「八葉の栞」第四章 前編
4月3日
第一節
午前9時30分。清宮涼介は朝の日課をこなし、白桜町駅に向かっていた。
昨夜から降り続いていた雨はぴたりと止み、朝の空は青く澄み渡っていた。街路樹の葉に朝露が光り、小鳥たちがその間を忙しなく飛び交っている。
涼介はレンタカーを借りて、駅前のロータリーに停車した。
ウィンドウを下げると、清々しい風が吹き込んでくる。涼介は深呼吸した。道端の水たまりには、青空と白い雲が映り込み、水面が風に揺られて緩やかに輝いていた。
水沢匡貴の住居は、佳乃の記録で確認済みだ。最寄り駅の若葉坂は、白桜町駅から乗り換えせずに行くことができる。今回はジョシュも同行してくれるので、涼介は車での移動を選択した。
涼介はペット用アクセサリー搭載のレンタカーを借りていた。助手席に取り付けられた簡易ケージなら、ジョシュも快適に過ごせるはずだ。
しばらく待つと、茉莉花たちが姿を見せた。朝の挨拶を交わし、涼介は車を発進させた。
・・・
涼介は、東に向かって車を走らせた。
ジョシュはケージが気に入ったようで、ニコニコしてご機嫌だ。
一方、茉莉花は後部座席で少し不満そうにしていた。
匡貴が住む楓花町は、若葉坂駅の北側に位置する閑静な住宅街だ。
緑豊かな丘陵地で坂が多く、小さなお店や神社も多い。
電車なら30分弱の距離だが、車だと少し迂回するため、40分ほどかかる。
「事務所を移転する前だったら、歩いて行けたね」と茉莉花が言った。
涼介が訊ねてみると、茉莉花たちは半年ほど前まで若葉町に事務所を構えていたという。依頼対応のために、白桜町に転居してきたとのことだった。
「どんな依頼だったんすか?」
「何だったかな…」茉莉花は首を捻って考えていた。
「忘れちゃったんすか!?」
「うーん…」
後で電子化した書類データを調べてみようと涼介は思った。
住宅街を抜け、近代的なビルが並ぶエリアに入った。
窓越しに都会のざわめきと人々の活気が伝わってくる。
車が赤信号で停まると、バックミラーに挙手している茉莉花の姿が映った。
「これまでの情報をまとめてみた」
茉莉花がまとめてくれた情報は次のとおりだった。
はるりは子供の頃、いじめに遭っていた。
はるりは孤独をまぎらわすために、架空の友人を作り、文通をしていた。
架空の友人へ書いた手紙の一通が、『水鏡桜とうたかたの少女』に挟まれていた。
はるりをいじめから助けてくれた男の子がいた。
彼ははるりの初恋の人で、彼女は今でも彼を愛している。
はるりは『うたかた』により、他者の記憶に残らない存在となっている。
『うたかた』は、契約成立時に契約者の記憶を持つすべての生物から、契約者の記憶の繋がりを断つ。
その後も、『うたかた』の契約者は他者の記憶に数時間から数日程度しか残らないようになる。
『うたかた』は契約者が『存在の力』を消費し続けることで、対象者の記憶を維持することができる。
あくまで『記憶の繋がり』を断つため、記憶自体は対象者に中に残っている。
記憶が残っているからこそ、『記憶の雫』で掬うことができている。
『うたかた』の効果により対象者が契約者を思い出せなくなると、心に穴が空く。
心の穴の大きさは、対象者と契約者の親密度に比例する。
はるりは今年に入ってから仕事に行かず、積極的に白桜町の人間と会話を繰り返していた。
「…って感じだと思う」
「ありがとうございます!助かります!」
「ふっ、私も探偵だから」
「むー。記憶の繋がりがなくなるのと、記憶がなくなるのは、どう違うんだにゃ?」
涼介もそれが気になっていた。佳乃の記録で、彼女はこの仕組みを理解していたようだったが、涼介には見当もつかなかった。
「私も詳しいわけじゃないんだけど」と前置きしたうえで、茉莉花が説明を始めた。
第二節
