小説「 昨日を咲く花 」
その日の空の青さは覚えている。まごうことない青だった。その空の下は、真っ青なサファイアの蒼(あお)で、わたしのフィアンセは指にはめられない宝石を前に困った顔で笑っていた。
―そして、見上げるはるか、そんな空をも突き上げる常夏(とこなつ)の雲
それが、わたしの最後に覚えている風景だった。
――――
沖縄の宮古島に旅行しようと、ともみに言い出したのはわたしからだった。
「だって前、宮古島の写真集みながら言ってたじゃん、きれいね。一生に一回くらいは行きたいよね。てさ」
「言ったっけ。まあ、でも行けたらいいにこしたことはないけど…」
「じゃあ、行こうよ。考えるのは後にして。君がうなずかないと、半年前からの俺の苦労が水になっちゃう」
ともみは、その言葉にちょっと驚きつつ、髪を触る。
「え、旅費出してくれようとしてくれてる?もしや」
「…出さない方がやっぱいいかな?」
ともみは一瞬は?という顔になったが、やがて顔を体に押し付けてきた。
「バッカじゃないの?行くに決まってんでしょ」
抱きしめられた。
こうしてわたしとともみは2週間後、シーズン外れの宮古島へ行く便に乗り、珊瑚(さんご)に囲まれたような島の土を踏んでいた。
季節は夏から過ぎ去ろうとしているが、陽射しが眩しい。
「豊旗雲(とよはたぐも)ってあんな雲のことをいうんだよね。きっと。…今宵の月夜さやけくありそ」
「ほんと遠くまで来たわよね。夢みたい」
目の前に横たわる透き通る海と空をみながらともみはボーっとしている。いや、ここはうっとりと言った方がいいのかもしれないと横目にして、にやけながらわたしは思った。
「夢なら夜寝てからみられるからさ、今はこの景色をいっぱいみとこうよ。夢にも現れるくらいにね」
そういってわたしはともみに笑いかけた。ともみはちょっと不満げな顔をして
「わかってないな。そんなの、今が夢か現かわかんなくなっちゃうでしょ。夢は夢だからの良さがあるの。あなたみたいに他人は頭のなかお花畑じゃないんです」
はい、はい、といつものごとくわたしはスルーしてともみの手を引いて夏の陽射しの中へ抜けていた。
次の日は、急に夜から南下してきた秋雨前線が静かに島に雨を降らせていた。朝なのに薄暗い。しかし、わたしはそんな暗さが昔から結構好きだったりする。
「部屋がちょうどいい大きさで良かったね」
寝起きのともみは髪がくしゃくしゃである。飾り気のない髪は美しいと思った。
「うん……雨?」
「そうだよ」
如何にもぼーっとしている頭の感じでともみは言った。
「…雨の音がやけに静か…」
「そうだね」
暫くの間、二人して雨の音を聞くように黙っていたが、ともみが口を開いて話し出した。
「昨日、不思議な夢みたよ」
「おお、それは察しがつくよ。またぞろしくじったりして君に俺がぶっ叩かれる夢?」
「違う、違う」
わたしは笑って言ったが、ともみは静かに否定した。
「私があなたとは違う、全然知らない人と結婚してる夢だった」
「へえ。さぞそれは今より幸せだったろな」
棒読みで応えた。わたしには、ともみにわたしのいない未来があったとしても、それだって今と相応に幸せなんだろうということぐらいしかできない。そんな場合を考えるのも面倒くさい。
「うん。うんて言うのもおかしんだけど、確かにあなたはいない。でもそれでも、そこは確かに幸せだった。…変に深読みしないでね。あなたの悪い癖で。」
「夢は夢だよ。だからこその良さがあるて言ったのは誰?」
「そうだね。でも不思議だった。明らかに矛盾だったの。今はあなたなしの幸せなんてありはしないって思ってる。でも夢ではあなたはいない、でも満ちたなにかがあった。じゃあ、私の幸せは本当なの。嘘なの。どっち。私は矛盾したまんま、平気でそれでもあなたとこうして話してることが幸せでいる」
