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小説 「夏の 朝の 庭の 」


 ―1954年、8月。…夏の盛り

夜。まだ空には星が見えるくらいの明け方近く…。

山のなかにある一軒家の広い庭を背広姿の少年と、それに続く紫陽花柄の地味な和服をきた女が歩いていた。
少年の年は十代後半で髪は短髪で颯爽としており、女の方の全体的な容姿は、三十路を少し過ぎたあたりの落ち着きのあるまとまりをしている。

「ほんとうにまあ、よくお越し下さいました。お坊っちゃま」

「十年ぶりだね。菊…」

「ええ。…おみ大きくなられまして…。あ、お持ちしますよ」

そう菊と呼ばれた女が少年が手に持つ鞄に、手を伸ばそうとすると、少年は照れ臭そうに

「いいんだよ。…自分で持つよ」

といったが、女は

「持たせてください。お鞄くらい」

と鞄を持って、少年の先頭を歩いた。

辺りはまだ暗い…。そして、夏の早朝の涼しさに起き出したひぐらしの奏で合う蝉時雨のなか、平屋建ての一軒家が二人の前に庭を抱えて横たわっている。

 

背広姿の少年は金持ちの家の引きこもりで、名を次郎といった。もともと金のある家に生まれたが、将来これといって成り上がろうというものもなく、なので毎日を特にこれといって過ごしたことはなかった。

次郎は労働で悩んだこともなければ、心から生きたいと願ったこともない。苦しみや悩みというものが次郎にはなかった。それを外から客観的に次郎自身が見ても次郎にはそもそも悩むという概念すら知らないので、なんとも思わなかった。普通なら葛藤など抱え他人とは違う自分の立場に思い悩み、それを一種の他人への贖罪の免罪符に掲げ偽善に浸ることもあるだろうが、次郎にはその葛藤すらなかった。生きていくための心の歪みや偏りもない次郎は、ある意味で純粋なまでに生きていなかった。

生きるとは自分の内面に歪みや偏りが生まれることだ。

そんな次郎を幼いときから、ずっと世話し続けているのが女中の菊だった。

菊は一度は結婚したが、旦那がある日、菊を残して突然失踪して独り身となり放蕩生活のすえ次郎の家に流れ着き、住み込みで女中をして暮らしていた。

そんな菊は、なにかと家の一人息子の次郎の世話を焼くことが多かった。

それが家族に気に入られ、女中頭にまで一時はなったが、太平洋戦争が始まり空襲がひどくなって女中連は疎開を余儀なくなされ、菊は次郎が八歳のとき泣く泣く実家の田舎に帰った。

今回、次郎と菊が会うのは十年ぶりだ。

菊は家の戸を開け、愛おしそうにいった。

「さ、お入りくださいませ。お坊っちゃま」

次郎はまだ暗がりの広がる家の中へ入った。

「程なく明るくなりますからね。この頃は、日が永うございますから。」

菊が戸を閉めながらいう最中に次郎は家へ「お邪魔します」とあがりこんでいだ。

そのまま次郎は家の中へどんどん入っていった。

「うわあ、懐かしい。これ十年前の僕の部屋と同じじゃないか」

次郎が玄関から上がって居間に入るなり、目を輝かせていった。次郎のあとから菊が嬉しそうに居間に入った。

「そりゃそうでございますよ。菊めはお坊っちゃまと離れている間、一時もお坊っちゃまのお部屋のことが忘れられなかったんでございますよ。なので、ここに時間をかけて十年前のあのお坊っちゃまのお部屋を再現したんでございます。ほら、この天井の折鶴なんて一ヶ月に一回取っ替えるんでございます…。先日もなんだか胸がそわそわするものだから、取り替えたんでございますよ?そしたら今朝お坊っちゃまが来るじゃありませんか…。だから、菊めは…」

そう菊は天井から下がる千羽鶴を愛おしそうに撫でるように触った。

次郎はそれを見て楽しそうに

「女の人の執念深さって素晴らしいね。驚くよ」

とたんたんといった。

「なんとでも、たーんと嫌みをおっしゃいませ。菊めはそれでも嬉しいんでございますよ。…そう。お坊っちゃまが初めて菊に嫌みを言ったのは五歳のとき…」

長い回想が始まりそうだったので次郎は適当に目を周囲に走らせ、話をそらした。

「あ、積み木がある。これ菊に餞別でやったやつだろ。なっつかしいなー。ほら、ここ。…こうやってアーチを作ってこの下を自動車が通るんだ。積み木なんて何年ぶりだろう」

「そのアーチが少し低すぎて…お坊っちゃまは毎回、自動車を通す度にアーチを上げておりましたっけ…」

「そっか。忘れちゃったや。あの家も、みーんな空襲で焼けちゃったからな」

ええ、と菊は言ってから言葉を続けた。

「でも、ここにはあの家の全部があるんでございます。十年前の菊の全てが…いえ…十年分の菊の全ても…ここに…。あら、そうすると…二十年分になってしまいますでございますね。あら、すみません。お坊っちゃま。…お疲れでしたでしょう?今すぐお食事の用意をしますから」

「…ここに来るための車がねー。壊れちゃったんだー」

次郎は帽子を脱ぎながら唐突に明るめにいった。

「車…?お車でございますか?ここへは…その、お車で?」

「ううん。駅からね、タクシーをつかまえた。でも、ここに来る途中の峠道で故障しちゃったんだ。いくら待っても直らないから、そこから歩いてきたんだ」

「あそこは、よく車が故障するんでございますよ。…でも、あんな夜道をよくまあ」

「静かで星がきれいだった。ずっと上を向いて歩いていられたよ」

「あの…予感って当たるものなんですね。菊めは夜にふっと目がさめて…それから寝られなかったんでございますよ。着物を着替えて、いろいろ支度していたら…そしたら、お坊っちゃまが家の前に立っているじゃありませんか。菊めは嬉しくて嬉しくて…もう…つい…」