人間の記憶には短期記憶、長期記憶、感覚記憶など、様々な種類がある。
これらの記憶は脳内で構造化され、ネットワークを築く。
ひとつの情報と他の情報を結びつけるプロセスを、連想記憶と呼ぶ。
例えば、『ネコ』という情報は、『小さい』『自由』『ペット』というような情報とリンクされることで、記憶ネットワークが構築される。
『ネコ』という情報から、『ペット』という情報を想起するのは、連想記憶のおかげだ。連想記憶が関連情報を検索してくれるから、人は事物を覚えることができる。この反芻により、情報のセットが長期記憶として脳に定着する。
『うたかた』は、契約者に関する記憶そのものを消すのではなく、その記憶に至る連想記憶を断ち切る能力なのではないかと茉莉花は推測していた。
「にゃるほど。わかるようにゃ、わからんようにゃ…」
「所詮はネコだな」
「にゃんだと!大体にゃ、例が悪いんだにゃ!」
「わがままペット」
「ふにゃー!!」
ふたりのやり取りに、涼介が口を挟む。
「茉莉花さんに聞くことではないかもしれませんが、なんで『うたかた』は記憶そのものを消さないんでしょうか?」
「多分、対象の人格が壊れないように、制御された能力なんだと思う」
茉莉花たちは、これまでにはるりのことを忘れてしまった何人かの人たちを見てきた。彼らは一様に、はるりの記憶だけを思い出せなくなっていた。
その記憶の消失が、日常生活に支障を来しているようには見えなかった。
つまり、『うたかた』は意味記憶への影響を避けつつ、エピソード記憶との連想記憶を弾いていると考えられる。そして、欠けたエピソード記憶を別の記憶で補完し、強引に辻褄を合わせている。
言い換えれば、恣意的に脳回路の再配線を行っているのだ。
「意味記憶?エピソード記憶?にゃんか聞いたことありにゃすけど…」
「意味記憶は一般的な知識、エピソード記憶は個人的な経験ですよね?」
「うん。カルボナーラは一般知識、昨日のオーナーの半端なカルボナーラの味は個人的な経験」
「やっぱり例が酷いにゃす…」
涼介は思考を進める。
文乃は春香の記憶を失い、心にぽっかり穴が空いてると言っていた。
はるりは文乃がその穴と向き合えば、大きな虚無感に襲われることになると言った。
本来はその危険性があったのだ。だからこそ、はるりは文乃の留守中に『Libro Vento』を訪れた。昨晩の文乃の様子を見る限り、逆説的ではあるが、彼女は佳乃の記録を介して間接的に春香の存在に触れたことで、直接的な衝撃を受けずに済んだのだと考えられる。
佳乃が春香を思い出したことに、はるりは驚きを見せていた。
彼女にとっても、予想外の事態だったのだろう。
ここに『うたかた』を攻略するヒントがあると、涼介は直感した。
「『うたかた』は、記憶の糸を切るようなものなんだと思う」
茉莉花はそう言って、空中で糸を切る仕草をした。
「でも、糸の端っこは残っている。だから、繋ぎ直すことができる」
あるはずの記憶を思い出せなくなる。
人は記憶を忘れるのではなく、思い出せなくなるだけだ。
涼介も、そう聞いたことがあった。
『うたかた』は強制的にその状態を作り出す能力なのだと仮定する。
連想記憶が途絶えた記憶も、何かのきっかけで再度記憶ネットワークに接続されれば、また思い出すことができるようになる。
涼介はふと、限定的ではあるが、連想記憶が途絶えても失われたはずの記憶が蘇った事象を思い出した。
「文乃さんは誰かに助けてもらった夢を見たと言ってましたよね」
「うん。夢は記憶の整理だから、多分それだと思う」
「どういうことだにゃ?」ジョシュが首を傾げる。
人間の脳の記憶容量は1GB前後だという研究結果があるらしい。
生物は記憶の取捨選択をするため、記憶の回想として夢を見る。
連想記憶は、睡眠中の回想時に関連付けを行う。
