幽霊滝の伝説 ― THE LEGEND OF OKATSUSAN ―
その昔。
伯耆の国、黒坂村の近くに、美しく流れる一筋の滝があった。
幽霊滝と云うその名の由来を、私は知らない。
滝の側に滝天命神と云う氏神の小さい社があって、社の前に小さい賽銭箱があった。
その賽銭箱について物語がある。
今より三十五年前、ある冬の寒い晩。
黒坂の麻取場に使われている娘や女房達が一日の仕事を終ったあと、炉のまわりに集って、怪談に興じていた。
怪談話が十余りも出た頃にはだいたいの者はなんだか薄気味悪くなっていた。
その時その気味悪さの快感を一層高めるつもりで、一人の娘が
「…今夜、あの幽霊滝へひとりで行って見たらどうでしょう?」
と云い出した。
この思いつきを聞いて一同は思わず、わっと叫んだが、また続いて神経的に、どっと笑い出した。
……そのうちの一人は嘲るように、
「私は今夜取った麻をその人に、みーんな、上げる」
と云った。
「私も上げるー」
「私もー♪」
と云う人が続いて出て来た。
四番目の人は
「じゃあ…みんな、賛成!!」
と云い切った。
……その時、安本お勝と云う大工の女房が立ち上った。
―この人は二つになる一人息子を暖かそうに包んで、背中に寝かせていた。
「みなさん…、本当にみなさんが今日取った麻を皆私に下さるなら、私、…幽霊滝に行きます」
と云った。
その申し出は驚きとあなどりをもって迎えられた。
しかし、その主張がお勝さんの口から二、三くりかえされたので一同本気になった。
そうすると麻取りの人達は、もしお勝さんが幽霊滝に行くようならその日の分の麻を上げると、また再度くりかえして云った。
「でも、お勝さんが本当にそこへ行くかどうか、どうして分ります?」
と鋭い声で云ったものがあった。
一人のお婆さんが
「さあ、…それなら賽銭箱をもって来てもらいましょう…フフフ…それが何よりの証拠になります…」
と答えた。
お勝さんは
「もって来ます」
と答えた。
それからお勝さんは、眠ったこどもを背負ったままで戸外へ飛び出した。
その夜は寒かったが、晴れていた。
人通りのない道をお勝は急いだ。
身を切るような寒さのために往来の戸はかたく閉ざしてあった。
村を離れて、淋しい道を――ピチャピチャ――走った。
左右は静かな一面に氷った田。
道を照らすのは星ばかり。
三十分程その道をたどって、崖の下へ曲り下って行く狭い道へ折れた。
進むにしたがって道はますます悪くますます暗くなったが、彼女は道をよく心得ていた。
やがて滝の鈍いうなりが聞えて来た。もう少し行くと路は広い谷になって、そこで鈍いうなりが急に高い叫びになっている、そうして彼女の前の一面の暗黒のうちに、滝が長く、ぼんやり光って見える。
かすかに社と、それから、賽銭箱が見える。
彼女は走り寄って、――それに手をかけた。……
『…おい、お勝…』
不意に、とどろく水の上で警戒の声がした。
お勝は恐怖のためにしびれて――立ちすくんだ。
『 おい、お勝!! 』
再びその声は響いた。
…今度はその音調はもっと威嚇的であった。
しかしお勝さんは元来、大胆な女であった。
ただちに我にかえって、賽銭箱を引っさらって駆け出した。
往来へ出るまでは、彼女を恐がらせるものをそれ以上何も見も聞きもしなかった。
そこまで来て足を止めてほっと一息ついた。
それから休まず、ピチャピチャ駆け出して、黒坂村について麻取場の戸をはげしくたたいた。
息をきらして、賽銭箱をもってお勝さんが入って来た時、女房や娘達はどんなに叫んだろう。
彼女らは息をひそめてお勝の話を聞いた。
幽霊滝から二度まで名を呼んだ何者かの声の話をした時に彼女たちは同情の叫びをあげた。……何と云う女だろう。剛胆なお勝さん。……みんなの麻を全部上げるだけの価値は充分にある。
「…でもお勝さん、さぞ赤ちゃんは寒かったでしょう」
お婆さんは云った、
「もっと火の側へつれて来ましょう」
「おなかが空いたろうね」
母親は云った。
「すぐお乳を上げますよ」
「かわいそうにお勝さん」
お婆さんはこどもを包んであるはんてんをほどく手伝をしながら云った。
「――おや、背中がすっかりぬれていますよ」
それからこの助手すけてはしゃがれ声で叫んだ
「アラッ!!血が!!!」
解いたはんてんの中から床に落ちたものは、血にしみたこどもの着物で、そこから出ているものは、二本の大層小さな足とそれから二本の大層小さな手
――ただそれだけ。
こどもの頭はもぎ取られていた。……
―こどもの頭はもぎ取られていた…。
事態は急展開を迎え、お勝は悲鳴をあげ、周囲も同時に悲鳴をあげた!
