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【COTEN RADIO】「ゴッホ編」のキリスト教説明の間違い。情報の補足。


リスペクトを込めて

COTEN RADIO(コテンラジオ)の「ゴッホ編」を聴いた。

フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ。
その名前を知らない人はいないレベルの有名人だ。

ラジオでは、ゴッホの「生きづらさ」や「苦悩」、「愛への渇望」を描いていた。

社会に適応できず、両親に愛されず、生きづらさをMAXで感じながら、それでも愛と居場所を求めて必至でもがいていたゴッホの短い生涯を聞き、腹の底を鈍く殴られた感覚になった。

こんな重厚な話を無料で公開してくれている、
COTEN RADIOの皆さんには感謝しかない。

今回の大きな軸のひとつに「キリスト教」があった。
ゴッホはオランダ人。プロテスタントの牧師の家系で生まれ、ゴッホ自身も牧師を目指して伝道師の養成学校に行く。しかし、その性格の難しさや語学能力の低さから、その道を諦めてしまう。

その後、ゴッホは画家を目指すようになる。

COTEN RADIOは、ゴッホの作品には数多くのキリスト教に関連するモチーフがあると説明する。また、彼の人生の不可解な行動も、キリスト教の教理や聖書の記述から紐解いていくと、また違った理解を得られるというのだ。

COTEN RADIOは、キリスト教の概念を紹介しつつ、ゴッホの人生を深堀りしていった。キリスト教や聖書の基礎知識がない人が聞くと、説得力があるように聞こえたのではないだろうか。

しかし私は、説明の解像度の粗さが気になった。

私はプロテスタントのクリスチャンであり、牧仕(牧師)として活動している。彼らのいう「宗教職能者」であり、聖書やキリスト教について、ある程度のことは知っている。

その立場から見て、今回のCOTEN RADIOの説明は、いくつか聖書の記述やキリスト教についての説明に語弊のある部分があった。

この記事では、COTEN RADIOの説明のどこに語弊があったのか補足したい。リスペクトを込めて。彼らは何十冊も本や論文を読み込み、その上でラジオで話している。その労力とかけた時間にはリスペクトを示したい。

同時に、私もひとりの牧仕として、聖書を読み込んできている。キリスト教という宗教の勉強もしてきている。その上で、彼らの発信には間違いがあると判断している。その労力と時間にもリスペクトを払って欲しい。

残念ながら、巷のキリスト教書籍には間違いが多い。聖書には記述のない文化や伝統を、聖書の記述として紹介している本がいかに多いことか。先入観や思い込みによる間違った記述も多い。聖書を読み込んでいないと、こういう間違った説明を鵜呑みにしてしまう。だから訂正をしたい。


ラジオの中で、深井龍之介氏は「解像度が低いから理想を投影するんだろう」と話していた。共感した。ゴッホは日本に理想を投影したが、それは日本や日本人への理解の解像度が低いからできたことだろう。

解像度が低いゆえに、理想を投影することがある。

逆に、解像度が低いゆえに、苦々しい思いをぶつけることがある。ゴッホ編のキリスト教の説明は、粒度が粗かった。それゆえに、リスナーは自身の宗教へのネガティブな思いを、キリスト教に投影しやすくなってしまっていると思う。この状況は、一人の牧仕として、看過できない。

だから補足記事を書くために、こうしてキーボードを叩いている。


1:「人を救いたい欲求」は、キリスト教から見るとズレている

ラジオではゴッホの「人を救いたい」という欲求に光を当てている。その根源には「イエスと同じように人を救いたい」という思いがあると、COTEN RADIOは説明する。しかし、キリスト教の理解としてそれは間違いだ。

例えば、COTEN RADIOはこのように説明する。
(下記埋め込み動画の開始24:31)

<以下引用、24:31〜>(敬称略)
楊「……(ゴッホが)キリスト教の指導者たちにドン引きされるんです」
樋口「なんで?」
楊「ゴッホの献身ぶりが常軌を逸していたらしい。貧しい人たちの生活を知りたいというふうに思って、イエスと同じ生活を実践したいという気持ちがあったんだって。だから自分が持っている所持品とか服とかを全部貧しい人たちに与えちゃったんですね。で、自分もベッドで寝ることもやめたり、1日何時間もフルマックスで説教とかに取り組んだりして、それを見た教区の指導者たちが、いやこいつちょっとヤベェとなって。ひかれて、ある種クビにされた」
深井「これはだから『人を救いたい』という欲求はすごく持っている」
楊「持ってる」
深井「で、いつも(伝道師学校に)入学したのにストレス抱えているとかっていうのは、救いたいことと学んでることが遠く感じて、何これみたいな」
楊「そう、何これっていう感じだったんでしょうね」
深井「いざ現場に出てこれでいけるっていってやったら、やりすぎてちょっとなんか合わないかもって言われちゃうみたいな」
楊「イエスと同じことを頑張ってやって人を救おうとしてたのになんでキリスト教の指導者たちから否定されるんだみたいな。意味わからんやんみたいな、そんな感じ」
樋口「これは…」
楊「深いでしょ」
樋口「これは個人的な感情ですけど……いいっすね」

