いしの女の詩うウタ ③
https://note.com/clover_libra/n/n67470385d123
カチャリ、とマンションの部屋のドアノブを回す。
きららかなブレスレットが手首から、こぼれる。
彩は一瞬さっきの夢のことを思いだしそうになったが、目をつむって、こらえて玄関の扉を開ける。
そこには相変わらず、午後だというのに日照の乏しい薄暗い、さびれたマンションの小汚ない部屋が広がっており、突き抜けでみえる散らかったリビングに、黒いパーカーを深くかぶった顔立ちのよい男がチューハイの空き缶三、四缶でタワーを作って椅子に深く座っており、なにもすることなさ気に仰向けでボーッとしていた。
「おかえり…」
男は寝起きのダミ声で彩に視線を移しいった。
「ねえ、さみしかった…彩…おそっかったじゃん」
―ハイハイ、と彩はいつものことと取り合わず、スニーカーをそろえて、散らかったダンボールを避けながら、廊下へあがった。
廊下は廊下で、束になった数ヵ月前のコミックやらダンボールにはいったホコリまみれのゲームカセットやら角が破れたゴミ袋が散乱している。
「彩ぁ…スト缶買ってきてくれたぁ?ねえ?買ってきてくれた?LINE送ってたよね」
何度もうるさいなぁ…と思いながら、彩はそれが顔や仕草に出ないように
「買ってきたよー」
と明るく軽やかにいった。
「ちょうだい」
「ハイ」
と彩はカバンからビニールにはいったチューハイのストロング缶を取り出して、男に向かってふわりと投げた。
「サン、キュー♪」
男は心から満足するようにそれを受けとると、早速プシュリと缶を開けた。
男は彩の付き合っている彼氏で、翔哉といった。
「なに?どうしたの?その顔…なんかあった?」
彩がカバンを置いて、家着に着替えようと上着をハンガーにかけていると後ろから翔哉の声がきこえた。
その声のあとに、翔哉が彩の腰にやさしく手を回してくる。
一日分の不条理が彩の体にたまっていた。
「…話してみなよ…俺がきいてあげる」
そう翔哉はいうと彩の耳たぶに唇を近づけてきた。
酒と香水の入り混じったにおいがプンとした。
翔哉と出会ったのは、半年前だった。
学校を卒業してからの彩は家出をして家族と縁を切り、履歴書を偽ってアルバイトをして、数個のネットカフェを転々として生活していた。
夜を居酒屋で働き、仕事のない昼間はネットカフェで過ごす、という生活だった。
そして、どの職場でも人間関係が上手くいかず長続きしなかった。
最終的に風俗業にも手をだしたが、やはり店の人と関係がうまくいかず、店を追い出されるようにやめた。
次第に彩は、自分で体を売ってお金を稼ぐようになった。
SNSにアカウントを作り、艶やかな下着姿や水着姿の写真をSNSにあげて男を誘い、お金を取った。
そうしたとしても、その稼ぎを維持し続けるには化粧代やメイクにお金をかけなければならず、せっかく体を売って得たお金も、ほとんど手元に残らなかった。
集団から外れた彩は、毎日が必死で命がけだった。
ときには出会った男から酷い言葉を投げかけられた。
「なんで生きてんの?お前みたいなブスが体売って、よく生きていけんな。不景気、不景気っつても、まだなんだかんだ景気がいいってことなんだなー」
そのときの彩は、奥歯をギュッと噛んだが、すぐ笑顔でいった。
「ごめんねー。あたしも、もっと美人に生まれたかったよー」
そんな言葉をかけられても、せめて心だけでも美しくありたい。
そう思った。
たとえ、あらゆる人々が自分を好奇のまなざしでみて、欲望をむき出しにして持てるすべてや、大切なものを奪っていっても、―それでも最後まで自分の内を突き動かす人格は奪えないということを彩は感じていた。
そして、心のなかにいつだってなおのことがあった。
―彼女は最後まで人を許そうとして、それで死んだんだ。
彩はそう思う。
彼女が許そうとした人間たちが、果たして許されるだけの価値のある人間だったかを通り越して、その彼女がひとりで世界に対した在り方の美しさのみが現実を超越していて、その彼女のあり方が何年たっても彩をいつでも励ましてくれていた。
きっと、それは彩の都合のいい解釈かもしれなかった。
そうだとしても、それぐらい彩は、必死に生きようとしていた。
ある日、彩はホテルに誘った男に暴力をふるわれ、顔をパンパンに腫らされた。
自分のつらさを、仲良くなった雰囲気から少し打ち明けたとき、男は内心むしゃくしゃしていたのか「そんなの、どうせお前みたいなブスにとっての男からさらに金巻き上げるためだけの言い訳だろうがー」と変なスイッチを入れてしまい、むちゃくちゃに殴られた。
