「ゲノム編集の光と闇」読後のまとめ:その3
青野由利さんの書かれた「ゲノム編集の光と闇」、初学者の年寄りにはとにかく難しく、いろいろなことを考えさせられました。
ただ、とにかく興味のある分野だったので、どんどん引き込まれていく反面、人間の作り出した技術に対する怖さも凄く感じてしまいました。
今回、まだ使い方もよく分かっていない年寄りの初noteでしたが、自分なりのこの本の読後の最後のまとめをしたいと思います。
ヒト受精卵を編集する:
2018年11月26日、AP通信から「中国の研究者がゲノム編集された子どもの誕生を主張」という記事が流れてきました。ゲノム編集ベビーの誕生を公言していたのは中国広東省・南方科技大学の賀建奎。夫がエイズウイルス(HIV)感染者で、妻が非感染者のカップルが、体外受精で子どもをもうける際に、受精卵にクリスパーを作用させ、HIVに感染しない双子の女の子を誕生させたとのこと。
賀は翌日の11月27日から香港で開催される第2回「ヒトゲノム編集国際サミット」の2日目の演者として登録されていました。
ウェブ上には賀が「ルルとナナという二人の美しい中国人の女の赤ちゃんが数週間前に元気に生まれました。二人が普通の赤ちゃんと一つだけ違っていたのは、受精卵の段階で遺伝子手術を施したことです。」とにっこり笑って話す動画が既にアップされていました。
クローン技術と「動物工場」:
英国スコットランドのロスリン研究所でクローン羊「ドリー」が誕生したのは1996年7月のこと。クローン羊ドリーが示したのは、一頭の哺乳類の体細胞から胚細胞を作り出し、そこから一頭の動物を再生出来るということでした。
それまでの常識は、一度体細胞に分化した細胞は再び受精卵のような細胞に戻ることはない、というものでした。ドリーはその常識を覆したわけです。ドリーを誕生させた目的の一つは、「動物工場」の実現でした。体細胞の遺伝子に、薬剤となる物質を作り出すヒトの遺伝子を組み込み、ここから遺伝子組み換えクローン動物をたくさん作り出す。例えば、血友病の治療薬である血液凝固因子の遺伝子を組み込んだ組み換えクローン牛をたくさん作り、そのミルクの中に血液凝固因子を分泌させることが出来れば、牛が薬の生産工場になってくれるという発想。実際、ドリーの次に作られたのは、血液凝固因子の遺伝子を組み込んだ組み換えクローン羊でした。
ただ、クローン技術とゲノム編集が合体した時に、どのような「人間」が生まれ得るか、ということを想像すると恐ろしくもあります。
これまでクローン人間が誕生したという事実は公には確認されていません。
ES細胞とiPS細胞は再生医療の福音か:
生殖に関わる技術として、ヒト胚性幹細胞(ES細胞)と、iPS細胞も新たに登場しました。
ES細胞は、受精卵を壊して作る細胞で、さまざまな細胞に変化させることが出来るため、「万能細胞」と呼ばれてきました。
1998年、米ウィスコンシン大学のグループがヒトES細胞の作製に成功しました。この成果は、怪我や病気で傷ついたり失ったりした臓器を修復する「再生医療」の切り札になるのではないか、という期待を生みましたが、一方で「ヒトの受精卵を破壊してもいいのか」という根源的な倫理問題が世界的な論争となりました。
ヒトの生命の始まりを受精の瞬間ととらえるカトリックの総本山バチカンは、当然のごとくこれに異を唱えます。2001年以降、米国でも当時のブッシュ政権が「ヒトES細胞作りには連邦資金を拠出しない」という姿勢を明確にしましたが、民間資金での研究は進んでいきました。英国も、ヒトES細胞の作製と研究を認める立場を表明しました。
こうした微妙な倫理問題を回避すべく、京都大学の山中伸弥がマウスでiPS細胞の作製に成功したのが2006年。2007年にはヒトiPS細胞を作り出すことにも成功しています。
iPS細胞は、体細胞に複数の遺伝子を入れて作る多能性幹細胞で、ヒト受精卵を壊すことなく、ES細胞と同等の性質を持つ万能細胞が手に入ることになります。
しかし、ここからも生殖に関わる新たな倫理的課題が浮上してきます。