孤高の天才 ゴッホの生涯 〜後世に花咲く絵画への情熱〜
【53-1 COTEN RADIOショート ゴッホ編1】

これは、ゴッホの心情の説明としては正しいのかもしれない。
しかし、キリスト教の概念の解説としては決定的に間違っている。

どこが間違っているのか。
以下にまとめた。

1:キリスト教における「救い」とは、現世における物質的な救済ではない。来たるべき神の審判において「義」とされることが「救い」である。

2:「救い」は、人間が行いによって得られるものではない。救いはただ、イエス・キリストによるものであり、人ができるのはそれを信じることだけである。

3:「救い」は、人間が他者に与えられるものではない。ただ、イエス・キリストだけが成すことができる奥義である。

これがキリスト教の基礎基本の信仰だ。

上記の根拠は、新約聖書・使徒の働き4章10-12節、ローマ人への手紙3章20節、同4章14-16節、ガラテヤ人への手紙2章16節、エペソ人への手紙2章8-9節、コロサイ人への手紙2章20節-3章4節など多数ある。

ゴッホのように「現世において」「自らの善行によって」「社会的弱者を救いたい」という行為は、すべての要素でキリスト教の基本思想から外れてしまっているのだ。

COTEN RADIOは、キリスト教における「来世的な救い」を、現世における「物質的な救い」と混同してしまっている。この問題は、以前から根強くあり、私も以前書いたブログ記事で指摘している。

つまり、ゴッホが「イエスのように人を救いたい」と思っていたということが事実であっても、それはキリスト教の信仰ではない。聖書の記述に基づいたものでもない。

しかし、COTEN RADIOではそのような決定的な教義のズレについては解説されず、あたかも「ゴッホが本来のキリスト教信仰を実践しようとしたのに、"古いキリスト教" が彼の思いを受け入れなかった」かのように説明していた。これはかなり大きな間違いだ。

聖書をしっかり読めば、ゴッホの行動は聖書やキリスト教の不勉強からくる勘違いということがよく分かるが、COTEN RADIOはその点には触れず、まるでゴッホが信仰深かったかのように説明している。

実は今回、私が指摘するほとんどの点は、COTEN RADIOの勘違いというよりも、ゴッホの勘違いからきている。ゴッホは、決定的にキリスト教や聖書を勘違いしている可能性が極めて高い。それなのに、COTEN RADIOはその点を指摘しない。

COTEN RADIO側の問題は、無理解のゆえのゴッホの奇妙な行動を、「キリスト教の本当の精神」や「イエスを同じこと」を実行しようとしたとして、無批判に紹介している点にある。

一応フェアに言っておくと、深井氏はゴッホが自然物と神を同一視していたかのように受け取れる部分は「そこまで行くと異端っぽい」と指摘はしている。しかし、ゴッホの「救い」や「福音」に関する決定的な誤解については指摘していない。その点では、かなり語弊がある説明だったと思う。

確かに、貧しい人を助けることは社会道徳的に大切であり、キリスト教もそれを正面から否定するものではない。しかし、その慈善活動によって人を救うことは絶対にできない。これがキリスト教の基本思想だ。

人を救えるのは、ただ一人、イエス・キリストだけなのである。


2:「イエスは娼婦に優しかった」わけではない

COTENの深井龍之介氏が、ラジオの中で「イエスは娼婦に優しかった」と発言したが、極端に解像度が粗い発言だ。

まずは背景から。ゴッホは、プロテスタントの家庭に育ち、自身も伝道師の養成学校に通うが、挫折してしまう。また、教会やキリスト教信者コミュニティも、彼を受け入れられなかった。