自分で売春をやって招いた結果なので、彩は誰にも相談できず一人ネットカフェの薄暗い個室に戻って泣いた。
―もとより相談できるような友だちと呼べる人間は一人もいなかった。
涙で目が腫れて、顔はさらにみっともなくなった。
なぜ自分がこんな目に合わなければならないのか意味がわからず、ただ世界が憎かった。
ひとしきり泣いたあと、彩は顔を洗い、カバンを持ってネットカフェを出た。
頭は真っ白で、食欲も感情もわかなかった。
ただ街をウロウロしたあと、彩はさびれたビルの地下に男性アイドルの劇場をみつけ階段を降りていった。
階段を降りると、受付があったので彩は財布を自然に取り出し、お金を払っていた。
その受付を通ると小さなステージがあり、十人に満たない女性の観客がステージを前にしており、その観客の女性たちを前に、若い男が三人ステージに立ちマイクでなにかしゃべっていた。
彩は、その光景をしばらくぼーっとみていた。
やがて彩の目は、ステージの中央で話す青年に目が留まるようになった。
青年も小規模のステージで少ない人数だからか、彩の視線を感じとったらしく、たまにこちらに視線を投げながらライブの感想を話していた。
「そういうことで…さ。俺たちこれからさらにビッグになるからさ…応援してくれよな!みんな!」
そうスポットライトを浴びて汗を流しながら話す小顔で顔筋の整った青年が翔哉だった。
翔哉は地下アイドルでホストだった。
昼間は地下アイドルとして小さなステージに立ち、グループの他のメンバーと歌って踊り、夜は朝方近くまでホストクラブでホストをして働いていた。
彩はそんな翔哉から漏れる、気さくで明るく暗さを感じさせない話し方や、ちょっとした仕草を好きになり、翔哉のいる劇場に通い詰めた。
翔哉のいるホストクラブも教えてもらい通うようになった。
食費や寝る時間を削ってお金を捻出した。
なんとか翔哉に会えば、…その顔をみれば、自分の境遇がすべて肯定されるような気がした。
翔哉に入れ込む女性は彩にような常連の劇場通いのファンのなかに何人かいて、彩もその何人かと知り合った。
その、どの女性もが同じように地下劇場に足を運び、夜は翔哉のいるホストクラブに通っていた。
推しが同じ他人が他にもいることは、その推しを推していれば自然と分かりだすことだ。
またそのなかで、翔哉のファンになった女性は様々であることがだんだんとわかってきだした。
彼氏持ちでも満たされず理想の男性像を翔哉に重ねる女性。
旦那に離婚され、その孤独と寂しさから、心の拠り所を翔哉のなかに見いだそうとしている女性。
男性が怖くて、近寄れないものの、男性アイドルなら大丈夫といって、翔哉にのめり込む女性。
みんな様々な翔哉にたいする想いを、様々な違う角度から翔哉に抱いていた。
そして、その様々な角度からの想いで照らされ結ばれた様々な翔哉の像もまた“翔哉”だった。
彩の場合、翔哉が顔立ちもいいのに、地下アイドルという看板を背負って毎日を必死に生きようとしているところと、彩自身が女で孤独でありながら毎日を必死に生きようとしているところが、まるで鏡に映った「対」のように思えて、翔哉のことを好きになった。
本当は、自分の置かれた状況が自分で受け入れられず、自身の不遇を呪うなかで、翔哉のように光の当たらない地下の世界を生きながら「自分を愛して」と、それでも素直に言える存在に憧れただけだったかもしれなかった。
彩は、他の女性に負けないくらい翔哉を愛するために、粉骨して地下のライブ会場や、ホストクラブに通った。
自分の翔哉に対しての想いが、誰か他人に翔哉を独占されることで、「あなたの想いは偽物だ」と言われてしまうようで怖かったことも、その彩のクラブや劇場への通い詰めを助長させた。
彩は男性に体を売る回数を増やし続けた。
男に抱かれる度に、彩が罵倒される回数も徐々にふえていった。
それでも彩にとっては、それら罵倒すらも自分の翔哉への想いを証明する試金石にように思えて、つらくはなかった。
どれだけ他人から下げずまれようと、自分自身の想いが本物であれば、それは価値があるものに違いなかった。
少なくとも彩はそう信じた。
…誰も、なにもわかっていない。
なおちゃんを、みんなが殺したみたいに、…誰もなにもわかっていない。
体を乱暴に突かれながら、彩は激しい痛みのなか必死の喘ぎ声をあげる。
男は「どうだ、気持ちいいか?いやらしい女だなぁ」と歯をにかつかせながら馬乗りになって得意気にいう。
彩は、苦しみからシーツをギュッ…と握る。
男は彩が興奮していると勘違いし、さらに増長する。
