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【読書記録】すきまのおともだちたち


本棚にあった「すきまのおともだちたち」を、久しぶりに読んだ。
この本は、小説だと思うのだが、こみねゆらさんによる、かわいらしい絵がふんだんに挟み込まれており、お話が章で区切られていないので、長い長い絵本のように感じる。

この本のお話しは、新聞記者である「私」が仕事で訪れた街で道に迷い、そこで「おんなのこ」と「お皿」に出会い、客としてもてなされるうちに友情で結ばれていく話しだ。
しかし、お気づきの様にその世界は「お皿」が擬人化して存在する様な、一種のパラレルワールドなのだ。
このパラレルワールドには、決して自分の意思で行ったり来たりすることはできず、きっかけも原因も不明。主人公の「私」も読者である「私」も、まるでするりと「すきま」に落ちたかのように、その世界へと足を踏み入れている。
文中でも世界を行き来する時に段落が変わったりすることはなく、文章の中でごく自然に、グラデーションのように別の世界の場面へと変わる。
なかなかに粋なつくりなのだ。

「すきまにおちる」と言うと、その原因や意味を探したくなってしまうもので、例えば「人生におけるすき間」ではないかと仮説を立ててみたりする。職を失ったとか家族とうまくいかないとか、失恋したとか…。しかし、主人公の「私」が「すきまにおちる」のはいつだって幸福な時なのだ。仕事が順調だったり、家族と穏やかな時間を過ごしている時だったり。だからその意味や原因が見つからないようにできているところがまた、好きなところだ。余計なことは考えず、物語として楽しんで、と言われているようで。
ひとつ共通しているのは、すきまにおちる時は予兆なく実は体調が少し悪い時のようだ。暑すぎて目眩がしたり、熱が下がった後だったり。
そして後半にこんな言葉が出てくる「この場所に来るのはー帰るのもー、ふいにすき間に落ちるようなことです。」
すき間に落ちた時にだけ会える友達、だから「すきまのおともだちたち」。
私も今、人生最大の体調不良におちいっている。
仕事に行くこともできず、家で過ごすしかないため、本棚にあったこの本を手にとった。読者の私にとっても、まさにすき間に落ちた時に出会う、友達の様な本である。

ここからは、この本の中の好きな言葉について書いていこうと思う。

①お皿が自分の身の上話しをしている時の言葉
「私たちをほんとうにしばるのは、苦痛や災難や戸棚ではないのよ。幸福な思い出なの。それに気づいたとき、私はとびだす決心をした。やってみれば簡単なことだった」
この言葉には目から鱗であると同時に確かになあと頷かずにはいられなかった。
私は結構思い出を集めて捨てられないタイプだ。
写真や日記などの物もそうだけど、もっと気持ちの問題。
過去にこだわらず、もっと今に生きることができたら、どんなに身軽で自由だろうと思う。
このお皿の言葉は肝に銘じておきたい。

②ある朝、女の子が話したこと
「過去の思い出があったら、どんなにすてきだろうって」
「つまり、過去の思い出っていうのは、なくなってしまったものの思い出なの。お皿にとっての、あの古いお邸の思い出みたいにね。だって、彼女はそこでの幸福な生活をなくして、それはほんとうにつらいことだったと思うけど、かわりに思い出を手に入れたんだもの」
この「すきま」の世界では、女の子は初めから両親のいない女の子として存在していて、どれだけ時間が経っても女の子は女の子のままで、女の子の生活は今のところ全てが普遍のようだ。
現実世界ではどうしたって思い出というものは増えるけど、なるほど「思い出」というものがないという感覚はそういうものか、と思った。
すると、時に窮屈であっても「思い出」というものを持っていることは誇れるに値する。

③お皿が割れてしまい、糊でくっつけて元に戻した後に女の子が言った言葉
「すこしずつ、変化するわ。くっつけても跡は残るし、ときどき欠片がみつからなくなる。だから捨てられちゃうお皿もある。捨てられずに傷が残ることは、お皿に言わせると愛されたしるし、お皿の名誉なんですって」
なんて愛にあふれた言葉でしょうか。
物も他人も自分も、このように大切にしていきたいと思う。