その大きな原因のひとつが、彼の生活態度の問題だった。

具体的に言えば、女性問題だ。恋した女性にストーカー行為をする、牧師の娘と愛人関係になるなど、彼の人生には女性関連の問題が多くつきまとった。

開始38:58〜
楊「家族が欲しかったっていうのもそうだし、(ゴッホがストーカーをしていた)ケーってさ、夫を亡くしたわけじゃないですか。それに対して彼女を救えるのは、助けられるのは、幸せにできるのは自分だけだっていうふうな思い込みもあったと」
深井「これはだから人にアプローチする時に、愛されたいっていうよりは、もしかしたら、助けたいっていうのがすごく強かったのかもね」
楊「まさにそう」
深井「そのキリスト教の伝道師してたときの情熱がこういうふうに向くとこうなるみたいなのかもね」
楊「まさにそうで、実はゴッホたくさん手紙を残してるから、彼の感情、心の動きが結構ね、粒度感高く再現できるんだよね。だからまさに今言ったことが分析、研究でも出されてる」

孤高の天才 ゴッホの生涯 〜後世に花咲く絵画への情熱〜
【53-1 COTEN RADIOショート ゴッホ編1】38:58〜

「救えるのは、助けられるのは、幸せにできるのは自分だけ」というのも、ゴッホの思い込みであり、キリスト教の考えとは異なる。「自分だけ」ではなく「イエスだけ」がキリスト教の考えである。ここにもゴッホの勘違いが見える。

さて、ゴッホは、ある時から娼婦と同棲を始めてしまう。もちろん、正式な結婚関係ではない。彼のこのような生活態度についてについて、COTEN RADIOではこのような説明があった。

開始40:05〜
楊「ここでまたゴッホが、キリスト教的な価値観にそぐわないことをやってしまいます」
樋口「なんだろう」
楊「娼婦と同棲をする
樋口「あーなるほどね」
楊「これはねやっぱり両親の目線からすると由々しき事態ではあるわけですよね」
樋口「そうか」
楊「牧師の家生まれの長男で、しかももう30歳にもなろうっていう人がね、子持ちの娼婦と同棲しているっていうのが、やっぱり両親からするとウソやろ!? って感じですよね」
樋口「なるほど」
楊「でも、ゴッホの中では、ただ単純にこのかわいそうな娼婦を助けたい。できるならこの人と家族になりたいという純粋な気持ちだったんです
深井「あー」
楊「はい。ちなみにこの娼婦の名前も反映していて、クラシーナ・マリア・ポールニク。通称シーンっていうふうに呼ばれてるみたいなんですけど、けっこうハードな人生なんですよね。未婚ながら3人の子どもを出産して、そのうち2人を亡くしていると。で、1人残った女の子を養いながらさらに4人目の子を身ごもっていた。で、パン代を、パンの食事代を稼ぐために冬の通りに立っていたというふうな女性だったんですよね」
樋口「あー」
楊「で、ゴッホはこの女性、シーンさんと一緒に暮らし始めました。はい。で、すごくいろいろ助けてあげるんですよね。モデルになってもらって、モデル代を払ったりとかさ。彼女分の家賃も払ってあげたりとか、自分のパンを分け与えたりして、ちゃんと助けるんだよね」
樋口「ふーん。さっき深井さんが言った助けたいと思っているっていうのがここでも出てますよね
楊「そうなんですよね。まさに今からまた学者さんの考察をいいますけど、人の苦境に対するゴッホの反応っていうのは、相手の性別に限らずよく見られることだったんですよね。もう本当に感受性が強く、異常なほど共感能力が高いと。窮地を脱する手助けをするだけじゃなくて、自分の手から相手を救い出さなければ気がすまなかった。相手を救えるのは自分だけだと。これは学者も書いてます。だけれども、このゴッホの芸術家としての活動も、生活費とかも、全てね、弟のテオの仕送りで賄われていたんです」
樋口「仕送りしてたんやテオ君」
<中略>

孤高の天才 ゴッホの生涯 〜後世に花咲く絵画への情熱〜
【53-1 COTEN RADIOショート ゴッホ編1】

ゴッホが「自分だけが救える」という思い込みの強さのあまり、子持ちの娼婦と同棲している様子を説明している。

この後に重要な間違いがある。

開始44:20〜
深井「規範からずれとるから彼(ゴッホ)が。自分がいいと思っていることを全部否定されてるみたいな感じだもんね」
楊「自分がキリスト教徒としてちゃんと正しいことをやっているのに、人をちゃんと助けようとしてるのに…
深井「いや、そうだよね。イエスも娼婦に優しかったもんね
「そう! まさにそうなんだよ!」
樋口「それをやってるのか」
深井「たぶんそういうのを参考にして、イエスだったらどうするかとか思ってた "かも" ね
楊「思ってた。思ってたって書いてあった
深井「ああ、そうなんだ」
楊「で、ゴッホは結局、実家をまた飛び出ていきます。で、死ぬまで実家に戻ることはなかった。これが画家ゴッホの始まりですね」
樋口「ふーん」
深井「いや、これ1話目からキツっ」

