虚空に負けた日

 雨の日曜日。私は空とにらめっこしながら家を出た。台風の影響か、晴れて暑くなったと思ったら急に雨が降ってくる、といった不安定な天気の一日だった。おかげで私は週末の習慣としている散歩に行けぬまま、夕方を迎えたのである。

 三時過ぎに降り出した雨はひと段落着いたようだ。私は折りたたみ傘をカバンに忍ばせ、湿ったコンクリートの上をずんずん歩き始める。まもなく、赤ちゃんを抱いた見知らぬ若いパパが道路に出て赤ちゃんをあやしているのが見えた。
 こんな天気だ、赤ちゃんも一日中家の中でさぞかし退屈していただろう。私は十メートルほど手前から赤ちゃんの様子を窺っていた。赤ちゃんはなぜか誰もいない空に向かってしきりに手を振っている。それも一か所ではなくあちらこちらに。きっと手を振るのが好きなお年頃なのだろう。しめた、と私は思った。あの様子ならば私が手を振れば喜んでくれるに違いない。私は子供好きだ。子供が相手にしてくれたら嬉しい気持ちになる。
 はやる気持ちを抑えつつ、私は適切な距離を取って親子のそばを通った。案の定赤ちゃんは突然現れた生身の人間に興味を持っている。しめしめ。私は満を持して赤ちゃんに手を振った。「バイバーイ」の掛け声付きで。

 当然赤ちゃんは嬉しそうに私に手を振る、はずだった。しかし台風の合間に散歩をする四十代女に違和感を覚えたのか、その可愛い手をピクリとも動かさず、じっと私を見ている。予想外の展開に私は思わず結構大きめな声でこう呟いた。「あれっ? 」
 そんな展開にいたたまれなくなったのか、パパは赤ちゃんに「ほら、バイバーイって。」と我が子にお手ふりを促した。しかしこの子が空気を読むようになるのはまだ先だ。相変わらず奇怪なものを見る目で私を見つめている。私は懲りずにもう一度手を振りながら思った。いや、私そんなにおかしい感じじゃないでしょうよ。どうしてさっきまで何もないところに手を振っていたのに、私が手を振ったら固まっちゃうのさ。

 結局赤ちゃんは最後まで不思議なものを見る目で私を見つめ、パパは気まずそうに私とあいさつを交わし、私は足早にその場を去った。虚空に手を振っていた赤ちゃんが、私には振ってくれなかった。
 私は負けたのだ……虚空に。

 二人が佇む通りを右に折れたところで、ぽつりぽつりと大粒の雨が降ってきた。私はかばんからのろのろと折り畳み傘を出して広げる。雨はどんどん強くなってきて、私は仕方なく家の方向に向かって歩き始めた。虚空に負けた挙句、雨にまで降られて、散歩は中止。

 なんて日だ。

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