代役はいない
小学校…中学校…人生の中で勉学の学びだけではなく人としての関わり方が難しくなっていく年頃である…
不安に不安を重ねてしまっていたのだと思う…あの頃…
そう思うのは私がシングルマザーで女の子と男の子の2児の母、現在も進行形での生活をしているからである。
現在までで1人でやりきるには困難にぶち当たりながらも2人の支えがあったから
これから書くのは今日に至るまでの中での忘れることの無い困難な出来事である。
他人同士が巡り会い…お互いこの人しかいない
運命…。
互いになんでも受け止めてくれて…(良きも悪くも丸ごとひっくるめて)
近い存在…そう思って…いたけれど
実際は、、、、、。
いつ歯車が狂ってしまったのか…すれ違ってしまったのか…一度すれ違ってしまったものは…。
誂えたものを合わせるって簡単な事ではなく少しずつ互いの心が船出を見送るように遠くに去っていった
一度決めた決心、腹をくくった決心というのは勢いと、この先の未来に出来ないことは無い!!気持ちだけは人一倍強かった
離婚してまもなく、そんな私に予期せぬ事が何度か起きた…
父が生前の頃である、実家の母が、ある日突然、自営の飲食店の仕事で電卓での計算が何度たたいても計算出来ない…父は、そんな母の状況に母の身体で危険な状況に陥っていると察知した…それは夜の出来事だった…。
私がそれを知ったのは翌日、当時デパ地下へ勤務の私が仕事をしていると昼前に仕事場へ父から連絡が入った。。私は仕事に穴を開けては…と上司に伝えたら「仕事場の事は良いから直ぐに帰宅してあげてください」と…。職場のスタッフの心遣いに私は帰宅した…。
帰宅すると、母は頭が痛いと…訴え、ベッドの中でいつもの母とは違う無表情の母がいた。いつもと違うのが直ぐに分かった。
母へ病院に行く様に、父と私で説得したのだが行かない!の一点張り…。ようやく…行くと行ったのは夕方遅く、けれど近くの、かかりつけの内科の先生のところなら行くと行っては見たものの、先生は内科で専門医では無いと分からないと…。(待合室で待つ間、隣に座る小さなお子さんが居た、元気な母ならば声かけて怪したりするのに表情1つ変える事は無かった、真顔というのか、目線も…)
かかりつけの病院から帰宅しパソコンを開けすぐさま脳外科系の救急病院を私は探した。MRI と CTが撮れる病院(いつも常に技師がいる病院でないと撮れないし分からない)…何よりもオペの事例など詳細が開示されている…。自宅から近い場所で探すとヒットする病院が1つだけあった。救急病院へ直ぐに連絡した。病院は紹介が無くても大丈夫なので直ぐに来てくださいと仰ってくれた。それから母を説得したのだが、母は「うん!」と頷いてくれなかった。1回(病院へ行ったから)診せたから行かない…。妹が説得し続けた…。泣きじゃくりながら何度も何度も…。母はようやく病院へ行く気持ちになった…(妹の説得のかいがあった)
母の状況は病院へ行って直ぐに緊急入院となった
母は私たちの出産以外に入院の経験はなく、「入院したくない!!」と伝えたが、直ぐに迎えに来るからと伝えた
CT…MRI...母は検査に直ぐ入った
検査後に主治医からの母の状態について説明された。脳梗塞…右脳は全く機能されていない(死んでいる)状況だと伝えられた…ストレートに死んでいると言われたショックでコトバが出なかった。
家族、父をはじめ絶望的な気持ちになった…頭の中が真っ白になるというが真っ白というよりも…何もしてあげれない無力さ時間、全てを停止してしまった状況だった…。その後、母はカテーテル…最速1ヶ月しない入院…。
母が入院して間もなく…
私に深夜、激痛が走った…
痛みで、のたうち回るというが、そんな状況だった…。妊娠2回の経験、ある程度の痛みに我慢は出来たが、我慢に我慢したがとうとう限界に達したのは深夜2時近くだった…陣痛に似ている鈍痛…だった
子供たちが翌朝、学校だと言うのに、、、私は保険証とお財布など必要なものを用意して救急車を呼んだ。川の字で寝ている子供たちをそのままにして、私は救急車を呼び1人救急搬送された…
病院に着き、、、応急措置…痛み止めで痛みをとめた
エコーで背中に2ミリの石が2つあるのが見つかった
診断は「尿管結石」
痛みは深夜2時に搬送され翌日まで続いた…
朝6時過ぎ、携帯電話が鳴った…当時、小学生の息子からであった。「お母さんどこ??」「病院…。腰が痛くて救急車呼んで、痛みが無くなったら帰るから朝食食べて学校気をつけて行ってね…お姉ちゃんにも伝えて…」
子供からの1本の携帯が痛みを少し和らげた…
「チクショー負けてらんないクッソー」心の中でそう叫んだ
痛みが十分治まらないまま、救急病院だった為、タクシーで午後に帰宅した
父は母に続いて私が救急搬送、帰宅し、かなりショックだった様だった
母は退院しリハビリ(失語症)通院。
この時、父も病魔が襲っていた…。
父は肺の疾患で通院していました。付き添いは母に代わって実家へ私が戻ってからは私が付き添いをしていて、毎月の親子で向き合える時間として私は楽しみでもありました。(高校から結婚前まで衝突ばかりしていた私と父でしたから…)
病魔
父本人は分かっていて家族にハッキリと伝える事はありませんでした。母が退院し、ある日の夕飯時に父が吐血するのを私は見てしまいました…
父は私に口止めしました…「黙ってろ」私の中で辛く衝撃が入り交じりました。
その年の大晦日…
いつもならば 家の家督である父が大晦日の晩に晦日祓いをするのですが、父は母にお願いすると、ベッドに寝たままでした。翌年の1月7日過ぎに入院30日に父は病院で息を引き取りました
どんな人も
役者は代役ができても 生きてる私たち1人1人代役はいない
生命は尊く、、儚いもの
(人生泣いても笑っても現在だけ1回だけである)
日々、丁寧に温かい心でありたい
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