文乃の就寝時に、連想記憶を断たれた春香の記憶が、その存在の灯火を照らしていたのかもしれない。
記憶とは実に儚い存在だ。涼介はそう思わずにはいられなかった。
『うたかた』の仕組みを理解するほどに、はるりが背負った運命の悲しみが胸に広がる。他者の記憶から消え去る彼女の孤独を想像すると、涼介の心は痛みに震えた。
だが、彼は前に進まねばならない。彼女をその手で救うために。
第三節
話している内に、車は若葉坂の交差点に差し掛かった。
若葉坂は歴史と文化が共存する情緒あるエリアだ。町の中心にある大きな坂の周辺には、古風な建物や石畳の路地が並ぶ。また、異国情緒あふれる町としても知られており、外国人の居住者も多い。
涼介は、若葉坂駅から少し離れた、坂の中腹にあるコインパーキングに車を停めた。彼は車を降りて、茉莉花のためにリアドアを開けた。続けて、助手席のドアを開け、ケージからジョシュを抱き上げる。ジョシュはそのまま、涼介のトートバッグの中にするりと入り込んだ。
「レッツゴーにゃす〜♪」
ジョシュは鼻歌を奏で始めた。
涼介は初めて訪れた若葉坂の風景を眺めながら、坂を登っていった。
「匡貴さんもはるりさんに負けず謎が多いね」と茉莉花が切り出した。
「俺も昨晩考えたんですが、彼の行動には不可解な点が散見されますね」
「ちょっと整理してみよう」
向かいから観光客らしき集団が坂を降りてきた。
彼らは礼儀よく、道を譲り合った。
涼介は真也たちの記録を思い出す。
水沢匡貴は元刑事だ。多忙な日々を送っていたため、はるりと会話する機会が少なく、彼女がいじめられていることに気付かなかった。
「刑事の娘をいじめるとか、卑屈なくせに度胸ある」
「そうっすよね。もしかしたら、刑事だってことはあまり知られてなかったのかもしれないですね」
「そういうこともあるのかな」
「はるりが養子だってことも関係しているのかもしれません」
茉莉花は『養子』という言葉に反応した。
「佳乃さんが言ってたように、彼女たちの縁はできすぎた話だと思う」
「そうですね。それに何で春香さんの本を彼が持ってたのかも謎っすよね」
「結局、本人に聞いてみるしかないか」
茉莉花の言うとおり、考えてわかることではなさそうだ。
それでも、ある程度は情報を整理することができた。
茉莉花は途中のコンビニに寄って、飲料水を購入した。
涼介も缶コーヒーを買った。彼の身体は、カフェインを欲していた。
コンビニを出て、また長い坂を登っていく。
色とりどりのお店が並ぶきらびやかな坂道は、道行く人々の興味を惹いて離さない。多様な人種で賑わう町は、ローカル感が強い白桜町とはまた違った趣があった。
「最も気になるのは、彼が誘拐事件を起こして捕まったこと」
「刑事が事件を起こすって、衝撃的ですよね」
「うん。当時は連続誘拐犯の正体は刑事だったって、大きく報道されてた」
「連続誘拐犯?」涼介は隣に歩く茉莉花の目を見る。
「そう。その頃は誘拐事件が多発してたから。『雨の日の悪魔』って聞いたことない?」
「あっ!聞いたことあります」
涼介は、20年ほど前に話題になった、雨の日にだけ人を攫う誘拐犯のことを思い出した。
「あの『雨の日の悪魔』が匡貴さんだった…?」
「ううん。匡貴さんは誤認逮捕。だから、1年で釈放されたんだと思う」
涼介は茉莉花の断言するような口調が気になった。
茉莉花はそれに気付いたのか、その訳を明かした。
「本物の『雨の日の悪魔』は数年前に私が捕まえたの」
「マジっすか!!?」涼介は驚きを隠せない。
茉莉花がふふんと少し得意げに笑う。
それを聞いたジョシュが、バッグの中で「にゃー!!」と騒ぎ出した。
涼介には、その動作が「おいどんも一緒に頑張ったんだにゃ!」という訴えであるとわかった。彼はバッグの上からジョシュを優しく撫でた。
