
魚座新月に考えたこと
今日2025年2月28日、9:45、空では魚座新月を迎えた。
そんな私は実は昨日が誕生日でね。
二重円で進行図を重ねると、ネイタルの太陽に進行図の新月がほぼほぼ合になる。
実際、この配置は人生で一度二度あるかないかの珍しい配置であるらしい。
その配置で誕生日を迎える人には、きたるこの一年はとても意味のある、特別な一年になるらしいよ。
少しこの配置がどんな意味をもつのか考えてみたので、個人的な備忘録になってしまうけれど、少し書き残してみようと思います。


この新月のサビアンシンボルは、
魚座10°「雲の上の飛行家」
良心に溢れた心で、世界の美しさを捉え直してみる度数。
✵✵✵
個人的にはずっと世界は冷たく険しいものだと、そう思って生きてきた。
IC蠍座は「基盤を大事にする」とか「深い繫がりに支えられる」ことを意味するのに、私は精神的にずっと根無し草だ。
きちんとした両親も揃っているし、同居の祖母もいる。下に弟もいる。経済的に苦労したわけでもない。何不自由のない子ども時代だ。一見したところでは。
だが大人たちはみんな仲が悪かったし、父親はギャンブラーだ。母親は仕事だったし、弟の面倒はほぼほぼ私がみていた(弟はほとんど年子だ)
結果的に家族の間でバランサーの役割をしていた私は、どこかがなにか擦り切れてしまっていたのかもしれない。
昭和時代はどこの家庭でも男の子、長男が手厚くされる傾向にあったこと、私が両親にあまり似ていなかった(隔世遺伝が強かった)のも災いした。
多感な時期に通った学校は荒れていたし、仲の良かった友人は転居などで疎遠になっていく。
私も地元を出てしまったし、仕事をしていた業界はなかなかに競争の激しい世界だったので、信頼できる人間関係は作りにくかった。
いつの頃からかずっと、なにか「拠り所」になるものに憧れていた。
唯一無二の関係性が眩しかった。
誰かの「一番」になりたかった。
けれど。
手に入らないと知りつつも求めたそれは、どれもみな表面だけのよく似た紛い物だった。
結果、私はそれを求めるのを止めた。
自分は自分が幸せにすればいい。それだけだ。
✵✵✵
この蠍座ICのすぐ横に天王星が鎮座している。
なかなか基盤をうまく作ることができなかったのは、これが原因なんだろうか。
そういえばASC 横にライジングスターの土星もくっついている。
土星が与える印象は真面目そうな人、厳しそうな人。堅苦しさ。
それが嫌だから、年相応な服装は敢えてしないでジェンダーレス寄りの格好ばかりしている。
でもそれはなかなか拭いきれなくて、こんな場所でこんな堅苦しい理屈を捏ね回してる。
もっといえば同じ場所に小惑星Pallas(ギリシャ神話では知恵と勝利の女神だ。それがASC 横についていることで中性的な見た目が示唆される)と小惑星Freja(これも北欧神話ではなかなか好戦的な伝説をもつ女神で、Ordinの奥さま)がついている。うーん。
土星がライジングスターになっていると、うまく誰かを頼れなくなる、甘えるのが下手になるとはいうけど……この小惑星たちもそれを補強しているような。
ASC 横の配置とIC 横の配置の二重苦が齎したこの状況は、どうあれ宿命的なモノなんだろう。
ならばもうどうしようもない。
それも自分のものとして、引き連れて生きるしかないんだよね。
西洋占星術を勉強し始めてからも、このIC蠍座とMC牡牛座の意味はしばらく理解ができなかった。
理屈としては理解できるけど……
MC牡牛座9°のサビアンシンボルは「赤十字の看護婦」で、意味としては「自分に自信をもつこと」「正義感の強さ」だとか「自立」など。
たいしてIC蠍座10°のサビアンシンボルは「親睦夕食会」でその示唆するところは「チームワークを大事にする」「仲間との絆を大事にする」「自分をきちんともつ」などだ。
教科書通りの訓示なら「依存はいけない、自立しよう」だけど、そもそも依存の仕方さえ分からない私にどうしろと?
自立ならしてるよ、とっくに。そもそも頼りにできる相手さえいないんだから。
なんか腹が立って……それっきり深読みはしなかったんだけどね。
✵✵✵
でもね、分かったんだ。
基盤……基盤って、自分が「基盤である」と思えたもの、それが「基盤」なの。
親とか、彼氏、夫など、いわゆる基盤の定番といえる人たち。
私はそのなかに「基盤」と思える人を見つけることができなかったのは、そういう運命だったんだってこと。
「基盤」は見つけられたよ。結果からいえば。
だけどそれはいわゆる定番の基盤ではなかったし、勝手に私が基盤だと、そう思ってるだけ。
「仲間を大切にする」「チームワークを大切にする」それは分かっているし、実践してる。
でも、だからといって彼らは心の支えにしてずっと生きていくほどの深い繫がりではない。
そこまでの気もちも持てない ── 私は気もちの冷たい人間なんだろうか?
そう悩んだ時期もあった。
いやでも、きっとそれは違う。それでいいんだ。
それは絶対に間違いなんかじゃない。
答はひとつじゃなくていいはずだ。いろいろな関係性や信頼の在り方があっていいはずだ。
深い繫がりに、基盤になる実在に、憧れ続ける必要なんかないし、そんな誰かを見つけられないことは悲しいことでもなんでもない。
見つけた繫がりが、基盤が、きちんと基盤として今の私を支えているのなら、それでいい。
そして、これが普通であるのかどうかに囚われず、今の自分に自信をもつこと。
それがICとMCが私に提示していたものなんだろう。
だから魚座新月に手放すもの、それは。
「普通は〜……」への囚われと執着。
自分の外に基盤を、軸を求めること。
それが今回の魚座新月における、私に提示されたテーマだ。
本当の意味での自立とはなんだろうか。
軸を自分自身のなかに確立すること。
「異質」であることを恐れないこと。
「同質」であることを求めないこと。
✵✵✵
今回の魚座新月とネイタルの太陽が重なる意味はそこにあったのだろうか。
私の太陽におけるサビアンシンボルは魚座11°「光を探す男たち」
端的にいえば、求道者の度数だ。
私もまた、光を求めていた。
細い道を祈るように辿ってきた道だった。
だけど、それはいつもそこにあったんだ。
光はここにある。
私のなかに。心のなかに。
私が光だと思ったものが、私の光だ。
占星術的には今が大きな時代の変わり目だ。
いつかも書いたけれど、2,000年に一度のポイントに私たちは今、立っている。
このタイミングに、この特別な新月を迎えられたこと。
このことに私は心から感謝したいと思う。
2,000年にひとりならば、私のような者がいてもいい。こんな人生があってもいいだろう。
私はもうなにも恐れない。
真っ直ぐに前を見て、この時代を泳いでいく。