳で、いつもは神社の蔵に置いてあり、村で行われる結納のときに村人に貸し出される。
村の寄合で、ゆなのこの村への居住と、菊太とゆなが夫婦になることの容認の審議は無事承認され通った。
菊太もゆなも身寄りがないため、村で結納式を行うことになった。
そして、今、ゆなと菊太の周りには、この結納式の日のために寄合で決められた持ち回りの世話係の女たちが三人がかりで衣裳の着付けをしている。
着付けを取り仕切るなかでは一番年増であるお富さんのかけ声のもと若い村の少女たちが、ゆなと菊太の回りをくるくると回ったり、首を傾げたりしながら帯を持ち上げたりして着付けに勤しんでいた。
「ああ、違う違う、お妙ちゃん。もっとそれは上にやるんだよ」
「え、…え…、お富さん、それって、どれのことですか」
お妙と呼ばれた少女はゆなの背影から顔を覗かせながらいった。
「だから、そこの腰の…それだよ。それ。あーもう、じれったいねー」
「―それじゃわかりませんよ」
お富さんは見かねたように、ゆなに近寄っていって根付けと帯を直し始めた。
お富さんはこの村での結納がある度に着付けをこなしてきたので手慣れているが、体がもう弱いこともあり、今では着付けの指示役で、着付けをするのは村の若い女と決まっている。それはその作業を通じて村で結納の儀の物の触りを伝えていくためでもあった。
お富さんはテキパキと着物を正していき、その過程でお妙にいろいろ教えていく。
お妙は戸惑いながらも「ハイ…ハイ…」と頷きながらきいている。
ゆなは無表情に、その様子を見つめるでもなく不思議そうに静かに障子からほのかに漏れる朝の薄明かりを見ていた。
一方の菊太は襖で仕切られた隣の仏間で花婿衣裳をさなから着付けられていた。
さなは村の紋付き羽織を菊太に着せ、今一度帯の締めを確かめながらいった。
着せられた着物は少し重く、暑さが籠る。
「菊さん、これ、きつくない?どう?」
「ああ、ちょうどいい案配だ」
「きつかったら言ってね。この後、長いから。…あたしも…」
といいかけて、さなはやめた。
「うん。無理しないようにするよ」
菊太は、そんなさなを見て穏やかにいった。
「でもあの菊さんが、もうお婿さんになるとはねぇ。一緒にみんなで遊んでたあの頃が懐かしいよ」
「そうだな。あの頃は―」
そこで菊太は言葉を切ったが、続けた。
「総司もいたしな…」
「うん…いたね…」
そこには―もう、いないね、という言葉が含まれていた。
「さな…」
菊太はさなの名前を呼んだが、さなはそれを振り切るように仏壇に顔を向けた。
「菊さんのお父さんとお母さんも喜んでると思うよ」
「…心配してんじゃねーのか。上手くやっていけるか。もし極楽にいても、こんな息子じゃ内心、腹の底は落ち着かねぇだろうよ」
「菊さんは不安に思ってるんだね。この先」
「これは始まりだからな。まだ何も終わっちゃいないから」
「じゃあ、もしこの暮らしの先に、終わりがくるなら気が楽になるの」
さなはふとこちらに少し顔を向けた。
「…終われば…寂しくなるな」
「ああ、よかった」
「なにがだ?」
菊太は笑いながら首を傾げた。
「ほら、もうじき花嫁の白無垢の姿を拝めるよ。菊さんもお父さんとお母さんに、こんなきれいなお嫁さんもらえましたよーって、先に知らせて手合わせときな」
さなは仏壇の前に座布団を広げながらいった。
「…ゆなさん、ほんと、きれいだから」
すると襖が開き、菊太たちのいる仏間にも薄ぼんやりした明かりが入りこんできた。
そこに白無垢姿のゆながしずと立っていた。白無垢の綿帽子の覆いが深くゆなを包み、その奥に静まっている顔は緊張を感じさせず、どこかこの場を遠くから見るような、不思議な落ち着きすらあって、それがなぜか菊太には頼もしく感じられた。