「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!」
お勝さんはパニックになり、はんてんを解こうとしていたお婆さんはそのままヘナヘナと地面に座り込んだ…。
誰もが予想だにしなかった展開に場のパニックは極まった。
「赤ちゃんがあー!…赤ちゃんがあー!…」
みなが騒然とするなか、お勝さんの泣き声だけが深く、低く悲しくその場に響いた…。
「なんでぇ…なんでぇー…」
お勝さんの涙はとめどなかった。
やがてパニックだった者も、涙に誘われ一番の被害者がお勝である状況を掴みなおし、静かに一人、またひとりとお勝の側に寄ってきた。
やがて、沈黙するみなに囲まれたなかお勝の泣き声だけが鋭く静かにみなの耳を揺らしていた。
「ご、ごめんなさい!!わたしたちがあんな変な賭け事みたいなこといったから!!ほんっとうに!!ごめんなざいぃ…」
一人の娘が堰を切ったように泣き出すと、周りのものも「ごめんなさい」「ごめんなさい」とそれぞれ口々にいって泣き出した。
「ごめんなさい」
「堪忍…堪忍なぁ…お勝さん…」
「ごめん…本当に、ごめん…」
みなのすすりなく声が合唱のように居間を満たした。
そのうち、はんてんを解こうとしていたお婆さんがポツリと
「これはぁ…幽霊滝のバケモノの仕業じゃぁ…おったんじゃ。本当に、幽霊滝にはバケモノが…」
と、静かに自分に戒めていいきかせるようにつぶやいた。
みな押し黙ったが、そのなかで一人声をあげたものがいた。
「でも…たとえバケモノでも…人の子の命を奪うなんて許されるわけねぇよ!!!」
この勇気のこもった声に周りはハッと気づかされるものがあった。
「…そうじゃ…そうじゃて…なんで賽銭箱盗んだだけで子供を食われにャならんのじゃ!!そもそも金額と命が釣り合ってなかろうが!!しょせんいくらほどもない賽銭じゃのに…」
「たしかに!!お婆さん!そうだ!こんなの復報にしても度がすぎてます!!…しかも、しかもですよ!!バケモノのほうがわたしたち人間よりも強い存在ではありませんか!!…」
「そうだ!そうだ!」
「ねぇ?ほんとうよ」
「バケモノ…許すマジ…」
さっきまでみな混乱して泣いていたのに、女というのは情で団結するやいなや力強くなるものだ。
みな目にランランと復讐の怒りを燃えたぎらせてバケモノについて「生きながら殺してやるわ」「いいえ、形もとどめす消滅させてあげましょう」と息巻いている。
なかには「あたし旦那を起こしてくる!今からバケモノをみんなで囲んでとっちめてやりましょう!!」というものまで現れた。
「お勝さん…お勝さんは…無念じゃないの?ミスミスこのままなんにもせずにいたら泣き寝入りじゃない!そんな悔しいことはありませんよっ!」
年長の一番しっかりしたおかみさんが、お勝さんを鼓舞するためにお勝さんを諭した。
みなはお勝さんを見守った。
お勝さんは泣いた目をはらして、黙ってその自分をみつめてくる顔を一つ一つ見つめ返した。
「悔しぃ…です…」
絞り出されたそのお勝さんの小さな声にみな真剣に頷く。
「悔しいです…とても…とっても…」
お勝さんは、口を真一文字に結んで耐えるようにいった。
みていたものは再度胸に込み上げるものがあり、各々目をそらしたり、上を見つめるような仕草をしたりした。
「わたしたちで、行きましょう。一緒に…みんなで一緒に力を合わせれば、バケモノだって倒せるはずです。なんたってわたしたちは人間なんですから!」
みなの空気が一つにまとまりかけたところで、一番最年長のお婆さんが静かにいった。
