20の続き(21のわたくしより)
ほぼ2年ぶりに2年前に書いたわたしの「20」のnoteを読んだ。率直にかなり感情の乗った文章だな、と思った。これを書いた時かなりわたしは焦っていたし、鬱屈としていたし、勉強以外に特に何をしてきたわけでもない自分に何かを与えようとしていたんでしょうね。何度も誰かによって表現されてきた手垢の着きまくった感情だけれど、何者かになりたいのになれないもどかしさみたいなものをあの文章からはすごく感じる。
思えば「20」を書いたときは訳もなく気持ちが底にいってしまって、突然朝起きたらわかりやすく手に持っているものを全て捨ててしまいたくなっていたなあと思い出した。最近は感情を爆発させたりもしなくなったし、全てを捨てたくもなくなったよ。20の頃のわたしは和牛のお二人のことを書いていたけれど、2年後に和牛は解散してしまうよ。和牛のお二人をわたしはわたしを救ってくれた人たちとして記憶し続けるだろうけど、世界は分かりやすく変化していくね。
およそ2年前の鬱屈していたわたしへ、わたしは別にあれから何かが変わった訳でも、何かになれたわけでも無いけれども少なくとも楽しくは生活しているよ。
21歳のわたしは、2年前よりも知識を手に入れました。なんで勉強しなきゃいけないの!勉強しかわたしには無いの!?とはもう流石に思わないよ。凡庸だけど勉強してきたってすごく素敵なことだと分かったもんね。「分からない」「知らない」ままで自分の感覚だけを頼りに自分の考えを作って口に出すのが怖くてわたしはここまできたけれどその選択は間違っていなかったと思います。ある物事に関する正解なんてないようなものだし、人の数だけその人の正義がある。そんな中で世の中に生きる人が何を考え、何に則って生きているのかを出来るだけ多く知ることは人を傷つける可能性を低くすることに繋がるはず。
わたしはこう思う!という感覚も勿論素敵なんだけど、何も知らずにこう思う!を発してしまうのはかなり怖い。自分がたまたま思いを馳せれなかったことを自分の感覚のままに自分の正義として発してしまって、その先にいる誰かを傷つけてしまったらどうしようと思う。
あれから2年後のわたしはたくさん本を読んだし、たくさん文章を書いたよ。「20」を読んでこんなに感情を露わにした文章はなかなかもう書けないかもなと思ったけれど。自分が何を大事にしたくて、何を不安に感じていて、どうしても捨てたくないものがあることに気づけたと思う。
あのときはどこか感覚的な違和感だけが自分の中にあったけれど、そこからの打開策として積み重ねた日々は無駄ではなかったよ。
人生が間違いだらけだって書いてたわたしだけど、ここに至るまでの道のりは何も無駄じゃなかったと思う。全ての要素が絡まり合っての今のわたし。
20歳になる頃のわたしは何度もなんで!と思って泣いたし、苦しい!と思って全てを辞めたくなったけど辞めなくて良かったよ。おかげでちょっと強くなったよ。今のわたしは全然泣かないよ。支柱になるものを2年かけて見つけたからね。2年じゃないかも。あの苦しかった時も含めなきゃいけないかも。苦しかった過程があって今があるもんね。
わたしのようでわたしじゃないみたいなあの文章。行き場のないどろどろした感情。全然嫌いじゃないしむしろ結構だいぶ好き。
21歳、半年後にはもう22歳。不安げなあの頃のわたしへ。わたしは最近松浦理英子さんの本支えに生きているよ。その中でも、ナチュラル•ウーマンの「いいの。別に楽しみを追い求めるのが人生だとは思っていないから。」この言葉、わたしのための言葉かと思った。わたしのための作品に出会ったことないでしょう!2年前のわたしは!2年後のわたしは見つけたよ。他にもたくさん支えが見つかるよ。生きるって悪くないかもって本気で思ってるよ。あんなに死にたかったわたしが!あと、わたしはここで全部終わらせちゃいたいと思ってたけど、いざ死が目の前に立ち現れると意外と怖かったよ。この話はまた今度。
当たり前のようだけど、ご飯ちゃんと食べるのは意外と大事だったよ!ちゃんと寝てね。
わたしは何者かになれるかな。ならなくても良いかもな。いろんなことを知って、見えていなかったものを拾い上げて少し世界の解像度を上げるこの生活を続けていきたいな。
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