おかしいよね、こういうの―とともみは笑う。わたしは、ともみの髪を撫でてときながら静かに言った。
「君の目の前に現実があろうと、幻想があろうと、幸せは君自身のなかにしかないよ」
そうやって、押し黙る二人を雨の音だけが包んでいった。
“その時”というものが近づくと、人間はどうも常の馴染んだ感覚を忘れて、うまく動けなくなる生きものらしい。それがある意味、人間にとって生きているということの本質かもしれないが。
わたしの人生における“今、この時”も例には漏れてくれず。“人生を二分する分岐点”を意識した瞬間がその時を待つ時間の彼方から、宮古島の白浜に押し寄せる波のごとくわたしの心を揺さぶっていた。
「あんま飲み過ぎるのはよくないからね」
「だって泡盛おいしいんだもん」
のまなきゃやっていられないという未熟さ。目の前に広がるのは、まだ夏の宮古島の海。今日の沖縄地方の空は、昨日の雨とはうって変わって快晴で、舞う雲は夏の勇気を取り戻したかのように見えていた。男にフラれていっぱい泣いたあとの女みたいだ。
「いやあ、お二人お若いですねえ」
海の家の初老に入りかけの亭主は、眼鏡の奥の瞳で祝福しながら、そんな月並みなセリフを吐く。
「どちらからお越しですか」
「東京です」
こんなところで、東京ですというのも恥ずかしいが、亭主はその言葉に彼なりの記憶を持っているのか、―ああ、と笑いながら水色の琉球切子のグラスに泡盛を注ぐ。
「いいですね。はい、これはおごりです。幸せそうなお二人に」
「おーと、ありがとうございます」
「すいません、ありがとうございます」
わたしはともみに一緒に飲もうと、グラスを受けとる。
「ちょっとだけね」
その間、亭主は暫く上を見ながらしみじみ言った。
「東京かあ。若い頃一回行ったきり、行ってないなあ」
「お仕事か何かですか」
ともみはちびりと泡盛を飲む。元来、この女は飲めない質だ。
「いえ、わたくしその時、恋しまして。はい…」
「恋!?」
「ええー、そうなんですか」
あの生きものの鯉ですかなどとは聞けなかった。恋に冗談は通じないものらしい。
「ええ、私が誇れるのはひととおりの恥を通してきたくらいのものですから」
「失恋だったんですか」
「ええ、失恋です」
そうして亭主はいかにもあの頃は若かったからなあ、という苦笑いを浮かべながら、それでも、その目の奥はある風景を回想しているのは相違なかった。
「ですから。お兄さん達みたいな、なんていうのかな。未来に続くような幸せを感じさせてくれるカップルは良いものだなあ、て思いますよ。学べたのはそれくらいのもの。お二人はどうやって出会われたんですか?」
―ああ、としゃべろうとすると、ともみが酔った私を制して、答えた。
「えー、私が言うのも変なんですけど、最上の恋は実らない恋だって思ってますよ。だから今は最上じゃないのかもしれない。でも私はそれが幸せだと思ってます。出会いは…こっちは会社員で、私は保育士なんです。学生時代バイト先が一緒で、それでどっちも社会人なって、バイトやめてからは連絡とってなかったんですけど、偶然私が他に送るつもりだったLINEを昔の連絡網で一斉に誤信で送信しちゃったんですよね。それで彼だけが返信してきたんです。それからですかね。たまたま観たい映画が重なったりして、そんで徐々に付き合うよになって、今に至ります。長々となりましたけど、こんな風です」
でしょ?という感じで、ともみの目は私をちらっと見た。
「へぇー。出会いの話はいつ聞いても不思議な感じがして、面白いですね」
その時のことを思い出してから、私はふっと笑った。
「君らしいと思ったからね」
亭主はともみの前言を一言一言を感じ味わうように聞きながら答えた。