「じゃが…無駄じゃよ…」
みなはお婆さんのほうを一斉にみた。
「なにをいってるんですか。お富さん!こんなことバケモノごときにされて泣き寝入り決め込んでるようじゃ村を守れやしません。この村は戦国の毛利と尼子の戦のなかでもわたしたちの祖先が大事に守り抜いてきた村ではありませんか。バケモノがなんです!わたしたちは、ひるみませんよ!」
一人の女が挑戦するようにお富と呼ばれたお婆さんを見ました。
しかし、お婆さんは落ち着き払って答えた。
「バケモノごとき、というが、あの滝におるバケモノ…いや、神世からおる獣の正体を知らんであろう…」
お婆さんの、その言葉に一同は驚きハッとして顔を見合せた。
「お婆さん!滝にいるのが、神世の獣ですって!?」
お富さんは「いかにも」と小さく返し、滝の伝説を語り始めた。
あの滝の底はもともと冥界と繋がっておったそうじゃ。冥界とはネノカタスクニ、イザナミのいる場所じゃよ。
しかし、神世の終わり、神の王、オオクニヌシがこの国をさるとき、最後の仕事として冥界に通じるあの滝の底をお封じになった。
そのお封じになるとき、間違って冥界にのさばるイザナミの手をも焼かすという獣を一匹、この世に招きいれてしまったのじゃ。
獣というが、人外の力をもつので神獣と呼んでもふさわしいらしい。なにせ、わしらの今住んでいる世とは違う理の働く世から転がりこんできてしまった神のごとき獣なのじゃから。
獣は賢く、この御世でも生き抜けるよう知恵をつけた。
その名はナムチ。言い伝えでは 人と同じ形をして人の言葉もしゃべるというが、夜に滝から姿を現し、人知にははかれない力を使い、人をもてあそび殺すという残忍な神のような“獣”じゃという。
それがあの、幽霊滝に伝わる伝説じゃよ。
そう語り終えるとお富さんは周りを見渡した。
みなはその話にゴクリと唾をのんだ。
「で、…でも、なにか方法はないんですか?お富さん、とんでもない神世の神獣だかなんだか知りませんけど、これじゃ、お勝さんがあまりにもかわいそすぎます!それに、そんな獣、ほおっておくと、いつ村に大きな害を及ぼすか知れたものではありません」
と一人の女がいった。
「そうじゃな…誰も神世からは生きておらん…わしが培った知恵とてたかだか六十余年のものじゃ…」
「でも、その知恵ももし長さで勝てないとしてら、そうだとしたら、あまりにも人間が老いるなんて惨めなことでしかないじゃないですか!!その知恵がたしかかどうかは、その知恵の中身でしょう!?」
女は思い余ったのかお富さんにくってかかった。
他の女たちも、その女とお富さんのやりとりを見つめている。
「…ふん…。まあ…望みということでいえばないことも…ないかもしれんがの…」
押されたお富さんが小さくこぼしたのをみなは逃さなかった。
「なんですか?その望みのないことって」
「教えてください!お勝さんがこうなったのにも、わたしたちに責任があります。その話をきくまで今宵は誰もここから帰りませんよ…」
集った女たちは口々に「そうだ、そうだ」と言い合った。
お富さんは、「はあ…あやつをまた頼らねばならんのかのぅ」と嫌そうにいいながら、話し始めた。
「この村より三里離れた山のなかに“神殺しの禰宜”と呼ばれる権兵衛という祈祷師がおる。神に願いを通すのが上手く禰宜としての実力もあるが、一つ困ったことに神を騙して殺す祈祷に長けておるのじゃ。いや、それしかできん。祟り神がこの辺りでも四十余年あまり前流行ったときにも、この男が出ていき、祟り神を殺した」
