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「夢のパンケーキを求めて」第8話
黄昏の中を必死に走り続けた。
こんな暗い気持ちになるつもりはなかった。会社の前を通ったからだろうか。それともパンケーキを食べ過ぎたからだろうか。
糖質過多になると高血糖になって、それを分解するために大量のカルシウムやビタミンB群が消費される。ビタミンBが欠乏すれば脳はエネルギー不足となり、気持ちは不安定になる。集中力だって低下する。
不意に、逆走してきた自転車と衝突しそうになった。かろうじて避けることができたが、相手は謝罪するどころか舌打ちし悪態をついていった。ライトは消灯。片手にスマホを持ち、耳にはイヤホンを装着していた。思わずため息が漏れた。
自転車は法律上『軽車両』に属するので、車道の右側を通行することは通行区分違反だ。三ヶ月以下の懲役又は五万円以下の罰金。ライトの無灯火も五万円以下の罰金。
たまに見かける、傘さし運転、ながら運転、イヤホン運転、犬の散歩をしながらの運転、歩行者に向けてベルを鳴らすのも、すべて違反だ。
よく誤解されているが、自転車のベルは警音器であり、左右の見通しが利かない場所、または自転車同士の追い抜くときなどに、『通りますよ』という意思を表示するためのものだ。
歩道は歩行者優先であることを忘れてはいけない。
いくつもの違反を重ねながら、己の過失に気づかず、他者を責める。
きっと不備を指摘したら、「でも、みんなやってることだから」と返してくるのだろう。みんなやってる。だから、誰かを傷つけても許されるというのか。
そんなことを考えているとは思えない。何も考えていないんだ。自分だけは事故と縁がないのだと信じ込んでいる。そうでなければ、あんな無責任なことができるわけがない。
無知の罪はどこにあるのだろうか。誰からも教わらなかったから、知らなかった。これは仕方のないことだ。では、自ら知ろうとしなかったことが罪なのか。策定したルールの周知不足が罪なのか。
こんなことを考えるのは、自分が普通ではないからだろうか。
こんなことを考えなくてもいい世の中が早く来ればいいのに。
・・・
暗い道の向こうに夜の繁華街が見えてきた。目的地まであとわずか。ほっと息をつく。
駅の近くの駐輪場に立ち寄った。のどが渇いた。日は暮れたが、まだ暑さと湿っぽさは健在だ。自販機にもコンビニにも目をくれず、目的の喫茶店まで駆け抜けた。
レトロチックな喫茶店だった。佇まいもメニューも強い昭和感を残している。たぶんここが、先輩の行きつけのお店だ。
お店に入ると、主と思わしき渋い高齢男性が席まで案内してくれた。客は他にも四人ほどいた。各々、自分の家のようにくつろいでいるようだった。
そのうちの二人は喫煙者だった。むせるようなタバコのにおいが漂ってくる。受動喫煙だ。しかし、喫煙可の喫茶店に入っておいて文句を言える道理はない。口呼吸に切り替えて、ブレンドコーヒーとパンケーキを注文した。
先輩も喫煙者だった。でも加熱式タバコだったからか、紙のタバコほどにおいは強くなかった。タバコなんて大嫌いなのに、先輩のにおいが少し恋しくなる。
先輩の周りにはいつも笑顔があった。やっていることはめちゃくちゃなのに、誰も先輩を咎めなかった。文句を言っていたのは自分くらいだったと思う。
今になって思えば、先輩は常に人のために動いていた。ルールを破っても、それは必ず誰かのための行いだった。
ルールに則さない方法で得た幸せは本当に幸せではない。ずっとそう思っていた。だけど、先輩は人がルールに合わせるのではなく、ルールが人に合わせるべきだと思っていた。
衝突することは何度もあった。先輩は決して怒らなかった。こちらの主張を受け止めたうえで、小狡い屁理屈で説き伏せられた。それが腹立たしくて、でもなぜか少し心地よかった。
コーヒーとパンケーキが運ばれてきた。質素なお皿に、昔ながらのパンケーキが置かれていた。早速、コーヒーを一口飲んだ。苦い。本格的なコーヒーはこういう感じなのだろうか。正直、ちょっと苦手だ。
パンケーキは美味しかった。外見に特筆する点はなく、味にも特別感は感じられない。それなのに、すごく美味しかった。得も言われぬ安心感があった。
最初は苦手だと思ったコーヒーも、パンケーキと合わさるととても美味しい。相性が良い。相乗効果。そんな言葉が頭に浮かんだ。
そういえば、このお店のメニューでは、パンケーキではなく、ホットケーキと記載されていた。確かに、このパンケーキはホットケーキと称することが適切であるように思える。
パンケーキは外来語だ。『パン』は底の平たい鍋のこと。フライパンのパンだ。食べもののパンではない。
一方、ホットケーキはパンケーキが日本に上陸した際に付けられた呼び名だ。食パンとの区別のため、この名が付けられたらしい。
レモネードとラムネのような関係だと先輩は言っていた。
欧米のパンケーキにはクレープのような薄型のものが多い。イギリスでは粉砂糖とレモン汁をかけて、丸めて食べる。アメリカはクリームやシロップをかけるなど日本と似た形だが、パンケーキは塔のように縦に重ねて食べるようだ。
ホットケーキは柔らかく、厚みがあり、甘みもある。近年ではアメリカやハワイでもこのスタイルのパンケーキが主流のため、日本でもパンケーキという名称で出すお店が増えたらしい。
この辺りは主に先輩からの受け売りだが、掘り下げればかなり深い歴史が出てきそうな話でもあった。今度調べてみようと思った。