菊は涙目になりそうな目を細めた。次郎はネクタイをほどきながらきいた。

「へー。僕が来ることがわかったの?」

「ええ、いつか来るとわかっていました」

次郎はそれに笑って答えた。

「僕がこんなところへ遊びにくると思うかい?」

「こんなお金のない田舎にお金儲けでは来ません。来たとすれば、そんなバカなことでもバカなことと知りながらそれが嬉しくて愛しんでございます」

そういうと次郎はさも楽しそうに

「そりゃ嬉しいだろうね。なにせ、みーんな終わっちゃって、ここに来たんだから…」

といった。菊はそれをきくと少し面食らった顔をしたが、すぐいたずらっぽく

「へー。妙なことをおっしゃいますね。まだお坊っちゃまは十八歳でしょう?」

ときいた。

「いくら十八でも自分の人生が終わっちゃったことがわかるくらいの頭はあるんだよ」

「まだ髪も黒いのに?背もすらっとしているのに?お肌もほやほやなのに?」

「そう見えなくったて、髪は白くって背は曲がってる。肌はもうボロボロさ。菊には…見えないんだ」

「菊めにはわかりません。…なら、なにも問題ないじゃありませんか…」

「そうさ。…菊にはわからない」

次郎は鞄を置いて、背広を脱いで衣装棚にかけた。

菊の目に、十八歳の少年のほどよく均質の取れた筋肉質の肩幅がちらりと映った…。

「あの…その…お坊っちゃまは…年頃のお嬢様と…」

「恋愛をしたかっていうの?」

「へえ。そういうことがおありなんでございますか?」

「恋愛?…いいや。僕は女の子を愛したこともないし、女の子から愛されたこともない」

「そうすると、失恋でもないんですねぇ…」

「ハハハ、菊。失恋なんて子供のすることさ」

「へー。じゃあ、お友達の裏切りにあったとか…」

「友達は元からいない」

「学校でも、お辞めになったりされたんですか?」

「とっくの昔にやめてるよ」

「じゃあ世の中に揉まれたんでございますね」

「ううん。家でぶらぶらしてただけさ」

そう次郎がいうと、菊は畳に正座して深く考える仕草をした。

「それじゃ何もはじまっていないじゃありませんか。はじまってないのに終わるだなんて」

そう菊がいうと次郎は静かに歌うように

「はじまる前に終わっちまったのさ♪」

といった。

「あんまり菊をおからかいになるものではありませんよ。あとが怖うございますから」

菊がわざとらしく怒る仕草をすると次郎は、それを見て

「へー。タイソウなこと言ってらー」

と得意そうに笑った。

「きっと疲れがたまっているんでございますよ。…ね、菊が朝ごはんを作る間ぐっとおやすみくださいませ。すぐ支度しますから」

と菊が台所に行こうとしているとき、次郎は縁側の障子を開けて眺めた。

「うわあ…庭だ。…立派な庭だね。…ねえ…菊。なんでこんな立派な庭なのに花がしおれて、しんとしているの?」

菊はそれに顔を上げて

「菊にもわからないんでございます。うちの庭は死んでいるとよく言われるんでございますよ。花が咲いても楽しそうじゃない。実を結んでも、咲かない。ずっと前からこうなんでございますよ」

「へー。それって…もしかして、旦那がいなくなったときからかい?」

「それくらいでしょうか。菊が小さい頃はこの庭にも色とりどりの花が咲いて楽しげに見えたものなんでございますが…いつしか…」

「…家に伝わる開かずの箱に入っていた枕を使いはじめたのはここに帰ってきてから?…」

それを次郎がいうと菊の空気が張り詰めた。

「お坊っちゃま、その話を…どこで?…」

「僕は情報網が広いからね。銀座で知り合った富豪の男が教えてくれたのさ。…なんでも、菊は特別な枕を持っているそうじゃないか。それをこの家に上がり込む男に毎回使った…。それから庭の花はどんどん楽しげなものでなくなっていった。まるで目のなかの世界が変わるように…。違うかい?」

菊は気が動転したのか正座を正し、畳に座り直した。

「お坊っちゃま…」

次郎はたんたんと話を続けた。

「菊は不思議な枕を持っているそうだね。…よせよ。そんな怖い顔するの。…僕はその人に、きいたままの話をしているだけなんだ」

「そんな話は眉唾物にございます!!」

―どうぞご勝手に、と次郎は軽く受け流し話を続けた。

「とにかく君は変わった枕を持っている。なぜか知らないが、とにかく不思議な枕が君の家には伝わっている。…あるとき旦那がその枕の入っていた箱を見つけたそうだね。…ちょうど今と同じ…夏だったそうだね。そして旦那は菊から枕の話をきいて、その枕で昼寝をした。君は町で買い物をしにいって留守の最中だった。夕方、君が帰ってきた。そのときには旦那はいなくなっていた。そして、それっきり帰ってこない」

「やめて…くださいませ。」

「その日からこの庭には百合の花も撫子の花も、なんにも咲かなくなっちまった。そうだろ?」

そういうと菊は息をのんでから、間を置いていった。

「…それはそうに違いございません。だってあの箱のなかの枕は、唐代の大陸の不思議な里にあった枕で、…それが巡り巡って菊の家に来たんでございますから」

そういう菊の目は静かに畳を見つめていた。

「でも、どうしてその枕で寝ると…」

「どうしてか存じません。私は怖くて自分で使ったことがないんでございます」

「たしか富豪の男はこういっていた。あの枕で寝ると全部がどうでもよくなっちまうんだってさ。そのあと自分の妻の顔をみるとなんで自分がこの女と一緒に過ごしてるか、わからなくなったんだって。それで気づけばフラフラと家から出ていってたらしいぜ」

そう次郎が続けると菊は、あまりの言葉だったのか、しくしくと泣きはじめた。

「…ごめん。菊…。泣いちゃったの?…ごめんね…」

すかさず次郎が菊のそばに寄って肩を撫でた。菊は鼻をすすりながら口を手で押さえつついった。

「…そんなにお謝りになっては困ります…。お坊っちゃまには悪いところなんか…」

「でも、なんでその枕をまた、ここに帰ってきて使っているの?」

そういうと菊は、その潤んだ目で次郎を少し見やりいった。

「もう洗いざらいお話ししましょうね…。菊はね。あの枕を男の人に使うことで貞操を守ってきたんでございますよ」

「それは、どういうことなの?」

次郎の目はまっすぐ菊の目のなかをとらえていた。菊は観念したように力を抜き、上向きぎみに語りだした。

「夫がいなくなりますとね…。こんな菊のような女にも言い寄ってくる男の人がいるんでございますよ。菊は…あの…危なくなりますと、この家に連れ込んで睡眠薬を飲ませて、眠ったところに、あの枕をあてがったんでございます。そうすると、男の人は目が覚めると、いろんなことがどうでもよくなっていて、私を残して出ていくんでございます。」

「いろんなことがどうでもよくなるって、具体的になにがどうでもよくなるの?」

「お金とか、名誉とか、女とか、自尊心とかでございます」

そう菊がいうと、次郎はにっこり笑って

「じゃあ、僕には問題ない」

といった。

「なぜでございますか?」

「だって、そんなの胡蝶の夢。我、夢にて蝶なるか。蝶、夢にて我なるか、だよ。そんなもの夢ってことぐらいみんなわかりきってる。実はみんな知ってるんだ。でもそういう夢を見ないと、この世にはなにも存在しないことになっちゃうだろ?だからみんな自分で自分を騙して、そういう実は存在しない夢を追いかけるふりに夢中なっているだけさ」

「それは、ただ言葉で知っているだけでございます」

そういうと次郎はまたにこりとしながら、

「嘘だ。だってそういうことを知っちゃったから僕の人生はおもしろくなくて終わっちゃったんだ。だから安心して。僕は大丈夫だよ」

「どうですかね。とにかくあなたさまが、あの枕でお休みになってから起きたら菊のことを他人みたいに冷たく見て、そうやって出ていくのが菊は一番恐ろしいんでございますよ。悲しいんでございますよ。」