「すごいじゃありませんか!そんな祈祷師ついぞ知らなかった。なんでもっと早く言ってくれなかったんですか。お富さん!ねぇ」
「そうよ!祟り神でも殺せるんだから、神世の神獣なんて神さま以下。ちょちょいのちょいよ」
また息巻きだした女たちにお富さんは、はあ、とため息をつきながらいった。
「神を殺すということはそれ相応の代償がわしらにも降りかかるかもしれんということじゃ。かつての祟り神も殺せたのはよいが、それにより自然の摂理が大きく変わって動き、わしらの村も干魃に襲われ続けた。神は殺せても祟りや災いは殺せぬということじゃ。そして、神といっても、この世の理の一部なのじゃ…。それもかなり重要なの…。神獣とて殺したあと、どんな災いが起きるかわからん。お前も覚えておるじゃろう」
とお富さんは同じぐらいの年のお婆さんにいった。お婆さんは耳が遠いのか
「…ヘェ…」
としか言わなかった。
「権兵衛は、それこそナムチを殺すかもしれんが、そのあとの代償の責任は取らんぞ…。それでもお前たちは、この村をそういう危険にさしてでもナムチを殺そうというのかえ」
お富さんの気迫に迫る雰囲気にその場にいたみなたじろぐしかなかった。お富さんの気迫は、かつての代償として村を襲った干魃を体験したからこそ出てくるものがあった。
しばらく気まずい沈黙が続いたが、一人の気骨ある女がいった。
「そうだとしても、あのお勝さんの赤ちゃんは…村の大事な命でした。あの赤ちゃんは村の宝…それも銀や玉にも勝る宝でした。わたしたちにとっても、あの赤ちゃんは子供同然になるはずでした」
みなが言葉を吐く女を見つめる。
「その赤ちゃんを殺されたことは村としても、大きな仇です。人一人の命を賽銭ごときで奪う神獣がいるというのなら、いいじゃありませんか。代償上等!!みんなで乗りきって、そんな代償、神様の置き土産からの有難い恩恵だったって笑ってやるくらいじゃないと人間いけませんよっ!それが人間じゃないですかっ!」
女は力のこもった言葉で演説をした。
幾人の女たちは頷きあって、拍手をするものもいた。
しかし、そんななかある若い娘が口を開いた。
「うちは、お富さんのいうこともきく方がいいかなと思う。考えてもみてよ。どんな災いが起こるかわからないし、下手したらうちらの子供も、うちらも死ぬかもしれないんだよ。それはちょっといくらなんでも、とばっちりにしては割に合ってるのかなって考えた方がいいんじゃない?…」
「あなた、それが赤ちゃんが死んだお勝さんの前で言える言葉ナノ!?」
「自分勝手よ…」
「ほんっと、これだから今の村の若い娘って…」
みなが口々にいうなか、比較的年長の女が口を開いた。
「でも、この娘のいうことは一理ある。お富さんの話だと村全体に関わる話にもなりそうだし、私たちはまだ旦那にも相談してない。かといって、今晩お勝さんの身にふりかかった不条理はわたしたちのものでもある…。」
みなが女を見つめた。
「……私にとりあえず、この場の意思を決める一任をしてくれる?」
みな静かに女をみた。女はそれを無言の肯定とした。
「お勝さんの意志をわたしたちはまだきいていないし、お勝さんもまだなにもいっていない。問題の一番軸にいるのは、お勝さん、あんただ。今この場に集う面々の意見を、一応で、今この場の総意として示しておくならば、お勝さんの意志にわたしたちは準じるべきだと思う」
女のその言葉に、みな面々顔をしばし見合わせたが、やがてみなの視線は当のお勝さんに注がれた。
お勝さんは、まだ涙のあとの残る顔で口を真一文字に結んで、しばらく黙ってから静かにいった。