ES細胞やiPS細胞の主な用途は、再生医療や創薬、疾患モデル作りだと考えられています。ただ、ES細胞やiPS細胞がどんな細胞にもなれる万能細胞であるなら、ヒトの精子や卵子も作ることが出来ると考えられるようになります。
実際、マウスのES細胞やiPS細胞から精子のもとになる細胞や、卵子のもとになる細胞を作り出す実験には、京都大学の斎藤通紀のチームが成功しています。
さらに、2018年9月には、ヒトのiPS細胞から卵子のもとになる「卵原細胞」を作ることに成功したと発表しています。
こうした研究が進むと、ヒトのES細胞やiPS細胞から作った精子と卵子を受精させて受精卵を作ったり、精子や卵子に遺伝子改変を加えてから受精卵を作ったり、といったことも原理的には可能になるでしょう。
iPS細胞からの精子や卵子の作製から、人間を作ることも「理論的には出来る」ということになります。
そして今、新たな可能性として加わったのが、ゲノム編集による受精卵の遺伝子改変の可能性です。
ゲノム編集で「パーフェクトベビー」を設計する?:
2015年4月14日、中国広東省にある中山大学の黄軍就の研究チームが、中国のオンライン版プロテイン&セル誌に論文を公表しました。あくまでシャーレの中の実験です。
「クリスパー・キャス9によるヒト3前核胚の遺伝子編集」というタイトルの論文で、チームが目指していたものは、ヒト受精胚に対するゲノム編集の効率と、遺伝子疾患の予防が可能かどうかを確かめることでした。
このために、研究チームは体外受精で作られた86個のヒト受精胚に対し、クリスパーを作用させました。標的にしたのは、血液中のヘモグロビンを構成するたんぱく質で、「βグロビン」と呼ばれる遺伝子です。この遺伝子の異常は、ベータサラセミアと呼ばれる遺伝性の血液疾患の原因となります。
ただ、黄のチームが使ったのは、病気の人たちの受精卵ではなく、不妊治療クリニックで体外受精を受けたカップルから提供されたものでした。
しかも「3前核杯」と呼ばれる胚でした。
通常の胚には卵子由来の核と精子由来の核がそれぞれ一つずつ入っています。
これに対して、3前核胚には精子の核が二つ入っていて、正常には育ちません。
彼らは、倫理的な配慮から、人間には育たない胚を使ったのだと言っています。
実験はこの遺伝子の狙った位置を切断するクリスパー・キャス9とともに、修復用の鋳型DNAと、GFP遺伝子を一緒に入れました。GFPは、下村脩が発見した緑に光るクラゲの遺伝子で、遺伝子の導入を目に見える形で確認するマーカーとして使われました。
結果的に、狙い通りにβグロビン遺伝子を編集出来たのは、遺伝子解析した56個の胚のうち4個だけ。決して高い効率とは言えません。しかも、狙った遺伝子とは別の遺伝子を編集してしまう「オフターゲット」も見られました。分裂する胚の一部だけが編集される「モザイク」が生じている胚もありました。
修復用のDNAの代わりに、別の遺伝子が組み込まれたケースもありました。
つまり、起きては困ることのオンパレードだったと言っていいでしょう。
この実験への国際的な反応は大きく、MITテクノロジーレヴュー誌、英国のネイチャー誌、米国のサイエンス誌など、相次いで懸念を表明。
現時点の技術を使った受精卵のゲノム編集は、将来の世代に予測不可能なリスクをもたらす恐れがあり、倫理的に容認出来ないという論調でした。
これより前、2015年1月24日のナバ会議では、ゲノム編集の開発者の一人であるダウドナらが既にヒト受精卵操作の倫理問題について白熱した討論を繰り返し、クリスパー・キャス9が、体細胞だけでなく、生殖細胞のDNAも変えられる、それが、病気の治療を超えて広がる「滑り坂」となる恐れもある、と指摘した上で、「たとえ法的に禁止されていなくても、ヒトの生殖細胞の改変の臨床応用の自粛を強く訴える」と勧告しています。
この流れは、同年12月にワシントンで開かれたゲノム編集の「国際サミット」に繋がっていきます。ここでも、ヒト受精胚や生殖細胞へのゲノム編集の臨床応用は禁じてはいましたが、将来にわたってというところでは否定はしていませんでした。
