苦しんで書く東方二次創作小説その1:客観的な目線がないからお前の作品はつまらない
・前提
筆者は筆者とする。
読者はお前とする。
お前の書いた作品はつまらないものとする。
・「苦しんで書く」とは
本記事では苦しんで東方二次創作小説を面白く書く努力の方法を列挙する。何故苦しんで書く必要があるのか。それはお前の書いた作品がつまらないから。もしお前が自分の作品は面白いと思っているならばこんなタイトルの記事は読まない。よってお前の書いた作品はまぎれもなくつまらないのである。
筆者は才能信奉者だ。世の中には天才と凡才が居ると信じているし、天才は凡才に何をしたところで叶うべくもないと思っている。しかしながら、天才に敵わないことは凡才が努力しない理由には値しないとも信じている。よって、ここにもがき苦しむことによって少しずつ作品を面白くする方法を書く。
・物語の面白さはキャラクターと感情の面白さ
ほぼすべての魅力的な物語は魅力的なキャラクターと魅力的な感情からなる。とはいえ、二次創作小説を書くにあたって、お前は必須の努力を半分免除されている。それは当然「魅力的なキャラクター」の部分である。
お前が一次創作でなく二次創作をするに至った理由は「そのキャラクター、あるいはその作品を深く愛していることによるもの」であると筆者は信じることにする。そうである以上、お前はそのキャラクターがいかに魅力的であるかを完璧に理解しているし、それを書けば面白い作品となるはずだ。実にかんたんな話だ。
にもかかわらず不思議なことに、お前の作品は微塵も面白くない。なぜか。それは「客観的な目線」というものが全く欠けているからに他ならない。
・「客観的な目線」とは
本記事において「客観的な目線」というのは「誰の目から見ても公平な目線」のことではなく、「読者のお前から見た目線」のこととする。大抵の人間は書いている時の目線と読んでいる時の目線が同一でない。読んでいる時に「つまらない」とわかることでも、書いているときにはわからない。
つまり、「読者のお前」が本当に面白いと思うことが書けた時、はじめて作品は面白くなる。しかしお前の眼は曇っている。書いている時のお前は全く盲目そのものと言える。
書いている時に「客観的な目線」を持てるかどうかということが、作品を面白くするほとんどの割合を占める重要事項と筆者は信じる。
それを持つに至るもっとも簡単な方法は一度寝てしまうことである。これは絶対に守るべきことだが、すべての作品は絶対に一日で完成させてはならない。時間は客観的な目線を育んでくれる。次の日、よく休んだお前の眼でもう一度書いたものを直視して、それが面白いか考えたほうがよい。
信じがたいことだが、書けたものを読み返すこともせずネットの海に放流するものがいる。それで面白ければよいのだが、大抵はつまらず、しかもそういう輩ほど何故かパッと書けたものであることを自慢したがる。
読み返しすらしないのは、もう客観的な目線どうこう以前の愚の骨頂としか言いようがない。お前に少しでも凡才の自覚があるなら、絶対に穴が空くほど読み返すことをおすすめする。
もう一つ、着実に客観的な目線を育んでいく方法がある。これについては近道はないし一歩一歩進んでいくしかないと筆者は考えているが、その方法は「本当に本気で他人の作品を読んで、本気でそれについて向き合う」ことだ。
もしお前が他人の作品を本気で読んでいる人間に向かって「そこまでマジにならなくても」「所詮作り話なんだから」と思うなら、物語の摂取などやめて、もっと別の、何か自分が馬鹿にしていない分野などに打ち込んだほうがよい。そのほうが向いている。他人の作品を本気で楽しめない人間が、自分の作品を本気で書けるだろうか?