「わたしは、そのバケモノを殺ります。ゼッタイに許しさないし、ゼッタイに逃さない」
みな決意の目でもってお勝さんの、その言葉を迎えた。
お富さんは「はあ、人生の最後にまた困難があるとはのぅ…」と小さくボヤいた。
「それで俺のところに案じにやってきたという訳だな」
「はい。権兵衛さま。どうか、わたしに、その幽霊滝にいるバケモノを倒す術を教えてください」
お勝さんは両手を深々と、檜の黒光りする床について額をつけた。
額にひやりと床の冷たさが当たる。
目の前の男は数珠を両腕にじゃらじゃらとつけ、長髪を一つくくりで後ろにたばね、法衣とも装束ともつかない着物を羽織り、その深いホリのある左目のつぶれた顔には、刺青を施していた。
「フン」
と権兵衛は、鼻を鳴らすと立ち上がった。
権兵衛の家は一間で小さいが、その作りは、ほぼ祭壇のようであり、間の奥の壁には鏡が据えてあり、幣やら杖やら刀やらがそれを中心にところ狭しと並べてあった。
「幽霊滝にいるは、ナムチ…か」
権兵衛は歩きながら、杖を一本片手にとりながらいった。
「わしも、あいつとかつてやりあったことがあってな」
「そうなのでございますか!?」
「じゃが殺すのは無理じゃった。やつは神々でさえ手を焼く、…例えるなら、人の世界では毒を持った熊のようなものよな…。扱いをあやまれば、すぐにこちらが殺られてしまう。また熊と違うのはやつに相応の知恵があることだ。やつは手強いぞ…知恵があり毒をもつ熊とは、豪腕で、かつ毒の使い方を知ってる熊じゃ…その威力と恐ろしさは、ふつうの毒より遥かに高い。そういうやつを、お前はこれから相手するということになるのだぞ」
お勝さんは、それを静かにきいていたが、なにもひるむことなく。
「覚悟はできております」
といい置いた。
「ほう」
と権兵衛はお勝さんを試すような目になり、しばらくその目でお勝さんを見つめていたが、思いきったように話しだした。
「この世そのものを呪う呪いというのがあってな。わしは方法は知っているにだが、ついぞできたことはなかった」
そこで権兵衛は言葉を切ったが、考える間が一拍あって言葉を続けた。
「じゃが、今のお前ならば、それをなしうるかもしれん」
「呪いでもなんでも、…呪う先がこの世そのものでもなんでもいいです。子を殺された母の苦しみは生む苦しみに優ります。今はその苦しみ、…ただその一心です。その呪いがあれば、ナムチを倒せるのですか?」
権兵衛はお勝さんを鋭く見つめ、ただ黙っていた。
「なら…教えてください…呪い方でも祈り方でも…なんでも…この心には、呪いも祈りも、もはや一つでございます」
「よかろう」
と権兵衛は軽快に微笑んでいった。
―ただし、長い修行になるぞ。
お勝さんは頷いた。
…そして、季節は巡った。
紅葉が燃え、山は色づき
枯れ葉が落ち、雪が降った。
春になって、草が大地に満ち
雨が降って、桜が咲いた。
新緑が燃え、雲が行き交い、
梅雨になり、蛍が舞い
また麻の収穫の季節がきた。
お勝さんは、その間ずっと権兵衛から教えられた呪術の鍛錬を続けた。
くる日も、くる日も
諦めることなく、
何回も
―何回も…。
季節は巡っていく、人の思いを留めることなく。
お勝さんはそのなかで日々磨かれていった。
「いいできだ…」
権兵衛はお勝さんをみてほれぼれとしていった。
「…はい。ついに、至りました。…師匠のおかげです。ありがとうございます」
「もう、あとはナムチに臨んだとき、戦いの結果がどうなるかはわしにもわからん。わしのできることは教えること。あとは禰宜らしく祈ることじゃ」