その後、各国で条件付きで生殖細胞のゲノム編集は少しずつ容認の方向に向かいます。
こうした議論が続いていたところへ、青天の霹靂のように降ってわいたのが、中国の賀建奎による「ゲノム編集ベビーの双子誕生」の公表でした。
HIVの感染防止というが…:
ゲノム編集のターゲットとしたのは、エイズウイルス(HIV)の感染に関係するCCR5遺伝子でした。CCR5はHIVが細胞に感染する時の「入り口」になる受容体たんぱく質で、この遺伝子に変異があるとHIVが感染出来なくなります。
賀はクリスパーを使い、マウスを使った実験や、サルを人間のモデルとして使った実験、シャーレの中でのヒト受精胚実験やヒトES細胞を使った実験などを行い、最終的に臨床応用したと言っています。
実験の参加者はエイズの患者団体から、夫がHIV陽性で妻が陰性のカップルをリクルートしました。そのうち7組を対象に体外受精した受精卵にクリスパー・キャス9を作用させ、CCR5遺伝子のノックアウトを試みました。
このうち1組から双子の女の子が生まれたと言います。
賀は双子を「ルル」と「ナナ」と呼んでいました。
体外受精にあたっては、受精卵へのHIV感染を防ぐため、精子洗浄をしてからマイクロピペットで精子を卵子に直接注入する顕微受精を実施しました。クリスパー・キャス9を作用させ、受精から5日目に受精卵が胚盤胞になった段階で数細胞を取り出し「着床前遺伝子診断」を実施しました。その結果、四つの受精胚のうち二つで目的の遺伝子に変異が入っていました。
1細胞の全ゲノムシーケンスの結果では、片方の受精胚に標的外の場所に変異が入るオフターゲットが一つ見られました。ただ、遺伝子と遺伝子の間にある配列で、どの遺伝子からも遠く、RNAの転写にも関係がないため、影響は考えにくい、と判断したとのこと。
「両親にはこうしたリスクを伝えた上で選択してもらい、彼らは編集された二つの受精胚の移植を選んだ」と賀は主張していました。
ただ、本当に適切な「インフォームド・コンセント」がなされていたのか。
双子を妊娠中に妊婦の血液に浮遊する胎児細胞の遺伝子を調べた結果では、オフターゲットは見られず、双子が誕生した後に、臍帯血や臍帯、胎盤の細胞のDNAを分析した結果でも、着床前診断で見られたオフターゲットは見られなかったと賀は主張していました。
さらに今後18年間は彼女たちをモニターし、支援するとも述べていました。
ただ事の真偽、双子が本当に存在するのか、それらは明らかではありません。
また、CCR5遺伝子をノックアウトすることによって、西ナイルウイルスなど別の感染症にかかりやすくなるリスクもあります。
これ以外にも、中国の広州医科大学病院、上海技術大学などのチームが、2018年8月のモレキュラー・セラピー誌電子版に「マルファン症候群の受精卵の遺伝子変異をクリスパーで修復した」という論文を発表しています。
マルファン症候群は常染色体優性の遺伝子疾患で、FBN1と呼ばれる遺伝子の変異が病気を起こすことが知られています。体の骨組みとなる組織が弱くなり、さまざまな症状が出ます。大動脈瘤破裂や大動脈解離といった重い症状を起こす場合もあります。約5000人に1人がこの疾患の遺伝子変異を持っていると考えられ、日本ではこの患者さんが約2万人と言われています。
症状には高身長や長い手足・指も含まれます。
広州医科大などのチームは、健康な女性から提供を受けた卵子と、マルファン症候群の男性から提供を受けた精子を体外受精して、マルファン症候群の受精卵を作製。このうち18個にクリスパーを作用させましたが、それ以前と異なるのは
「1塩基エディター」と呼ばれる新しい技術を使った点でした。
従来のクリスパーのようにDNAの二重鎖を切断することなく、DNAの上に並ぶ4種類の塩基で出来た遺伝子暗号(A,T,G,C)の1文字を変更することが出来ます。
マルファン症候群の変異は1塩基の変異なので、「1塩基エディター」の格好のターゲットになります。
研究チームがこれを作用させた結果、18個の受精卵のうち16個で原因遺伝子の変異が修復されました。しかも、誤った遺伝子を編集してしまう「オフターゲット」は見られなかったと言っています。