孤高の天才 ゴッホの生涯 〜後世に花咲く絵画への情熱〜
【53-1 COTEN RADIOショート ゴッホ編1】

「イエスも娼婦に優しかった」との言葉。
これは完全に間違いである。

まず衝撃の事実だが、イエスが娼婦に優しかったという記述は、聖書のどこにもない。

聖書で娼婦のことは「遊女」と書かれるが、イエスが"遊女に優しくした" という記述はどこにもない。ただ「(当時ユダヤ人から嫌われていた)取税人や遊女はイエスを信じた」という事実を発言しているのみである(参照:新約聖書 マタイの福音書21章31-32節)。

おそらく深井氏の念頭にあるのは、以下の3つのうちのいずれかだろう。

1:「姦淫の女」のエピソード
  (新約聖書 ヨハネの福音書8章)
2:「罪深い女」のエピソード
  (新約聖書 ルカの福音書7章)
3:「サマリヤの女」のエピソード
  (新約聖書 ヨハネの福音書4章)

実は3つとも「娼婦」だとは断定できないし、その可能性は高くない。
「姦淫の女」は、おそらく不倫の現行犯で捕まった女性。
「罪深い女」は、おそらく過去に不貞をはたらいた女性。
「サマリヤの女」は、おそらく離婚を繰り返し、婚前交渉もしていた女性。

いずれも「娼婦」だとは断言できない。

3つのエピソードに登場する女性の特徴はいずれも「結婚関係以外の性関係を持っていたこと」だ。聖書用語でいえば「姦淫」または「不品行」「みだらな行為」。聖書のギリシャ語を直訳すれば「結婚破り」が、ここでの主なテーマだ。必ずしも「娼婦」ではない。

ちなみに当時の「娼婦」は、異教の宗教行為の意味合いもあり、単純な「結婚破り」とは趣が異なる。娼婦の仕事は「姦淫の罪」ではなく、どちらかと言えば「偶像礼拝の罪」と記述されるべきである。聖書では上記の3名とも偶像礼拝との関係は描かれず、ただ姦淫という性の問題を抱えていたということがほのめかされているだけである。

まとめると、彼女たちが娼婦であった可能性は100%否定できないものの、聖書の記述の比重は明らかに「娼婦」ではなく、「婚外交渉」にある。イエスが「娼婦」と深い関係にあったと聖書から読み解くことは絶対にできない。

また、イエスが彼女たちに "優しくした" というのも語弊がある。
イエスは彼女たちと関わったが、決して彼女たちと性関係は持たなかった。彼女たちの乱れた性生活を肯定もしなかった。ただ、彼女たちが悪い生活習慣から立ち直り、神の掟を守って生きるように、人生の方向転換ができるようなキッカケを与えたに過ぎない。ましてや、一緒に同棲もしていない。

イエスはむしろ、彼女たちに罪を悔い改め、神に従う人生を歩むように語ったのである。彼の宣教の言葉は「悔い改めなさい」であった。「イエスは娼婦に優しかった」という説明は、粒度が粗い間違った説明である。

実は、「娼婦」や「性」のテーマについて、
COTEN RADIOはずっと勘違いをしている。

以前書いた記事でも指摘したが、COTEN RADIO「性の歴史」シリーズでも、キリスト教と聖書の記述に関して重大な問題があった。

それは、「イエスは性について語っていない」というもの。
深井氏は「イエスは性について語っていない。性についての概念をキリスト教に持ち込んだのはパウロだ」という主旨の説明を「性の歴史」シリーズでしていた。これはまったくの間違いである。

イエスは性に厳しい。
イエス以前のユダヤ教では、不倫は「行為」さえしなければOKだった。外国人は例外とされていたという説もある。

そのユダヤ社会において、イエスは「心で情欲を抱くだけで、実際に不倫をしたのと同じ罪である」と教えた。旧約聖書の基準よりも、かなり厳しい基準をイエスは突きつけたのである(参照:新約聖書 マタイの福音書5章)。

また離婚についても、従来のユダヤ社会では離婚に相当する理由があればOKだったものを、イエスは「神は人を男と女につくり、男女が一体となるのが結婚である。ゆえに神がひとつにしたものを引き離してはならない」と語り、原則的に離婚を禁じた。

これは当時のユダヤ教社会においても、驚くほど厳しい教えだった。イエスの弟子たちは、これを受けて「それなら結婚しない方がましだ」と答えたほどである(新約聖書 マタイの福音書 19章10節)。