権兵衛は遠くをみつめて、それからお勝さんを見つめ直しいった。
「…お前の思い…思う存分、ぶつけてこい…」
「…はいっ!…」
そして、ナムチ討伐の日の朝。
村のみなは、お勝さんを見送るため早くから起き、集まった。
あの夜集まった女房連中、また村の長老、村役人たち、お勝の友達、他の家々の者々。―足の悪いお勝の旦那。様々な人が出発するお勝さんのもとに集まった。
「お勝さん、生きて帰ってくるんだよ」
「そうだよ。死んだりしたら承知しないだからね」
「ほんと、どんなことがあっても、気をたしかに持つんだよ」
「あたしたちはお勝さんが勝つって信じてる」
いろんな人からお勝さんが声をかけられるなか、黙っていたお勝さんの旦那がおもむろにお勝さんの前に立ち進んだ。
「すまねぇな。このざまで…。一緒にいけなくて…」
「なにいってんの。あんたの思いの分まで仇はとってくるつもりだよ。二倍はぶちのめしてやるんだ」
そういうと旦那は、悔しそうに歯を噛んで、やがてお勝さんの顔をみていった。
「お勝…信じてるぞ」
「…うん…」
―お勝さんっ!
と声がしたので振り返ると、村の女房たちのまとめ役の女が、あの夜お勝さんが盗みだした賽銭箱をもってたっていた。
「コレ、返してあげな」
女は賽銭箱を放る。
お勝さんはそれを受けとった。―ズシリ、とした。
重い。
「みんなお勝さんが勝つ方にかけて、お賽銭、賭け金でパンッパンにしといたよッ!」
お勝さんが、賽銭箱のなかをみると、はちきれんばかりの銭が詰まっていた。
「まあ、こんなに!?」
「これであたしたちが賽銭盗んだことは帳消しだろ」
―こんな、はした金ほしけりゃ受け取れ!っていっといてあげて!
と女は明るく笑った。
“生きて帰ってくるんだよ”
みな、決意のまなざしでもってお勝さんをみた。
「うん…絶対、生きて帰ってくるよ」
―みんな…。
お勝さんは村をあとにした。
遠く滝の底。
ナムチは水の音にまじり、なにかが近づく音で目をさました。
『 また…なにかきよる… 』
ずんぐりとナムチは起き上がり、やがて思考をとりまとめた。
『 大きさから人間か…。まあ、力は強くなさそうだ 』
ナムチは退屈していた。
退屈は命を縮める。
『 ここいらで、たわむれに殺しておくか 』
ずるりと体を引きずり、ナムチはクネクネと身をくねらせて轟音をたてる泡が戯れる水面に向かって泳ぎだした。
やがてお勝さんは、幽霊滝の目の前に到着した。
ドドウ、ドドウ、という滝の轟音が静寂を切り裂くように響く。
お勝さんは滝淵の中央をみた。
そこには法衣をきた坊主が、水面の上に浮かぶように座していた。
その坊主は姿は坊主なのだが、腰のあたりに尾のようにながい蛇の頭がついており、それが滝の水面にもぐったり、浮き上がってきたりして、ぬたうっていた。
―異形だ。
お勝さんは瞬時にそう思った。
『 誰かと思えば…オマエか… 』
坊主は興味が逸れたように、口をひらいた。
「お前が、ナムチか!!あたしの子供をうばった!!」
ナムチの声は地をはって耳に届くような深みと轟きを帯びたような声だったが、お勝さんは負けじと声を張り上げて、ナムチに向かっていった。
「なんであたしの子供を奪った!?」
ナムチは落胆するように、
『 意味はない。戯れだ。神々の戯れにより人の命はなくなる。お前たちが蚊を殺す時、蚊の命の意味を考えたことはあるか?小さな目に見えない命を潰すとき、なにか思ったことはあるのか?…人間は、なぜ自分たちが特別だとおもっているのだ。つくづくその思い上がりがわしを呆れさせる。…人の命とはそういうものだ… 不様な人の子よ…。それすらも理解できんのなら生まれてこぬ方がよかったな… 』