一つの部屋に断絶が生まれ、夜を引き裂く。
「いつもきてくれて…ありがとね…」
翔哉はホストクラブのソファーに深々と腰をかけて、グラスにシャンパンを注いでいった。
その横顔が、凛としていて、物語から出てきた登場人物のようだった。
「翔哉のために…くるよ…」
「うん、感謝してる」
「あたし、翔哉のためなら尽くせる」
そういうと翔哉は口元をゆるませて
「こんなに尽くしてくれるのは、彩だけだよ。見ててね。俺、アイドルとしても、ホストとしても、彩が尽くしたことを彩自身が誇りに思えるようなビッグな男になるからさ」
例え、それが身を立てる嘘でも、その嘘は他人に暗さや後ろめたさを感じさせない嘘だった。
「うん…」
翔哉は彩手のひらを握った。
翔哉が所属するアイドルグループを解雇されたのは、春のことだった。
「ごめん、所属してる事務所に、ホストクラブ働いてることばれて今のグループ解雇になるかも…」
彩はそれを翔哉からきいたとき特に驚かなかった。
翔哉ならありえそうな話で、翔哉のもつ社会から逸脱しがちな危うさを、彩はどことなく感じとっていた。
「そうなんだ…。これからどうするつもりなの?いつも来てくれてるファンのみんなにはいった?」
翔哉は顔を少しあげ、そのあと諦めるように
「まだ言ってない。…これからどうするかは…今はまだ考えれないや」
と小さくいった。
「でも…」
と彩は小さくいいかけてやめた。なんだかあまり突っ込みすぎると鬱陶しいと思われて翔哉に嫌われるのが嫌だった。
「なんか…もう、もう、なんも光がみえないんだよね」
翔哉は駄々をこねるように、諦めたように、心のうちを素直に告白した。
「なんか、最初からなんも見てもなくて考えてもいなかったのかもな、俺」
―ハハ、と翔哉は力強くなく自虐的に笑って、シャンパンを一口飲んだ。
「そんな弱気なこといわないで、…らしくないよ」
彩は翔哉の手をとった。
翔哉は軽く握り返して彩の顔をみた。
「ねぇ、彩。…俺なんもなくなっても俺のことアイドルとしてみてくれる?」
「なんもなくなってもって?」
「今のアイドル活動やめても、俺、彩のなかではアイドルでいたいなって。…彩がいたから俺、夜の仕事もきつかったけど続けられたし、アイドル活動も続けられたと…思うんだよね。彩がいてくれたから…だからさ、…今の俺があって…彩がいてくれたから…」
そういって翔哉は思い余ったのか目を上に向け、涙をにじませた。
「あー、ファンの前では泣かないって決めてたのに…俺…カッコわりぃんだろうなー、今、すんげーカッコわりぃんだろうなー」
翔哉はそういって笑った。
「そんなことないよ。誰にもみせない涙を今、あたしは横で見れて…すっごく幸せな気持ちだよ…」
翔哉の正直な告白に胸打たれた彩も、思い余って翔哉の手を温めながら、翔哉の顔を真剣にみつめた。
「俺の涙みたからには、…ずっと俺だけのファンでいてよ」
翔哉は華やかに、冗談まじりにいった。
「うん、翔哉。翔哉もあたしだけの、…あたしのためだけの…アイドルでいて」
彩も思い余った胸で、自分でも普段いわないようなことをいった。
…顔は火照って体はあつかった。
頭ものぼせてあまりなにかを考えていなかった。
「彩…」
翔哉が、そっと唇を彩に近づけた。
ふわりと胸をくすぐる香水の香りが近づいた。
そのまま彩は翔哉と、深く、誓いのようなキスを交わしあった。
「アー、気持ちいい。アー…彩のからだ、サイコウじゃん」
熱のこもった吐息をもらしながら翔哉が彩の体を後背位で後ろから突く。
ゾワゾワとする感覚と、体を突き抜ける快感で、頭がぐらぐら揺れる。
不安定な快だ。
ゆらゆらと世界が揺らめくので、ベッドを強くつかみ、しがみつく。
そのなかで翔哉が腰にあてる手のひらの力強いたしかさだけがしっかりと汗ばんだ肌から伝わる。
「もっと…もっと、して…愛して…あたしのこと強く……」
ねっとりした部屋の熱帯花のような空気が絡み合い部屋に咲く。
想いが熱になって空中に浮遊する。
彩は足を翔哉の体に絡ませながら今、満ちるこの部屋の空気をしぼりとりたいと思う。
自分の体温で部屋を満たせるような感覚だった。
翔哉は、一定にリズムよく腰を動かしている。
「…………!!…ア!……ああッ!!」
そのあと彩と翔哉は、二人で息を切らして果てるのが常だった。
「俺の家きなよ」
アイドルグループを解雇され、ホストを辞める最終日、彩の耳元でホストクラブのふかふかのソファーに腰掛けながら翔哉がそうささやいた。
「…いきなりだね」
「もちろん、彩にとって都合が悪くなければ…。」
