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『Tick Tack』〈散文詩〉

ソファに崩れ、顔を埋めていた。
もう気づけば外の工事の音も消え、時計の針の音だけがこの部屋に響いている。
窓の上にある、先月の誕生日に貰ったヴィンテージの掛け時計。
今は何時になったのだろう。
外はもう暗いのだろうか。
目を開くのも煩わしい。
ほっぺたはもうカピカピだ。


長い時間ずっと同じ体勢でいたから体はガチガチに固まっていた。
伸びをして、ソファの背凭れの隙間に手を突っ込んだ。
すると、なぜだか指先になんの感触もない。
触れるものが何もなかった。
さらに奥に突っ込んでみても何もない。
確かに背凭れもその後ろに壁もあるはずなのに。
頭も突っ込んでみる。
鼻が隠れ、顎が隠れるまで入っても、
胸元まで入っても、
床を蹴って腰まで入っても、
どこまでも突き当たるものがない。

ついに足のつま先まで入ると、
生ぬるい液体の中に身体が浮いた感覚があった。

ここは海の中か?
いや、息ができる。
なんだか外界よりもずっと息がしやすい。
なんて心地がいいんだろう。
あたりは一面の闇。
なにも見えない。
なにもないのか。
闇の中に意識だけが漂っているのか。
しかし体は手で触れれば確かに足の先まで存在するようだ。
もがけば移動も出来ているようだった。
どちらが上で下なのかもわからない。
じっとしていても何も起こらないから、
ただとりあえず闇の中を泳いでみることにした。

しばらくすると、薄ぼんやりと遠くに何かが見えた。
それは、大きなトンネル。
近づくほどにその巨大さがわかった。
壁に触れる。
壁には何か文字のようなものが刻まれているけれど読むことは出来ない。
はるか昔に滅びた言語か、ずっと先の未来の言語か。

なんて朧な光なんだ。
いくら進んでいっても明るさに変化がない。
壁の凹凸を左手で撫でながら足をばたつかせて進む。
この先が果たして出口なのかもわからない。
手のひらに触れる壁の凹凸が気持ちいい。
———今、この身とこのトンネルだけがこの世に存在している。


壁伝いに進んでいると、
途中、壁とは違う異質なものに指先が触れた。
顔を近づけてみると、
それは壁に埋め込まれた小さなガラス玉だった。
この暗さでは見えないはずなのに、
じっと見つめていると、キラキラと光っているのを感じた。
目に見えたのではなく、感じた。
たしかにガラス玉の中で、青や黄や緑や赤が鮮やかに、キラキラと渦巻いていた。
とても美しい。
そのガラス玉を取り外して持っていこうとしたが指がすべって取り外せない。
周辺の壁を叩き割って取り出したかったけれど、ここには叩き割る道具すら、石ころ一つも落ちていなかった。
どうにかして割っても、もしかしたらこの玉ごと割れてしまうかもしれない。
じっと見つめながらあらゆる策を考えたけれど、
とうとう諦めて先に進むことにした。



今はどれほど進んだのだろう。
あのガラス玉からどれほど離れたのだろう。
気がかりでならない。
あそこに、あの壁の凹凸の中に、今もガラス玉が存在する。
今もキラキラと輝いているのだろう。
———このトンネルと、この身と、あのガラス玉。


いや、もう存在していないのかもしれない。
闇に溶けてなくなってしまったかもしれない。
それとも、後に来た誰かが取り外す策を考えついて持ち去ったのかもしれない。
ああ、そうだったらなんて惜しいことだろう。
でも、引き返してもどうにもならない。
こうして進んでいる間にもガラス玉を取り出す方法を考えていたけれど、答えは見つからなかった。
また引き返してガラス玉があったとしても、ただどうすることもできぬまま、ガラス玉のその美しさに見惚れていることしかできない。
そして、なぜだか引き返してはならないという直感があった。



どこか遠くに照らす光があるから、
このトンネルはこうして薄ぼんやりと姿を見せているのだろう。
わからない。
でも、とりあえず、このまま前に進むことにする。



いつからか、闇の中でまばたきをする度に、あのキラキラとした輝きが一瞬目に映るような気がしていた。


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