「できた…みたい…」
ゆなは菊太におずおずと言った。
「おお、…ああ…今日はいつにまして…白いな」
「きれいって言ったげなよ!菊さん!」
さなが手を叩いて笑った。
「あ、ああ…」
そういうものか、と菊太は呆気に取られたように目をそらし、そして、ゆなに向き直っていった。
「きれいだな。ゆな」
そういうと、ゆなは、なぜか驚いた顔をしていた。
「さ、二人とも頃合いは押してるよ。二人で仏壇に手をあわせて。…それが終わったら神社までお練りして行って神主さまに祝詞を上げてもらう。そしてそのあと生長殿で村での結納。ここで二人で、この村に暮らしていくことを、村の役人はじめ、みなの前で示して確かめあう。そのあと花嫁、花婿の御披露目の酒宴だよ。ざっくりとした流れはこんなところだ。何かきいておくことがあれば、今言っておくれ。始まっちまえば、あとは流れるようにあれよあれよ。息もつくまもない。今晩は疲れてゆっくり寝られること間違いなしだよ」
「わからないことだらけで、何をきけばいいかわからない。こういうとき、お富さん…どうすればいい?」
菊太は歯を見せて笑った。
お富さんは真面目に受け取ったのか、至って真剣な顔で
「そういうときは、実際やってみるしかないってことだよ。一回きりの人生のなかの、一回きりのことなんだから」
と言った。
「さ、二人とも。もう神社からの迎えが家の前で待ってる。手早めに用意を済ませて家を出るよ」
なにがなにやら分からぬまま。菊太は急かされて仏壇に向かい、自分はどこへ向かっているのだろう、と手をあわせて考えた。
ゆなは、いつもと変わらない。佇まいで菊太にはそれが分かる。ただ今日のゆなは綿帽子で覆われた横顔しか見えないだろう。
準備に手惑いながらも、二人で家を出る。さなが引戸を開けた。
そのときのさなの顔がどこか苦しいような、その苦しみを諦めたような、切なげな表情で菊太を見たのが菊太には印象に残った。
「さ、菊さん。…こっちへ」
「ありがとう。…さな」
さなが傘を広げて、上げた。
外は相変わらず雨が降っていた。
門のところには、あやめと村の花嫁行列に並ぶ面々が赤い傘をさして待っていた。
「よ!二枚目!」
あやめはこんな雨の中でも飛びっきりの笑顔でいった。
「なに気ぃ張ってんの!今日の主役はあんたたち二人なんだからね!あたしも今日はかまってあげられないから、ゆなのこと、よろしく頼むよ!」
―おめでとう!
いつもと変わらないその笑顔に菊太は安心を感じた。
“なんだ、お前…これじゃ、いつもと変わらねぇじゃねえか。”
「行こう。ゆな」
菊太は隣にいるゆなに、確かめるようそういった。
菊太とゆなは別々の籠に乗り、一行は大所帯の行列になって、さなを先頭に田んぼの畦道を歩いた。
このとき菊太ははじめて籠というものに乗った。
籠のなかは、ずしりとしており、思ったより広かった。
ふわりと地面から籠が浮き上がり、一行は進み出す。
「佐吉が先にが行っていろいろやってくれてる。会場に着いたら、お前は事の運びを詳しくきいてくれ」
と籠の窓から付き人が菊太にいった。
地蔵がある四辻まで来ると、女、子供を含めた村の大勢が集まっており、こちらが来るのを待っている。
そのなかに紗代子の顔があった。人混みのなかからこちらに来る。
「紗代子」
紗代子は菊太の籠の横に付いた。
傘をさしながらなので、動きがおぼつかない。着物の裾も泥水をかぶってしまいそうだ。
「少し止まってくれ」
付き人が紗代子が近づいてくるのを確認して、一行の行列に止まるよう言った。
紗代子は晴れ着姿で、いつもは幼い顔もどこか艶やかな落ち着きをまとい、どこか諦念を秘めたような顔だった。
「菊太。おめでとう」