「うーん、いいですね。面白いじゃないですか。偶然にしろ、そういう経てきた体験は宝石の原石みたいなものですからね。これからお互いで美しい宝石にしていける可能性があるってことじゃないですかあ。」
アマノジャクなわたしは傾いた意見を紡ぐ。
「要約すると君にはまだ宝石は似合わないってことだね」
「なんでそうなんだよ。バカやろう」
「こういうところが…ね?亭主」
と亭主をみると、亭主も笑いながら
「そうですねえ」
と言った。
お互いがお互いに笑い合いながら、柔らかな空気の質に包まれた瞬間。旅人と、そのもてなし人である関係が薄まる瞬間、そういう瞬間の空気の質感が南国の島にはあるのだと思った。
―いこっか…そろそろ
私は良い間合いを見計ってともみに声をかけた。
空は相変わらず晴れていた。さあ、これがほんとの晴れ舞台だ。
…人生の、
そう思いながら子供の頃、少年野球の試合で、暑い真夏のマウンドに昇る気分を思い出した。あの頃と今を、空と空で繋ぎ留めたい。そうぼんやり思っていた。
――――
世のなかに完全はありはしない。人が考えた計画に、その人本人の予期せぬことが混ざるのは当たり前で、それがその考えが現実に存在するという証だ。
もしそれがなく完全に計画通りことが運ぶとしたら、神の気まぐれによる奇跡か、その奇跡自体がまったく、その人本人すら気づかないでいる奇跡的な間違い以外にない。
いずれにしろ奇跡に変わりないが、今回のわたしの場合も同様だった。この宮古島に来てからというもの、チラ見した時計の針が7の文字をずっと指し続けるくらいの不思議な運が味方していた。
「伊良部(えらぶ)大橋に行こう…」
わたしは三ヶ月前からこの橋をともみと一緒に渡ろうと決めていた。
伊良部大橋は、独立して点在する宮古周辺の島々の不便と孤独を開くため、多くの島民の願いにより実現した諸島における最長のかけ橋である。
その色の奥深ささえ感じる青い海にかかる一本の橋道は出来てからというもの、島民以外の観光客にも人気のスポットになり、数多くの人が訪れる沖縄地方でも指折りの絶景スポットである。
波は穏やかに見える。船を浮かべれば昼寝してしまいそうな穏やかな風と、空をなにも言わず動いていく夏の雲。
「ここに来たかったんだ」
ともみは、そう呟いたわたしをちらっと見る。
「ほんと、きれい…」
「ねぇ…あるこ…」
ともみの手を取ってみた。
静かにわたしたちは、どこまでも広がる青く透き通る海の上を渡る気の遠くなるように続く長い道へと一歩を踏み出す。
心臓は漠々(ばくばく)となった。こんな感じになって歩くのはそう、初めて付き合って手繋いで歩いたとき以来だ。どこまでも歩いて行けそうな気がする。いや、そうだ、気がすむまで二人で歩いていけばいいのだ。
「来れて良かったね」
「ほんとにね」
「ねえ、ともみちゃん…?これからずっとこんな道を歩きたいと思う?」
「…なんで?」
静かにともみは言う。
「聞いてみたかったんだ。俺がいなくてもこの橋は美しいと思う。俺のいないこの橋をそれでも歩きたいと思う?」
ともみはうーん、静かに考えている。
「…んー」
わたしは同じように、静かに答えを待つ。
「歩いてくと思うよ」
明るくともみは答えを祝(ことほ)ぐ。
その明るさと、ポッと出たかのような答えに一瞬、間を付かれ、わたしのなかには空白が生まれたが、やがてその空白そのものがわたしの求めたものだと、なぜかわかった。だが、その空白を埋める言葉を探るが上手く見つからない。いや、それがほんとうの言葉なのだろう。言葉にならない言葉がひとつの言葉をささえている。
「俺もともみちゃんがいなかったとしても、この道を歩いていくと思う」
ともみは静かに聞いている。まるで、その言葉にもならない言葉を聞こうとするかの如く。