「大丈夫。大丈夫。僕はあの富豪の男みたいになったりしないから」

「富豪…?」

「君の旦那さんだった人だよ」

「どうして、それが…」

「ほら、僕はなんでも分かるんだ」

次郎がそういったとき家の郵便受けに早朝の朝刊がカタリ、と投下された。

少しあたりは白みはじめてきている。

「じゃあ、お坊っちゃま。こうしましょう。もしその枕を使ってお坊っちゃまがここから出ていくとき、菊めをお供に連れてください。それが約束でございます!!」

そういうと次郎は呆れながら笑って

「だから大丈夫だっていってるじゃないか。大丈夫だということを僕はわざわざためしに、ここに来たんだから」

といった。

「男の人の言葉は流れる水でございます。大丈夫という言葉ですら…。お支えがないと流されてしまうんでございますよ。でも、夢のなかにまで菊めはお供できません。お坊っちゃまのなかの一番大事なところには…だから…」

「はあ、早くその枕を使わせてほしい。菊。どんなに誓ったって、人の中は見えないんだ。だったら、結果を見るしかないんだよ」

「お供のお約束をしていただければ…」

「したって意味がないよ。したところで僕は出ていくときは出ていくんだろう。じゃあ、どのみち意味がない。それにそんなことに、なりはしないんだからね」

「でも、万が一が…」

「そんなに僕が、万が一でここから出ていくことを心の底では実は望んでいるということなの?…それは」

次郎は首を少し傾げ、まっすぐ菊をみた。

「違います。けっして、そのようなことは!!」

「じゃあ、なにも問題ない!」

そういうと菊は少し顔を背けて

「お坊っちゃまは、待つということがどれだけ辛いことかわからないんでございますよ…」

と小さくいった。

「じゃあ、そのときは君もその枕を使えばいい。そうすれば、僕のことも、旦那のことも全部どうでもよくなっちまう」

そういうと菊は目を開かせて

「それもあまりにも恐ろしゅうございます」

といった。

「怖かったら、やめるんだ。僕は使わせてもらうよ」

「ああ…このまま叶わぬ夢を見て、この山の谷間の底で静かに老いて朽ちていくことだけが願いだったのに、こんなところになって情けない望みが…」

「早く。枕を持ってきてほしい…」

菊は目の涙を拭いながら諦めたように承諾した。

「よろしゅうございます。持ってまいりましょう」

「あー、疲れた。これでやっと眠れる。もう夜が短くなっちまったな」

「はい…只今」

菊は静かに立つと、家の奥に入っていき、綺麗な螺鈿細工のされた小さな箱を持ってきた。中には小さな枕が入っていた。

「さあ、横になってくださいませ。…ええ、そう…。ああ…お坊っちゃまは小さい頃よく、こうやって菊の膝の上で眠ったものでございますよ。その寝顔が…いいえ…なんでもございません。今ひとたび、その寝顔をこうして見られるのですから…菊めは幸せ者でございましょう。」

菊のほっそりとした幸せそうな笑顔を見ながら次郎は、横になって枕に頭を当てて目を閉じた。

とたんに次郎は寝ている床がパカッと空いたような感覚にみまわれ、次に下に深く落ちていく感覚に急に襲われた…。

耳鳴りがする。

空気が流れる音と、奇妙な鳴き声…。よく耳をすますとそれがクジラの鳴き声であることがわかってくる。…クジラの鳴き声が次郎の耳の奥へ反響している。

ほゥあああああぁぁあぁぁぁぁ…

ほゥあああああぁぁあぁぁぁぁ…

そのクジラの声に混じって、水の中に反響するような濁った声が聞こえてくる。

 

枕にとがはあらじ

枕する人にとがあり

花にとがあり

水にとがあり

林にとがあり

空にとがあり

そのなかに立つ人にとがあり

枕にとがはあらじ

枕にとがはあらじ

眠りにとがはあらじ

人の心そのものがとがなりければ―。

 

次郎は螺旋のように繰り返される、どこからともなく聞こえてくる、その声に次第に眠くなっていき、意識が遠退いていった。

 

次に目を開くと、菊とは見違えるほどの同い年ほどの美しい美少女の心から愛おしそうな笑顔が次郎の顔をとらえていた。

「枕にとがはあらじ…か」

次郎はつぶやいた。

「ん?…なに?…」

少女が首を傾げながら鈴のなるような声でいった。

少女の髪は肩できれいに切り揃えられており、着物を着て、その着物の着方もゆるく胸の谷間が次郎の寝ている位置から少し開かれて見えるほどだった。

「いいや?なんでも…」

どうやら次郎は少女に膝枕をされているようだった。頭に温かみが伝わる。

「君は…誰?」

「…、当ててみる?」

少女は楽しむようにいった。

「いいや、いいよ。素直じゃないということはわかった」

「ふーん。素直な女の子が好きなんだ。でも、抵抗もしない女の子って面白いかな?」

「口説きかい?」

「ええ、私の名前…口説きっていうの。…以降お見知りおきを…。」

少女はふざけて着物の裾をドレスのように軽く引っ張って小さくお辞儀した。

「ふふ。口説きも名前になれば口説きじゃなくなるのね」

「ああ、悪い冗談だね」

「あらあら。でもあなたの手、少し震えてる…。どうしたの?つかまえていてあげる…どう?そうね…。手を握ったときの顔を見れば、だいたいのその人の心は分かるものよ。あなたの心はきっと弱々しい…蝶なのね…」

嬉しそうに少女はいう。

「君は、そういうタイプのロマンチストなんだね」

「ただあなたの心をのぞいて真似ているだけ」

「だとしたらそれは…男を知らない女が男の真似をしているように…僕には見える」

「じゃあ、お口直しに、美味しい蜜でも…いかが?」

「蜜を飲んだら酔っちゃうんだ。心が蝶だから。今は夜じゃない」

「あら、じゃあ、危ないわ。蝶なら足元が地についてない…」

「地面を歩くのは面倒くさいじゃないか」

「でも、危なっかしいわ。そんなの…。守ってあげたくなる…」

そういって少女は次郎の足を尻にかけて優しく撫でた。均質のとれた若々しい山を少女の柔らかい手のひらがなぞる。

―少女の淡い吐息が次郎の耳元で聞こえる。

「理屈をいうときのあなたの目…。すごくかわいい。…素敵よ…。自分の理屈で酔ってる目…。そう、あなたの心は蝶なのよ…」

「今、君の目のなかを何かがはっていった」

「…なにかって、なに?」

「女の人の目のなかにはときどき蜘蛛が巣を張ることがあるんだってさ」

「それは女の子の目のなかに広がる星の輝きの間違いよ。きっと」

「そうかな。もし見間違いだとしたら、僕は君のことが好きじゃないという暗示かも…しれないね」

「それでも私たちは結婚するのよ。結婚ってそういうもの…。二人で心が離れていても助け合って、一緒に過ごしていく。そのなかで蜘蛛の巣は星の瞬きをその糸に宿すようになるのよ。ね、素敵じゃない?」

少女ははにかんだ。

「そんなのただ絡まっただけじゃないか」

「絡まりあって、もつれあって、離れられなくなるの…私たち…」

相変わらず可愛らしい、ため息にも似た少女の吐息が次郎の耳元で聞こえる。

「それはあまり親切じゃないね」

少女は歌うようにいった。

「それはあまり親切じゃない♪…。親切さはたまにでいいのよ。ずっと続く親切は退屈やマンネリという綺麗な花の姿をした毒なのよ…。ねぇ、見て日がくれていくわ。あなたは今日もこの星空の下で私の膝の上に頭を持たれかけて眠るのよ。ほら、あれがお月さま…そして赤く燃えている、あれが…夕日というの…」

