不死を考える
さっき、動画を観ていて興味深い話を聞いた。
確たる証拠はなく、あくまでも証言のみの話だけれど、太平洋戦争末期のころに日本軍とナチスドイツが共同で『不老不死の人間』をつくるべく、孤児院の子どもたちを材料(酷い言い方だ)としての研究を行っていた、らしい。
結局、それは原爆投下、降伏によって有耶無耶になってしまうのだが、そのときのドイツ人科学者のうち4人は帰国を選ばず、行く先は分からないとのことだった。
子どもたちが材料なのにも理由があって、それはなんと『老化のスイッチを切る』ためなのであると。
つまり脳が老化のスイッチを押す → 老いて体が寿命を迎える、と彼らは考えたらしい……という話だった。
だから、まだ老化のスイッチが押されていない子どもたちがチョイスされたらしい。
らしい、ばっかりだなぁ^^;
どうやってスイッチを切るかって、もちろん物理的に。脳外科手術によってだ。
まあ、こんなこともあったかもよって話。
物証がないので、これ以上突っ込めない。
この手の話を聞くといつも思う。
不死なんざいらねえよ、ってね。
命は限りあるから美しいし、愛おしい。
ただのべつ幕なしにだらだら生き長らえるのは人間でも動物でもない。モンスターだ。
時代が下った今も、不死への憧れは消えない。
くだらねえ。
中国ではAIで死者との会話ができるサービスがあるらしい。で、その死者はちゃんと加齢するらしいよ。
将来的には偉人や著名人たちをAIで(あくまでも仮想現実上だけど)不死の存在として残そうという話もあるみたいね。
ああ、阿呆みたいだ。
そこに彼らの魂なんかないんだよ。
だってそれ、ただの贋物なんだぜ。
誰か関係ない人間の意図が組み込まれてるかもしれない、純然たるその人である証拠なんかどこにもない、ただのAI。
思い出は共有できるかもしれん(身内なら)
見守ってくれる(ようなことを言ってくる)かもしれん。
そんなものに騙されて縋り付くようでは、世も末だよ。
故人をその人間たらしめているものはなんだ。
思い出の共有なんかじゃない。
いつまでもめそめそと泣く遺族を見守ってくれてるかどうかでもない。
口当たりのいい言葉を、その人っぽい言葉でくれるのかどうかでもない。
言葉にできない、その人の精神(心)と体に流れるエネルギー。
それだけなんじゃなかろうか。
🖤🖤🖤
私自身、人生の折り返し地点にちょうど到達した辺りだと思うんだけど。
エンディングノートには書いとこうって思ってるの。
胃瘻は止めろ。延命処置はすな。だって、しぬときはさくっとしにたいもの。
あと、AIで私の贋物を作るな!ってね。
誰だったか(著明な人だったかも)が、自分がしぬことで忘れられてしまうのが怖い、と話していたのを覚えている。
そーゆーのが不死への憧れをつくるんだろう。
あはは、価値観が違いすぎて笑える。
永遠に変わらない世界なんかつまらなさすぎて、こっちがしんでしまいそうなのに。
世界は変わるから面白い。
100年後の世界は、私のことなんか誰も知らなくて、もう今これを書くのに使っているスマホなんか誰も使ってないかも。
いや、むしろ人間なんかもう地球に存在しちゃいないかもしれないよ?
1000年経って、今の既得権益を受けている層の子孫たちがずっと強者であり続けて、何も変わらない世界なら。
私がちょっとした神になって、派手な洪水でも起こして滅ぼしてやることにしようか。
どうぞ善き一日がありますように。