中国ではこれ以外にも遺伝子疾患の予防を目的としたヒト受精卵の編集実験や、賀と同様にCCR5遺伝子を標的としたヒト受精卵の編集実験が実施されています。
賀の発表を知った研究者の中には「これは氷山の一角ではないか」と見る人もいます。中国ではもっとたくさんゲノム編集ベビーが生まれているに違いないし、米国でも、他の国でも…
HIV感染防止はともかく、「遺伝子疾患を防ぐ」という目的なら、ゲノム編集した人間の誕生は許容出来る、と考える人が今後増えていくのだろうか。しかし、生まれてくる子ども、それに続く次世代にとって、安全であるという保証はありません。それが人類全体の遺伝子プールに与える影響もわかりません。
例えば、鎌状赤血球症の人たちは、マラリアに対する抵抗性を持っています。
鎌状赤血球症はアフリカに多く、病気の原因となる遺伝子変異がマラリア抵抗性を示すために、進化の過程で生き残ってきたと考えられます。こうした遺伝子変異を一掃してしまうことをどう考えるのか。
ゲノム編集ベビー出産の目的が「遺伝性疾患の予防」に留まり続ける保証もありません。好みの目の色や肌の色を持った、背が高くて、運動能力の高い、生活習慣病にもかかりにくい子供がほしい…人々のそんな欲望をこの技術がさらにかき立てるとしたら。そして、目的が何であれ、いったんゲノム編集した子供が生まれてくれば、しまったと思っても、元に戻すことは出来ないのです。
遺伝子ドライブの脅威:
遺伝子ドライブ(ジーンドライブ)の意味。
「植物や動物の集団全体を短期間で改変する最先端の遺伝子技術」
「特定の遺伝子あるいは遺伝子群が偏って遺伝する現象」
例えば、世の中に蚊が媒介する感染症は数多くあります。マラリア、ジカ熱、デング熱、日本脳炎、ウエストナイル熱、チクングニア熱など。
この中で、まず遺伝子ドライブによる根絶のターゲットになったのはマラリア。
アフリカやアジアなどの亜熱帯・熱帯を中心とする感染症で、年間数十万人が亡くなっています。病原体はマラリア原虫。マラリア原虫にはいくつか種類がありますが、いずれもプラスモディウム属の仲間です。これを媒介するのが、ハマダラカと呼ばれる種類の蚊です。
マラリア原虫を媒介する蚊を絶滅、または激減させれば、マラリアを撲滅出来るのではないか。最新のクリスパー技術を利用してこれに取り組んだのが、英国インペリアルカレッジ・ロンドンのトニー・ノーラン、アンドレア・クリサンティのチームでした。
2015年12月7日のネイチャー・バイオテクノロジー誌に発表された論文によると、チームはまず、アフリカの代表的なマラリア媒介蚊であるガンビエ・ハマダラカの不妊に関係する遺伝子を突き止めました。この遺伝子の変異を両親から受け継ぎ、相同染色体の対立遺伝子の両方に変異が入ると、メスの蚊が不妊になります。
特定の遺伝子変異を1コピー持つ生物個体がいた場合、その変異が子孫に伝わる確率は50%、世代を経るごとに変異が増えていくことはなく、逆に薄まっていくはずです。
例えば、不妊の遺伝子変異を1コピー持つ蚊が出現しても、その蚊が変異を持たない普通の野生型の蚊と交配すると、その子どもの2匹に1匹の割合で不妊の遺伝子変異を1コピー持つだけで、半数は変異を持たない野生型になります。これらの子孫が次々に交配を繰り返すうちに、不妊遺伝子は薄まっていきます。
ところが、ここにクリスパーを使った遺伝子ドライブを作用させると、遺伝子変異が50%を超えて子孫に伝わっていきます。なぜなら、相同染色体の片方に1コピー導入された遺伝子変異を、これとペアを成すもう片方の染色体にもコピーする、というのが遺伝子ドライブの働きだからです。
この時、遺伝子変異がコピペされるだけでなく、コピペマシンそのものもコピペされるというイメージ。これが遺伝子ドライブシステムです。
この「変異コピペマシン」を持つ蚊が普通の野生型の蚊と交配し、子孫が「変異コピペマシン」を1コピー受け継ぐと、その変異は相同染色体の同じ位置にコピーされます。次世代以降も同じ。その結果、変異遺伝子を2コピー持つ蚊がどんどん増えていくという仕組みです。