だから―、
わたしは立ち止まる。ともみは数歩進んで、そして静かに振り返ってわたしを見つめる。そんな二人の間を澄み渡る青い沈黙が包んでいた。
だからさ、
「俺たち」
もう二人の間に言葉なんていらない。
「この先もずっとこんな道を時間が許す限り歩いてきたいんだ」
静けさを吹き飛ばしたかった。
「結婚しよう、ともみ。俺とずっと歩いて、…ください」
最後は噛んだかもしれない。が、力を振り絞った。それでいいという気がした。そうして、ともみの顔を見た。
ともみはじっとわたしを見つめいっていたが、ぶっと吹き出すと、いつもと変わらない笑顔を私に見せた。
「なんも答え浮かばないわ。はい、しか浮かばない、もう、気の効いたこと言えないんだもん」
そして、抑え目な笑顔をして、はにかながらわたしに言葉を向けた。
「はい、…あなたと私は結婚しましょう」
―空白があった。それは言葉を紡ぎ出した空白ではなく、純粋に目の前が理解できない空白
「…ぃよっししゃやあああああああ~」
体が喜ぶ。この日の、この一瞬をわたしは生涯忘れない、そんな実感があった。
フィアンセはそんなわたしを見てまた、笑っている。空は突き抜ける青さである。
わたしは橋の欄干の上によじ登った。奇跡は起こったのだ。いや、もし二人が前世から結ばれる因果なのであれば、これは必然だ。今までの何もかもがそうなのだ。だから、奇跡なんてありはしない。
そう感情が高ぶった、その次の瞬間。わたしの体はゆるやかな虚(きょ)のある方へゆっくりと傾き、
落下運動に身を任せていた。
気付いたときには、ドドーン!と凄まじい音が耳元でして、わたしは水に叩きつけられた。
なにが起こったか一瞬理解できない頭と体。そんなわたしに関係なく、橋の下は入り組んだ珊瑚の地形から、海水は生きものの如く、わたしの体からみるみる自由を奪う。もがく。が、水はわたしを引き摺り回し、海の底へ底へとわたしを引っ張りこむ。状況を理解し、絶望で頭が一杯になると同時に、海水が体のなかへ口から雪崩れこんできた。それでまた、パニックになり、口を大きく開ける。
―ああ、水面があんなに遠くて、あんなにうつくしい
顔の周りを囲む泡の間から垣間見える海面はエメラルド色で、そこを丸い形を留める太陽がゆらゆら揺れていた。やがてあれさえ見えなくなるだろう…。どんどん下方は濃い闇になっていく気がした。
視界が闇に覆われていく。最後にわたしは大切な人の名を、口にしようと努力したが、名が浮かんでこない。
ぼわり、と最後の泡沫(ほうまつ)が上がる。誰だったっけか…そうだ、
ともみ
私の視界は深い闇に沈むしかなかった。そうして、わたしは、わたしの夏の真っ盛りに死んだ。
・・・・・-
気がつくと、目の前にともみの顔があった。
静かに息を凝らしてこちらを見ている。ほんのり薄く茶色がかった髪を頭の後で、ゆるやかにハーフアップにして纏(まと)いあげ、その大きな黒い瞳に私をじっと静かに捉えている。少し空いた額にやつれた髪が一、二本筋をするりと流しているのが艶(あで)やかだ。
私は事態がよく分からず、呆気(あっけ)に取られて暫く覗き込む、“その女”の顔を見ていたがとにかく、目の前のともみに声をかけようとした。
「ともみ」
確かに声を発したつもりだが、なぜか自分の声が、耳に聴こえるような声に変換されて聞こえない。耳がダメになり声を認識できなくなってしまったのだろうか、と思ったが目の前のともみの顔にも相変わらず変化はない。
つまり、声は私のなかで完結してしまっているのだ。
私は今のこの状況を解すため、出来るだけ多くの情報を求めようと、周囲を見回した。