「へー、月は夕日を浴びても赤くならないんだ」

「…素敵」

そういうと悲しそうに少女は、やんわりと柔らかく目を細めた。その顔は夕日に火照って少し赤い。

「私の今の胸の音…、きこえる?」

「いいや」

「じゃあ、きいてみて…。」

少女は屈みこんで丸みを帯びた胸を次郎の耳元に近づけた。柔らかな丸みと弾力が次郎の側頭に当たる。…そして、ほのかな金木犀の香りが次郎の鼻を掠める。

「トクン…トクントクン…。音がきこえる。」

「ね、生きてるでしょ」

「ううん。そう思わない。僕にとって生きてる音というのは、静かにきこえる僅かな骨の軋む音だ」

「じゃあ私が笑えば、骨の音がきこえるということね」

少女はそういって笑った。

「ううん、君が笑うというより、それは…骨が笑っているんだよ」

「いいえ、…それならそれは、あなたのなかで悲しみが笑っているのよ」

「僕は君が骨になったってちっとも悲しくないよ。愛があってもいずれは、…そうなるだろう。…そして、それが愛なら…そこには、愛も、なにもなったことと同じだ」

「でもそのお顔は悲しそう…」

「じゃあ、これを悲しみと呼ぼう?」

少女はふと次郎の口に柔らかな口づけをした。

「そう…これが…悲しみ…」

少女がそう愛しそうにそういうと、次郎はふっと微笑んだ。

「やっと微笑んでくれた。悲しいのに人はなぜ微笑むことがあるの?」

「悲しみが人の全てだからだよ。大切なものだから…」

少女は上に広がる藍色の夜空を見上げながら、

「じゃあ、私にはわからないなー」

といって目をつむった。…その目から涙の筋が流れた。

その涙が次郎の頬に落ちる。

その次の瞬間、凛、と音がして次郎の視界が開けた。

気づけば、次郎は小さな洋風の部屋にいた。腕にずしりと重みが走って、次郎はあわてて近くの綺麗な木目の椅子に腰かけながら、腕のなかをみた。

…そこには、真綿の毛布にくるまれた赤ちゃんが抱かれていた。そうすると唐突に次郎は自分のなかに子供への愛しさが湧くのを感じた。

「ね…かわいいでしょ?」

ふと見ると、少し歳を重ねた先ほどの少女が黒に金の刺繍の入った着物を着て目の前に立っていた。もうその顔立ちは、落ち着きがあり少女というより一人の女だ。そのたおやかな面のなかには一個の独立した世界があった。

女は腕を流れるように次郎の手に絡みつけ、その手のひらを握った。

「この手が、この子を宿してくれたのよ?」

「へー」

「きれいな手…。血管が透けてみえて…まるでガラスの彫刻ね」

「皮膚がガラスなら、血は鉄に違いない…。それでこそこの僕の体重は地面と釣り合う。…この子のこの重さも…。だからこの子は鉄から生まれたんだよ」

「この子が鉄に見える?」

女は不思議そうに次郎の顔を覗き込んだ。

「ああ、柔らかな生まれたてのね」

「だとしたら鉄は素敵」

「素敵だろうとも。だって僕はこの鉄で君から鎖の首輪をつけられるんだろうから」

「束縛は私の本能よ。許して…」

「君は鉄でいろんなものを鋳造する。女が好きなものを手に入れようと思ったらだいたい鉄が必要になるからね。男より鉄を上手く使うのは…母性本能を持った女だ」

「それは古い考え方よ。でもあなたって古風なのね。そういうところも好き…」

「それは、僕を鉄の彫像の骨董品として見る目だね。いつか値がつり上がったら売っちまうんだ。」

「いいえ、本当に価値のあるものは売らないわ。私だけが独り占めしてそっと隠しておくの…」

―そんな束縛なら、素敵でしょ?

女は次郎の耳元で囁くようにいった。

次郎と女はそこで唇をからめあった。

「ん…んはあ…なまめかしい…これが鉄同士のキスなのね」

女は大切なものを見つめる目で次郎を見つめた。

「ああ、だから血は鉄の味がするんだ」

もう一度唇と唇ふれあおうとしたそのとき、今度は空間が引き延びて、次郎は女の顔から遠ざかった。

真っ暗の空間に次郎はいつの間にか、一人取り残されていた。

そして、その空間のなかの次郎の周りを数々の人の影が蠢いていた。

遠ざかっていく人影、離ればなれになる二つの人影、うつむいた人影、それに手を伸ばす人影、輪になって踊りを踊る人影、…数々の幻影が次郎の前を通り過ぎていく。

そのなかを歌うような声がすり抜けるように通っていく。

 

花は揺れ、

風は通り、

人は踊る、

影は移ろう

影は移ろう

ゆえに影が踊れば人も踊る

人が踊れば世界が移ろう

世界の影も合わせて移ろう

ゆえに、この夢の世界に

なんら物語はありはしない

 

気づけば、次郎はフカフカのソファーに座り、周りを三人の美女たちに囲まれていた。みな、肌が透けるような透明に近いおとなしい色の、胸のはだけるドレスを着て、髪は艶やかによく手入れされている美女たちだった。

「かわいい目…。こんな目の人…あたし見たの、…はじめて」

一人の美女が次郎の左肩に手を置いて次郎の目を見つめながら、不思議そうに耳元でそういった。

「自分が映ってるからだって直接いわないんだ…」

「へー、言い回しもうまい…。モテるでしょ?」

今度は別の美女が次郎の正面にふわりと手を膝の上に置いて静かに座り、次郎を真っ正面から見つめた。

「言い回しが上手いのは、そんなにきれいな舌をしているから?お嫁さん、さぞ幸せだろうな」

もう一人の別の美女が次郎の右隣に座ってきた。

「さあ、舌がきれいなのは硫酸で毎日歯磨きしてるからじゃないかな?」

「野蛮で、素敵」

右隣に座った美女がいった。

「だとしたら君は腕がきれいだね。硫酸で毎日磨いてるの?」

「そんな素敵なものじゃないわ。でもあなたのそういう、きれい、といってくれる一言一言に磨かれてるのかもしれない」

「ほら…、ね…。いくらでも、どうぞ?」

と今度は、正面に座った美女が腕をなよびやかに差し出した。

「やめとく。それだけが一日のうちで見るきれいなものとは限らないからね」

「あなたの隣で見る星空とか?誰もいない二人っきりの浜辺とか…」

「二人っきりになって見つめ合うお互いの顔とか」

「夢のなかでみる私だけのあなたの横顔とか」

「素敵!」

三人の美女はそういってお互いに顔を見て笑いあった。

「やめてくれ。女の妄想と、女が仲間うちだけで笑う笑いほど退屈にさせるものはないんだ」

「ふふ、…おしゃれな冗談」

正面にいる美女が笑いを残して、口に手を当てながらいった。

「じゃあ、退屈させないために、みんなで次郎さんの好きなとこ言い合うのどう?次郎さんにいろんな私たちの好きを言い合うの…。で、次郎さんに誰が一番か決めてもらいましょう」