「紗代子、来てくれたんだな」
「うん…!あったり前じゃん!」
紗代子はとびきりの笑顔で笑った。
「それだけなんだけどね…。あたしが言えるのは…。なんか、気の利いたこと言えなくて…ごめん。」
「そんなことない。俺…」
そこまで言って菊太は言葉をやめ、軽くなったような顔で
「ありがとう」
とだけ言った。
「幸せになってね」
「お前もな」
そういうと紗代子は少し寂しそうな複雑な顔をした。
「ゆなさんと少し話してきていい?」
「ああ」
菊太は付き人に、もう少し待ってもらうように言った。
紗代子は菊太の後ろから着いてきていたゆなの籠の前まで行き、ゆなと何か話しをしていたが、しばらくして戻ってきた。
「ごめん。話しさせてもらって」
「いいよ。そんなの。お前もゆなのこと気にしてくれて、ありがとう」
「これから先、菊太たちが、穏やかな暮らしを二人で送れるような、とっておきのおまじないの呪文かけてきたから!」
紗代子は突き抜けたような明るい笑顔で笑った。
「あ?え?、お、おまじない?」
「うん!」
―おまじない!と元気に紗代子は籠から離れながら言った。
「また!あとでね!菊太」
紗代子が遠ざかる。
「おう」
菊太は籠のなかで小さく返事をした。
一行は再び歩きだす。
四辻に集まった人々の前を通過するとき、さながみなに頭を下げた。
菊太は籠の隙間から集まった村人たちを見ながら、みんなゆなを見に来てるんだろうな、と思った。
四辻の何人かは行列に加わり、神社までついてきた。
神社に着くと、菊太とゆなは社殿の本殿に案内され、道玄に浄めと祝いの祈祷を上げてもらった。
その後、生長殿という村の催し物のときに使う小さな会場で村での結納を行った。
菊太たちの後見人である佐吉が先に会場に入っており、一通りの会の流れが説明され、やがて会が始まった。
「ついに始まっちまうが、どうだ。菊太」
会が始まる前、佐吉が少し余裕のある面持ちで、緊張を解すためかきいてきた。
「どうだも、なにも…。緊張しかしねえよ」
「今のは、厠にいかなくて大丈夫か?って質問だ」
佐吉が笑った。菊太は耳が熱くなり、さらに緊張が増す。
「わりぃ。わりぃ。冗談だ」
佐吉は目を細めた。
「それはな、菊太。…お前が人を大切に考えてる証なんだよ。ほら、ゆなを見てみろ。」
菊太は隣にいるゆなに目をやった。
相変わらず白い綿帽子で顔は見えない。
揺るがず静かに座っている。
「見たよ」
「今日、お前はゆなのことを見ようとしてなかった。それだけ目が真っ直ぐ向いてるんだ。お前は、その目が向く、その先にゆなを見ているってことなんだよ…。菊太。お前は、そうやって人を考えるようになった。あのションベン垂れのガキがなあ。でもだから、今は隣にゆながいることを忘れるな。…いや、…」
と佐吉は目を上に向け、やがていった。
「これからも、だ。なにかあったら前を見るな。横を向け。そこにやっぱり同じような人がいるってことを忘れないために」
「佐吉さん…たまには立派な話するんだな。今のは、なんか、ぐっときた」
「どうも。…俺に向かって手を合わせたいってんなら遠慮しとくぜ」
「いや、それはないけど」
菊太は即座に否定した。そこで二人で笑いあっていると、会場に人がぞろぞろと入り込んできたので菊太たちは会話を中断した。
上座に大年寄をはじめ村の重役たちが並んで座る。
やがて会は進み両名の誓文書に名前を記す。
ゆなは文字が書けないので、菊太が代わりに書くことになった。
白い空白に、菊太は「由奈」と漢字を適当にあしらって書いた。
「では、これにて、ご両人のお先を祝い祈り奉る」
二人の目の前で用意された祝いの酒樽が、パカンという綺麗な音を立てて割られた。
