
なぜ『対話』が重要なのか。
「対話すべきだ」
「分断を避けるべきだ」
昨今、このようなことがよく言われます。
多くの方が「確かにそうだなぁ」と思うでしょうし、「対話カフェをやってます」という人がいたら「優しそうだな」と感じるし、「◯◯は分断を煽っている!」という意見を聞いたら「それはけしからん!」と憤るでしょう。
でも一旦立ち止まって、
「なぜ対話が大事なんだろう」
「なぜ分断しちゃいけないんだろう」と考えたことはありますか?
なぜ大事か、説明できますか?
直感的に「対話は大事」「分断はダメ」と多くの人が思うのに、その理由を聞かれると、意外と「あれ、なんでだっけ?」となってしまうのではないでしょうか。
なぜ対話を大事だと思うのか。
なぜ分断がダメだと思うのか。
ちょっと考えてみたので、皆さんの思考のダシにでもしてもらえたらなと思います。

人間は必ず間違える
ミスを犯さない人間などいない。
これに異論の余地はないでしょう。
最近も、お笑い芸人の令和ロマン 高比良くるまさんがオンラインカジノをしていたというスキャンダルがありました。
令和ロマンくるまさんといえば、M-1の史上初二連覇だけでなく、慶應大学という学歴や、初の書籍『漫才過剰考察』がベストセラーになるなど、理知的なイメージを持っていた人が多いと思います。
テレビ番組であのちゃんとの子どもの顔を予想しよう! みたいなコーナーがあった時も「気持ち悪い、炎上しますよ」といった反応を示して「現代のコンプライアンスが分かっている!」と、知的なだけでなく現代の価値観ベースの気遣いや、人からどう見られるかの冷静さや感覚も持ち合わせているなどと、まるで完璧な人間かのように評価されていました。
それだけに今回のスキャンダルは、ダメージが大きかったと思います。
日本では賭博が違法行為であり、たとえCMをしていたり、安全そうなアプリで海外口座を経由しても、換金した瞬間に違法であることは当たり前の常識なわけで、「えっ、そんなことも知らなかったの?」と、彼のイメージとは正反対なスキャンダルだったからこそ、ショックを受けた方もいたのではないでしょうか。
ちなみに僕は令和ロマンのネットラジオの番組にハマっていて、アーカイブを毎晩聞いているぐらいファンだったので、正直このニュースはめちゃくちゃショックでした。
昨晩のケムリさん一人回も、めちゃくちゃおもしろかったです。
なぜこの話をしているのかというと、たとえ完璧のように見える人であっても、必ずどこから間違いを犯してしまうとということを言いたいのです。
違法行為はもちろんダメですが、何かダメなところがあったからといって、すべての活動を自粛しなければいけないのでしょうか。僕はそうは思いません。
現代は、人に完璧さを求めすぎです。
人間は本来、不完全な存在です。
僕はキリスト教の牧仕(牧師)です。
僕が信じる聖書の記述でも、人間の未熟さ、至らなさ、愚かさを何度も描写しています。「義人は一人もいない」(新約聖書 ローマ人への手紙 3章10節)と書かれている通り、神の前に完璧な人などいないのです。
人間が必ず間違えるからこそ、対話が大事になってくるのです。

対話で自分を知る
人間は間違えます。
しかも行動だけでなく、思考においても間違えます。
間違えるのは問題ではありません。みな間違えるからです。
問題なのは、間違いに気づかずにそのままにしておくことです。
人間は、自分の意見しか知らないと間違いに気づけません。
正しいと思わなければ意見を持たないからです。
意見を持っている時点で、ある程度それが正しいと思っていることになり、それがそのままバイアスとなるのです。
聖書には、そのように自分の間違いを悟らない人、聞いても実行に移さない人の愚かさをこのように描写しています。
みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです。
( 新約聖書 ヤコブの手紙 1章 23節)
「生まれつきの顔を鏡で眺める人」。
言い換えれば、自分しか見ない人のこと、心のベクトルが他者でなく自分だけに向いている人を指しています。
自分のことしか知らない人は、真に自分を知れません。
実は、自分を知る一番の方法は、自分の心を探ることではなく、他者の声に耳を傾けることなんです。
結婚が良い例です。
結婚すると、自分と違う人と一緒に人生を歩むことになります。
結婚は文明の衝突と言われます。それまでまったく異なる家族の中で、異なる家庭の文化で育ち、異なる価値観や当たり前の中で生きてきた2人が、突然ひとつになるのですから無理もありません。
僕も結婚してから、妻と様々な当たり前でぶつかりました。
名前の呼び方、朝食はパン食かごはん食か、タオルを洗う頻度まで、大小さまざまな『当たり前』同士の衝突があり、それがそのまま価値観の変容へとつながっていきました。
ケンカはたくさんしましたし、これからもするでしょう。
けれど、こうした衝突を通して、実は一番知ったのは妻のことではなく、自分のことでした。
「家族の名前は呼び捨てにしたい」
「朝飯には手作りの味噌汁が無いとイヤ」
「タオルはそこまで洗わなくても気にならない」
などなど……
妻とは違う『自分の当たり前』に、妻との衝突を通して気付かされていったのです。
ちなみに、今では味噌汁だけでなく食事は僕が作るようになりましたし、忙しい時はシリアルでも許容できるようになりました。妻が気になるだろうタイミングでタオルも洗うようになりました。これも価値観の変容のひとつだと思います。
しかし、僕が妻と対話をしていなかったら、この価値観の変容は起こらなかったでしょう。「朝、味噌汁を作らない妻なんてけしからん」という価値観で終わってしまっていたと思います。
自分の家族とは違う「当たり前」を、話し合うことを通して知り、自分とは違う考えを知ったからこそ、自分の当たり前に気づくことが出来たのです。
これが、価値観の変容につながっていくのです。