ノーランのチームが、閉鎖ケージの中に普通の蚊と不妊遺伝子ドライブ蚊を300匹ずつ入れて行った交配実験では、4世代で75%の子孫に不妊遺伝子が受け継がれ、5世代で約90%の子孫に不妊遺伝子が受け継がれたと言います。
不妊遺伝子を2コピー持つメスは不妊なので、オスと交配しても子孫は生まれません。結果的に蚊の数はどんどん減っていくことになります。
クリスパーを使った遺伝子ドライブは、特定の遺伝子変異を集団の中に急速に広めるシステムです。このシステムが働くのは、優性生殖する生物に限られます。
さらに、世代交代の早い生物でないと、短期間に特定の遺伝子を広めることは出来ません。
生態系の改変につながらないか?:
ノーランのチームが試したように、遺伝子ドライブで不妊遺伝子の拡散を進めれば、理論的にはターゲットとした蚊を撲滅出来るかもしれません。
でも、厄介な昆虫であっても、一つの種を人為的に一掃してしまうことで自然界のバランスがどう崩れるのかは未知数です。
この実験も不妊遺伝子ドライブが原理的に働くことを示すものでしたが、まだ不完全であり、遺伝子ドライブに対する耐性が生じ、変異遺伝子の拡散は徐々に抑制されていったようです。
その後も、ノーランとクリサンティのチームは研究を進め、2018年9月に、今度は昆虫の雌雄決定に関わる遺伝子の変異をガンビエ・ハマダラカに広める遺伝子ドライブ実験の成果をネイチャー・バイオテクノロジー誌に公表しています。
この雌雄決定遺伝子も変異が入るとメスに不妊を引き起こす性質があり、7〜11世代後には、新しい蚊が全く生まれなくなったと言います。実験空間における事実上の「絶滅」で、この遺伝子は将来の野外実験に適したターゲットだとも述べています。でも、やはり生態系への影響が心配です。
自然界のバランスを崩さずに…:
蚊を絶滅させずにマラリアを撲滅する方法を考えている研究チームもいました。
米カリフォルニア大学アーバイン校の分子生物学者、アンソニー・ジェームズのグループは、ノーランらが使った蚊とは種類が違うハマダラカに遺伝子ドライブを作用させ、マラリア抵抗性の遺伝子を拡散することに実験室で成功しています。
2015年12月にこの成果を米国科学アカデミー紀要に発表しています。
そして、ジェームズのチームは、クリスパーを利用して、マラリア抵抗性遺伝子を入れた遺伝子ドライブを作製。これをハマダラカの受精卵に導入することで、マラリア抵抗性の遺伝子を子孫に100%近く伝えることに成功しています。
もちろん実験室の閉鎖空間での話です。
遺伝子ドライブの凄さ:
遺伝子ドライブの凄いところは、標的遺伝子を切断したところに「センサーとハサミの遺伝子」も組み込む、というところ。
「コピペマシン」=「遺伝子ドライブ」というイメージ。
例えば、ある標的遺伝子の変異を生物の集団に広めたいと思ったら、まず、「センサー+ハサミ」の遺伝子の両端に標的遺伝子と同じ配列を繋いだDNAを用意します。これが遺伝子ドライブで、遺伝子の運び屋であるプラスミドを使って受精卵に作用させます。
おさらいをしますと、センサーは「ガイドRNA」、ハサミは「キャス9たんぱく質」です。
すると、遺伝子ドライブから「センサーとハサミ」が読み出されて標的遺伝子を切断し、そこに「センサーとハサミ」の遺伝子がコピーされます。
次に、この「センサーとハサミ」の遺伝子から再び「センサーとハサミ」が読み出されて、相同染色体の同じ標的遺伝子を切断し、ここに再び「センサーとハサミ」の遺伝子がコピーされます。結果的に、相同染色体の両方の標的遺伝子に「センサーとハサミ」の遺伝子が導入されることになります。
この生物が生殖して子孫を生み出す時にも、同じ仕組みで「センサーとハサミ」の遺伝子(「遺伝子ドライブ」すなわちコピペマシン)が両方の染色体に組み込まれます。
これを繰り返せば、コピペマシンが生物集団の中にどんどん広まっていきます。
この時、コピペマシンが標的遺伝子をノックアウトして変異を起こせば、この変異が拡散していきます。コピペマシンに望みの遺伝子も一緒に組み込んでおけば、その遺伝子が次々と拡散していきます。