私のいる場所はともみの部屋らしいことが分かる。長らく意識を失っていたということか、かなり様子は私の記憶とは変わっていたが、大まかな机の配置などは変わっていない。随分とシンプルさが増した感じだ。
だが、当の私自身がどういう状態か、見ることができない。目と意識だけがある植物状態に近いようだと考えた。…
「…よかった。…晴れたんだ…」
暫く見つめていたともみはふ…と窓の外の遠くを見つめたような目をし、救われたような微笑みをひとつ浮かべ、ゆっくりと背を返して、やがてどこかへ出かけるのか支度をし、部屋を後にして出ていった。
そんなともみを後にして、ただ訳が分からない私ひとりが残された。
部屋のなかには、さっきまで人がそこにいた目に見えない温もりと、それを囲むような冷たい静寂が取り残されている。
私は、暫くじっと自分自身を探るように考えた。私はとりあえず、生きている。それは確実だろう。こうして意識だけはあるのだから。問題は、ただそれだけだ、というところだ。
私は沖縄で海に落ちた。それから一体どれくらい時が隔たっているのだろう。
季節は寒くないのと、ともみの服装が薄かったことから恐らく夏だろう。とすれば、一年近い年数、私の意識はなかったということになる。
落ち着こうと思いまた周りを見渡した。背後は見えないが、視角120度くらいの視界ならある。ともみはマンションの一室に住んでいる。広くもないし、狭くもない…。
まあ、考えていても仕方がない。人が考えられるのは、知りえた情報の範囲でしかない。私は心のゆとりを取り戻すことが優先と判断して、しばし回想に耽ることにした。
そう言えば、ともみと仲良くなったのはいつからだったろう。確かいつか何かで私が、
「現代人の悪いとこは感覚、てやつを信じれる実感が少なくなったことだね…」
という何気ない愚痴を、彼女を前に偶然ぽろりと漏らしてからであった。
「それな…」
てっきり彼女とは考え方が違うと思っていて浅い付き合いしかなかったので、その同意には心底、驚きだった。私のなかの、それまでの彼女の印象は、明るい一面があるけど、ドライで軽くて…。仲良く話せる気がしなかった。だから、新鮮な彼女に触れれた気がした。それだけで良かったと思った。それは私のなかの彼女が変わる瞬間だった。それからいろんな話をしていった。
私もともみも孤独だったということが話しをしているうちに分かってきた。二人ぼっちの私たちはいろんな話をした。人見知りしてしまう質の私も、ともみの前でなら自分らしくあれる気がした。
「前に俺の友達に連れていって貰ったメキシコ料理の店がある。メキシコ料理てことで少しためらいはあった。店に入ったら、やっぱメキシカンな感じで、料理のメニューみると、メキシコ牛は世界で一番、なんてのもあるし、すごくうさん臭い。でもその友達はなんの屈託もなく、そこに載ってるメキシコ牛のステーキを注文してく訳でさ。そんで、例のステーキがでてくるんだ。メキシコ牛だ…て俺は思った。でも思い切って一口食べてみた。…男は社会性を誇りにしちゃうもんだから…でも、めちゃうまかった!…え?なにこれ!?みたいな感じだった。そんで帰りがけに、店長らしきメキシカンハット被った人においしかったです、て言った。そしたら、その人ぼそっとした感じで、ありがとうございます、て応えてくれた。笑わないその顔が素敵だった」
私はいつもの如く長々と話し笑った。ともみは静かに聞いていて言う。
「マイナスを背負ってる人って、格好いいね。…いいお友達持ってるね」
もちろん喧嘩もしたし、お互い長い期間をいがみ合ったこともあった。現にずっと連絡を取り合わない期間もあったのだ。でもやはりそこから得るものは、―私には確かにあった。
「あなたって生活観無さすぎるね」
ある日の彼女は沈黙のあと無表情でいい放った。
「みっともないからいってんの!」