違う意見だからこそ聞く
これは思想に関しても同じです。
僕はイエス・キリストを信じる信仰者なので、聖書の記述に関しても一定の解釈、理解、価値観を持っています。現状、自分が一番正しいと思っている考え方が存在します。真理を探求しているのですから、「 "現状の" 自分の意見」を正しいと思うこと自体は、決して悪いことではないと思います。
しかし、自分の理解が100%絶対に正しいとは思っていません。聖書を読めば、明らかに人間に無謬性を認めることはできないからです。僕の解釈や理解は、必ずどこかで間違っています。そして、間違え続けます。
だからこそ、対話を諦めてはいけないと思っているのです。
自分と違う意見を聞くからこそ、自分が気づいていない誤りや当たり前に持っていた前提や基準に気づくことができるのです。
ですから、もし対話をするのであれば自分の考えとは違う人と対話をする方が価値があると、僕は思います。
同じような考え方の人と同調し合うのは楽しいです。
仲間ができるのは良いことですし、励ましになりますし、心強く、心地よくもあります。
でもそれだけだと、自分の本当の姿に気づくことはできません。
巷で「対話が大事」「分断はダメ」と言っている人のほとんどは、実は対話をしているように見えて、自分と考えが近い人とだけ話しているように思います。予定調和の対話ごっこに意味はほとんどありません。
お楽しみクラブや、傷のなめ合いに生産性はありません。そこからの発展も変容もなく、必ずある間違いを修正することもできません。何度も言いますが、本当に問題なのは、間違えることではなく、間違えたままでいることです。
僕は、聖書やキリスト教の勉強をする際は、自分と違う立場の人の本を積極的に読むようにしています。僕は「聖書は神の言葉として受け取る」立場です。しかし、勉強の時は逆に「聖書は人間が書いた書物」と捉える、自分とは異なる立場の人が書いた本も多く読んでいます。
僕は「福音派」や「ペンテコステ派」と呼ばれるグループに近い考えを持っている信者ではありますが、いわゆる「主流派」が書いた本の方がおもしろいと感じます。新しい視点がそこにあるからです。
違う意見には、必ず自分が通っていない背景や事情、経緯があります。背景や事情、経緯を知ると同意はできなくとも、意外と納得はできてしまうものです。必ずしも同じ結論には達しなくとも、その人がそういう意見を持っている事実は受け入れることはできる。それを理解し合うことが「対話」なのだと思います。背景や理由を知る対話を繰り返すことで自分を相対化し、時に誤りに気づくことができるのです。
その意味で、僕は異なる宗教間の対話や、同じ「キリスト教系」であっても異なる立場の方との対話を好みます。新しい情報や自分が知らない世界を知れるからです。
「対話」の重要性はここにあります。
自分を相対化し、誤りに気づいたら修正し、時に価値観を変容させていく。
こうして絶対的な神の正しさに近づいていく。
神を信じていない方々にとっても、この基本は変わらないと思います。