第四節
涼介たちは坂を登りきり、正面に現れた若葉坂駅の手前で右折した。
細い路地を見上げると、坂の上に立つ大きな神社が視界に飛び込んできた。頂上に位置する特徴的な鳥居、それに続く石段が神社へと伸びている。
鳥居の奥には、緑豊かな木々に囲まれた境内が広がっているのが望めた。
鳥居の鮮やかな赤色と、木々の深い緑のコントラストが美しい。
涼介たちは境内には入らず、神社の脇の道から坂を下り、楓花町へ足を踏み入れた。
佳乃の記録の中ではるりが語った道順を辿っていく。
楓花町は細い坂道が入り組み、小さな家屋やアパートの連なりに、時折古き良き店舗が顔を覗かせる。
「なかなか風情がありますね」と涼介が町の感想を口にする。
「雪の日とか大変そう」と茉莉花が彼女らしい現実的な感想を返した。
ふたりは互いの意見に頷き合い、静かに歩みを進めた。
数分の後、3人は水沢匡貴が住むアパートの前に到着した。
古びた建物は、所々に錆を浮かべ、風が吹くたびにどこかが軋んだ。
涼介は事前にアパートの情報を調べていた。リノベーションが施されているわけではなく、単純にお手頃な家賃が一番の売りとなっていた。
実際に現場を訪れてみて、涼介はこのアパートには賃料の他に、目立たない地味さというメリットがあることに気付いた。
ひっそりと人通りが少ない道にある、誰も注目しない古い建物。
彼は誤認逮捕とはいえ、誘拐犯として世間を騒がせたことがある身だ。
その身を潜めるには、ここは絶好の物件のように思えた。
涼介たちは階段を上がり、匡貴が住む202号室のチャイムを鳴らした。
中から反応はなく、ドアをノックしても返事はなかった。
「居留守?」
「何とも言えないっすね…。平日の昼間ですし、普通に出かけてるのかも」当然、この事態は想定していた。
涼介は元よりアパートに張り込むつもりでここに来た。
彼らは大きな音を立てる階段を下りて、向かいの家の塀に寄りかかった。
「さっきコンビニであんぱん買ったら良かったにゃすね」
ジョシュがこっそり声を出した。涼介はこの展開も読んでいた。
トートバッグのポケットに、今朝買っておいたあんぱんを忍ばせている。
それを伝えると、ジョシュは歓喜した。
第五節
「なんではるりさんは連絡先じゃなくて住所を教えたんだろうね」
茉莉花がぽつりと呟いた。
涼介は、「言われてみればそうっすね…」と首を傾げた。
誰かを訪ねる前に連絡を入れるのは一般的な考え方だろう。
はるりは常識ある人間だ。佳乃の記録を読んだときには、特に違和感を覚えなかったが、茉莉花に指摘されると確かに彼女の行いは不自然に思える。
涼介が考え込んでいると、茉莉花が彼の顔をじっと見つめてきた。
髪と同様に彼女の眼の色素も薄く、アーモンド型の瞳が陽光を受けて薄茶色に輝いていた。
「どうしたんすか?」
「隈が昨日より濃くなってる。寝られなかったの?」
涼介は少し後ろめたそうに目を逸らし、事情を説明し始めた。
「実は気になることがありまして…」
彼は自宅のスマート家電の電源が切れていたことを話した。
説明の間、誰ひとり彼らの前を通ることはなく、雀のような鳥の鳴き声だけが静寂を彩っていた。
ふーむとジョシュが唸った。
「3月4日から電源切れてたのに、昨日までは動作してたってことだにゃ?」
「はい。前に対応した案件でもらった試供品なので、不具合かもっすけど」
涼介は眉を顰めた。
あらためて考えてみると、3月4日の深夜ははるりが失踪したタイミングだ。
彼女は4日の深夜から5日の早朝までの間に姿を消したのだ。
これが偶然とは思えない。
「ハルリが出ていくときに電源を切ったにゃすかね?」
茉莉花が短く頷く。
「スマート家電には、セキュリティ関係のものもあるの?」