ある日の彼女はコーヒーも飲まずに、そう言って帰っていった。
「私じゃだめなの?なんで言ってくれなかったの?」
ある日の彼女は雨に打たれ泣きながら私の胸元に言祝いだ。
でも…
それでも、
いがみ合いながらも、一緒に生きてく。ただ、自分とは違う誰かと一緒に生きていく。それが私が彼女に教えてもらった、輝かしくはないけれど、ぼんやりした月の明り程度の理想だった。
…薄いレースのカーテンから白い光が発せられている。いや、しかし、あいつはこんな無地の白のカーテンなど好んで用いただろうか。もっとピンクの水玉模様とかあるやつが好きじゃなかったか。
そこまでつらつら考えていたが、後はなんだか眠くなってきたので、私は眠りのなかへフェードアウトすることにした。何はともあれ、彼女は彼女で、今日一日穏やかな日を送れればそれでいいという気がした。
また起きた時この続きを考えよう。なんだか、動けないし暇つぶしが見つかってよかった。そうして私は穏やかな気持ちになり眠りについた。
視界が塞がる前、ともみの飼っている猫が―ツツと横切っていったのが見えた気がした。
ーーーー
次、目を覚ました時には、泣いているともみが目の前にいた。部屋のうす明かるさからして夜のようだ。月が出ているのだろう。ぼんやり、部屋のもの達の境界をあいまいにするかのような、そんな静かな光が部屋を満たしいる。
ともみは声を抑えながら、頬に涙を垂らし泣いていた。私はとまどう。ともみはセーター姿で部屋の中央のテーブルにうつ向き気味になって座っていた。月明かりの妙な鋭さと、空気の質の張りつめた静けさから、季節は私が一眠りしている間に、どうやら冬へ入ったことがわかる。またしても急な時の隔たりに驚くが、なによりも目の前で泣くともみが、どうして泣いているのかが気にかかって仕方なかった。
「どうして…どうして泣いているの?」
声にならないことは分かっていたが、そう問いかけずにはいられなかった。部屋の空気は裂けるように冷たく感じられ、エアコンすらついていないことが察せられた。
「エアコン…つければ」
そう、ともみに呟いてみたが、ともみには伝わらない。兎に角、この目の前の女に泣いていてほしくはない。そんな感情で私は一杯になりつつあった。
「ごめん…ごめん、なさい」
ともみは抑えるように低い声でそう呟いた。
謝らないでほしい。君には笑っていてほしいのに。…どんなに言葉を絞っても伝わらない。
「私が…悪いんだもんね」
「なにがあったの」
「なんで私なんかが生きてるんだろう」
「なにいってんの」
「―じゃなくて私が死んでれば良かったのに。だったら、こんな惨(みじ)めな思いせずに済んだのに」
やがて、その言葉さえ出なくなる。私は今こうしているのに、…私は、死んだ?…。つまり、ともみには今、私の意識はおろか、私の体さえ見えていないということになる。
「…俺、……死んだことになってる?……」
頭は徐々に混乱してきた。じゃあ、今こうしてともみを見ていて、そして、なんとかそれを止めたいと思っている、これは、…この関係は何なんだ。
相変わらず、ともみは泣いている。声を出す意思さえなくした私は、ただそれを静かに見ていた。ともみの頬を二筋の涙が伝う。月明かりは、その涙を照らす。赤いリボンのテディベアさえ静まり返っている。
「そっか…俺は君のそばにさえいないのか…」
気づく、とても隔たりのある孤独。ただでさえ人は孤独なのに、こんなにも苦しみに満ちた孤独があるのだろうか。ー私が泣きたいくらいだった。ともみの涙は落ち着きつつある。月明りはこんな部屋にも優しく降ってくる。二人ぼっちの、静かな時間だけが交互に通り過ぎていた。
―そうか、…そっと祈るように思うことにした。