間違いに気づいたら修正しなきゃ
僕は、間違っていると思うものを批判します。
それは、現状の考えでは間違っていると思っているからです。正しい方がいいですし、それを追求しなきゃウソです。
でも、僕が間違っていると思っていたものが、実は正しかったということがありえます。それは人間が必ず間違える以上、必ず起こることです。学問において先行研究が覆され続けているのはこれが理由です。
正しさを追求し続けた結果、間違いが判明したら修正する。
これが人間が持たなければいけない姿勢ではないでしょうか。
現代は、間違えてはいけないというプレッシャーが大きすぎます。間違えていいんです。間違えないなんてことは誰にもできません。完璧に見える人は誤魔化しているだけか、完璧ではない部分に気づいていないだけです。虚像です。
大切なのは間違いに気づいた時に素直に修正することです。
必要があれば、謝ることも必要です。キリスト教業界の指導者は、なかなか謝らない傾向があり、僕は以前こんな動画も作りました。
もし対話を通して自分の間違いに気づいているのに、修正しないとしたら、その人が優先しているのは「本当の正しさ」ではなく「自分が正しくあること」です。
「自分の意見の正しさを主張」するのは問題ではありません。
「自分が正しい側であることを維持しようとする」ことが問題なのです。
多くの人が間違えることを恥だと感じています。違います。
間違いに気づいているのに、それに気づかないフリをして間違え続けることが本当の恥なのです。心の気づきにフタをするのが問題なのです。
間違えてはいけないという圧力が強い現代において、自分が間違っていると認めるのは勇気が要ることです。間違いを認めたくないあまり防御的になり、他者の意見に耳を傾けようとしない傾向が、最近はますます強くなっているように思います。
これが『分断』の正体です。
分断とは、異なる意見が出ることではありません。
極端な意見が出ることでもありません。
異なる意見を批判することでもありません。
異なる意見に耳を傾けなくなること、対話に応じようとしないこと、自分と同じような意見だけを受け入れ、自分とは違う意見を持つ人と関わらないこと。これが分断です。
アイツはこういう奴だから。議論で勝ち負けを決めようとしているから。原理主義者とは話し合いにならないから。そうやって相手と話す前から相手の姿勢を決めつけて、実際には話し合おうとしない。これこそが分断です。
「そんな人とは話す気にはなれない」という言葉を隠れ蓑に、みな「自分が傷つかないように」自己防衛をしているのが実際のところだと思います。心のベクトルが他者ではなく、自分だけに向いているのです。自分だけに心のベクトルが向いていて、他者に関心がないので、自分と異なる意見に耳を貸すことが怖いのです。だから対話に応じないのです。
当然ながら、「耳を貸す」ことは、必ず異なる意見に同調するという意味ではありません。意見を聞いて、根拠を確かめて、その上で同意できないことは普通にあり得ます。「他の人がそう思っているから」というふざけた理由で納得できない意見に変容してしまったら、それこそ滑稽です。真理を追求しているのですから、やたらめったら意見が変わるのもおかしい話ですよね。
意見や価値観の変容は、あくまで納得や実感の上で起こっていくことです。
人はよく、他者が自分と異なる意見を持っていると「自分の人格を否定された」と思ってしまいます。異なる意見を持つことは、人格の否定ではありません。ただ異なる結論を持っているだけです。
異なる結論を持つ人と、互いの違いを尊重し合い、友人となることはできます。同じ意見を持たなければ友達になれないというのはウソです。
僕は、違う意見の人だからこそ対話をしたいと思います。

本当の自己防衛は対話すること
残念ながら実際には多くの人が自分と似たような意見にしか耳を傾けません。自分が間違っている可能性を吟味せず、反論には耳をふさぎます。僕は多くの方に対談、対話を呼びかけていますが、ほとんどの方が応じません。
それが僕には理解ができないのです。
そんなに自分の意見に100%の自信があるんでしょうか。でも、自信があるならなぜ反論に再反論しないのでしょうか。自信があれば反論できるはずですし、自信がないのであれば反論に耳を傾けた方が良いと思います。
もし、間違っている可能性があるのに反論に耳を傾けないのであれば、繰り返しになりますが、それは「本当の正しさ」ではなく、「自分が正しくあること」を優先してしまっているのではないでしょうか。
おそらく多くの人が、自分の心の矛盾や、自分の意見の中の脆弱な部分に深層心理では気づいているのだと思います。でも、それを認めてしまったら自分がゆらいでしまう。ゆらいでしまうから、その指摘を無視せざるを得ない。そうして正しさよりも、自分の正しさを守る方を選択している……そんなところではないかなぁと想像します。みな、自分を守る鎧を着ているのです。
でもその鎧は、寒さをしのげない鎧なんです。
凍え死なない為には、抱き合って温め合うしかないんです。
中島みゆきの「ハリネズミだって恋をする」の歌詞にある通りです。
対話を拒否する姿勢のままでは、人は滅びるだけです。
真理から逸れて、間違え続けてしまいます。
もしかすると、対話を拒否する理由について僕が考察していることは的外れかもしれません。これこそレッテル貼りだというご批判もあるでしょう。確かに対話は実現していないので、これは僕の勝手な想像にすぎません。
"現状" 僕はそう思っていますが、対話を拒否している方がやっぱり対話に応じてくれ「それは違うよ。これこれこういう理由だよ」と教えてくれたら、理解が深まるかと思います。互いの理解が深まれば、お互いに適切な対話のやり方や、意見の発信の方法、距離感などが模索できます。こうすれば、本当に自分たちが傷つかない方法を、一緒に模索できるのではないでしょうか。
本当の自己防衛は、自分と違う意見と出会うことです。
対話することです。
本当の正しさと出会う為に。
自分の過ちを知る為に。
自分を知り、そして相手を知る為に。
何よりも、真の神に、イエス・キリストに、聖霊に出会う為に。
だからこそ対話が重要なんじゃないかなぁと思います。
対話しましょう!!!
それが僕の結論です。
最後に宣伝します!
僕が運営する完全オンラインのプロテスタント教会『クラウドチャーチ』では、Zoomで『対話型』の集会を行っています。
一般的な牧師とは違い、僕が一方的に語るのではなく聖書を読んでお互いに語り合う『相互的なやり取り』で聖書を味わっています。
異なる意見ウェルカムの集会ですので、信者でない方でも大歓迎です。
ご興味のある方はぜひ!
クラウドチャーチの小林拓馬でした!
おわり!
対話型の『まったり聖書ラボ』もどうぞ!