翔哉が彩を上目遣いでちらりと見る。
間があったが少し翔哉が考えてからいった。
「もし今、本命で付き合ってる男がいるなら、そいつと別れて俺のとこきなよ」
「付き合ってる人は…いないよ…」
彩はストローでオレンジジュースを飲んだ。
少し酸味があり、ほろ苦いオレンジの甘さが口に広がる。
「じゃあ問題ないね」
屈託なく口元をあげて翔哉が笑う。
たしかに家がない彩にとって、安心して眠れる場所ができることは願ってもないことだった。
しかし、同時にそれは諸刃の剣のようなものでもあった。
翔哉とは、―例え、翔哉に入れ込んでいたとしても、そのなかで、ギリギリなつかず離れずな距離を彩は保ってきていた。
その安定的な距離感を同棲するとなったら、自分が保てる自信はない。
また家出をしてから誰かと一つ屋根の下で過ごすことがどういうことか分からず同棲がどこまで続けられるかわからない。
そして、翔哉の家で暮らすということは、根本的な部分で翔哉に依存することになる。
それがこの先、問題ならないとも限らない。
翔哉から見捨てられれば、また家を失うことになり精神的ダメージは大きい。
正直、彩にとって、それは不安だらけだった。
黙っている彩を隣でみて翔哉は彩の腰に手を添えるように回して包みこんだ。
「不安にさせちゃったね…ごめん…」
「ううん。…少しいきなりで、…びっくりしただけ」
「そっか」
翔哉は凛とした声でいった。
翔哉には、自分が家がなく家族もおらずネットカフェを根城にしていることはいっていない。
ただ翔哉がアイドルグループを解雇され、ホストも辞め、今これから何の肩書きもない個人的な関係での翔哉と付き合いを続けていく上では、そのことを隠し通せるようには思えない。
個人的な付き合いになるということは、そういうことだ。
そのときにまた関係が、ぎくしゃくして厄介なことにならないとも限らない。
今この誘いを受けることは翔哉との関係を続けていく上ではプラスでもある。
「もし同棲するとしたらさ…あたしが翔哉の家にいくんだよね」
「うん…もしかして逆のほうがいい?」
「ううん。そっちのほうがいい」
それから彩は少し目をふせて、やがて翔哉をみていった。
「お願いがあるの…」
翔哉は凛とした目を崩さずまっすぐ彩をみつめていった。
「なに?」
「…家事は分担制ね」
そういうと翔哉は、意外にびっくりした顔になり、やがて子供っぽく魅力的に笑った。
「なんだ。もっと深刻なことかと思ったよ。彩、マジで真剣な顔だったんだもん」
「深刻なコトだよー」
「いや、にしてもさー」
さんざんウケけたのか、翔哉は思いだし笑いをしてから彩に向き直って、コトもなげに
「おっけー♪家事は分担制ね。俺、料理上手いんだよねー♪彩、絶対ビビるよ」
と楽しそうに意気揚々といった。
「うん。じゃあ、楽しみにしてるね」
二人はシャンパンのグラスを合わせて、カチリと心のふれあう音を奏でた。
―はあ、はあ、と深く息をしながら翔哉が、愛しあったあとの濡れたベッドから起き上がり、タバコに火をつけた。
シュポッ、という音と共に暗い部屋に一点の明かりが灯る。
ふーっと翔哉は白い煙を口から吐く。
彩は枕に顔を預けて、息を整えながら背を向けてベッドに沈みこみ、翔哉のその様子をみていた。
翔哉の体はほどよくスリムで、筋肉もそこそこあり、その筋肉の隆凸で陰影がついた、きれいな体だ。
彩はその体を隣で横目に眺めれることを満足する。
こんな美しい体が自分のモノであることに今までの苦労がまるでこのためにあったような錯覚さえ覚える。
翔哉はしばらくタバコの煙をふかしたあと「…ン…」という色っぽいため息を一息ついた。
翔哉の住むマンションの部屋は、彩がきた時点でかなり散らかっていた。
さすが男のひとり所帯ということもあり、ゴミやらホコリやらが部屋の隅にみてとれた。
だが、それは彩にとっては体を売る男の部屋をみてきたなかではマシなほうだった。
「家事は分担制」といいつつも翔哉は職探しをしなければいけないので、結局は部屋の片付けやら、掃除やらを始めた彩が家事の大部分を担うことになった。
それでも彩は家がない状態よりはマシだったので、文句をいうことがなかった。
「しばらく俺、職探すからさ。家事のほうお願いね」
申し訳なさげな翔哉の顔に、彩はいつも笑って「いいよー」と答えていた。
彩はマンションのすぐ近くのスーパーのレジ打ちのバイトをみつけ、翔哉の家から通いだした。
「あたし、翔哉の家から近いところに職場変えようと思うんだよね。そのほうが楽だし。昨日、スーパーのレジ打ちのアルバイトの面接いってきた」
