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『寺山修司&谷川俊太郎 ビデオ・レター』について

1983年1月21日 寺山→谷川

寺山は、谷川に対して意地悪なイタズラのようなビデオ・レターを送る。谷川の詩から言葉を切り取って引用したイタズラのような街頭インタビューで、意地悪な回答者の記録ばかりを採用したのか、実際にそのような回答ばかり集まったのかはわからないが、これを送る行為が意地悪だ。インタビューの後には引用元の詩が写される。

わたくし

わたくしの生命は
一冊のノート
価格不定の一冊のノート
(無機物からの連鎖と宇宙大の空白と)

1983年1月22日 谷川→寺山

対して谷川は、容赦しない、これ以上ないと思えるような、陰湿な嫌がらせのビデオ・レターで仕返しする、直ぐ翌日だ。その上等の陰湿さは、寺山の意地悪なイタズラをかき消すほどの仕上がりで、そこに、寺山のビデオ・レターに傷ついた旨を語る谷川の真剣な声の記録が添えられている。

寺山が谷川に対して行ったイタズラは、例え、無自覚的であったとしても、寺山のそれまでのすべての言葉、活動、寺山自身に牙をむき得るはずで、もしかしたら自覚的に、自分自身に向けて襲いかかる問いに対する答えを、慰めを谷川に託したのではないか?と、意地悪な想像をする。

寺山は、谷川のこのビデオ・レターに返答を出していない。返す言葉がなかったのか、病状が悪化して叶わなかったのか、わからない。

それでも寺山は、谷川のこのビデオ・レターに救われたのではないか?

谷川は真剣に怒っていたし、例え、寺山が寺山自身に対して否定的なイタズラをして、寺山自身のそれまでの人生をバカにしていたとしても、そのような否定も肯定も蹴散らすほどの悪趣味な仕返しをしている。本当に、谷川は、寺山の意地悪なイタズラに傷ついているように感じられる、そんな声だったのだから、励まされたのではないか? 

寺山は、同年5月4日に亡くなっている。しかし谷川は怒っていたし、最後の最後まで寺山を病人として特別扱いしなかったし、赦さなかった。

寺山には、谷川というユニークなライバルがいたのだ。寺山は、谷川に甘えるようにイタズラをした、ライバルとしての谷川のユーモアを信じていたのだろう、きっと。

最初「素敵な友だち」と書いてみたが何だか違うと思い、他に形容詞が思いつかないまま、取り敢えず「ユニークなライバル」としてみたが、そもそも、形容詞を捜したのが間違いなのかもしれない。状態や性質としては語れない、このビデオ・レターのやり取りは、大切なモノやコトやヒトや何かほど。

そういえば先月の頭に、ある現代美術家の展示会場で、とても辛い激しいタイトルの本ばかり並ぶところに谷川俊太郎の詩集『これが私の優しさです』が挟まれているのを見た。この人は大丈夫なのかもしれない、勝手に、無責任に、そう思った瞬間を覚えている、谷川の膨大な量の詩のほんのちょびっとしか知らない私なのに、だ。

そして今、ようやく図書館で『これが私の優しさです』を借りてぺらぺらとめくり出した。

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