「いいたいことはそれだけか!!」
お勝さんは怒鳴った。
『 大丈夫だ。そう急かずとも… 』
次の瞬間、お勝さんのいる場所へ斬撃が飛んだ。
ズッガンと岩や土が砕ける音がして盛大に土煙が舞った。
『 すぐ殺してやる 』
お勝さんは滝壺に落ちていた。
水が重く身動きが取りづらい。
しかし、お勝さんは体勢を整え、水に浮き上り、そのまま浅瀬を、ナムチがいる滝の中央に向かって走りだした。
『 …お勝……。呆れた女だ。… 』
まさかナムチもお勝さんが、真正面から突っ込んでくるとは思わなかった。
意表をつくとしても明らかに勝算がなさすぎる。力の差は圧倒的だ。
『 貴様のあの赤子な…味は最悪だったぞ?…もっと良いものを食わせろ? 』
「ぬあああああああああああああああ!!!」
ナムチはお勝さんを煽り、そのまま真っ直ぐ突撃させるよう陽動さる。
もはや、目も当てられない。かつて、この女が滝に一人現れ賽銭箱を盗んでいったときは、その肝の太さは、もて遊びがいがあると思ったが、こうも単調だとこちらも萎える。
ナムチは残念に思いながら呆れていた。
面白くない。意味のない小さな命だ。こんなものは…いずれ…
ナムチがそう考えていたとき、それはおきた。
お勝さんの足が水の上を走りだしたのだ。
…!!…
ナムチは一瞬目を疑ったが、そのときにはもはや遅かった。お勝さんは目の前まで迫ってきていた。
『 …な?… 』
「母の愛にできないことなんかないんだよっ!お前をぶちのめすために、水の上走らなきゃいけないんなら!!」
―走るッ!!
轟音を立てて、お勝さんはナムチのすぐ側まで迫った。
『 …冗談か?… 』
「あんたがやったことも、タイガイ…」
―冗談だよッ!!アホンダラぁあああああああ!!
次の瞬間、ナムチの頬に強烈な閃光と衝撃波が走った。
『 …エ?… 』
バッチイイイン!!!ッ!という音がして、壮絶な痛みと強烈な苦しみがナムチを襲った。
生まれてはじめてナムチは張り手をされた。
『…ヵ…ハ… 』
ナムチの頭は震盪してガクガクと震えた。
そのままナムチの体は滝の壁面に激突して岩にめりこんだ。
水しぶきが爆ぜる。
ナムチにはなにが起きたか一瞬理解できなかった。
すぐにお勝さんは体勢を取り直し、ナムチの側までせまった。
ナムチは慌てて、第二波に備えようとしたが、遅かった。
お勝さんの渾身のこぶしがナムチの腹部に命中する。
―煌々とした閃光。
凄まじい衝撃波がそのあと遅れてナムチを襲う。
『ぐぶっふぇーーーーーーー!!』
その姿には最早神代からの威厳はない。
ただヒキガエルのように両足を伸ばして飛び上がる哀れな生き物の姿があるだけだ。
ナムチは生まれてはじめて後悔した。
はじめての後悔は口のなかに広がるなんともいいようのない味の悪さだった。
『だす…だすげで…ぐだざい…』
ナムチは体の形を変形させて、自身を人間の赤子に変えた。
生まれたてほやほやの赤子の姿がお勝さんの目の前に現れた。
“殺せまい…これならば…”
ナムチがそう考え、反撃しようとしたときだった。
「かわいそうに…」
ナムチは目を見張った。
目の前にただすくりと立つお勝が観音菩薩にみえた。
『観音…菩薩がみえる…』
それは見間違うことなく観音菩薩だった。
お勝さんという一人の観音菩薩を前にナムチはただ呆然とたっていた。