「はい。カメラはないですが、玄関の開閉を察知するセンサーがあります。特定の時間帯に開閉があると、スマホに通知が来るようになってるんです」
「ハルリがいなくなった日は、通知なかったにゃすか?」
「なかったです。ただ、はるりは…元々人感センサーに認識されないことがあったので、あまり重要視してなかったんです」
涼介がそう言うと、通行人の女性が彼らの前を横切った。
匡貴ではない。涼介たちは肩を落とした。
女性が通り過ぎると、空にうっすらと残る飛行機雲を眺めながら、茉莉花が呟いた。
「『うたかた』を使用すると多くの『存在の力』を失うみたいだから、多分それが原因だと思う」
「あ、なるほど」
『存在の力』が少なくなると、人間の意識だけではなく、機械の感知も弱くなるということだろう。
「もしかしたら、幽霊かもよ」
「え?」
「幽霊の正体は、『存在の力』を失って魂だけがこの世に残った姿だ…っていう説があるの」
「ぶるぶるにゃす…」バッグの中でジョシュが震えた。
彼はこの類の話が苦手だった。
「幽霊がスマート家電の代わりに、カーテンを開けてくれたり、電気を点けてくれたり、コーヒーを淹れてくれてたってことになりますね」
「そんな世話焼きな幽霊がいるなら、うちにも欲しい」
茉莉花は真剣な顔でそう言いながら、バッグの中で美味しそうにあんぱんをつまんでいるジョシュを睨んだ。
第六節
涼介たちは交代で付近を探索しながら、アパートの張り込みを続けた。
昼食や休憩は、イートインスペースがあるコンビニで済ませた。
茉莉花はツナマヨおにぎりを選び、涼介はプロテインバーを口にした。
水沢匡貴がアパートに戻ってきたのは、15時前のことだった。
2階に向かう匡貴の後を、彼らは距離を取りながら追っていった。
涼介たちは、202号室に入る直前の匡貴を押さえた。
初めて見るその顔は、ひどく痩せこけていた。
しかし、涼介には一目で彼がはるりの父親であることがわかった。
眉の形、鼻の形、輪郭…。
パーツと言うより、顔の線がはるりとそっくりだ。
「…君たちは?」
匡貴は突然の来訪者にも動じず、感情が読めない静かな瞳で、涼介と茉莉花を見据えた。彼は一瞬、涼介のトートバッグに目を留めた。
ジョシュの体重を支える涼介の体勢の不自然さに気付いたのだろう。
涼介は言葉に詰まった。発すべき言葉が思い浮かばなかった。
秒の刻みが焦りを募り、頭の中が真っ白になった。
焦燥感が、彼の唇を震わせた。手の平には汗が滲み、喉はカラカラに乾いていた。
「水沢匡貴さん?」
涼介の異変を察した茉莉花が、先に口を開いた。
「私たちは、藤堂探偵事務所の探偵とアシスタント」
「探偵…」匡貴の眼に警戒の色が浮かぶ。
このままではまずい。そうわかっていても、言葉が出てこない。
涼介の焦慮を傍らに、茉莉花の態度には余裕が感じられた。
いつもの無表情さに、覇気が備わっていた。
「私たちと同じように、以前女性が訪ねてこなかった?『水鏡桜とうたかたの少女』という本を持って」
匡貴は目を見開き、動揺からか、大きく息を呑んだ。
「入ってくれ」
匡貴はそう言うと、茉莉花たちを彼の部屋に招き入れてくれた。
生活感のある、小さなワンルームだった。
台所の先に和室があり、染み付いたようなカビの臭いがした。
匡貴が窓を開けると、破れた網戸から見たことがない昆虫が入ってきた。
茉莉花が露骨に顔を歪ませた。
「女性を呼べる部屋ではないな。駅の方まで行けばカフェがあるが…」
「大丈夫。我慢できる」
「そうか。すまない」
茉莉花は改めて自己紹介と、今回の訪問に至った経緯の説明をした。
彼女は事前に文乃から、匡貴に彼女の依頼内容を話しても問題がないことを確認していた。涼介は茉莉花の手際よさに舌を巻いた。
自分の不甲斐なさが、情けなくなってくる。
「…というわけで、これが喋る化けネコのジョシュ」