「いいじゃん。で、どうだったの?」
SNSで体を売ることは、もうやめていた。少しでもいい方向に人生を好転させたかった。
「すぐ電話かかってきた。採用だったよ」
「よかったじゃーん♪…ありがとね。俺のために…。俺も彩のために頑張んなきゃなー」
そのあとに翔哉は彩の耳元で、―みててね。俺、彩のためにビッグになるからさ、というのが、いつもの翔哉の口ぐせのようなものだった。
「いいんだよー。あたしは、翔哉がどんな翔哉でも、…隣でいられれば」
彩自身それが翔哉が望みを失って、妥協して自分のハードルを下げて、堕落しないためのハッタリでもよかった。
志がある間は、人は挫折はしても堕落はしない。
翔哉が高みを望み続け、志を維持してくれさえすれば彩にとっては、なんの問題もなかった。
そして今、自分は部屋もあって一人じゃない。
きっと、これから自分の環境の質を落とすことがなければ運がめぐって、人生がいい方向に向かいだすかもしれない。
少なくとも、そのときの彩はそう思っていた。
…しかし、いつまでたっても翔哉に仕事が見つかる気配はなかった。
「やっぱ俺、ホストやってたからさ。まっとうな職みつかりにくいんだよねー」
翔哉は苦笑いしながらいった。
「大丈夫だよ。…なんとかなるよ」
「んー…」
「もしダメなら、あたしが今のスーパーの店長にかけあってみようか?」
そういうと翔哉は苦く微笑みながら
「いいよ。俺、スーパーのレジ打ちとか。向いてないし。てか、そういうので自分の人生のダイジな時間とるのも…ナンカ?違うし?」
と、はぐらかすように答えた。
「でも…」
と彩は何か口にしようと思ったが、翔哉に気を悪くされたくなかったので口をつぐんだ。
「大丈夫だよ。彩。俺を信じて?」
彩を抱き寄せる翔哉に、彩はウン、と頷いた。
翔哉がタバコを吸い終わり、再び始まったベッドの上の二回戦は、翔哉が彩をリードした。
「ほら、…肩の力抜いて…リラックスして…。彩のカラダ…いいよ…ン…きれい…ン…はあ、めっちゃいいにおい…」
翔哉が彩の恥部を優しくなでながら、口でたまに吸引する。
「…ン…ア!………ア!……ぁ…………アアン!…」
彩はイキそうでいけない快感を流しこまれるように味わう。
翔哉が彩の体をの熱を温めるように、指を動かす。
彩の裂け目から汁が溶けだす。
やがて彩に馬乗りになった翔哉が力強く腰を押し引きしだし、セックスは乱舞となる。
「彩!………彩!………彩!……彩!……ン、あやー!」
「翔哉!……翔哉!……翔哉!………アア!……翔哉ぁ!…」
パン、パン、パン、という心地よいリズムと二匹の獣の呼ばわりあうこえが部屋のなかで重なる。
月明かりがカーテンの隙間から少しもれている。
そとは満月のようだ。
同棲をはじめてから二ヶ月経っても、翔哉には仕事が一向に見つかる気配がなかった。
「焦ったら、ダメなんだよなー。俺、ホストもやって、アイドルもやってたし。こんなの、俺のとこにお客が来ない時みたいなもんでしょ。こっちが待ってれば、いずれ時期がきて向こうから声かけてくるもんだよ。そう…。上手くいかない、こういうときは、待ったもん勝ち」
そうはいいながらも明らかに焦燥のみえる翔哉の、その「待ったもん勝ち」という言葉は口癖のように毎回増えていった。
輝いていたとき発していた言葉と、同じ言葉を繰り返す度に翔哉がホストやアイドルグループをやっていたときに持っていた翔哉独特の余裕が薄れて剥げていっているように彩には見えた。
いうなれば、それは翔哉のカリスマ性のようなものだった。
しかし、そのカリスマ性は翔哉自身にあったものではなく、スポットライトを浴びせられ、舞台をセッティングされたなかや、あるいはホストクラブのフカフカの均整のとれたソファーの上にある、条件付きのカリスマ性だったことが、彩には少しずつ感じとれだした。
…日常のなかで、お互い気まずい沈黙が増え出した。
そうなればそうなればで、彩も焦って間を埋めるような言葉をいうようになり、それが翔哉のプライドを逆撫でしていた。
「翔哉はさ。…自分が輝ける舞台を探すのが難しい人なんだよ。すごく特殊な舞台で翔哉は一番輝くんだよ。きっと。普通の人じゃ輝けないような舞台でさ。…それが翔哉の良さだし、一見平凡なようにみえる職業のなかにも、きっと粘り強く探していけば、そういう舞台があるよ。きっと…」
祈るように翔哉に向かって、彩は言葉を続けた。
「嬉しいけどさ…」
翔哉は部が悪そうにいった。
「そんなの結局、チュウショウロンじゃん?」
そういって翔哉は押し黙って不機嫌になった。