「神は人を男と女に創造した」「離婚はしてはならない」いずれも、「性」に関するイエスの重大な教えである(参照:新約聖書 マタイの福音書19章/マルコの福音書10章)。

このことから、イエスは性について教えていないというCOTEN RADIOの説明は、まったくの間違いだとお分かりいただけただろう。

話を元に戻そう。

深井氏、楊氏が「イエスは娼婦に優しかった」「ゴッホはキリスト教徒として正しいことをしていた」「イエスだったらどうするかと思っていた」と語っていた内容は、ゴッホの思いとしては正しいのかもしれない。
しかし、キリスト教やイエスの説明としては完全に間違っている。

先に挙げた1〜3のエピソードのいずれも、焦点は娼婦を助ける話ではない。ましてや、同棲する話でもない。

1の「姦淫の女」のメインテーマは、ずる賢いユダヤ教の宗教指導者との問答を、うまくかわしたという点だ。当時は死刑執行の権利を持っているのは植民地支配をしていたローマ帝国だけだった。つまり、イエスが姦淫の女は死刑にあたると発言すれば、ローマ帝国への反逆罪になった。逆に、死刑にあたらないと発言すれば、モーセの律法を無視しているという批判が可能になった。どう答えても窮地に追い込まれる、究極の質問だったのである。

この難問をイエスは見事にかわした……というのがこのエピソードの主題である。娼婦を助ける話がメインではない。

まず女性は娼婦かどうかを聖書は書いていない。

そもそもイエスは「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」と言っているのであって、石を投げること(=死刑)自体は容認している。

ちなみに当時の「石投げ」は巨大な岩をその人の上に落として殺すという残虐なものであり、片手で拾える石を投げる行為よりも、もっとグロテスクなものであった。イエスはその行為を否定はしていない。単純に「優しかった」と結論づけられるものではないことが分かるだろう。

またイエスは、姦淫の女に対して「これからは決して罪を犯してはならない」と語っている(ヨハネの福音書 8章11節)。

イエスの優しさは、罪を容認してナアナアにする優しさではなく、「もう決して罪を犯してはならない」と語る厳しさをも含んだ本質的な優しさである。

だから、このエピソードが娼婦を助ける為に同棲をする(という明らかな宗教的な罪を犯す)ことを正当化できるはずがない。

記事が長くなるので残りは割愛するが、「罪深い女」の話も「サマリヤの女」のエピソードも、いずれも「娼婦を助ける」ことがテーマではない。

聖書から「イエスは娼婦に優しかった」という結論を見出すことはできない。それは巷のキリスト教の解説本が言っていることであって、聖書をよく読んだことのない人物が想像で書いている代物である。

一方で、じゃあイエスは娼婦に優しくなかったのかというと、当時、宗教的に差別されていた遊女もイエスの言葉を聞くことができたのだから、イエスが職業や立場によって差別や毛嫌いをせずに人と関わった、というのは一定程度事実であろう。

しかし、イエスが人と別け隔てなく接したという事実が、娼婦と同棲をするというゴッホの行動を肯定することにはならない

大前提として、結婚関係以外の人との性交渉は、キリスト教の宗教的な「罪」である。つまり、結婚していない相手との同棲という明らかに性交渉がそこに存在する関係を、聖書もキリスト教も容認していない。不特定多数との性関係を持っていた娼婦が相手とすれば、なおさらだ。

イエスは「姦淫の女」に対して、これからは決して罪を犯してはならないと語っている。その人と関係性を築くことと、同棲をすることは違う。そこに線を引かなければいけない。

これもまた、ゴッホの行き過ぎた聖書解釈と、自分の欲望を肯定するためのご都合主義の適用によって起こっているエラーなのである。


3:"耳切り事件" は聖書の誤読

晩年のゴッホにまつわる、有名な事件がある。いわゆる「耳切り事件」だ。
ゴッホが自身の耳を切り落とし、それを売春宿で働いていた女性に渡すという意味不明で猟奇的な出来事である。

