15.世界史の記述の変化3
第一次世界大戦の勃発
オーストリア皇太子夫妻→オーストリア帝位継承夫妻
サライェヴォ事件にて殺害されたオーストリア帝位継承夫妻についての記述。これは単純に昔の教科書が間違っていたパターン。
当時のオーストリア皇帝はフランツ・ヨーゼフ1世。皇太子であればその息子ということになるが、皇太子のルドルフは事件のおよそ15年前に謎の死を遂げている。彼には四人の子どもがいたがルドルフを除く三人はゾフィー、ギーゼラ、マリーと娘であった。
そのためフランツ・ヨーゼフ1世の弟にあたるカール・ルートヴィヒが帝位継承権第一位となったが、彼もまた事件の10年ほど前に死亡。その息子、つまり当時の皇帝からみて甥にあたるフランツ・フェルディナントが帝位継承となった。
サライェヴォ事件にて銃殺されたのはこのフランツ・フェルディナントとその妻ゾフィー・ホテクである。
※ルドルフの謎の死については「マイヤーリンク事件」という有名な事件になっている。既に妻帯者であった彼が、男爵家の娘と共に死亡していたというものである。詳細はマイヤーリンク事件で検索を
ヴェルサイユ体制下の欧米諸国
(記述なし)→ワシントン体制
かつてはヴェルサイユ体制ほど重要視されていなかったが、同等の扱いへ
⇒両者を合わせて、ヴェルサイユ=ワシントン体制として戦間期の世界秩序を大きく規定したとの評価に
満州事変・日中戦争と中国の抵抗
盧溝橋事件
1937年7月→1937年7月7日
この一見微妙に見える変化の原因はいくつかの説が存在するようだが、そのうちのひとつを紹介する
それはこの7月7日が日本にとっては七夕というどちらかと言うとポジティヴな日であるのに対して、中国では日本による武力侵略が開始された忌まわしき日であることに配慮したというものです。
本当かどうかは調べても確認できませんでしたが、在中日本大使館?が「7月7日は日本では七夕という好意的な日である」という旨の発言をしたところ炎上したとか、七夕が祝日でないのは中国側が反発しているからだとか言われています。