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【短編小説】三途の川の渡し賃が足りない (2026字)

「ハイ、次の人ー」
 そう呼ばれると、僕はいそいそとポケットの中からお金を取りだして渡した。

「ん? 足りないですよ。あともうちょっとないですか?」

「えっ……」
 あいにくもう手持ちはない。目の前が真っ暗になる。

「じゃ、戻ります?」
 係の人は現世の方向を指で示してみせる。

「いや……それはいやです」
 控え目ながらもはっきり言うと、係の人の目が丸くなった。

 三途の川の渡し賃がたりない。
 ああ、どこへ行っても僕は中途半端だ。


 
 お金がたまるまで、三途の川の渡し船の船頭として働くことになった。

 ここには沢山の死者がやってくる。ときたま、生きるか死ぬかの瀬戸際の人もいて、そういう人が厄介だ。渡し賃を払って船に乗ったはいいものの、「やっぱりやり残したことがあるから帰ります」だとか好き勝手にものを言う。

 そのおかげで船の運行ダイヤは乱れまくっていて、僕は乗客の突き刺さる視線を感じながら遅延のアナウンスをしなければならない。思ったよりも三途の川は混沌としていた。

 そんな混沌にも慣れたころ、一人の少女に出会った。この場所に若い人は珍しい。そして、ここに似合わず元気いっぱいだ。

「あなたが私を死後の世界に連れて行ってくれる船頭さんなのね!お願いね」
 そういってニッコリと僕に微笑みかける。一点のくもりのない笑顔。真っ白のワンピースに長い黒髪が映える。ここでは必要以上に乗客と話すことはあまりよしとされていない。僕は頷くと、桟橋から反対岸の死後の世界に向かって船をこきだす。

 その日は月末の日曜日の最終便ということもあって、船には彼女しか乗っていなかった。だからだろう。思わず聞いてしまった。

「……どうしてそんなに楽しそうなんだい?」

 少女は驚いたように瞬きをして、やっぱり嬉しそうに言った。
「だって、私、これから自由になれるんだもの」

「……自由?」

「そう。現世では自由がなかった。お父さんは私をいい大学に進学させようと躍起になってるし、お母さんは私のやりたいことを否定するわ。気の合わない友達とも付き合わないといけないし。私が私らしく振舞える瞬間なんてこれっぽっちもなかったわ」

 身につまされる思いだった。僕自身、会社では絶えず人の顔色を窺い、言われるままにやりたくない仕事をやり、それが嫌でここにきたのだから。

「わかる気がするよ」

「本当!? うれしい!」
少女はさらに破顔した。……反対に僕の胸は痛んだ。

「でも……すごく言いづらいんだけど、ここから先に自由はないよ。ここから先の世界は『無』なんだ。安らかに闇と一体になる。安穏はあるけど、何にも望みを持つことはないんだ」

「いいの。それが私の求める自由よ」

「……」
 少女の言わんとすることが分かってしまった。僕らは、きっと似た者同士だ。自由を求めてここにやってきた。でもそれは、しがらみから逃れたいという受動的な自由だ。

 ……どうしてだか僕は、まだ未来のある彼女に生きてほしいと強く願ってしまった。

「それで本当にいいのかい? 君がいきたいと思っていた大学は?お母さんにとめられてしまった、君がやりたいことは? それを2度とやれなくなってしまうことに後悔はない?」

 今度は少女が沈黙する番だった。僕は固唾をのんで返事を待った。やがて、少女はぽつりと言った。

「その自由をつかみに行くのは、エネルギーがいるわ。もう疲れたの」
 その目は川面に向けられていた。僕はなんとなく船をこぐのをやめた。

「それに、自由を手に入れようともがいても、結局無駄だったときの無力感ほど苦しいことはないわ」

「うん。そうだね。……でも『無』の世界には、自由という概念すら生まれない」

「そう……」
 一言だけ応じると、少女は黙って水面を見つめた。僕は激しい嫌悪感に襲われた。自分のことは棚にあげて偉そうなことを言ってしまった。

 やがて夕焼けが赤く水面を照らし始めるまで、随分長いこと僕らはそこにいた。

「しがらみがあるから、自由が輝くのかな」
 少女は悟ったようにつぶやくと、僕を見上げた。寂しそうな、悲しそうな顔が一瞬だけ浮かんで、それから決意の表情になった。

「仕方ないな。もう少し抗って生きてみようかしら。船頭さん、船を戻してくれる?」
 僕は無言で頷いて船を反転させ、元の岸に向かって漕ぎ出した。

 少女は現世に戻っていった。強い人だった。



 ついにお金がたまった。このお金があれば、三途の川を渡れる。

「にいちゃん頑張ったね。このまま働いてもらってもいいんだけど」
 すっかり仲良くなった係の人が名残惜しそうに言う。僕が最初お金を払えなかった、舟の賃金を徴収する係の人だ。

「向こうにいくのかい?」と川の向こう岸を見て言う。死後の世界だ。

「いや……、やっぱり元の世界に帰ろうと思います」
 僕がそう言うと、係の人は目を丸くしてから満面の笑みを浮かべた。

「おう、頑張ってこいよ。まあ、ここにお前の居場所があることも忘れるなよ」

……僕にとってはとても心強い言葉だ。僕は現世へと、来た道を引き返した。

あの少女にまた会えるだろうか。


(終わり)


 最後までお読みいただいて本当にありがとうございます。
 読んでくださった方が何か少しでも感じるものがあればすごく嬉しく思います。

 生きるということは、しがらみに抗うことかもしれません。
 それが時にはどうしようもなく苦しく感じられるときもありますが、しがらみがあるからこそ、自由が、生が輝くのだと思っています。

 みなさまが本日も、心穏やかに眠りにつけますように。

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