翔哉は、常に他人になにか与えて、自分がしてあげる立場にあることを自分で確めていないと不機嫌になる性分らしかった。
やがて、彩も翔哉のその性分に反感を覚え、少しだけ抵抗することが増えた。
「あー…マジで。萎えてなんもやる気なくなるわ」
その度に翔哉は子供のように、駄々をこねて、それを仕事を探さず家にいる理由としてかざしだした。
翔哉は時間が経つにつれ、生活がどんどんルーズになっていった。
最初、昼間に酒を飲むようになり、続いてゴミを片付けなくなった。服は脱ぎ散らかし、食べた皿はそのままで、家でボーッとするようになった。
翔哉のなかではその日一日をサボる言い訳を考えるのが、その日のすべてが使われて夕方に終えられる“仕事”になるようになった。
「俺、彩に体のサービス提供するからさ」
翔哉はある時いった。
「だから、彩、俺のために働いてよ」
そういう翔哉の顔のクマは深く、痩せほそっていた。
「俺、料理上手いんだよねー」という言葉が彩のなかで反芻された。
翔哉は一度も料理を作ったことがなかった。
彩は、翔哉と小さなことで喧嘩がどんどん増えるようになった。
そんなあるとき、息抜きで二人で水族館へいったことがあった。
手をつなぎ、入場口へ入る。
上から降ってくる淡い光が、二人を包む。
ブルーライトに照らされた巨大な水槽が目の前にあり、ゆらゆらと波の光を、薄暗い通路に投げかけている。
その水槽のなかを大小様々な魚たちや、クラゲが泳ぐ。
「うっわー♪水族館なんて久しぶりー。テンションあがるわー」
「そうだねー」
と隣ではしゃぐ翔哉を横目に、彩は水槽を見上げた。
まるで、自分が水のなかで揺らめているようで、どこか懐かしい気分になる。
「行こう。彩」
翔哉は彩の手を引く。
「彩、みてー。この魚。カーディナルテトラだってー。なんか、体が構造色っていって、みる角度で体の色が赤くなったり、青くなったりするらしいよ。…ほら、水んなかできれいに光ってる」
翔哉が水槽のパネルを読みながらいった。
そういう翔哉の見つめる、小さな水槽のなかには点々と無数の小魚が身を翻して泳いでおり、泳ぐ度に、キラキラと、水のなかで赤色や青色になった。
彩はそれを眺めながら、
「ほんとだー。…宝石のみたいな魚…」
といった。
「指につけたいね。ゼッタイ、アクセサリーにしたらモテるわ」
「ナニその発想。生きていて自由だから、こうして光れるんだよ」
「じゃあ、つまんナイ」
ほんとなに考えてんだか、と彩は笑いつつ、翔哉らしいな、と思った。
「あ、こっちの水槽でっかい!」
「はいはい」
と言いながら先に進んでいく翔哉の後をついていくと、壁いっぱいが深海のような水槽になっている通路にでた。
通路の明かりは、青い。
「…なんだか、海の底みたいだね」
翔哉がぽつりといった。
「…そだね…」
彩も、翔哉の隣にたって水槽の深い青色と向かいあいながらいった。
目の前をふわふわとしたクラゲが泳いでいた。
下からのブルーライト照らされたクラゲは雲のように、上へ、斜めへと漂っている。
「なんだか…心だけ海の深いとろこを漂ってる感じ…」
彩がクラゲを見ながら、ぽつりといった。
「…体はどこなの?」
「んー?さぁ、もとから体なんてなかったんじゃないかな。ただ目的もなく生まれて、考えてることだけが海を漂うの…。あてもなくて漂って、たまに、他の魚に食べられて。そうやって人生終えてくの…」
「なにそれ、くらーい」
翔哉は明るく笑うようにいった。
「でも、俺、彩のそういう暗いところ、不思議と嫌いになれなくててさ。なんかそれが俺にしっくりっていうか?…嫌いになれないから好きなのかもしれないよね」
「ソレなにげにディスってません?」
彩も笑いながら返す。
二人で、アハハと笑いあった。
ふと、彩は水槽に映る暗がりにいる自分たちをみた。
翔哉の方が身長が高く、彩は翔哉の肩ほどしかない。
改めて身長さがあることに彩は気づいた。
彩は翔哉の横顔を見上げた。
翔哉も彩を見返して黙っている。
呼吸があっていることが、その間から伝わる。
通路には今誰もいない。
「ねぇ、彩。…暗い海の底にも幸せはあると思う?」
「…どうかな…」
「…あるよ…誰も見えないような、そんな幸せが…」
翔哉が彩の唇にそっと唇を近付け二人はキスをした。
翔哉の体温が近くで温かかった。
二人で誰もいない時間をむさぼるようにキスを楽しむ。
しばらくして唇を離して、彩は翔哉の顔をみた。
「…ないよ………ソンナノ…」
翔哉は静かに微笑した。
彩は再び翔哉の顔に顔を近づけた。
そこでまた二人はキスをしあった。
