浄土るるの「鬼」を読んで思ったこと
これ。
今更ながらに振り返るが、浄土るるの「鬼」を読んだ時、「世界がこの程度である事を知らない人は、これを読むとすごくショッキングな体験を得るのだな」と思った。
この作品の何がゴミかというと、この作品に相対した人間はその場でゴミクズになることを強いられるというところだ。
これを読んで世界はもっと優しいのに思った。あなたはゴミ。
これを読んで今更過ぎて何も思わなかった。あなたはゴミ。
これを読んで義憤に駆られた。あなたはゴミ。
ゴミ。そこにはゴミしかいない。これを読んで、どんな感想を抱こうが、それはゴミの感想なのである。人間とは本質的にゴミであり、ゴミ以外の何かでは決して無い。この作品はその事実を簡潔に語っている。
私はこの漫画の登場人物の中で、母が好きだ。彼女は娘に「テメコラ」という。「生まれてきてごめんなさいと言え」という。「三回言え」という。彼女は徹底して完全な冷徹さを我々に提供する。その一貫した姿勢は「人間」ではなく「キャラクター」のそれと言える。
次に主人公の小豆ちゃんも「キャラクター」である。彼女は徹底して健気さ、いじらしさを我々に語る。我々は彼女に救われてほしいと強く願う。それはキャラクターの歩む最も正しい道。その先にあるのがただの肥溜めであったとしても。
対して、表紙にもなっている渡辺くんというのは完全な「人間」である。人間というのはフラフラしていて、言うことがコロコロ変わり、ポリシーと言ったものはなく、一瞬、切り取られた美しさの間にあるのは生々しい気持ち悪さのみという、なんともみずぼらしい存在。
ミロのヴィーナスがなぜ美しいのかと言うと、あれが人間の美しい瞬間と部分を完璧に切り取ることに成功しているから。
人間を語る以上、そこに醜さは必ずついてまわる。だから魅力的なキャラクターという手法が存在する。「人間」というのはまごうことなきゴミである。「鬼」とは「人間」である。渡辺くんのことではない。誰でもわかる。きっとあれを読んだ誰もが、「鬼」って「人間」のことなんだ、と理解する。あの作品が人間に提供するのは真実である。真実が人を絶望させることがあっても、人を救うことは絶対にない。真実は娯楽たり得ない。浄土るるは明らかに、世界に悪意をばらまかんとしている。
私もそれになりたい。