…ならばせめて、君のそばに俺はいたい。気づかれなくてもいいから、君のそばにいたい。それでいいんだから。
疲れと眠りが波のごとく押し寄せては、私の意識を崩していく。ああ、実際波の音が聞こえているのかもしれない。私は、私のいない空白へ意識をやる。―さざあ、ざばん、ざざ、ざばあん。…今日もつかれた。
徐々に私は気持ちをその波に委ね、眠りの海原へ漕(こ)ぎ出していく。月も直に西へ傾いていくだろうから
おやすみ、
誰もいない空虚に向かって私は最後の言葉を言った。
――――
次、目を覚ました時には、部屋は真っ暗だった。しかし人の気配は、ぼんやりとある。微かに詰まるような声と物音が聞こえてくる。
ともみの声だ。いや、厳密には声ではなく、息と体温の交じった艶かしい声音だった。それに合わせるような男の息づかいも感じられた。
「ん…んあ…」
それは、ともみと知らない誰かの声だった。
「いいよ…ともみちゃん、んんー…」
「あ、…あぁ…」
「気持ちいい?…、起きて…ん、…」
ベッドのシーツが擦れる音に混じり、大人びた男女のまさぐり合う動きが、空気の揺れと共に流れている。
「あ……ああん!…、あ」
紛れもなく、ともみの優しい喘(あえ)ぎ。
闇に馴(な)れてくると、目の前のベッドの上には、しっかりした輪郭の体と、透明で白く丸みを帯びた輪郭の体が優しく、動き重なり合っているのがぼんやり浮かんできた。
白く丸みを帯びた胸を大きな手のひらが、ゆっくりと揉む。うっすらとした脚がゆるやかにうごく。
「翔太の格好いい手、すっごく好きだよ…はあ、…ん…」
「…なにそれ」
声は、ふっと優しく笑うように言った。私にはその翔太が誰か分からない。
いや、当たり前じゃないか、そう思った。
ともみには私の心も身体も見えていない。故に、私にとってともみはいても、ともみにとっての私はいないことと一緒だ。―とても簡素な事実じゃないか。
目の前の男女の動きと声は、やがて二重奏のように息を合わせたまま落ちついていった。…ハァ、ハァ、という折れ重なり合うかような男女の息が艶(なまめ)かしく部屋の一角を占める。置き去りにされた私は、…微笑む。
これは私自身が願ったことじゃなかったか?この結末は私の死が原因で、私の願いごとも、それに沿う形で現実になったんじゃなかったのか。
なのに、なぜ祝福の言葉がでないのだろう。ともみの喜び、涙、そして今までいろんな彼女の新鮮な一面を知ってきたのに。なぜこれは、―この事柄だけは受け入れられないんだ…。願いは彼の淑女に幸せになってもらうこと。それを願ってたじゃないか。心は泣いているのに涙は出ない。
ぼんやり見つめている私がいる。
私はなぜ死んだのだろう。
なぜ今こうして、私のいないともみとの世界にいるのだろう。
なぜ現実はこんなにも残酷だったんだろう。
目の前の知らない男と、ともみは深く口を吸い合っている。それを見て心は割れるようにきしんだ。しかし、願いは消えない。そうだ、ここだ。この心がきしむのは、最も大切な感情を燃やしているからだ。きっと―。
大切な宝物は人のために使われるからこそ、それが存在する意味がある。
君に恋した時から俺は、君のそばにずっといたいと思ったんだ。
「ねぇ、ともみちゃん」
翔太は落ち着いた声音でささやいていた。
「…、ん?」
「俺が幸せにしたげるよ」
ともみは何も言わなかった。静かに黙っていた。私はそっと願うように答えた。
「…ありがとう、よろしく頼むよ」
この心の静けさがひとつの幸せに向かう何か、形のないレクイエムなんだろう。
―眠たくなってきた。そろそろ眠りが襲うだろう。意識がゆらめく。目を閉じても同じような闇である。何かが聞こえなかったら、何も起こらなかったことと同じだ。男女のささやきを、吹き渡るそよ風が肌に当たるように聞きながら私の心は深い場所、無意識の底に沈んでいく。やっぱりここに眠るのが一番だ。