「それいいわね!」

「私は次郎さんのうなじが好き。細くって、でもたくましくって、矛盾してる。論理を壊す美しさが、好き」

「私だって!私は次郎さんのほっぺが好き。その頬に隠れた本音を唇が触れる度に感じるの。その本音が私を女にしてくれるの」

「次は私!私は次郎さんの腕が好き。肘の付け根から指の先が私を支えるとき、その不安定さが…好き。全世界の不確かさと不安定さが、そのとき次郎さんのなかに集まって固まるの見てるの、…好き」

「君たちは僕の体にないものを好きになるんだねー」

「いいえ、次郎さんでなければダメなの。次郎さんの体を通してでなければそれらは存在しないことと同じなの」

次郎はふざけたように笑いながらいった。

「じゃあ、挙げ句僕の体をバラバラにでもすればいい」

「そしたらあなたは生きてないじゃない。優美さは、生きて動くもののなかに一瞬だけ宿る永遠の露なの」

正面に座った美女がいった。

「で、どれが一番次郎さんはよかった?誰がいいの?」

「ね、…私っていってね」

「ずるい。抜け駆け禁止…。私だって選ばれなかったら胸が張り裂けそうなのに」

「ああ、我慢できない…じらすのはよして?ね…私にして…お願い…この静かな地獄から私を連れ出して?」

そういうとはあ、と次郎はため息をつきながら

「いい加減飽きてくる…」

「え?」

「だから飽きた。それでおしまい。わかったら、さっさと出て行ってくれ」

「えー、やだー。やだよぅ」

「うるさいな。そういう見え透いたのが人を飽きさせるんだよ。そして、人は同じ花をいつまでも見ていられない生き物なんだ。造花なら、なおさらね」

「あたしのこと花っていってくれた…嬉しい…」

「嬉しかったら、その嬉しさのあるうちにさっさと出ていってくれ。長い時間一つの嬉しさにしがみついていれば、その嬉しさも色褪せてみっともなくなる」

「ね、次はもっと遊ぼう?二人っきりで。きれいな景色のなかで」

「ああ、わかった。わかった」

次郎が手で出ていってくれというジェスチャーをすると、美女たちは静かに立ち上がり、部屋の扉を開け出ていった。

代わりにその扉から、身なりのしっかりした黒服をきた老人が入ってきた。帽子やステッキを持っていないところを見ると、どうやら金持ちの個人という風でもないらしかった。

「お迎えにさしあがりました。…社長。こちらでの代金は私めが小切手で先ほど済ませておきました」

次郎の前に来ると、老人はにっこり微笑んでそういった。

「あなたは誰です?…すみません。僕、持ち合わせがないものだから。あなたが払ってくれたんですか?」

次郎が、そういうと老人は意外だ、という顔を一瞬したが、また穏やかな顔になり

「お金はすべてあなたさまの物でございます。お許しを得ておりますのでね。…私はあなたさまの秘書でございます。いやあ、近頃はどこも値段が高くてうちの会社の経費ででもなければうかうか遊べない世の中でございますからな」

といった。

「うちの会社って?」

「あなたさまの会社でございますよ。社長」

「社長?」

そう次郎がいうと老人は歯を見せて笑いながらいった。

「おしらばっくれになってはいけませんよ。社長。いやですなあ。どうも。社長もお人が悪い」

その老人の嘘偽りのない純粋なあきれた反応を見て、次郎は悟った。

「ま、それでいいや。どうでも。…で、僕の会社の資本金と、僕個人の総資産の明細を教えてくれ」

「はい、只今」

そういうと老人は手を頭上でパチンと叩いた。

それが合図なのか、スーツに身を包んだ女の事務員が二人、一人は銀の盆に電話機と書類を乗せて、もう一人は小さなテーブルを持って部屋に入ってきて、老人のとなりにテーブルを置いて、その上に銀の盆に乗った電話機と書類を置いて、静かにまた部屋から出ていった。

次郎はそれを見ていった。

「さあ、教えて」

「は。」

老人が書類を開いて読み上げようとした、そのとき、電話機の呼び鈴が鳴った。

すかさず老人が受話器を取る。

「はい…もしもし…。はい…。はい…。はい、社長ならおいでにございます。」

そこで老人は受話器から顔を少し離し

「例の大阪の物産社ですよ…。まったく…」

と少し苦々し気に次郎にいった。

次郎はなにも聞くことなく

「断って」

とだけいった。老人は

「かしこまりました」

といったあと、長々と電話先の相手と話をしていたが、最終的には語尾が荒くなり、力強く電話を切った。

「いやあ、よくご決断あそばされました。思いきられましたねー。先代が見ていたらなんと感激していたことか…。先代ですらなかなかご決断されづらかったものをものの二秒でよくご決断されました。実は私めも御諌言といってはなんですが、このことを端で見ていて気を揉んでおりましたが、…。さすが英邁であられる。さすがでございます。そのお気質。…きっと星に選ばれたのでしょう」

「さあ、明細を」

そういうと老人は「は、感動のあまり…」と言って続けた。

「ええ、…会社の資本金は二億五千万円…固定資産が…」

「そのなかで僕の持ち株はどれくらい?」

「はい、……五十五パーセントです」

「それ全部処分して」

「は?」

老人は正気か?という顔で次郎を見た。

「だから、処分してくれ。それ全部」

「重役会議と株主総会で大問題になりますよ」

「いいから。で、僕個人の総資産は?」

「は、はい…。不動産が五百万円。証券二千万円。…これは税金の関係上ごまかしてありますので、実際は三千万…」

「それも処分して」

「社長、お気をたしかに」

老人は泣きそうな顔で次郎を見つめている。次郎は変わらずたんたんと言葉を続けた。

「全部処分して、労働組合と慈善事業団体に渡す。残りは全部、寄付だ」

「社長…これにはなにか考えがおありなのでしょう?」

「なにも考えてなんかないよ。ただ疲れただけだ。僕はもうなにもしたくないんだよ」

そういって次郎はソファーに深くもたれかかって上を向いて目を閉じた。

急激な眠気に襲われ、次郎はそのまま深い眠りに落ちた。

あとの部屋には老人が残され、しばらく呆然としていたが、なにかを閃いたかのようにいきなり受話器を取ってどこかに電話をした。

「もしもし?…大日新聞社さまの政治欄担当の方ですか?…ええ。そうです。あのときの秘書めでございますぅ。…ええ、ありますよ。とっておきの…それもこの国の政治基盤を揺るがすような重大なニュースが…。うちの会社の社長が全財産をなげうって政界入り…はい…はい…本当でございます…ええ…ええ…。はい…。はい…」

受話器を握りながらうなずく老人の顔はどんどん満面の笑みに変わっていった。

 

花は揺れ、

風は通り、

人は踊る、

影は移ろう

影は移ろう

ゆえに影が踊れば人も踊る

人が踊れば世界が移ろう

世界の影も合わせて移ろう

ゆえにこの夢の世界に

なんら物語はありはしない

 

