ちょっと暗い話

はじめに

今日はネガティブでセンシティブな話をします。
具体的には自殺についてです。
なので、読みたくない方はブラウザバックをお願いします。

嫌なことはなぜ続くのか?

最近仕事があまりうまく行っていない。
自分のスキル不足、甘い見積もりその他諸々自分のせいであるのだが、なかなかしんどい状況である。

そんな状態だと家でも嫌なことが目立つようになる。
もともと、雑な性格なので妻から何かをすると注意されて、何もしてなくても注意されるような人間である。

そんな自分と一緒にいてくれる妻に日頃は感謝して少しずつでも改善しようと努力をしている。
妻からもたまに「◯◯ができるようになったね」と褒めてもらえることもある。

しかし、気持ちが沈んでいる時は注意されるとより沈んでしまう。
日頃はなんとかなることも耐えられないのである。

そう、嫌なことは続くのではなくメンタルが弱っている時は今までスルーできていたことが嫌なことに昇格(降格?)するのである。

なぜ自殺できないのか?

そんな感じでメンタルが弱ると当然「死にたい」という気持ちはどうしても出てくる。実際は「逃げたい」という気持ちの裏返しらしい。

その感覚はわかる気がする。そして、結局「死ぬ」という行為はものすごくハードルが高いからそっちに逃げ出せるほどは追い込まれていないのだ。

昨日もスマホを見ながら運転して横断歩道を渡ろうとする人に気づかない人がいた。そういうのをみると思い切って横断歩道に飛び出せばよかったと後悔する。
けど、その瞬間はやっぱり足は止まるものだ。そちらに逃げ出すには生きることのハードルの方が高くなる必要があるのだと思う。

そこまで追い込まれると逆に悟ったように死に向かうことができるのである。私も1度首をつったことがあるが、もう、7年前なのでうる覚えだがその時は悲壮感は正直なかったと思う。むしろ、「やっと助かる」、「救われる」というポジティブな感情で向かっていた。

結局失敗してその後はダラダラと生きている。妻や犬には申し訳ないが、本当に「生きててよかった!」と思ったことは今のところない気がする。あの時死ねていたらと考えることの方が多い。

自殺は悪いことなのか?

さてさて、ネガティブな気分でネットサーフィンしていると自殺というキーワードが目につくようになる。(というより無意識に検索して、相談室の電話番号をよくみる)
そうすると自殺は悪いことであるという論調をよく目にする。

そういう意見を言う人の理由は概ね「人は生きるために生まれてきたのだからその権利を放棄するのは生き物としておかしい」とか「生きていればいいことがある」とか「命は何にも変え難い大切なものだから」という感じである。

正直自分には刺さらない。それでも私はもし、目の前の人が自殺しようとしたら止めると思うし、安楽死などには基本的には反対の立場である。

その矛盾がなぜ生まれるのか考えてたら煮詰まってよくわからなくなったので吐き出してみることにする。

なぜ、自殺否定の意見が刺さらないのか?

人は生きるために生まれてきたのだからその権利を放棄するのは生き物としておかしい

この意見が受け入れられないのは私は逆の考え方だからである。人は「死」から遠ざかるように生きているのではなく、死に向かって生きていると考えている。
これは漫画か本か映画で誰かが言っていたことだったと思う。だから、「死んでいい」という意味ではなく死ぬのに生まれてくるのは「何かを世界に残すため」だという考え方だったと思う。

だから、「何も残していないのに死のうとするな!!」という感じだったと思う。
裏返すと「何かを残すことができた人」は死を受け入れることが許されるのではないかと思っている。
私は何も残せていないのでそういう意味でもまだ自殺という選択ができないのかもしれない。

