全体⇄事象
諸事象によって全体が形成されるという事情は理解し易い。ところで,逆はどうかを本頁では考える。
ここで「諸事象によって全体が形成される」とは,つまり <Fa1,Ga1>,<Fa2,Ga2>,<Fa3,Ga3>,…,<Fan,Gan> というような関係をそれぞれ持った a1~an の n 個の個体から普遍関係 ∀x(Fx→Gx)(或は ∀x(Gx→Fx) )を導くような事態(いわゆる帰納法)を言っているが,この逆とはその普遍関係に矛盾する事象 <Fan’,¬Gan’>(或は <¬Fan’,Gan’>)の錯覚(或は幻覚)を普遍関係の側から導くということである。
つまり,前者は「事象が全体(普遍関係)の正誤を判定することがある」と換言できるのに対して,後者は「全体が事象の正誤を判定することがある」と換言できる(この事態はより精確に言うことができる。ある <Fan,Gan> が反例であるときに,この錯覚化の対象はいずれか一方のみとなる。* たとえば,Gan が確保されるときには Fan のみがその対象となる)。
ところで,次の具体例を考えると見易いように,いずれも正しいことだろう。たとえば我々が「コーヒーの入ったカップ** を逆さにすれば,そのコーヒーはこぼれる」という普遍関係を共有しようとするときに,「コーヒーの入った(ある一つの)カップを逆さにしたのに、それはこぼれなかった」という先の普遍関係に矛盾抵触する事象が「(今となっては確認できないが)あれはコーヒーが入っていなかったのではないのか」…①「あれは実はこぼれていたことに気付かなかったのではないのか」…② 或は,「この一連の事態が夢ではなかったか」…③ などと疑義を強めるようなことはかなりありそうではないか。このような疑義は,その普遍関係の信用度が高いほど強まると思われる。
全体は事象によって一方的に錬磨されゆくだけのものではなく,事象もまた全体によって選定を受けるのである。
この全体⇄事象の相補的関係が,我々の信念体系をより機能的に整序するのであろう。
*「錯覚化[…]のみとなりうる」ではなく「錯覚化[…]のみとなる」と書いているのは,その対象について,個体存在それ自体が否定されるような事態を幻覚(化)と,個体にまつわる部分的事象が否定されるような事態を錯覚(化)と,それぞれ呼び分けることにしたいからである。本頁の具体例にしたがえば,① と ② の疑念が錯覚に対応するし,③ の疑念は幻覚に対応している。
ところで,錯覚に対応する例について次の区別を考える意味は薄いであろうことに注意をしたい。すなわち,① および ② の疑念はアブダクティブな錯覚化を惹起しうるし,③ の疑念はディダクティブな錯覚化を惹起しうるのである,というような区別である。というのも,いずれも ∀x(Fx→Gx) という関係に対して Fa∧¬Ga というなんらかの反例(個体)を問題とするのであり,つまり「前件を確信して後件を(ディダクティブに)錯覚化するのか,あるいは後件を確信して前件を(アブダクティブに)錯覚化するのかの区別は ∀x(Fx→Gx) という論理が ∀x(¬Gx→¬Fx) と同値であることを思い出せばとくに必要のないことは見易い。
** 本例でそれは,「うえにラップのしてあるカップ」など特殊なものではない。単純な状況として考えていただきたい。