パキリと、囲炉裏の赤くなった炭が音を立てて崩れた。
「なあ、由奈」
菊太は先に夕飯を食べている由奈の向かいで囲炉裏の側で寝そべりながらきいた。
「…ん?どうした?」
由奈が山菜鍋をかき混ぜながら菊太の言葉に反応した。
村の結納の儀が終わってから、由奈は菊太の言葉に反応するようになっていた。
「今日、どうだった?」
「…あんたはどうだったの?」
「ん?…俺?よかったよ」
「…?…」
由奈は不思議そうに質問の意味が分からないという目で菊太を見ている。
「お前は…どうだったのかなって…。…ここで、こうなること…望んでたのかなって…今さらながら、不安になって」
菊太が、そういうと由奈は椀から手を離し、菊太を見ていった。
「この村のしきたりなんでしょ。あたしは、それを悪くないと思う。そういうものなんだって。少し不思議で、少し分からないような新しさがあって、鮮やかで、煌びやかで…。あたしからは、そういうのは全部遠いものだけど、そういうのに囲まれるのも悪くないって思ったよ」
「一体お前、どんな暮らし送ってきたんだよ」
菊太は仰向けに寝ながら笑った。
「それから、あたしは…満ちてるよ…。…不安は晴れた?」
「逆にもっと不安になった」
由奈は一瞬、拍子抜けた目になり、少し吹いた。それは菊太が見た由奈のはじめての人間らしい笑顔だった。
「なあ、由奈…。お前がどんな場所から来て、なんであの日、あの場所で倒れてたか、教えてくれないか」
そういうと由奈は、静かになり、冷たい顔になった。
「…今は、まだ…。」
パキリ、パチリと囲炉裏の火が爆ぜた。
囲炉裏の背後の暗がりに由奈の深い陰が踊る。
「そっか…」
菊太はその顔を見ながら言った。
「でも…いつか話してほしい。それぐらい…お前が、俺を信じれるようになったら。いつか。」
パチッ、パチリと囲炉裏の火が爆ぜる。
由奈の静かな白い面に火影が踊る。
「その、いつかはたぶん…自ずと菊太が分かるときにくるよ」
そう由奈は意味深なことをいった。それはまるで、何かを先立つ寂しさを秘めているようだった。
「なんでそんな心根の深そうな寂しい顔するんだよ」
菊太は顔をふてたように横に背けた。
由奈は驚いたような目で菊太を見つめる。
「…はあ、お前、ようやく口ひらいてきたと思ったら、不思議なこと言うんだなぁ…。まあ、いいけどさ。俺はバカだから分かることしか考えれないし」
由奈は碗に手を着けて箸を進めはじめた。
「もっと、お前のこと理解したいんだ」
由奈はそれにはなにも答えなかった。
「…あんた、夕げ食べないの?」
「ああ、今日はいい」
結納の式から御披露目まで一気に流れるように進んで過ぎていった。今日は非常に緊張したせいか、体が何も感じなくなっている。そして、まだ紋付き羽織の重さが肩に残る。瞼を閉じれば宴会に集まった、みなの目が思い浮かぶ。
みな由奈の方をしげしげと見ていた。あの様子では各々家に帰ったあと家で、今日見た村の新参者の話を家の者たちとするだろう。
この後、村の人々がどういう反応を示すのか今は予想はできない。
菊太は目をつむった。
火がパチリと爆ぜる。
「…なあ、そうだ。…由奈。このあと一緒に行ってみたい場所があるんだ。一緒についてきてくれないか。」
由奈は菊太を不思議そうに見た。
椀を洗い、家の雨戸を閉めて帰ってきたらもうすぐ眠れるようにして、菊太と由奈は明かりを持って二人で家を出た。
外は黄昏時で、遠くに見える山の端の際だけ赤みを帯びた入道雲が一塊だけわき上がっている。
空は暗い藍色で、その空にぽっかり三日月だけが浮かんでいる。
ふわ、と吹いた風は秋の気配を含んだ乾いた涼しい風だ。
「うん…。今日はたぶん、ちょうどいい日だ。…由奈…。ちょっと山の方へ入るぞ」
