![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/118611308/rectangle_large_type_2_143cad48b1370900c0f7908c22873f7f.png?width=1200)
なの日記「カッコ良く生きる」
友人らとitoというボードゲームで遊んだ。
このゲームは感覚でカードを揃えていくゲームだ。
カードは1から100までの数字が書かれており、数字の大きいものがお題に最も当てはまるもの、数字の低いものはお題に当てはまらないものを指す。
例えばお題が「便利なもの」だとする。
引いたカードが98なら「スマートフォン」と言うだろう。仲間が「自分はえんぴつ」と言っていたらスマホとえんぴつだったらスマホの方が便利だろう。そしたら低い順にカードを並べる。答え合わせは低いと思われるカードから順にめくっていき、見事順番に並べる事ができたらクリアだ。
ざっくりとそんな感じのゲームをしていた。
今回のお題が「かっこいいもの」だった。
僕らは「マウンテンバイク」だの「中古のレクサス」だの「グレーの靴下」だの「電車」だの、順々に出していく。ある友人は「木刀」といった。
結果から言えば僕らはクリアできなかった。
「木刀」の数字が思っていたよりも高く、「電車」が思っていたより低かった。
「木刀」と出した友人は武器全般が好きでどれもがカッコいいという。一方で「木刀」は修学旅行のお土産のイメージが強く“カッコいい”にはもう入らないと言う友人もいた。
「電車」は機械的かっこよさがあると言う友人もいれば、車掌として働いている友人は「グレーの靴下」と同等だと言う。
“自分はカッコいいと思っていても、他人には伝わらない事もある”と言うのは知っている。知ってはいたが、実感することはなかなか無かった。それが目の前で見られるとは思わなかった。面白い。
ゲーム終了後、もしも話が始まった。
「お題がカッコいいだとして、
もし100のカードを引いたらなんて言う?
モノじゃなくても良い、森羅万象の中から。」
各々が答える。
ゲーム好きの友人は
「エルデンリングで即死技を撃つ時のマレニアの構え」
という。
音楽好きな友人は
「アルバムを出して“僕たちの音楽はこれで完成したので解散します”と言って本当に解散したバンド」
という。
僕は、
「自分の生き方で生きてる君ら」
と思ったが恥ずかしさか、口から出すことは無かった。
カッコ良さに順位をつけるとしたらどうしても背景が伴う。
例えば漫画とかで好きなシーンがあるとする。
こんな過去があるこのキャラがこう言う心境で言うから、シビれる。と言うのがあると思う。
他の人じゃ無い、この人が言うからシビれるんだ。
つまりカッコ良さは生き方から滲むものなんじゃないかと思うんだよね。 なの