どのみち二人の先に明るい未来なんてないのに、そのキスの温かさだけが、海の底で輝いているように見えた。
未来のない、真っ暗ななかでのキスは温かかった。
「楽しかったねー」
水族館からでて、翔哉は夕日に伸びをしていった。
「うん、…そだね」
彩も隣を歩きながら、つぶやくようにいった。
「帰ろっかー。あんま贅沢もできないし」
振り返ると、夕焼けに伸びる影の先が少し、キスの名残を惜しむように水族館の入口のほうを向いていた。
……幸せなんて彩には、何か分からなかった。
「あたしもクラゲと同じなんだよな」
そんなことを心のなかの自分がふと、つぶやいていた。
「クラゲってどんな字書くか知ってる?」
かつての、なおとの思い出の断片が一瞬よみがえる。
「海の月って書いてクラゲ。海を漂ってる月なんだよ。あれは」
思い出のなかの、なおはそう歯を見せて笑った。
海の月なんて。
―なんて、孤独。
空の夕日はとっくに沈み、二人の影を消し去っていた。
月明かりが静かに部屋を満たしている。
翔哉はベッドのヘリに座り、コンビニで買ってきたミネラルウォーターを飲んでいた。
彩は、疲れと眠気から少しまどろんでいた。
翔哉はスマホを取り出し弄りはじめる。
翔哉がスマホをいじるとき、彩はその画面をできるだけみないように角度にする。
…なんとなく察しがついていた。
翔哉はスマホを打つとき無意識に彩に背を向ける割合が高い。
「ねぇ。彩…」
翔哉が背を向けたまま彩にいった。彩は、まどろみのなかから掬いあげられるような一抹の不安を覚え、目を開いてきいた。
「…なに?…」
静かな月明かりのなかに、しばらくの沈黙があった。
「俺…さ。子供できたっていったら怒る?」
次の瞬間には、肝が冷えるような静寂が部屋を支配した。
一瞬なんのことかわからず彩は翔哉にきいた。
「…え?…避妊はしてたよ」
「違う。…だから、…他の女との間に子供できたっていったら怒る?…」
一瞬、彩の頭は真っ白になった。
翔哉のいっていることの意味がわからなかった。
「……エ?…え?意味わかんない…」
そういうと翔哉は、長く沈黙していたが「ごめん、そういうこと…」と一言だけいった。
彩は布団から起き上がり
「いや、そういうことってドウイウコトッ!?」
と感情を翔哉にぶつけた。
翔哉は部が悪そうに、「はあ」とため息をつきながら「やっぱ、そうなるよなー」と小さくいった。
「はあ、ってなんなの!?やっぱってナニ!?………ふざけないでよ。あたしはどう反応すればいいの?ねぇ…。子供できたってなに?…他人の子ってこと?…今あたし…意味わかってないんだよ!?」
叫べば叫ぶほど不条理が身にしみてくる。
心がパニックになる。
どくどくと彩の心のなかで何かが溢れだした。
ベッドの周りを、そのなにか、どす黒いものが溢れて満たしているようにさえ思う。
「なんで?いつから?…っ!……」
―わっかんないよっ!!!
彩の頬に涙が伝わる。
一筋、二筋と涙が流れ落ちると、あとは堰を切ったようにとめどなく涙が流れだした。
「なんでよ!…なんでよ!…ネ、なんで!?…なんで、あたしじゃダメなの!?…ねェ!?…」
「クッソ、うっぜぇな。泣くなよ…。メンヘラかよ。大人だろ。いいから落ち着けよ」
頭のなかは真っ白だった。
「落ち着いてられるワケないでしょう!?」
メンヘラや、落ち着け、という翔哉の言葉に彩の心はさらに乱れて、彩に向ける翔哉の背をおもいっきり彩は叩いて泣いた。
「アア、あああああああああああああああ!!アアアアアアア!!」
翔哉は目を細めて黙って、その泣き声をきいていた。
静かな月明かりの満ちる小さな部屋に泣き声だけが痛々しく響いた。
彩がひとしきり泣いたあと、翔哉がいった。
「俺、ホストとアイドルになったのって…ただ、誰かから愛されたかったからなんだよね。でも、愛されるのって、やっぱしんどい。愛されたかったけど、俺の求めたのは愛とかじゃなかった。安定だったんだ。彩といれば愛された。それが俺自身を削ってた。最近それに気づいてさ…。そんなときに元カノが連絡してきた。…」
翔哉はそこで言葉を切ったが、あとのことは、言わずとも彩にはわかった。
彩がスーパーで働いてる間、翔哉はこの部屋に元恋人を招き、抱き合っていたのだ。
ただ毎日が続いているその裏側では、残酷な真実もまた存在していたのだ。
…もう、なにがなんだか、彩にはよくわからなかった。
「その元カノといるときは安定できたの?」
翔哉は黙っていた。
「意味わかんない。意味わかんないよ!!」
「ごめん」
「謝んないでよ!!謝るとか、そういうの…」
…人を抉るだけ。