COTEN RADIOではこの行為の意味について、キリスト教の教義的にも根拠があると説明していた。しかし、これは明らかな間違いだ。

↑こちらの動画で紹介された説明は以下である。

開始31:59〜
楊「でね、じゃあ耳をなんで渡したのか。女性に。これもね、僕が読んだ学者さんの中で書いていた考察なんですけれども、これはね、ラシェルさんていう女性に対する実は心からのプレゼントだったんです
樋口「えぇ〜?」
楊「どういうことかというと、おそらくゴッホはラシェルと顔見知りだった。で、ラシェルは腕に犬に噛まれた怪我を負ってたんですね。それを見てゴッホはおそらく不憫に思ったんじゃないかなというふうに言われています。で、ゴッホは感情が激しく高ぶった状態の中で、自分の耳を切って、おそらく急にまぁラシェルさんのことを思い出してさ、彼女の傷ついた肉体の代わりにしようと自分の体の一部を差し出したという行為につながったのではないかということなんですよね。で、これも一見聞くと、『えぇ?』って思うかもしれないんですけれども、これはね、ゴッホの中で宗教的な行為だったんじゃないかなっていうふうに言われています」
樋口「そういうのあるんですか? 意味が」
楊「うん、ゴッホはこの時期に宗教にも取り憑かれていたんですよね。やっぱりメンタル状況があまり良くなかったので、最初、失恋のときみたいね、宗教にこのときめちゃくちゃのめり込んでたんですよね。で、この時のゴッホっていうのは場違いの場所で貧しい人々に対して聖書を読んだり、説教をしたりとかしてるんですよね。で、自分をイエスとか、神と思い込むようになってたと。で、彼が自分の肉体をあげるっていう行為は、実はイエスにあやかったんじゃないかなっていうふうな説なんですよね」
樋口「へぇ〜」
楊「これね、なんかね、ヨハネの福音書の中に、一節があってね、「イエスはわたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は永遠のいのちを持っています」と言ったみたいな記述があるんですよね。で、この記述のように、ゴッホはさ、自分のことをイエスだっていうふうに思ってた節があるので、それと同じような人を助ける実践のひとつの形としてラシェルさんに自分の肉体の一部を渡したんではないかというふうに……」
深井「へぇ〜!」
楊「……学者は言ってますけれども、実際に本当にこの記述を読んで、ゴッホがこの行動を起こしたかどうかは分かりません」
樋口「言ってないからね。ゴッホ自身が」
楊「はい。そうですね。あくまで学説のひとつです。はい」
樋口「へぇ〜」

友よ!僕を裏切るな!一人の画家が壊れた瞬間 〜赤く染まった黄色い家〜
【53-3 COTEN RADIOショート ゴッホ編3】

まず大前提として、これはCOTEN RADIOの方々の説ではなく、数ある学説のうちのひとつを紹介したにすぎない。問題は、この学説がイエスの言葉をまったく理解していないひどい誤解に基づいているということだ。そして、COTEN RADIOの方々は、おそらくその誤解に気づいていない。

楊氏が紹介した学説を整理しよう。

・ゴッホは、自分は神やイエスであると思い込むようになっていた
・ヨハネの福音書に「自分の肉や血を食べて飲む者は永遠のいのちを持つ」というイエスの言葉がある
・自分の肉体をあげるというゴッホの行動は、人を救済する実践として、このようなイエスの言葉にあやかったものであると考えられる

聖書をしっかり読んだことのある人であれば、この時点で、これはトンデモな聖書の誤読だと気づけるはずだ。

楊氏が軽く紹介した言葉は、確かにヨハネの福音書にある。

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

ヨハネの福音書 6章 54節(聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会)

しかし、これは決してイエスが物理的に自分の肉体を食べさせ、血を飲ませるという意味ではない。
前後の文脈を読めば、それは明らかである。

少し長いが、前後の文脈を含めて見てみよう。

51: わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です」
52: それで、ユダヤ人たちは、「この人は、どうやって自分の肉を、私たちに与えて食べさせることができるのか」と互いに激しい議論を始めた。
53: イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
54: わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
55: わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。
56: わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。
57: 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
58: これは天から下って来たパンです。先祖が食べて、なお死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます
59: これが、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。
60: これを聞いて、弟子たちのうちの多くの者が言った。「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか」
61: しかしイエスは、弟子たちがこの話について、小声で文句を言っているのを知って、彼らに言われた。「わたしの話があなたがたをつまずかせるのか。
62: それなら、人の子がかつていたところに上るのを見たら、どうなるのか。
63: いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。
(中略)
66: こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった。

ヨハネの福音書 6章 52-66節(聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会)
※数字は節

これを読めばイエスが物理的に自分の肉体や血を誰かにあげたわけではないと分かるだろう。

63節で明らかなように、イエスが言った「いのち」は「霊」についてである。「肉は何の益ももたらさない」とハッキリ言っている。
「肉」はユダヤ人の表現で「肉体」のことを指す。それは何の益ももたらさないとハッキリ明言しているのだから、ゴッホの耳をあげるという行為につながるはずもない。