茉莉花はそう言って、涼介のバッグからジョシュを取り出した。
彼が激しく怒ったことは言うまでもない。
「ネコが喋るのか…。これを見てしまったら、君たちの言う特殊能力を疑うことも滑稽に思えてくるな」
匡貴のこの一言に涼介は心底同意した。同時に、何か胸の奥にざらりとしたものが残った。これまでも心のどこかで疑問に感じていたことへの解。
その一端が、この一言に表されている気がした。
「主旨は理解した。申し訳ないが、私ははるりという女性を知らないんだ。そして、『水鏡桜とうたかたの少女』は、ここにはない」
涼介たちは顔を見合わせた。
前者は想定どおりだが、後者は予想外の返答だった。
匡貴はさらに予想外の話を展開した。
「君たちに依頼をしたい。かつて、私が起こした誘拐事件の真相を明かして欲しいんだ」
第七節
18年前の誘拐事件。匡貴が連続誘拐犯として誤認逮捕された事件だ。
「どういうことだにゃ?」ジョシュが首を捻った。
「あの事件、私は確かにひとりの少女を誘拐したんだ」
「は?」茉莉花が驚きと軽蔑が混じった声を上げた。
彼女にしてはめずらしい、大声だった。
右隣の住人が、強い力で壁を叩いた。その振動で、天井から何かがパラパラと降ってきて、ジョシュの目に入った。
「痛いにゃす〜!こんにゃろー!!」
壁に殴りかかろうとしたジョシュを涼介が止めた。
「すまない。ちゃんと説明しよう」
当時、一部の地域で『雨の日の悪魔』と呼ばれる誘拐犯と模倣犯による犯行が蔓延っていた。匡貴はそのうちのひとつの事件の担当刑事だった。
「最後まで奴の正体を暴くことはできなかったんだがね…。私の、心残りのひとつだ」
匡貴は汚れた窓に向けて、深いため息をついた。
茉莉花はその様を見て、少し鼻息荒げに言った。
「そいつは私が捕まえた」
「なんだって…?」
「おいどんも頑張ったにゃす!」
「それは本当なのか?」
匡貴が疑うのも無理はなかった。『雨の日の悪魔』が捕らえられたことは、世間に公表されていない。涼介もコンビニでの休憩中に資料の書籍データを確認して、初めて納得したほどだった。
彼は自分の目で見たもの以外は鵜呑みにしない。
それはきっと、匡貴も同じだろうと思った。
「『雨の日の悪魔』については後で話を聞かせてもらえたらありがたいが、私の依頼の本題とはおそらく無関係なんだ」
「そんにゃら、誤認逮捕されたことにゃすか?」
「いや、あれは誤認逮捕ではないんだ。さっきも言ったが、私は一件の誘拐事件を起こした。だが、当時の警察は私を連続誘拐犯…『雨の日の悪魔』だと誤認した」
「まさか、あなたも雨の日に?」
「そのようだ」
「そのようだって…あなたは事件のことを憶えてないの?」
茉莉花は眉を顰めた。
だが次の瞬間、彼女の目が鋭く光った。
「なるほど。多分わかった」茉莉花は一呼吸おいて続けた。
「あなたはこのときのことを、たまに夢に見る。そして、文乃さんの依頼を聞いて、自分の状況と符合する点があることに気付いた。だから、私たちに依頼しようと考えた。違う?」
「御名答。さすが探偵だ」匡貴が顔を綻ばせる。
「ちょっと頑張った」
茉莉花は安堵の表情を浮かべてそう答えた。
ジョシュは匡貴の腕に前足を置いた。
彼が目を閉じて集中すると、『存在の力』が解き放たれた。
「見つけたにゃ!誘拐事件の記憶にゃす!!」
ジョシュは茉莉花のノートに匡貴の記憶を書き起こした。
佳乃もそうだったが、匡貴もジョシュが喋ることより、万年筆で文字を記すことに一層の驚きを見せた。涼介にはそれが不思議だったのだが、彼の疑問はすぐに解けた。
「小説や漫画の中では喋るネコなんてめずらしくないが、文字を書くネコはおそらく稀有な存在だ。君はすごいな」
褒められたと思ったジョシュは、照れた顔をして後頭部を掻いた。