それから三年後のとある街角。二人の紳士が葉巻をくゆらせながら、街の様子を眺めて話をしていた。

「あれ以来どうだ?みんな、あいつの真似をするようになった…」

「やつはこの国の歴史上では平清盛以来のやり手だよ。経済から政治を作ったという意味においてね。並大抵のやつにできることじゃない」

「もっとも清盛はわかりやすかった。でも、あいつときたら、やることなすこと、なに考えてるのかまったく読めない」

そういった紳士はぷかー、と葉巻の煙を吐いて、しばらくその吐いた煙をいたずらに眺めていた。

「まったく、どんでん返しだ」

「ああ、…違いない」

「今になって考えれば、あのときちょうどああするのは最善だったんだ。みんなが自分の欲に熱中して集中しているとき…。そのとき真逆の手を取って利益を得る。そういう、ちょうどいいタイミングだったんだ」

「でも私みたいな貧乏ぶぜいが私財なげうったって、せいぜい自分の暮らしている半径2km圏内が潤うぐらいですよ」

「隠してるお金がある人の口ぐせはいつだって“私は貧乏です”」

「お金を隠せる場所があるなら、…私はなにかあったら、そこにまず自分が隠れたい…」

「ほぅ。…昨日ね。私はとある筋から多額のお金を払って毒薬を買いまして。…ほら。これ」

と一人の紳士が上着のポケットから小さな小瓶を取り出した。

「いざとなったら我々が隠れるのは…あの世かも…しれませんねぇ」

そう言ってその紳士はニヤニヤ笑った。

「でも、もう毒薬を持つのは紳士のエチケットです。いつなにがあるかわからない物騒な世の中ですからねぇ」

そう片方の紳士が真面目に言っている間にもう一人の紳士は、小瓶を目の前にある川のほうへ、つまらならそうに投げた。

「もう軍部も掌握されちゃったんじゃ…おしまいだ」

「この国はどうなるのやら」

「英雄なんて簡単だ。欲を諦めれば誰でもなれる。欲のない青二才の青年がみんなの支持を得て政権を取れる時代なんだからな」

「それこそ本来的な時代になったのかもしれんな。ただ私たちが同じようにやろうとしても…」

「遅すぎる年齢だ」

「よろしい。…年齢をわきまえることは歳をとる最初に学ぶマナーだからね」

「しかし…」

「しかし、というのは知識人の口ぐせですよ。政治の話に持ち込んじゃいけない。しかし、もくそも、それはもしも、という程度の意味合いしか話の上で意味を持てないんだからね」

「あなたも最近小言が多くなってきたな。…訳もない。でもまあ、軍部を掌握して議会を独占して、青年団を味方につけ、次の事業は戦争ときたか」

「万事整っていますな。この間、私は重工業倶楽部で耳が痛いような自慢話をきかされた。特需、特需、特需、…特需を享受できずば人に非ずってね」

「まさに平家物語だ」

「そうすると、我々はさしずめ琵琶法師でもしようか」

「やめよう。この話。我々は明日食べる飯の話だけをしよう」

「そうすると、先日いった重工業倶楽部で出た飯はうまかったという話になるな」

「一気に食べるものがまずしくなった」

「独裁者は粗食が好きなんだろう。しかし、自分の好きを庶民に押し付けないでもらいたいね」

「粗食以前に朝寝坊だ。あいつはとんと寝床から起きてきやしない」

「それで万事、事が運ぶんだ。あいつの背後には何人もの傀儡師たちがいる。あいつが寝ている間に、スピーチの原稿は完成して、あっという間にみなに伝わる。それを影で盛り立てるやつがいて、さらに言葉は切り抜かれ広まる。もう目まぐるしくて、目が追いつかない。…あ、スピーチをきくのは耳のほうか」

「ご覧、こんな話をしている間に街はもう起き出して次郎万歳を叫ぶ準備をしている。…あの八百屋も、そこの雑貨店も、店ののれんを掲げると同時に次郎万歳を叫び出すぞ」

片方の紳士が葉巻で街のあちこちを指し示して、嘲りながらいった。

そのとき朝ぼらけの街にブラスバンドの音が響いた。

その音のする方向から旗を持った多くの青年たちが隊列を組んで、笑顔で行進してくる。

青年たちの顔はどの表情も似たり寄ったりで、同じような目つきをしていた。

そんな青年たちが高い声で「次郎、ばんざーい」と言いながら歩いている。

「ほら、もう青年どもの行進が始まっているよ」

「嘆かわしいかな。今日じゃ、青年のほうが老人より早起きだ」

相変わらず青年たちは、みな同じような笑顔で「次郎、ばんざーい」と旗をふって行進している。

道は青年たちのためにあるように続いている。紳士たちは道の端でそれを静かに見送りながら、見つめていた。

「次郎、ばんざーい。我らの次郎、ばんざーい」

青年たちの朗らかな明るい声が朝の空に響いた。

「我らの次郎か。ひどい世の中だ。昔は王様万歳といったものだ。それに比べたら大衆にはもう良い趣味を持つ余地はありはしないんだ」

そう一人の紳士がもう片方の紳士に小さく漏らした。

「しっ!きかれちゃまずい。…あっちのビルの部屋にいって葉巻でも、もう一度のみ直しましょう。」

「それがいい。我らが次郎の目覚めまでね。…それはそうと、あなたは葉巻はお持ちかね」

「いいえ、私もこれ一本が最後の葉巻ですよ。近頃は金回りも悪いので、持ち回りはありませんよ」

紳士たちが道の端を歩いて、青年たちの行進を抜けていく間も青年たちの笑顔の「次郎、ばんざーい」は止まなかった。

そして、青年たちの行進は過ぎていった。

その道の端には小さな小瓶が一つ残された。

しばらくして、そこに一人の黒服を着た老人がそっと現れ、その小瓶を拾って、ほくそ笑んだのを見ていた者は誰もいなかった。

 

そこからそう遠くない元首官邸のとある部屋で、次郎はぐっすり眠っていた。

部屋は黒く格調高い木目調で整えられ、次郎の眠る寝台は十九世紀のフランス王家の寝台さながらの立派なものだった。

ワシの剥製や、読書台、重層感のある黒い椅子。どれもがしんと静まり威厳に満ちている。

次郎が眠る寝台の隣には秘書だった老人が黒服を着て立っていた。

そこへ一人の医師が入ってくる。

老人はわざとらしく口に指を当て

「し、…元首はまだ、およっておられる」

といった。

医師は一呼吸置くように立ち止まって老人の方を向いた。

「およっておられる間に、わしが重大発表をせねばならん」

と老人はなにやら意味深にポケットから小さな小瓶を取り出した。

「今日、道でわしは小瓶を拾った。この小瓶の中身は毒薬だ。政界進出して三年、元首はそれ以来眠り続けている。…いつかは目覚めると信じ付き添い、君にも協力してもらって儚い望みを今日まで繋げてきた。だが、どうだ?…元首は今まさに、この祖国が戦争に突入するか、しないかという狭間になっても、まだ!…起きない!…ここにわしの治療方針の介入を許諾してもらいたい。…わしはこのような、一か八かという場合には偶然の暗示によることを科学的だとする学説を採用したい。その学説によれば、治療方針はそのときの確率で起きる事柄にもとづいて予め決めるべきで、わしの手には今偶然、毒薬がある。わしの学説によると、目の前の患者には今、毒薬だけが必要なんです」