「生まれるとは苦しみ。しかしその生ですら包むものがある。人が神に祈るとき。人が菩薩に祈るとき、その根源に人はふれる。その願いはこの世すらも書き換える。この世そのものへの根源の呪い。そして、根源の祈り…」
―この世そのものの因果を願いによって編纂するという意味で、呪いも祈りも一つに同じ。
お勝さんは手を合わせた。
とてつもない力がお勝さんから放たれる。
瞬間にナムチはヤバいと感じる。
なぜかわからないが、これから、とんでもない…。
『も、もう、やめません?取り引きしましょう。取り引き。あー!そうだ!今まであんたらからもらって貯めたお賽銭があるんです!それを村のお金としてあげますよ!どうですか?めっちゃ儲かりますよ?…て、ガハッ!』
ナムチの口のなかに賽銭箱がねじ込まれた。
「お返しします。この間はすみませんでした」
お勝さんは微笑みながらいった。
ナムチからすればそれはゾッとするような微笑みだった。
そして、その眼はただナムチの形ではなく魂そのものを捉えていた。
「そして、いりません」
『エ、エエエ!?』
「その代わりこのゲンコツをさしあげます」
―いいですか?人をもう殺してはいけないのですよ?
『ちょ、待ってよ!!』
―かあちゃん!!
ナムチが思わずそう叫びそうになったときにはもう遅かった。
世界で一番の愛のこもったゲンコツがナムチの頭上に振り落された。
―チュドーーン、という閃光が滝のある場所を包み込み、あたり一面をいっそうした。
「お勝さん、」
声がしたので、お勝さんは藁をたたく手をとめて軒先をみた。
みると、近所のおかみさんが軒先にたっていた。
「調子はどうですか?」
「まあまあだよ」
「無理なさらずにねー」
おかみさんはにっこり笑った。
「そうだねー」
お勝さんは、遅れてやってきた秋の空を眺めた。
シオカラトンボがツン、ツン、と飛んでいる。
澄んだ空気のなかで秋の日の光がすすきの野に降り注いでいる。
あれからいくつもの季節が流れた。
幾度の困難があった。
お富さんのいうように、様々な天変地異が起きた。
村でも死者がでたりした。
隣村と水引き争いで、村同士の争いが起きたりもした。
村のなかの裏切りもあった。
お勝さんの旦那もやがて死んだ。
でも、どうだっただろう―。私の六十年は…。
「長生きしてくださいよね。お勝さん」
「……」
その言葉にはお勝さんは口をつむぐ。
―そうさねー。
“それが天命ならばねー”
お勝さんはやがて、にっこりとだけ微笑んだ。
お勝さんはやがて再び藁を叩きだす。
自分に今あるのは、自分の目の前にある日常だけだ。
飯を炊く。
洗濯する。
風呂を沸かす。
布団を敷く。
そして、眠る。
この日常の延長にやがて、死がある。
その境目なんてわからない。生きることと死ぬことが一体になった日常がただ目の前にあるだけだ。
「また、うちでできた筑前煮でももってきますよー」
「あいよー」
おかみさんはそういって深く会釈をした。
なんだかんだあたしって恵まれてんだな…。
そんなことをお勝さんは思う。
藁の香りがあたりにたちこめている。
さあ、今年の冬も厳しいぞ。
そう、お勝さんは自分を奮い立たせて、よく晴れた秋の日差しで乾いた洗濯物を取り込むため腰を上げた。
幽霊滝という滝があったことは…今は昔。
そこには今は、「お勝谷」と呼ばれる大きな釜の底のような谷があり、その中心にある大岩は「ナムチの死に岩」と言われ、その前にボロボロに錆び付いた古銭が入った古い賽銭箱が、質素にも、一つ目の前におかれているだけだという。
そういう話を筆者はきいた。
(了)