次は、いつ目を覚ましてもきっと大丈夫―。眠りに落ちる直後、ともみの眼差しが私を捉えている、そんな気が少しした。
――――
如何なる人生も幸福足り得ない
でも如何なる結果であっても私は幸せといえる
…―私は目を覚ます。静かに時計がカチ、カチ、と時を区分ける仕事の音が、私の意識を揺らした。私は生きていない。でも死んでいるというんじゃない。確かにここにいる。誰かが知る訳ありはしないのに、ここに、いる。音も聞こえ、空気も感じる。目の前がどういうことか分かる。この世界に一人きりである。
部屋には誰もいない。ベッドの上には、薄茶色のコートが脱ぎっぱなしにしてある。壁にはともみと、ともみの友達が笑い合ってピースサインをしている写真が何枚か額に入って飾ってある。机には原色のファイルやらなにやらが色とりどりに散らばっていて綺麗だ。
何もかもがつまっている。この部屋には何もないのに、こんなにも彼女の生きたあかしが溢れている。
―ああ、そうだ。ここは彼女の部屋だったのだ。自分がなにかすら分からないが、この部屋には少なくとも思い出がたくさん詰まっている。それだけでいいじゃないか。そう思える。
今日と昨日では違う。毎日が「さよなら」だ。生きていた間に彼女との突然の別れが訪れたように、今この場を借りていたとしても、いつ彼女とまた新たに別れるか分からない。
だいたい私と彼女では、一方的な関係なのだ。私の時間は彼女の時間より波長が長いらしいということが今までのことから推測できうる。
私が眠る間に彼女の時間は進み、それがズレになっていく。
いつまでもここにこうしてはいられない。だからと言っても私自身、自分がどういう状態にあるのかが今だって分からない。
窓の外側からは、学校が近いからか微かに、部活動をする生徒たちの騒がしいざわめきが聞こえる。本棚の本たちは沈黙によって、その内容を守っている。床は柔らかな光を反射させている。猫がにゃあ、と鳴いている。机の上のサボテンは小さく、緑だ。
彼女がいなくてもこんなにも部屋はなにかで満たされているのだ。
なんだろうこの静かな感じは。まるで。
それはまるで、あの喧嘩のときの様な―。
部屋を片付けていて捨てるものを大切だと思う私と、捨てるものなんて捨ててしまえと思う君。どっちも言い分が平行線を辿って、永遠に終わらない、まるで伴奏曲のようで。
「だから捨てればいいじゃん!そんなの」
「そんな簡単になんで決めれんの?思考短絡すぎるだろ。きっと君は苦労してないね」
「バッカじゃないの?苦労するとか、しないとか。生きてくためには捨てることも必要じゃない。なんで、ただ生きるって目的以外のことに価値があると思っちゃうんだろ。ほんとバカじゃん、そんなの」
「ただ一つ、今までのことから言えるのは、君みたいにはなりたくない、だ」
お互いいがみ合って、虐み合ってしまっている。お互いが引いた境界を持って、そして沈黙で場を守りあって、言葉も捨てて…。
長い間、お互い口をきかないでいた。もしかしたらこんな時間が永遠に続くんじゃなかろうか、と思われた。同じ部屋にいるのに、彼女だけはいなくて、部屋のものしか残らない…。
そんな静寂のあと、ふと君はなんでか花を花瓶に差した。静かに咲く百合(ゆり)だった。
― ほら、きれい
君はほっこりした笑顔で笑った。その目から涙がこぼれた。―ああ、なんだかここが彼女の部屋だというのを改めて思った。私は今彼女の部屋にいる。カーテンから漏れた光は床に細長く一筋の線を引く。猫が鳴く。メモの用紙には文字が踊る。そうだ―、そこで気づいた。
ああ、そうだ、私は花であったのだった。
(完)
小説 “雪女”/アゲハ蝶の雪
こちらもぜひ