イエスが言った「肉」と「血」の真の意味は、「霊」の救済のために十字架で死ぬことを示しているのだ。

イエスの言葉は十字架での死の象徴を示すものである。
決して、自分の肉体を誰かにあげるという意味ではない。

また、これは旧約聖書に登場する、神が与えた不思議な食物「マナ」をなぞったものでもある。58節の「先祖が食べて、なお死んだようなもの」は「マナ」を指している(旧約聖書 出エジプト記 16章31節参照)。

イスラエルの先祖はマナを食べたが、彼らは肉体的に死んだ。しかし、マナはイエスが十字架で死ぬことのひな型であった。それは、神が一方的に人間に「いのち」を与えることの伏線だったのだ。

イエスの教えは、旧約聖書の理解を含んだ壮大なものだった。自分が十字架で死ぬことを象徴的に示したものだった。

しかし、ユダヤ人たちはその象徴性を理解できなかった。
52節で議論を始め、60節では「ひどい話だ」と酷評し、66節ではこの教えが原因で、多くの弟子がイエスを離れたとある。

彼らはイエスの教えを、まるでカニバリズムのように捉えてしまったのである。

COTEN RADIOが紹介した学説が正しければ、ゴッホはこのユダヤ人たちとまったく同じ勘違いをしている。イエスの教えの本来の意味を捉えることができずに、自分の肉体を物理的に献上するという、猟奇的で意味不明な行動に出てしまっている。

しかし、COTEN RADIOはこのゴッホの壮大な勘違いを指摘せず、まるでイエスが自身の肉体をあげたかのように紹介していた。これは、イエスが何をしたかについて、大きな誤解を招く説明だ。

旧約聖書の「マナ」の情報がないのは仕方がないのかもしれない。
しかし、せめて引用する箇所の前後を読んでいれば、ゴッホの理解は完全な勘違いであることが分かったはずだ。

聖書は一部だけを引用すると、大きな誤解を招く。

以前、楊氏は下記の「ジャンヌ・ダルク編」の6話の40:50過ぎで「聖書とかでも予言者(預言者)は純潔が条件になっている」と説明していたが、これも明らかな間違いだ。

聖書にはそのような記述は一切ない。
逆に聖書には既婚者の女予言者も、未亡人の女予言者も登場する(旧約聖書 士師記4章4節のデボラ。新約聖書 ルカの福音書2章36-38節のアナ、等)。

聖書をしっかり読めば、明らかな間違いと分かることを、堂々と語ってしまっている。

「聖書に書いてあること」と「当時のカトリック教が一般的に信じていたこと」は区別して語らなければいけない。

COTEN RADIOは、残念ながら聖書の内容を紹介する時に、前後の文脈を確認する努力を怠っているようにしか見えない。

特に「世界三大宗教」「性の歴史」「障害の歴史」「ジャンヌ・ダルク」そして今回の「ゴッホ」では、特にひどい誤解に基づいたキリスト教や聖書の内容の紹介があった。

いずれの間違いも、明らかに文脈から切り離した引用や紹介であり、聖書をしっかり読めば間違えなかったはずだ。

COTEN RADIOは、少なくとも毎回10万人以上が聞いているコンテンツだとうかがっている。それより多くの視聴者を持つキリスト教のチャンネルも発信者も存在しない。悔しいが、それが現実だ。

つまり、COTEN RADIOは、世界で最もキリスト教を日本語で語る力を持っているということになる。その番組が、聖書に書いていない間違った情報を多くの日本人に伝えてしまっている。私は、この状況をとても残念に思う。

少なくとも、聖書に書いてあることは正確に伝えてほしい。

しがないイチ牧仕からの、心からのお願いである。


4:自殺はキリスト教で「罪」と言い切る危うさ

ゴッホは自殺した。
事故死との説もあるが、自死したというのが定説だ。

楊氏は「自殺はキリスト教では罪」だから、ゴッホは教会で葬儀をしてもらえなかったと説明する。

32:02〜
楊「かわいそうなのが、彼は自殺者じゃないですか
樋口「うん」
楊「教会で葬儀してもらえないんです
樋口「うーん」
楊「基本的に、キリスト教では自殺は罪なので、してもらえないんですね、葬儀は。葬儀の一切はテオが仕切ったんです。で、パリやほかの場所からゴッホの友人が8人やってきて、慎ましい葬儀が行われました」
樋口「ふーん」

