スキクロおめでとう!
スキクロ開催おめでとうございます!!!!
わたしのnoteは通常営業な内容で、期限を区切ったり限定公開とかは考えてないので、先に素敵なガールズたちの記事や作品を見に行ってね。わたしのはそうだなあ、後夜祭でビールなどをあけた時に流しながら読んでもらえたらいいんじゃないかなって思っています。
じゃあ始めるね。今帰りのバス。20:40。車窓から見えるフランス料理のお店の灯りと、道路工事の煌々とした照明に、同じような尊さを感じているところ。バスの運転手さんもありがとう。わたしもお疲れ様。
11月に入って社会復帰したので、まだ体が慣れてなくてヘロヘロで今とっても眠たい。本当はもう少し早く帰れるんだけど、今日はサークルの集まりがあって少しだけ遅くなった。地元の演劇鑑賞協会に入ってて、その会合に出席してきた帰り道。今週の金曜日に次の例会があり、東京から劇団の方々がやってきてくれるんだって。ありがたいね。しかも6月に東京に見に行ったミュージカルを主催した劇団なの。すごいご縁。運命。とっても楽しみでずーっと楽しみにしている。
まだ鬱病は克服できていなくて、通院して薬を飲んでいる。それで安定してるから、それでいいじゃんと思ってる。わたしの脳はそういう風に変わってしまったので、薬の助けは多分一生続くと思う。寛解したら嬉しいなと思うけど、そこまでは求めていない。
仕事に求めるのは、長く細く続けられることだ。
鬱病になって6年、ろくに働けていなかったのが、今こうやって朝通勤し仕事(まだ座学の研修中だけど)して、帰りにバスに乗って帰ることができている。これってすごいことだと思う。順調に前に進んでいる。
順調って認識すると足元をすくわれるので、まだ恐る恐る進んでいると自分に思いこませているけど。
どうして鬱病なのにここまで動けるようになったのかは、よくわからない。
転職活動したきっかけは、推している俳優さんのミュージカルを見に行ったことだけど、それだけでエネルギーが胎内を回るのかといぶかしく思う人もいるかもしれない。推し礼賛で鬱が治るとしたら、それって非科学的すぎて笑ってしまうよね。
具体的な精神・脳の働きはこれっぽっちもわからないけど、でも確かにわたしは推しに力をもらえたのだ。力というか、杖? 精神的な支え?
足を怪我したときのように、心も杖をつけば歩けるのだ。推しは杖。心を歩ませるために一歩ずつ共に進む杖。
精神的な支柱を手にするまでが長かった。
自問自答の話に移るのだけど、わたしはまだ演歌を歌ってはいないし、試着もできているとは言い難いし、コンセプトもふわふわしている。
このnoteで以前暫定的に決めたコンセプトは今のわたしには合っていない。
新しい生活が体に馴染み、今いる場所をきちんと見定めて初めて、今の時分にあうコンセプトが決まるのだと思う。
つまり、実際は自問自答ガールズらしいことは何一つできていないのだ!
スキクロに参加する資格、ないのでは?
えっ、困っちゃう。追い出さないで、ごめんなさい!
わたしが自問自答ガールズとしてできたこと、それは部屋の断捨離だったりする。手に入れるんじゃなくて、手放す方。
以前のnoteを読んでもらえるとわかると思うんだけど、わたしの部屋は、鬱で物が捨てられず、部屋にはあらゆるものが溢れている状態だった。ゴミだけは捨てていたのが唯一の救い。ベッドの足元には本が散乱してるし、床の上には文具が山と積まれているし、もう触らない趣味のものが棚から溢れているし、クローゼットに入りきらないのに別に着たいと思わない服が地層のようになっていた。
部屋、死んでる!