④街を歩いていて「ここは変わらないわね」という私に対して女の子が言う言葉
「世界だもの。世界は確固たるものでなきゃあ」
そして主人公の「私」はこう思います。
(確固たる世界に、足にぴったりの靴をはいて立っていることの安心と幸福!)
そうです。
どこかで感じたことのあるこの感覚。
世界はまるで不安定で、普遍ではないと気づくその前。
世界は確固たるもので、安心と幸福の中にいました。
そして姿形が変わっても、私たちの中に「女の子」はずっと存在し続けるのです。
するりとすき間に落ちた時にふと顔を覗かせる「女の子」が。
そしてふいに、確固たる幸福と安心の中に包んでくれます。
「女の子」の感覚は大切です。

⑤「寒村」で出会った男の子が日々寒村になってく村について語った言葉
「でも、それは全然悲しいことじゃないんだよ。だって寒村ってそういうものだろう?村には村の仕事があって、それはさびれることだったんだ。」
これはもしかすると宇宙の真理と近いかもしれません。
私たちは、大きなことから小さなことまで、特に自分たちにとってマイナスの変化には嘆いてしまい、戻そうとする傾向がある。
しかし、実はむしろ完成系へと向かっているのかもしれない。そしてそれに抵抗する力が働くことも必然で宇宙の目から見れば計算済みなのだきっと。

ここまでお付き合い頂いた方がいらっしゃればありがとうございます。
あと少しで終わります。
ここでおいとまして頂いても構いません。
しょうがねえ、まだ付き合ってやるぜっていう菩薩の様な方は続きをどうぞよろしくお願い致します。

⑥ペットの犬をだだ広い部屋の天蓋付きのベッドで寝かせているのを見て「ひどく甘やかしてるのね」と言った私に対しての女の子の言葉
「ごめんなさいね。このひと、悪気はないのよ。ただちょっと風変わりで、物事をあるがままには受け容れられない性質なの」
それは風変わりですね、とは言えない。
物事をあるがままに受け容れられないことは多い。
それは先入観が働くからであろう。
この場合であれば、広い部屋の天蓋付きのベッドは人間が使うものだというような。
経験が増えると先入観も増えてしまうが、物事や人からの言葉も、あるがままにとらえ受け容れることができれば悩みは激減しそうだ。

⑦雨の降る寒村を自転車で宿まで戻る時の心境を綴った文章
「村は依然としてひと気がなく、夕闇のせいでさらに不穏な雰囲気でしたけれども、私たちはもう心細くありませんでした。一杯の熱いお茶と、元映画館の建物に住んでいる男の子と犬。この「寒村」は、私たちにとって、知り合いのいる村です。」
素敵だなあと。
人だけでなく、お茶や建物も知り合いなことも。
こうやって見知った人、場所が増えていくことは心強く、楽しいことをなんとなく小学校の6年生で知った気がする。
あんなに場所見知り人見知りしかなかった学校という場所が、6年生の時には庭のようだった。

まとめ

女の子は最後に念願だった「過去の思い出」を手に入れます。
変化が絶えない世界に住んでいる私たちは、「過去の思い出」はどんどん増え、それがどんなもので、どんな感情を与えるものか知っています。
だから変化のない世界を切望する時もあります。
女の子は言います「でもね、女の子がお母さんになったり、おじいさんが中年の婦人になったりしたら、おかしいでしょう?猫がカエルになったり、カエルが猫になったりしたら、わけがわからなくなっちゃう」
それくらい、一人の人間が変化していくことはおかしなことだと考えた時、変化に対応できない自分を真っ向から肯定することができる。
過去を振り返って変化に絶望したりすることは当たり前。
だって、同じ人間が別の何かに変化するっておかしなことだから。
そして、どれだけ変化しても、真ん中には元の自分である「女の子」が誰にでも存在していることがわかった。
その子とは、すきまにおちた時にだけ会える。

過去の思い出を大切にしつつも、それにしばられることはなく、変化を畏れず、自由に生きていきたい。

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