そういう老人の目はじっとり医師を捉えていたが、目の奥底は笑っていた。

「先生のおっしゃることは金科玉条…。間違おうはずもありません」

医書は空虚な目で明るく答える。

「つまり、今、重大な歴史の局面を、この国は迎えようとしているのであります。それは…我らが元首が毒薬を飲まれるという事態…これであります」

老人は報告を読み上げるように、そうたんたんといった。

「先生のおっしゃられることは全く科学に基づいており正当です。我々は政治的に動かされないことを信条としております」

「わしは君からの賛同と許諾を得たことを心から嬉しく思います。しかるに我らの祖国は今日から行動に移るのであります。虚妄は終わり、夜は明け、ラッパの音が鳴り響く!そう!眠れる独裁者は今日をもって終わりを迎え、新たなこの国の生が始まるのであります!このたゆまない緊張と、圧迫に満ちた国際情勢に我が国は裸一貫で乗り出して生き延びるための戦を仕掛けるのであります!」

「それを可能にするのは青年たちの力ですね。青年たち、ばんざーい!」

医師は相変わらずの空虚な目で、両手を上げて万歳をした。

「そのために、もはや、眠れる元首は要らないのである!眠れる独裁者は死すべきなのである!」

医師はそれに拍手を浴びせて応えた。

その拍手の音が大きかったのか、次郎が寝台の布団から起き出した。

「なに?今度はなんなの?なにごとが始まったの?おじいさん」

老人は次郎を見つめて厳かにいった。

「我らが元首のご臨終です。親族ならびに側近の方のご参入を許可します」

老人がそういうと部屋の重い扉が開き、結婚した妻と、成長した次郎の子供と、次郎を取り囲んだ美女三人が部屋に入ってきた。

みな、部屋に入ってくると下向きぎみに黙って、次郎の寝台の周りを取り囲んだ。それはまるで葬式のようだった。

「どうしたの?おっかしいなあ。みんな暗い顔して…。どうしたの?なんで泣いているの?」

次郎は美女の一人が泣いているのが目に入ったので、美女の腕に触れた。…その腕は、ゾッとするような冷たさだった。

次郎は驚いて、美女の腕から手を離した。

次郎は妻である女の方を見た。女はやはり悲しそうな目で次郎を見つめているだけで何も言わない。

次郎がみんなに気を取られている間に、老人が医師に「コップに水を」と耳打ちし、医師がうなずきコップに水をもって老人に手渡した。

老人は次郎に向かって優しくいった。

「このお薬をお飲み下さい」

「なんだい?…これは?」

「いさぎよく、ぐっとお飲みください。みんなが最期のありさまを見ております」

「いやだ、冗談じゃないよ。なんで死ななきゃいけないんだ」

「わがままをおっしゃらず、いさぎよく最期をお遂げください」

「しつこいやつだな。死にたくないんだって」

「元首のご最期であります。見苦しい様をお見せならぬように」

そう老人がたんたんという言葉に次郎は必死になって抵抗する。

「いやだ!…いやだ!死にたくない!みんな、どうして止めてくれないの?不条理だなあ。こんなときになっても、みんな、泣くことしかできないんだ」

「こんなときになって人の悪口をおっしゃらずともよろしい。さあ、ぐーっと一思いにお飲みください」

老人はきつい目になり次郎を見ていった。

「嫌だ。絶対に嫌だ」

「これではどうも仕方ない」と老人はいってから、みんなの方を見て、

「みなさま、御最後を見届けたしたでしょうが、ここはわしに任せていただけませんか?見苦しいことにならないように、わしが説得して飲ませてさしあげましょう。みなさん。申し訳ありませんが、お退りください」

といった。その言葉に、みな沈黙しながら素直に部屋の扉の朴へ移動していき、扉から出ていった。

それを見届け、老人が次郎に向き直る。

「いいかね。次郎。わしはあなたを納得させるよ。静かにおきき。わしらはこの枕に宿る、人に夢を見させる精霊だ。な、それは多分あんたも御承知のはずだ。そして、この枕で寝た者は世の儚さや条理を悟らなければならない定めになっている。昔の人は粟が炊ける間に一生の夢を見て、現世の儚さを悟ったわけだ。多くの人がそうやってこの夢から覚めていった。今もそうだ。あんたは夢の中で一生を生きた。ところがあんたはどうだ。本当の意味で、この夢を一度も生きようとしなかったじゃないか。あんたは夢をただ純粋に素直に楽しめばよかったんだ。あんたはただ素直さを欠いているだけだ。あんたは夢の中でさえ、すべてを真面目につかもうとしなかったじゃないか。わしは一部終始見ておった!」

老人が、そういうと次郎も負けじと返した。

「だって、おじいさん。夢の中でだって僕たちは自由なはずだ。生きようとしたって、生きまいとしたって、あなたに何の関わりもないじゃないか」

「ところがこっちは困るんだよ!お前みたいな無法者には、この世の儚さを悟らせようがない。わしの役目は遂げられん。こうなったらお前を生かして帰すわけにはいかんのだ。わしの存在意義が消えれば、わしは消えてしまうのでな!悟りそのものも消滅してしまうのだ!これは世界の一大事だ」

「そんなのだってそっちの勝手じゃないか!僕だって生きたいんだ!死にたくないんだよ!」

そういうと老人は嘲るように高らかに笑いながらいった。

「矛盾、矛盾、あんたのさっきからの言動には論理的一貫性が欠けているように見受けられる」

「なぜさ!」

「だって、あんたは一度だって、この世界で生きようとしなかったじゃないか!つまり、生きながら死んでいる身なんだ。それが今さら死にたくないなんてどういうことだろうね?」

「それでも僕は生きたいんだ!」

「そんな愚かなことはこの薬を飲んでから考えればいい」

老人が無理やり次郎の口に薬をいれようとしてきたので、次郎はそれを力いっぱいもぎとって部屋の壁の方向に投げ捨てた。

「いやだ!生きたいんだ!」

小瓶は壁におもいっきり叩きつけられて割れ、中身が飛び散った。

―あ!という老人の小さな声と共に世界がぐにゃりと歪んだ。

とたんに次郎のいる空間は虚空の闇に包まれた。

ふわふわと次郎の体は真っ暗な虚空の闇のなかに浮いている。

「己!こうなれば!」

と、いきなりその虚空の闇のなかから顔が半分不自然に歪んだ老人が現れ、次郎の首を絞めようと手を伸ばしてきた。

次郎も老人の首を絞めかえそうと老人の襟首を掴む。

二人はもつれ合いながら、そのまま闇の底へ底へとゆっくり落下していき、やがて点となり、見えなくなり消えた。

 