死に体のクローゼットをなんとかしたく、何か月もかけて物を減らした。いつか使うと思った物なんてもう使わない。ため込んだ文具は友達に引き取ってもらった。ノートや手帳なんて、いくらあったっていいですからね!それも使ってもらえる人に少しずつ分けて減らした。
服は生地が弱っているものをどんどん捨てた。思い出にすがっていたニットも手放した。よく見たら虫食いの穴があいていた。サイズアウトしている服が棚を占領しているって、なんて理不尽なんだ!
人からもらった服なんて、特にいらない。一度袖を通したら義理は果たした。繕ったら使えるバッグ、誰が直すの?
靴も捨てた。かかとが減ってるスニーカー、定番品なんだから手放したって新しいものが買えるでしょう。歩けないパンプスも使わない。お下がりの靴がわたしを新しい場所に連れて行ってくれるなんて思えない!
メイク道具もかなり捨てた。意味なくそろえたアイシャドウ、どうせ同じものに戻ってきちゃう。使いきれなかった日焼け止め、これいつの夏買ったもの? 使いこんだブラシ。百均で買って使ってないパフ。イエベ春の肌では浮いてしまうコントロールベース。
いらない!何も!捨ててしまおう!
本は売った。本と同人誌合わせて6箱手放した。鬱が悪かった時に買った本、読み返すとあのときの必死な気持ちを思い出して具合が悪くなる。
書いた手帳や日記も捨てた。ログとして取っておけるものだけ残して、日々の書き散らしは全て捨てた。システム手帳って使ってる時は楽しいけど、保存性には優れていないってよくわかった。読み返さない。ライフログとして残しておきたいもの以外の書き散らしたノートやリフィルって、言うなれば脳の排便みたいなものなのだと思う。出したら捨てる。それですっきり。それでお役御免。役目はそこで終わった。
趣味のものもほとんど捨てた。今やっている手芸と編み物、手帳用品以外はほぼ捨てた。その手芸用品だって、ケースまるごと手放して、もっと小さな棚に収まるだけにした。その方が探しやすいし、やりたいときにすぐアクセスできるからね。
前職で残したメモ。参考書。試験勉強のテキスト。昔もらった手紙(なんと一番古いものは幼稚園時代のものだった)。当時の友達と撮った写真。思い出深いものだけ残して処分。昔飼っていた愛犬の写真はきちんと専用のバインダーに入れて本棚へ。
昔の男からもらったもの? わたしは終わったら即処分するタイプだったのでそれほど残ってはいなかったけど、引き出しから出てきた写真は燃やし、アクセサリーボックスにしまい込まれていた指輪は燃えないゴミに。
過去を美しく思い出す必要なんてない。
身軽になるために邪魔なものなんて全てヘドロだ。
毎週二回のゴミの日は、パンパンにはち切れそう40リットルのごみ袋を、4袋捨てていた。重たくて一人で何往復もした。こんなになるまでため込むなんて馬鹿すぎる。いや、今捨てているのはわたしの「馬鹿」の部分だったのかもしれない。獣道を歩かなくても、足に何も当たらなくなっていく床。住所を与えられた必要最小限の物たち。詰め込みまくって開かなくなっていた服の引き出しには、6割しか入っていない。中身は春物と夏物と秋物がまとめてケースに入っている。だって暖かい季節って、布が薄いじゃん。そんなにとっかえひっかえ、必要じゃないじゃん、服。冬物はニットがかさばるのでそれだけで一つケースを使ったけど、それぞれの季節で開けるケースが一つだけ、というのは生活のクオリティを上げた。朝の支度がスムーズ! 家事の中で一番嫌いなのが洗濯で、畳んだ洗濯物をクローゼットにしまうのも大嫌い。それが、何も考えずにケースひとつにまとめて入れられるようになったの、本当に生活を根本から変えた。楽ちん!
オタクらしいグッズは一つの棚に収まるまで。飾る場所も限定。あちこちに分散していた本だってほぼ本棚に入っている。(今積読が増えまくってるけど!でもこれは徳を積んでいるのと同じだから……ダメ?)