「真剣な読書体験」ほど書き手を成長させるものはない。楽しければ楽しみ、怒りたければ怒り、泣きたければ泣いて、その感情がどこから来てるのか徹底的に言語化の努力をすることだ。
言語化のレベルが上がれば上がるほど、自分の作品にもそれを適用することができるようになる。言語化ができたということは、その作品の何が面白いのか、なんとなくではなく理屈できちんと理解ができたということだからだ。
・イデアとそれ以外のすべてについて
客観的な目線ということでもう一つ、二次創作という特殊な場においてこそ重要なものがある。「イデアとそれ以外のすべてについて」だ。本記事において「イデア」というのは「一人キャラクターを浮かべた時、万人が思い浮かべる最低限の情報」とする。例えばルーミアなら「妖怪で大抵は人食い属性」「闇を操る」「金髪で黒い格好をしている」程度だろうか。
何が言いたいかというと、「イデア」以外のすべてはお前が書ききらなければならないということだ。お前がそのキャラクターの何に魅力を感じているのかは知らないが、その魅力は大抵、万人が共通して認識しているものではないということを自覚せねばならない。
特に、東方Projectにおいてはそれが顕著である。お前がそのキャラクターについて魅力的なシーンを書いたとしよう。それがつまらない理由は、「そのシーンのみを書いて他の何も読者へ提供していない」からだ。
客観性の欠如とはこういうものを指す。お前がそのキャラクターの魅力を十分に理解しているばかりに、他人にもその知識量(というか、お前一人が勝手に持っているに過ぎない「解釈」とでも言うべきものである)を前提として強要する結果になってしまう。
突然、霊夢と萃香の別れのシーンのみを切り取った「作品と言い張っているだけのなにか」を読まされた読者の感情、それはただ困惑である。お前が「霊夢と萃香は神社で一緒に暮らしている」という知識を持っていて、霊夢と萃香の別れのシーンの持つエモーショナルさを読者に十全に理解させたいと思うならば、まず「霊夢と萃香は神社で一緒に暮らしており、そのさまは本当に仲睦まじく、別れることになるというならそれはとても悲しいものになるだろう」ことを先に理解させなければならない。
物語とは読者を感情移入させる作業である。本記事において「感情移入」とは「特定のキャラクターと読者の物語上の目的が一致すること」とする。物語上の目的とは、必ずしも物語の中で達成されなくともよい。大事なのは「キャラクターと読者の思いが一つ」となり、それが成功したり失敗したりすることで、読者の感情が動く(≒楽しませられる)ということだ。
今回で言えば、目標は「霊夢と萃香はずっと一緒に暮らす」ことが二人の目標であり、お前が読者にそう思わせるべきことである。その結果、それは失敗に終わり、その時二人と読者は悲しみの渦に沈むことになる。それが最高に素晴らしいことであり、お前がなすべきことなのである。
これまでさんざん読者と書いたが、読者とはお前のことと自覚されたい。第三者的な読者のことなどはっきりいってどうでもよい。ただ、一番はじめに何の解釈の知識もなくお前がそれを読んだ時、面白いと思えるかどうかということだ。それが客観的な目線、読者のお前から見た目線ということである。
・うしろがき
そもそも趣味で書いている以上、第三者にウケる必要は必ずしもない。なぜならそれが主目的ではないから。しかし、書いて世に出す以上第三者にウケたい、その心持ちは両立するはずだ。
そうであるなら、「読者のお前から見た目線」で最高に面白いものを書くことこそが、己の内から湧き上がる「本当の満足」につながり、また、それによって他人をも満足させることができるのだ。
そして、他人から供給された満足は必ず消耗され消え失せるということを覚えて置かなければならない。もちろんそれ自体は食料と同じで必要なものだが、自分を本当に満足させるものは自分しか居ないのであり、そのためには「読者のお前から見た目線」を一歩一歩着実に育み、その眼鏡に適う素晴らしいものを書き上げる腕を磨くことしかないと筆者は固く信じる。目より先に手が肥えることは決してないのだ。いつかお前の本気を食らうことで、筆者もさらに客観性に磨きをかけられることに期待したい。
なお、本記事は今日一日で書き上げ、読み返しもしてないので客観性は損なわれていることに十分留意されたい。
以上
・宣伝
身を粉にしてこのような記事を書いたので、当然宣伝をするべきだと筆者は感じる。くろはすみの東方二次創作小説はお前がこれから死ぬまで永遠におこなっていく「本気の読書」に十分耐えうる強度があると確信している。
一口サイズのものからがよければ「複製丸」がよい。
少しくらいボリュームがあっても大丈夫なら「小傘がぬえに矢尻を作ってあげる話」「姉観」などがとてもよい。
お前の本気の言語化を心待ちにしている。