生きていればいいことがある

これは実体験としてまだ感じたことがないからだろう。生きてて楽しいことはあるし、幸せを感じることはあるけど、「生きていてよかった」とはならない。

そもそも、「死んでよかった」という意見は聞けないのだからフェアじゃない。
死んだ方が幸せな世界が広がっているかもしれない。

例えば、私の理想の世界・幸せな世界は「小さな幸せを積み重ねる世界である。」
良いことも、悪いことも何も起きない世界だ。「苦労した先で達成感を味わう」とか「海外旅行に行くために仕事を頑張る」という考え方が理解できないのである。むしろ達成感はいらないから苦労は無い方がいいし(プログラミングの勉強も達成感ではなくそれ自体を楽しんでいます。)、生きていくための最低限のお金が稼げて嫌なことがない仕事があるならそんな仕事がしたい。(そんな仕事が見つからないから気づいたらプログラマーになっていた。)

嫌なことは何も起きない。「今日も一日嫌なことは何もなかった」という小さい幸せを積み重ねる日々が欲しい。そのために、大きな幸せや楽しみを捨てる必要があるなら喜んで捨てる。

現実の世界位ではなかなか難しそうだけどもしかしたら死後の世界は何も感じることができないまさにそんな世界なのでは?と思ってしまう。
もしかしたら、地獄で鬼にいじめられるかもしれないけど

命は何にも変え難い大切なものだから

命は大切というのは正しいし反論はしない。しかし、世界は相対的なのだから自分の命より大切なものがあって良いだろう。そのために死ぬ人にもこの人たちは否定するのだろうか?

もし、「50階の展望台にいる時に49階で火事が起きて逃げるためにはエレベーターに乗るしかない」という状況になりあなたと大切な人がエレベーターに乗ったら定員オーバーになり動かなくなったら自分が残るという選択は許されないのだろうか?先に乗っていた人が譲るのは?これも立派な自殺だ。

物語や歴史でも仲間や自分の誇りのために死を選ぶ人物がいる。そして、それをかっこいいと感じる人多いと思う。これも命より大切なものを選ぶ行為であり、死なないという選択を放棄する行為なので自殺に含まれるはずだ。

なぜ、自殺を止めるのか?

ぐだぐだと否定したが、私は自殺しようとする人がいたら間違いなく止める。なぜなら、私の中で自殺とは「社会に殺される」、「環境に殺される」という方がしっくりくるからだ。自殺しようとする人を止めないといけないという責任を感じるのだと思う。

そう、自殺が悪いことではなく、「目の前の人が自殺する=世界がその人を殺す」と感じるのだ。

いじめ受けた子供は「社会に殺された」だし、大切なもののために死を選ばないといけない状況は「環境に殺された」になるのだ。

誰かが誰かを殺そうとしていたら多分全力で止める人が多いと思う。もちろん、実際には怖いし自分の安全を優先する必要もある。けど、自分が止めることができるなら止める選択をするはずだ。自殺も結局世界が人を殺そうとしているのを止める行為なのだと思う。

結論は?

自殺が悪いことではない。しかし、「他者を殺す」という行為は悪だと私は思っている。そして、その状況を止めたいというのが自殺に反対する理由だ。

ようするに、自分は自殺しても良いと思ってしまってもいる。なぜならば、殺される側だからというふうに考えるからだ。

それでも、自分を殺そうとしている社会を止める責任はあるのかもしれない。
とか考えているとよくわからなくなる。
そして、こうやってダラダラ考えられている時の自分は死ぬことはない。

最後に

駄文を長々と書いてしまったが、何がぐるぐる回っていたのかわかった気がする。
結局生きててよかったと思わないといいつつ、結婚して、犬を飼って生きている自分も面白く思えてきた。

アラフォーを目の前に悲壮感漂う主人公気分を味わっている厨二病なだけなのかもしれない。

おまけ

技術系の記事を書きたいのだがなかなか進捗がなく今日はこんな記事になりました。
そもそも、1ヶ月1本記事を書くのが目標だったのを思い出したので来月は1本になると思います。

ただ、そうなると2月の振り返りだけになるな。。。
何がアウトプットしたいことが見つかることを願おう。

noteを書くことを楽しいと思っている自分に乾杯!!

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