「まあ、さ。彩はモテると思うし、これから出会いもいっぱいあると思うし…」
「ふざけないでよっ!」
そう翔哉がいいかけたところで彩が怒鳴った。
「―ふざけてねぇよ…」
まじめにいってんだよ、と翔哉がぼやく。
「まじめにいってるとしたら、どれだけ自分が最低かわかってる!?」
「だから、お前は間違えたんだって。俺がビックになれるとでも思った?お前が思ってるような、素敵なちゃんとした人間だと思った?ゼンブ嘘でできあがった俺なんだよっ!!俺は…しょせん、そんなニンゲンなの!?わかる!?」
翔哉叫ぶようにいった。
「―知ってたよ…」
彩は、また泣きそうになりながらいった。
「知ってたよっ!!…最初から!!…翔哉がどんな人間なのかも…。人を引き付ける、ただそれだけのために夢を持って、さも努力してるみたいにアピールしてたのも…。人からフォローしてもらうために、自分をほどほどに責めて、それをわざと見せびらかしてたのも。…ぜんぶ…ぜんぶ…それがスタイルだけだって……こっちがわかった上で付き合ってたの気づいてた?」
彩は感情が抑えられなくなっていた。
ただ血を吐くように言葉を吐いた。
「それでもあたしには…もう何も見えなかったあたしには…翔哉が光にみえたんだよ。翔哉がといると、いずれ自分を傷くかもしれなくても。それでも、あなたといることを選んだんだよ!!…あなたと関われたことがあたしには……」
―うれしかったんだよっ!!
彩の目からは大粒の涙が浪々と流れていた。
翔哉は息をのむように、しばらくただ黙っていた。
しかし、翔哉は決意をこめたように彩にいった。
「いい加減、目ぇさませ」
―そんで、歩き出せ。
人間は一人で死んでいくしかねぇんだよ…。
それしか俺からは……言えねぇんだ……。
……………………な…。
彩は目の前の世界がゆがむ感覚を覚えた。
まるで暗い闇のなかにいるような…。水の中をさまようような。
ああ、そのなかで…。
―あのお月さまだけが輝いてる。
月が窓の外で、何の関係もなくこうこうと輝いていた。
まるで、その輝きの意味なんて自分で考えずに。
…どれだけ人を癒して、人を孤独にさせているか考えたこともない月が今日も憎らしく、街のビルを照らしている…。
ああそうか、クラゲが海を漂うのは、月を、月たりえない自身が求めているからなんだ…。
…その月も涙でうるんでもう、見えない。
部屋には、たださみしい女の泣き声だけが、きこえていた。
「こうなったらからには同棲解消しなきゃだけど、彩が次の住む場所見つかるまでは…まあ、いていいから…それまでは…なんとかするから」
翔哉が最後にバツが悪そうに、そういった。
そういわれたときには、もう彩には涙も流れなかった。
そして、そのあとの同棲の日数で彩が笑えたことはなかった。
日がたつにつれ翔哉は次第に彩に暴力をふるうようになった。
彩という存在をまるで破壊するように。
まるで、嘘でできあがった自分を壊そうとするかのように…。
自分から彩を切り離すように。翔哉が翔哉自身をなんとか見捨てるように。
彩の足や腕や顔にあざができた。
彩はスーパーのバイトすら行けなくなった。
日中は地獄だった。
もう彩はなにを愛せばいいのかわからないし、なにを求めればいいのかわからない。
…自分がなにを間違ったのか。
…そもそも自分はどこへ向かおうとしていたのか。
…自分が大切だと思ったものはなんだったのか。
―このどうしようもなく世界に置き去りにされた自分とはなんなのか。
…彩には、もう何もかもがわからなかった。
ある雨が降った真夏の日曜日。
精神的にも、肉体的にもボロボロになった彩は翔哉の部屋を一人行く当てもなく飛び出し、それ以降、翔哉の部屋には戻らなかった。
雨のなか傘も持たず飛び出した彩は、人目の多い大通りを避けてただ歩いた。
彩は、ただ歩いた。
それに、なんの目的があるのか彩にもわからなかった。
―ただ歩いて、肉体をすり減らしたかった。
何時間歩いただろう。気づくと自分の知らない街なかを歩いていた。
ふと周囲を見回す。
そのとき、偶然、灰色の視界にふと「芸能プロダクト」という看板の文字が映り込んできた。
…そのときの彩の行動は、あとで自分で振り返っても、およそ論理的な行動ではなかったことを覚えている。
彩はその看板がある建物にびしょびしょに濡れた服のままはいった。
彩は、そのとき、なにも考えていなかった。
ただ自分が認識した建物があったから入った。(―それでも、十分おかしなことだったが)…それだけのことだった。
その選択が、彩の人生を変える出会いをもたらすことになるとも彩自身、知るよしもなかった。
(続く)