「夢のパンケーキを求めて」第1話
パンケーキを食べる夢を見た。
目が覚めると、無性にパンケーキを食べたくなっていた。夢で見た、あのパンケーキを食べたい。
思いついたら即実行。考えるより先に足が動く。最低限の常識的な身支度。日焼け止めは念入りに。部屋を出て、マンションの駐輪場から自転車を引き抜いた。
外に出ると、溺れるような湿気の海が広がっていた。今年の夏は本当に暑い。燃え上がる太陽の光が、フレームに反射して煌めいている。
見上げると、どこかレトロな色合いの青空に、綿菓子のような淡い雲がふわりと浮かんでいる。焦げるような夏の匂い、耳を劈く蝉の鳴き声が、この世界に生きていることを実感させてくれる。
ハンドルバーに取り付けたホルダーにスマホを設置する。地図アプリを起動し、検索欄に『パンケーキ』と入力した。
地図上にピンが並ぶ。夢で見たパンケーキはもうおぼろげで、どんな形状、どんな味だったのか、もはや忘却の彼方だ。もう直接見て、食べることでしか思い出すことなんてできない。
欲しいものは絶対に手に入れる。いつだって、そうやって生きてきた。
恋しいパンケーキとの再会を胸に、今ペダルを漕ぎ出す。
・・・
マンションの向かいにあるスーパーを抜けて、大通りに飛び出す。
二年前、社会人になって一人暮らしを始めたとき、物件選択の決め手となったのが、このスーパーの存在だった。スーパーが近くにあることは、駅が近くにあることに次ぐ利点だと、先輩が教えてくれた。
今となっては本当にそうなのか少し疑問に思うけれど、利点の順位はともかくとして、徒歩一分の距離にスーパーがあることに、これまで何度も救われてきた。
誠実さを謳う地域特化型の経営方針。店舗数は少なく、品揃えも決して豊富とは言えない。それでも、従業員の教育は行き届いていて、穏やかな笑顔、親切な案内など、各々の人柄を反映した心地良い接客は近隣住民から好評を博している。用事がなくてもなんとなく立ち寄りたくなる、木漏れ日のようなお店だ。
しかし、今年に入って同社は百貨店などを展開する大手企業の完全子会社になったと先輩が言っていた。加えて、現在この付近では地上五十階、五百戸の高層タワーマンションが建設の完成を控えている。
興味本位で調べてみたところ、唯一情報が出てきた十六階の1LDKは約6,500万円だった。きっとこの部屋に住めば、眼前に広がる煌やかな街並みから、その向こうにある未来の果てまでだって展望できることだろう。
そんなタワマンが建てば、スーパーの客層もきっと変わる。今までは庶民的かつ良心的な仕入れをしてきたこの店舗も、これからは大きく変わっていく。
変化が起こることは喜ばしいことであり、拒むものではない。それでも、誇るべき個性が失われないことを願う。この優しい木漏れ日の行く末を、しっかりと見届けていきたい。
・・・
十字路を右折し、照り付ける太陽を右手に、長い車道を直進した。この地区は週末になると車の流れが緩やかになる。
だが、油断は禁物だ。元々体力には自信があるが、車道を走っているとたまに危ない目に遭うこともある。義務化されたヘルメットは抜かりなく装着している。だけど、自分のためにも、相手のためにも、事故は起こらないに越したことはない。
念入りに周囲を確認しながら、トラブルが起こらない範囲を見極めつつ、徐々に慎重に速度を上げていった。
不意に対向車線をカートに乗った外国人らしい集団が駆け抜けていった。彼らはこの暑い中、着ぐるみに身を包んでいた。どうやら、観光客向けのツアーらしい。
考えてみれば、日本人があのカートを運転しているところを見たことがない。カートのレンタル料金は一時間で一万円ほどするようなので、当然のことかもしれない。汗だくになりながらも楽しそうに手を振る彼らを見て、思わず笑みがこぼれた。
そういえば、欧米人はアジア人と比べて汗腺が少ないらしい。確か、日本人の75%程度の密度しかないと先輩から聞いた記憶がある。つまり、熱を蓄えやすい体質だ。
一瞬のすれ違いだったから、彼らが欧米人かはわからない。いずれにせよ、体調管理に気をつけて、迷惑なことは行わずに、健全に日本を満喫していってほしい。
・・・
何度か左折と右折を繰り返し、十分ほど自転車を漕ぎ続けると、目的のエリアに入った。古着屋やレコード店、雑貨店がひしめくカジュアルな街。アメリカンテイストに浸る若者文化の発信地だ。
道幅が狭く、人通りが多いので、自転車を降りて押し歩きした。途端に汗が噴き出てきた。今日の気温は三十七度を超えている。気持ちが良いくらいの猛暑だ。
コンビニに寄って、飲み物を物色した。
エアコンの冷風にオアシスの存在を感じる。
塩レモンの飲料水を買った。
熱中症対策には塩分が必要だ。なぜなら、汗には塩分とミネラルが含まれているため、水分だけ補給すると体内の塩分・ミネラル濃度が下がってしまい、却って危険な状態になってしまうから。
また、水分過多になるとナトリウムが希釈され、水中毒になってしまう危険性もある。これも熱中症と並んで危険な病態だ。
先輩に教わるまでもない一般知識。だからといって、誰もが当たり前のように知っているわけでもない。
大事なのは有益な情報を共有していくことだ。
正しい知識は己を救い、他者をも救う。みんなが助け合っていける世界でありたい。