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映画「尾崎豊を探して」を観て改めて感じたこと

最近知ったんだけど、尾崎豊の映画が上映されていて、今、ちょうど全国公開期間中で、港北ニュータウンのイオンシネマに今日観に行ってきた。尾崎豊の映画を男一人で観に行くなんてキモいんだけど、未だに尾崎豊のことはもっと知りたいと思う。

僕が尾崎豊を聴き始めたきっかけ

僕が尾崎豊を聴き始めたのは、彼が亡くなって大分経ってからだった。もちろん、「I Love You」とか「15の夜」とか「卒業」とかは知ってたけど、確か、ミスチルがカバーしていた「僕が僕であるために」をYouTubeで観てからだった気がする。

尾崎豊本人のライブ映像はこれ。

この曲を聴いて、僕は尾崎豊のことを誤解してたと思ったし、この曲に尾崎豊の全てがあると感じた。

そして、何故この時期なのか分からないけど、2012年にこんなブログ記事を書いている。尾崎豊のインタビューとか本とか記事とかほとんど聞いたり見たりしてない状態で、あくまで僕の雑感として書いた。

今回、映画「尾崎豊を探して」を観て、僕の尾崎豊のイメージは結構正しかったなと思ったと同時に、新たに感じたことをいくつか書こうと思う。

今の若い世代でも尾崎豊に共感できる人はいる

これはネタバレになってしまうけど、この映画は最初に渋谷の若者への尾崎豊に関するあるあるなインタビューから始まる。そして、最後も別の若者へのインタビューで終わるんだけど、尾崎豊の足跡を辿ったりするくらい尾崎豊に共感した若者だった。この事実に個人的にすごく希望が持てた。

社会の枠にはめられることを嫌い、嫌なやつで通した学生時代

尾崎さんは自分で言ってたみたいだけど、子供のころや学生時代はとにかく嫌なやつで、本当のことを話せる人なんて誰一人いなかったと。もしかしたら、ミュージシャンとしてデビューしなかったら、生涯「嫌なやつ」で本当のことを誰にも話すことなく生涯を閉じたかもしれない。

僕は勝手に尾崎さんの感じてたことがシンクロする部分が多いと感じていて、僕も度合いは違うとはいえ、嫌なやつ本当のことを話せるひとはいないなと。僕みたいな中途半端な人間は、リアルにそのままで生涯を終える可能性が高い。恐らく他にも同じように生き方とか他人との接し方が不器用な人は沢山いると思うんだけど、そういう人たちでも生きやすい世の中はあり得るのだろうか?

日本の常識は必ずしも世界の常識ではない

映画の中で、尾崎さんがガチのナルシストなカメラ目線でクサそうなこと語りかける場面が沢山出てくる。今の日本ではバカにされたりネタにされたりするレベルのナルシストさ。でも、本当にそれってバカにしたりネタにする必要はあるかな?

僕がアメリカのポートランドに3年半住んだ経験から、アメリカ人の多くはナルシストで、それが原因でバカにされたりネタにされることは、無くはないけど、日本のような空気感は皆無と言っていいと思う。ナルシストなことは人間として自然な表現であり、逆にそれをバカにしたりネタにするのはとても不自然なことなんだと思う。現に、アメリカ人は笑っちゃいそうになるくらいのナルシスト的な仕草をするんだけど、逆に、そうすることが出来るのは幸せなことだと思うし、アメリカ人ならそういう自由や権利は当然過ぎることだと考えもしないことなんだと思う。

ブログやSNSでの自分語りについても言えることで、自分語りがネガティブに捉えられる空気があるとしたら、それもほんとに不自然なことだと思う。多分、アメリカ人にとっては何がいけないのか意味不明なくらいかもしれない。

そんなことを考えながら観てた。

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