菊太は空を見ながら由奈に言った。
「どこ行くの?」
「みんなに知られてない綺麗な場所だ」
やがて二人は山道の脇を入っていったところの、小さな川がある場所にきた。菊太はそこで明かりを消した。
ゴツゴツとした大小の岩の間を黒い水がほそぼそと流れている。
そこには―。
無数の小さな蛍が飛んでいた。
菊太はふりかえって由奈を見た。
由奈は黙って、その光景を見つめていた。
「菊太、あれは」
「秋蛍だ。…ここらへんじゃ、秋の始まりのこの時期の一日か二日だけ、この小川の、この場所にしか現れないんだ」
由奈は再び、蛍たちを見つめた。
秋蛍は普通の蛍と違って光が弱々しく、仄かな光しか発することができない。その蛍が何百と、ふわりふわりと上空に舞い、やがて力尽きたように、雪のように舞い落ちて草々の上に優しく落下する。
そして、また同胞たちのいる上を目指して飛んでいこうとする。
菊太はその一匹の蛍を手に乗せて、由奈のところに持ってきた。
「…最近はなんとなく今日あたりかなって勘でこいつらが飛んでるの分かるようになってきた。ほら、こいつらだ。こいつらはな。普通の蛍と違って今日限りの命で、…それで力も弱いんだ。…でも、なんとかその小さな力を力一杯使って毎年、短い命の合間のなかで、ずっと世代を繋いで今日まで来たんだ」
菊太の手のなかで、弱々しく今にも消えそうな光を放つ蛍を由奈は黙ってみつめる。
辺りは無数の星にも似た蛍の銀河ができており、由奈や菊太の腰の辺りにもふわふわと浮遊している。
気づけば周りは蛍の海だった。
蛍たちがふわりふわりと水のなかを漂うように飛びあっている。
菊太は由奈の手のひらに蛍を移した。そして上からその手をそっと優しく包み込む。
二人の重なった手のひらのなかで仄かに蛍が光った。
辺りは木が薄く、空には秋の夜空の星が散らばっているのが、遠く見える。
「地にも星。空にも星。その間に俺たちはいる。これがな。…人だよ。由奈。お前が人を知らないってんなら。こうやって一つずつ、人がなんなのか、っていうのをお互い確かめあって、先に繋いでいけばいいんだ。多くの人と手探りで、ぶつかりながらも確かめあっていけばいんだ」
―な、簡単だろ、と菊太は笑う。
由奈は静かに、しかし、穏やかに、何かに納得したような目で、闇に舞う蛍たちを見つめている。
蛍たちは空へ舞おうとして、星になりきれず落ちてくるように見える。
それが定めと知っているかのように蛍の光にはなんの恨みも憤りも見えない。
「ほた…る…?」
「ああ、蛍だ」
由奈は手の包みをあけて、手のひらにいる小さな命を確かめるように、不思議そうな目で見つめた。
見つめる先の光は、弱々しい。
今両手に少し力を込めれば、さらにこの小さな生命の力は弱くなり、ともすれば握り潰れるだろう。
手のひらの蛍は周りをじっと探るように、身を縮め、やがて光出して、ふわりと宙に浮いてそのまま空気の流れに乗った。
由奈がその先を見送る。
菊太はその顔を見つめた。
菊太は、由奈の指先に触れる。
「改めて触れてみたらお前って、ちっちゃい手してんだな」
指をつまんで、そのまま軽く握る。
由奈もまた、その手を軽く握り返した。
その周りを蛍たちが何事もないかのように漂う。
しばらく二人で蛍を見ていたが、やがて菊太は由奈の肩を軽く引き寄せ、抱きしめた。
由奈のしっかりした肩幅が菊太の腕におさまる。
「由奈」
「きくた…」
互いの目が交差する。
由奈の目の奥は、静かに黒く澄んでいる。
「…きくた…」
「…………ゆな」
二人は唇を重ねあった。まるでそうするのがこの場では、自ずから然るべきことであるかのように。
蛍の舞う静かな光の底で、これから先へ向かう、一つのなにかが始まっていた。
(続く)