なの日記「エンドロール」
映画を観ていると物語の終わりにエンドロールが流れる。作品を作る上で携わった方々の名前や物語の余韻に浸るための音楽や映像が淡々と流れるアレ。
僕はよく、人生も一種の物語であると考える事があるのだが、死に際に流れる走馬灯がその人の人生のエンドロールなのでは無いかと思うんだ。
走馬灯を経験した事ある人からすれば、また違った見え方や考え方が浮かび、この意見に対して批判的な意見が出てきても仕方がない。
僕はまだ走馬灯となるモノを体験した事が無いから。
ただ、一つの妄念を膨らませて遊ぶ分には許していただきたい。
僕は僕のエンドロールでは何が見えるのかが少し楽しみなんだ。薄れゆく意識の中でこれ以上ない程に脳を活性化させ、夢でもなんでもない僕自身の“思い出”を僕に見せてくれる状況なんて、なんて面白そうなんだ。
死にたいけど、死にたか無いけど、僕は僕のエンドロールが見てみたい。
誰の事を想うのだろうか。
お世話になった人たちの名前を挙げていけばキリがないように思えるが、なんだかんだすぐ挙げ切ってしまうのだろう。本当に人生で関わった人の中で大きな影響のあった人だなんて一握りのように思えるからね。
自力で思い出そうとするよりも心の底で眠っている記憶がいくつも出てくるのであろうか。
火事場の馬鹿力では無いが、どこまで記憶の箱をひっくり返してくれるのだろうか。
僕の人生の主演である僕がエンドロールの作成に携われるのであれば、どんな映像を流そうか。何の音楽をかけようか。
この間観た夜の景色だなんて流れたら素敵だろうなぁ。
夜な夜なドライブした情景も幸せだったなぁ。
酒片手に歩いた河川敷も楽しかった。
エンドロールぐらいは幸せな記憶だけで、後味良く終えたいなぁ。
でも死に際なんだから、もっとこうすれば良かっただなんて思ってしまうような記憶も出てくるのか。
根に持っている事とか、悔しかった事とか、もっと頑張れたんじゃないかって思ってしまうような。
それもそれで良いかもな。
後悔なく死ねたら幸せなのだろうかとよく思うのだ。
後悔しながら死ぬ方が、幸せな生き方してた証拠にもなるような気がしてる。
死んだら何も残らず“無”でしかない。
なら後悔しないように生きなさい。と言うのも分かる。
ただ後悔しないように生きたとして、死に際「幸せでしかなかった」と言って死ねる程、皆阿呆ではないと思う。誰しも何かしら後悔している事はあるのだろう。たぶん。いや、そうであってほしい。
今が自分のベストでしかない。
そう思って生きてみるんだ。
そしたら昨日「明日やろう」と言ってた事を今日もやらずに「まあ、また明日」と言っている自分に気づける。
今日の積み重ね、今の積み重ねが、僕でしかないんだ。
もっとこうすれば良かったなぁと言いながら死ぬのが人生の価値を噛み締めているって事。
自分の人生に価値を感じるために生きてるようなもん。
なんだか話がずれてきたが、
結局僕は僕が気に入った映像や音楽をエンドロールに流せるように色んな経験をしてみたいんだ。
赤の他人がどっかで撮ったような映像でも音楽でもなく、僕自身の人生で得た体験。
エンドロールに流せるような経験の数を増やしたいね。
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