負けてたまるか!真っ暗な檻の向こう側にて 〜泥に撒いた愛の種〜
【53-4 COTEN RADIOショート ゴッホ編4】

キリスト教で自殺は罪だから、教会(教会堂)で葬儀をしてもらえない。

この説明は、やはり少し語弊がある。

キリスト教において、自殺が宗教的な「罪」であるかどうかは、議論が分かれるトピックだ。

楊氏が言うように罪と捉える人たちもいれば、そうでないという意見もある。プロテスタントでは、自殺はそれほどまでに追い込まれてしまう「病死」であるという考えも出てきている。ちなみに私は、ゆるやかにこの考えに賛同している。

ちなみに、カトリックも変化してきている。
カトリックでは、かつては自殺を「大罪」と定義していたが、近年は苦しみのゆえに自死した人の救いの到達を祈ったり、 葬儀や埋葬の権利があるとするなど、対応を変化させている。
↓参考

確かにゴッホが亡くなった1890年では、ほとんどのキリスト教会で自殺は罪だと考えられていただろう。

しかし、楊氏は、まるで現代のキリスト教においても「自殺は罪」と定義しているように説明していた。カトリックでさえも変化してきているのだから、「当時はそういう考え方が主流だった」など、表現を慎重にすべきだったと思う。

「かわいそう」という表現も、ラジオを聞いた人がキリスト教に対して否定的な感情を持つ手助けをしてしまっていると思う。

自殺はデリケートな話題なだけに、キリスト教がどのような立場を取っているのか、もう少し慎重に調べてから発言して欲しかった。

そもそも、キリスト教の考えでは、イエスが十字架の犠牲によって人の過去、現在、未来すべての罪を代わりに背負ったというのが基本的な考えだ。
であるならば、たとえ自殺が罪だとしても、葬儀を行わない、埋葬を行わない、教会から除名するといった対応は、間違っているといえる。

人は自分の行いで救いに到達することはできない。
救いは、ただイエスによる。

たとえ自殺が罪だとしても、その人が生前にイエスを信じていれば、その罪は既に十字架によって代価が支払われている。


おわりの提言

以上、COTEN RADIO「ゴッホ回」におけるキリスト教の説明で、語弊があった部分を紹介した。

まとめると、今回の "間違い" の大本の原因はゴッホ自身の勘違いにある。
彼の本心は今となっては誰も分からないが、おそらく彼は聖書の福音の根本を理解できていなかったように見受けられる。

COTEN RADIOの間違いは、ゴッホの勘違いを指摘できなかったところにある。彼の行為は「純粋なキリスト教」の動機ではなかった。「ただイエスによる救い」ではなく「自分の行いによる救い」を追い求めてしまっていた。

ゴッホの猟奇的な行動は、彼の間違った聖書理解によるものであった。
聖書をしっかり読めば、そのことに気づけるはずだ。

今回挙げた間違いは、キリスト教徒にとってはとても重要なものばかりだ。
この間違いを、COTEN RADIOは訂正しないのだろうか。


ここで私から提言がある。
放送したものはもとに戻せない。しかし、後から訂正を出すことはできる。

明らかな間違った発信があった場合は、後からまとめて訂正の情報を出していただけないだろうか。

ウェブサイトにちょこっと載せるだけでもいい。ブログに書くだけでもいい。

番組を聞いた人が後から参照できるような形で、間違えた部分を修正できるような情報をまとめていただけないだろうか。

このままだと、COTEN RADIOは、キリスト教について間違った情報を流し続けることになる。10万人以上がそれを聞き、間違ったキリスト教の理解を得てしまう。

そうなると、10万人以上が間違ったキリスト教像を通して世界を認知し、ゆがんだ宗教観を持ち、それゆえにゆがんだ世界観や認知を持ってしまうことにならないだろうか。

それでいいのだろうか。

COTENさんは、人文知との架け橋となることを社是としていると聞いている。その架け橋が、ゆがんだキリスト教像にかかってしまうことを、私は危惧している。

COTEN RADIOには、キリスト教の "専門家" である千葉遊大氏が関わっているはずだ。千葉さんは私も知っていて、信頼できるキリスト教信者であり、学者であると思う。

放送前にすべてをチェックするのは酷だろう。
しかし、放送したものを彼が聞けば、今回私が書いたような間違いにはすぐ気付けるはずだ。

もちろん、こういったことは私が口を出す権利がないのは百も承知だ。しかし、より正確なキリスト教理解のために、こういった指摘をしっかり受け止めて、訂正の情報を何らかの形で出して欲しいとも思う。

10万人のうち数人でも、正しい情報に触れて、より正確な理解を得るために。最後に、このことを提言して終わりにしたい。

これからも、COTEN RADIOの発信を、楽しみにしている。

(おわり)

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