世代を超えて伝わる「遺伝子ドライブ」:
このアイデアを実証するために、カリフォルニア大学サンディエゴ校のイーサン・ビアと、バレンチノ・ガンツが標的にしたのは、ショウジョウバエのX染色体の上に載っている色素遺伝子「イエロー」(y) でした。
普通の野生型のショウジョウバエは黄色がかった「褐色」をしていますが、このy遺伝子が変異を起こすと色素が欠損して「薄黄色」となります。メスはX染色体を2本持っていますので、遺伝子変異が2コピーそろった時だけ薄黄色になり、変異のないy遺伝子を1コピーでも受け継げば褐色になります。
ビアのチームは、y遺伝子を標的とする遺伝子ドライブを用意し、これを野生型のショウジョウバエの受精卵に入れ、そこから生まれるハエを野生型と交配させました。2014年の12月に実験室で生まれた次世代のメスのハエの中には薄黄色のハエがいました。これは、狙い通り一つのX染色体の遺伝子に導入された変異が、対を成すもう一つのX染色体にもコピーされ、二つのX染色体の両方のy遺伝子に変異が導入されたことを意味していました。
彼らは、この遺伝子ドライブが次世代にも伝わっていくかどうか確かめるため、ここで生まれた薄黄色のメスと、野生型のオスを交配させる実験を続けました。
暮れも押し迫った12月28日、実験室のケージの中にいるショウジョウバエの集団を見て、思った以上の効果が上がったことを知りました。色素が欠損した薄黄色のハエばかりだったのです。遺伝子変異がコピペマシンごと拡散していくことが確かめられたのです。
二人は、わずか3日で論文を書き上げて米サイエンス誌に投稿しました。
赤目の蚊ばかりに:
ビアとガンツの論文は世界の研究者に影響を与えました。
前述のジェームズは早速ピアのチームと共同研究を始めました。
ジェームズのマラリア抵抗性の蚊の技術と、ビアたちの遺伝子ドライブ技術を合体させ、まず「マラリア抵抗性遺伝子ドライブ」を作りました。
これを、主にアジアでマラリアを感染させているハマダラカの一種に組み込むことにしました。
研究チームは、この実験の成否が一目でわかるようにするため、遺伝子ドライブでマラリア抵抗性遺伝子が子孫の蚊にうまく伝わった場合には、蚊の目の色が赤く光るように細工しました。ちなみに、このハマダラカの野生型は黒目をしています。
ハマダラカの受精卵にこの遺伝子ドライブを導入し、生まれた蚊を野生型と交配させ、そこから生まれた「赤目」と野生型を交配させる実験を繰り返しました。
遺伝子ドライブの威力が目に見えて明らかになってきたのは、3世代目の結果でした。全部で3869匹生まれたハマダラカのうち、99.5%近くが「赤目」になっていました。マラリア抵抗性遺伝子が、ハマダラカの集団に急速に広まったことを意味する驚くべき結果でした。
ただ一方、これらの結果に対して、「予期せぬ変異の拡散を防ぐ手段が含まれていない。」とハーバード大学の遺伝学者ジョージ・チャーチは強い懸念を示していました。
その後、「逆ドライブ」「免疫ドライブ」という考え方も提案されていきます。
「逆ドライブ」は、意図しない遺伝子ドライブの結果を緩和するために、もう一つ別の遺伝子ドライブを使うこと。別のドライブで間違ったドライブを切り取ってしまうことが出来れば、生物の遺伝子は元に戻るはず。
「免疫ドライブ」は、悪意を持って使われたドライブがあれば、そのドライブが標的とするDNAの配列を予防的に変化させる手法。
ただ、こうした「ドライブを打ち消すドライブ」が、うまく働くかどうかは今でも未知数です。
また、遺伝子ドライブがもたらす影響は、軍事的な方面でも懸念されているようです。2016年2月には、米国のインテリジェンス・コミュニティが、「脅威評価レポート」で、「大量破壊・拡散兵器」に関する脅威の一つとしてゲノム編集を挙げており、その誤用や悪用が、経済的にも、国家安全保障の面でも、非常に大きな影響を及ぼす恐れがあると強い懸念を示しています。
さまざまな技術の進化により、倫理的・法的・社会的な問題も今後ますます増えてくることが予想されています。