かつて好きだったジャンルのグッズは格安でメルカリに出した。今好きな人に有効活用して欲しいから。
捨てに捨てた。5割のモノを捨てた。
本当はあと2割減らしたいと思っている。
減らしたい理由は「いつかここから動きたいと思ったとき、ひょいと身軽に引っ越しがしたい」から。現実引っ越しの予定はたっていないけど、もしかしたら独り暮らしするかもしれないし、誰かと住むかもしれないし。東京に出ていくかもしれないし。地元を離れるには年をとってしまったけど、絶対に東京で独り暮らしする夢を叶えたい。
これ、ムーンプランナーさんの言う「生卵」みたいな夢なんだ。やってやれないことはない(かもしれない)と思って、ここに記しておくよ。
言うだけタダ!
物を減らすとかわりに何かが入ってくる、とはよく言われること。
断捨離を順調に進めたわたしに入ってきたのは、強烈な希死念慮だった。部屋がきれいになるにつれ、消えたさはどんどん増していき、前向きに進めた断捨離は終活の雰囲気を帯びていた。わたしが消えても問題ないように、後に残った人が私物を片付けやすいように。預貯金の計算をし、家族葬ならこれくらい必要だから、もう少し残しておかないといけないなあ。など考えて過ごすようになっていた。
価値のあるものは自分で処理。残ったものはまとめてゴミにしてもらえればいいな、など断捨離の基準も変わっていって、部屋はどんどん綺麗になっていく。鬱病だったり、希死念慮がある人にはわかってもらえると思うんだけど、身辺整理って、すごく心が落ち着きませんか?
こういうとき、無理やり前向きになっても全然無駄。
抗わず、淡々と日々をこなして、希死念慮が消えてくれるのを待つしかない。何が自分を救うのか、そんなの誰にも、自分にだってわからないのだ。
それが今年の4~6月。
せっかく断捨離ができるくらいまで脳が回復したのに、強烈な希死念慮に覆われてしまったわたしを救ったのが、推しの存在だった。
断捨離をすすめスペースのあいた部屋と、空虚に近いからっぽになった心と頭に、ひゅーん、どすん!と入ってきたのが「推し」だった。
希死念慮で麻痺した脳に、推しの存在が電気刺激になって、びりびりびり!と脳のパルスを動かし始めた。自前では動かせなくなった脳に、外から電気刺激を入れるって、理に適ってるような、そうでもないような。それはともあれ、強烈な存在感のある推しはわたしを動かし始め、前述した環境にわたしを置いた。
徐々に回復しつつあったわたしを最初に動かしたのは「自問自答」とあきやさんの言葉。そこから動き始めた断捨離で一度自分がからっぽになり、その隙間に推し様の存在がエネルギーとして入りこんでいる。
全てが上手い具合に絡まりあいながら、今のわたしをここまで押し上げた。
効いた。効いた。本当に効いた。
薬より効いたなんてことは言えないけど、でも今まで試してきたもののなかで一番わたしを回復に導いたのはこの流れだ。
自問自答して転職を決める人が多い、と聞いたことがあるけど、わたしもその中の一人と言えるかもしれない。
自問自答は人生を「変える」とまではいかないかもしれない。でも確実に人生を動かすことができるものだ。
ファッションが人生を? と思う人はこれを読んでないと思うから、大げさに言っちゃうけど、わたしにとっては大きな真実。
スキクロに出すにはまとまっていないエッセイだけど、今年の総括としての意味をこめて、今回はこれをnoteにまとめておいた。
後夜祭とか、祭りのあとに、これを読んでもらえると嬉しいな。
それほど内容が濃いものじゃないからね。
ここまで読んでくれてありがとう。
スキクロ開催おめでとう。
たくさんの自問自答ガールズとあきやさん、そしてわたしに幸あれ!
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