菊は目を閉じて畳の上で安らかに眠る次郎の顔をそっと見守っていた。

もう辺りはすっかり朝で、遠くから蝉の声が居間の畳の上に届いてきている。

次郎は静かな安らかな顔で眠っており、起きてくる気配はない。

菊はしばらくそっとその顔を眺めていたが、諦めたようにツイっと静かに立ち、縁側のある部屋にいき障子を少し開け、その隙間から広がる晴天の夏の朝の青空を見上げた。

風鈴がぶら下げられており、風はなく音はしない。

雲がまとまって移動している。

「はあ…」

と菊は艶やかなため息をついた。

世界のなによりも美しい次郎の寝顔を見ていて、もしかしたらもう二度と次郎は起きてこないのではないか?という予感が菊にはあった。

夏の静かな空を雲が流れる。

私が好きなる男はみんな私の元から旅立って幸せになる…。

菊にはそんな思いがある。

そして、次郎が夢の中で幸せならば、菊には、それでいい気がする。夢の中で幸せに暮らすのならば…。

大切なものには私は触れられないのだから…。

そう、菊が諦めかけたときだった。

「やあ…朝だね」

次郎の声が、菊の後ろで聞こえた。

「…お坊っちゃま?」

菊はふりかえった。そこには髪の整っていない寝起きの次郎の姿があった。

「お坊っちゃま…?お坊っちゃま!…ああ、…ああ、…菊めはもう二度と、二度とお坊っちゃまは起きて来ないものかと…思っておりました…」

「大袈裟だな。眠りなんて、いつか覚めるものだよ」

「でも…でも…」

菊はそう言いながら涙を流していた。次郎は頭をかきながらいった。

「ああ、…そうだ。…寝ながら僕はいろんな夢をみたよ…」

そう次郎がいうと菊はまた一瞬不安そうな顔に戻り「やっぱり…」と小さく漏らした。

「やっぱりっていったって、僕は少し違うんだ。人生って、やっぱり僕の思った通りだった。どんな夢を見せられても僕は驚かなかった。」

しかし、菊は覚悟したようにいった。

「あなたさまも、もしや主人のように…」

「菊やはそのほうがいいんだろ。僕がさすらいの旅に出たほうが」

「………」

そこで次郎は諦めたように笑っていった。

「諦めなよ…。旦那のことも諦めなさい…。僕はもう、どこにも行きはしない。だから約束は果たせないし、君は旦那に会えるチャンスもない」

そう次郎がいうと菊は不思議そうな顔をして

「そう…おっしゃっていただくとかえって安心したような、力強い気持ちがしてまいりますから、変ですこと」

「菊や。それが本当だよ。だから菊やは生きていくんだよ」

「お坊っちゃま…それはあなたさまだけは菊を見捨てずに…ここにずっとおいでくださるということで、よろしいんですか?」

そういうと次郎は快活に笑っていった。

「いるとも。ここに。…ずっと、いるよ。いてもいいかい?」

とたんに菊の顔が華やぐ。

「ああ、うれしい。この部屋が役に立ちました。菊はまたお坊っちゃまと二人だけでいられると思いますと、ああ、うれしい。また十年前の自分がかえってくるようでございますわ。」

菊の目から流れる涙はいつの間にか喜びの涙に変わっていた。

「僕はずっとここにいるんだ。…もしかしたら、死ぬまでここにいるよ」

「はい…。菊やも主人のことなんか忘れましょう。ここの暮らしも、なんだか新しい土地へ来たような気がいたしますよ。どうしてでしょうね。お坊っちゃま。こんな清々しい朝はないような気がいたします。」

次郎は菊の顔を横目に見て、目の前の障子を全部開け放った。ほの暗かった部屋に夏の朝の日差しがさしこむ。

「…菊。…見て…。きれいだ…。庭中の花が咲いてるよ」

その言葉に菊も庭に目を向けた。

そこには夏の日差しを受けて、空を仰ぐように咲く鮮やかな朝顔や、大きな大輪を咲かせるひまわりや、色とりどりの鮮花に埋め尽くされており、そこを風が静かに吹き抜けていた。

風鈴の音がする。

次郎は硝子戸へ手をかけ全開に開け放った。

部屋に一気に蝉の合唱が流れこんできた。

次郎は縁側から庭へ出た。菊はあまりの鮮やかな光景に立ち尽くしていた。

「ごらん、薔薇も、百合も、桜草も、すみれも、菊も。うわあ、きれいだ。一どきに花が咲いたよ」

「……不思議……。誰が思いましたでしょう。…こんな…朝がくることを…。」

りーん、りーんと風鈴がリズムよく祝福するように菊の耳に聞こえた。

気づけば遠くから次郎の声がした。

「菊!顔を洗う井戸はどこ?」

「そっちでございます。そこを左へ」

「すごい!井戸にも花がいっぱいだ!」

菊は信じられないような奇跡の光景に目を奪われ、心いっぱいにためこんだ空気を吐き出すようにいった。

「…庭が…生き返った!!」

夏雲は移ろい。
蝉は鳴いている。
風鈴は鳴る。
空は青い。

夏の朝の日差しは相変わらず、さんさんと大地を潤すように降り注いでいる。

 

―これが、夏の朝の庭で起きたことのすべて…。

 

「菊や。遅いよ。置いてくよ。」

「お待ち下さいませ!…お坊っちゃま」

次郎は菊を後ろに見ながら、夜の小高い丘に登っていた。ちょうどそこからは街の方まで見渡せ、今宵うち上がる夏の花火もよく見える。次郎は藍色の浴衣を来ているので、暗闇のなかでも闇と色が重なって見えにくいが、一方の菊は水色の朝顔がしつらえてある浴衣を来ているので、次郎からは暗闇のなかでもよくわかった。

次郎と菊は二人で街の花火大会の花火を見に来ていた。

「もう始まっちまうよ」

「菊めにはこの坂はきつうございます…」

「なあにいってるんだよ」

そういって次郎は暗がりのなかの菊に手をさしのべた。

「…あ…!あの、…ありがとうございます」

菊は驚きながら、その手を握った。

「待ってられないからね。ほら」

といいながら次郎は菊を引き寄せる。

「あ、あんまり動悸がはげしゅうなることは…おやめください…」

「菊はこれだけで動悸が激しくなるの?かわいい心臓だなあ」

「も、もう!よしてくださいませ!」

―ハハハ、と笑いながら次郎は菊の手を引いて先をいく。

「まだまだ菊には胸が高鳴るものを見せるべきだね」

「そんな幸せ…身に余り過ぎてございます」

「余っていいんだよ。それはまた誰かにあげる分だと思えばね。さあ…」

と次郎がいったとき次郎の背中でドドーーンという音がした。

鮮やかな紫陽花のような花火があがる。

「まあ…きれい…」

目を奪われる菊の目の前で、花火は次々と上がっていく。

ヒュー…、ドドーーン。

ヒュー…、ドンドーン。

パパン、ドーン

そんな菊の顔を見ながら、次郎は満足そうににっこり笑った。

「ね!きれいだろ。菊!この世は、こんなきれいなもので満ちあふれているんだ。だから、これからたくさん探しにいこう。こんなきれいな景色を二人で」

「…はい!お坊っちゃま!」

涙で潤む花火は菊にとって二重に見えたが、それは祝福のようにも菊には思えた。

止まっていた時が動き出す。

―1954年の夏は、まだ始まったばかりだった。


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