Organ Works 2023 「漂幻する駝鳥」についてのメモ
Organ Works 2023 「漂幻する駝鳥」
作・演出・振付 平原慎太郎
舞台美術 冨安由真
2023年6月3日(土)~11日(日)
KATT 神奈川芸術劇場〈中スタジオ〉
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〈A キャスト〉で当該演目を観て、メモを書き始めた。
注:当該演目を未だ観てない方や余韻を味わっている方は、溌剌たる体験の邪魔になるかもしれないので、ここから先はお読みになりませんように。
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メモ
眼をひんむいているからだけではない、エネルギー、感情の移動が目に見えるような、狂気と称されるであろう舞。
ドアの向こうに押しやって忘却していた記憶、瀕死の重症で、地を這いつくばって何とか意識の入り口に辿り着く、あの写真の、あの写真を撮った部屋に辿り着く。あの狂気と並走する、優しく力強く狂気に振り回される、この力強さには遠慮など要らない、血糊に染まった腕と、悲しい、優しさの舞。
幾つもの記憶が、幾つもの意識が同時に立ち上がる、舞台に設置された部屋の壁や家具がバラバラになって移動して、写真の中から、記憶の底から、どんどん意識の中に立ち上がる、容量オーバーだ、過去の記憶と現実とが混ぜこぜになる。
写真の中に、思い出の中に入り込もうとしたのを遮られて、思い出に拒絶された、「生きろ」と言われたのかもしれない、現実を突き付けられた老婆は、これまで極めて禁欲的で静的な動きだったが、痙攣する、あれは、仰向けだったか、うつ伏せだったか、背か腹を床に付けた状態で、四つ足になるわけでもなく、横に向かってかなり素早く移動した、前後に動く匍匐前進ではない、どうやっているのか、どんな訓練をしたのか、見たことがない、この動きのための特別な訓練をしたのだろう、何かの動きの応用なわけがない、苦しい感情を表した場面ではあるが、しかしユーモラスな動きだ。
ちょっとくらい無理してでも、真面目に尽くす舞。
相手の望みを知っていそうな、しかし耽美な親切の舞。
孤独を包み込むのか、救うのか、突き放すのか、否、生きろ、と写真の中の世界にダイブしようとする老婆を止めて、老婆が背負っていた荷物を受け取り、包み込まれた記憶を押し出す舞。
アナタのお気に入りの友達の、しかし情熱的な舞。
無邪気なだけじゃない、しかし愛嬌のある舞。
レインコートは雨を弾く、レインコートの中は蒸れる、循環のリズムを狂わせるのか、守るのか、音楽が老婆の奥底に眠らせた記憶を呼び覚ます、他の演者を登場させたり退場させたり、カタカタした舞で、目立ち過ぎぬように、ガイドのような役目の中で、皆と一緒に舞ったりもする、音楽だ。
この演目は、全ての観客席が舞台を見下ろす高台にある。
不安定な高いところに登り観客席と同じくらいの視点に立つ、舞台に設置された4つのドアからドアへ移動する、舞台を一望出来る観客の視界から消えて、座席の下を移動する音を聴かせる、少年、少年の足音とは別の足音が混ざる、別の場所から聞こえる、幻聴か、否、スピーカーから聞こえたドアの開閉音や電話の呼び鈴こそが幻聴だ、皆と一緒に舞ったりもするが、リフトのような特殊な振り付けの際には別の役目を果たし、皆と共にある。
おっちょこちょいで、chapter 5まであるプロットをchapter2までしか読まずに鑑賞した、帰宅してから気付く。しかし救うような突き放すような舞は、シスターの舞だったのかしら?とか、記憶を辿って読解を試みる行為は、解離して、意識の底に追いやって蓋をしていた記憶を呼び覚ますのに似ているのではないかしら、と想像しながら、この鑑賞体験も悪くない、これはこれでかなり良いと感じながら、この乱暴なメモを書いている。
舞台美術で参加している美術家の冨安由真氏の近年の作品は、建物の中に建物のを作り、その建物の中では独りでに動いたり鳴ったりする仕掛けがたくさんあり、鑑賞者はドアからドアへと移動できて、方向音痴なら直ぐに、何処に要るのか分からなくなるような、その中に絵画が複数設置されていて、世界の中の建物の中の建物の中に、世界という名の想像力の中の建物という名の想像力の中の展示/建物という名の想像力の中に絵画が埋め込まれているという構造を強化したものだ。
冨安氏の作品は、この演目のテーマにぴったりだと思った。
精神科医の中井久夫曰く、焦り/不安/恐怖の最大級は、漠然とした曖昧な焦り/不安/恐怖だ、と。幻聴や妄想や悪夢などは漠然とした曖昧な焦りに輪郭を与える。また、幻聴は、怖いものばかりではなく、励ましてくれる幻聴もあるそうだ。この幻聴を擬人化する行為にも、焦りを和らげる効果があるそうだ。
こちらの勝手な想定に逆らって、独りでに動いたり鳴ったりする電話や窓ガラスやドアは、夢の中では怖いかもしれない、しかしこれを具現化すると、仕掛けがあって動いたり鳴ったりするようにしてあると了解しているので、子供のように余程の強い想像力を持っていない限りは怖くない、多分。
夢の中の夢の中の夢の中にメッセージを埋め込む、映画『インセプション』を思い出す。
また、画家のフランシス・ベーコンと草間彌生のことを少し思い出す。
ベーコンは、彼の絵画作品が金色の額に入れられてガラス越しに鑑賞者と対面するように、自分の死後も、その作品がどうやって鑑賞されるのかを指定した。
以前、東京都近代美術館で開催されていたベーコン展に訪れた時に、草間彌生氏を見かけた、車椅子に乗り真剣に作品を鑑賞していた、それを邪魔するものは居なかった。美術館の表に黒塗りのレクサスが停まっていたのは、そういうことだったのか。友人からの聞き伝えでは、草間氏は「ベーコンはいい作家です」と仰ったそうだ。「いい作品」ではなく「いい作家」という処に意味があるに違いないと思う。
草間氏は、ドットが彫刻になったりルイヴィトンの高価な衣服やバッグになったりお求め易い価格帯でグッズになったり、街に溢れる、ドットの流入だ、人々の生活にドットが紛れ込む、鑑賞させられる、ベーコン作品の鑑賞方法の指定と通じるところがあるかもしれない。何となく金塗りの縁に入れられてガラス越しに見せるのとは全然違う、作家がそうやって鑑賞させると決めた。
脱線混じのメモだが、そういえば、最後に唄とコントラバスと電子ピアノのセットで生演奏があったのだか、暫くそれが生演奏だとは気付かなかった、それが面白い印象を与えた。たまに演奏者に視線を移すこともあったのに、ここでは、意識、視線を誘導されていたのかもしれない。
舞台上では、ほぼ常に同時に複数の見処があり、あちらもこちらも欲張って全部観たいと思ってキョロキョロしてしまうのだが、ダンサーがドアの向こうに下がって、妙な間があり、しかし音楽の調子がそのまま続くので、もしや?と演奏者の方に視線を移して、気付く。
これと同じようなタイミングまで、あれが生演奏だとは気付かなかった観客は他にもいるだろうか?
これが、演目の全てが観客各々の夢だった?というのにも近い、ヘンテコな目覚めのような感覚を与えた。