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弁当戦争〜女子の生き様〜

以前、勤めていた会社の男性社員がお昼におにぎりを食べていた。そのおにぎりは炊き込みご飯で作られていた。それを見た私は「奥さん、頭いいね。忙しい合間にサッと食べられるし、具がいっぱい入っているから栄養満点で、健康にもいいね。」とほめた。

それを聞いていたもう一人の男性社員がなぜか怒っていた。どうやら、その男性社員の奥さんはお弁当を作ってくれない人だったらしい。

いやいや、人の家は人の家だろう。それぞれ家庭の事情なんて違うものだし、なんて視野が狭い人なんだろうと思った。

案の定、お弁当を作らない奥さんは赤ちゃんを出産したばかりで大変だったらしい。わざわざ、赤ちゃんを連れて会社に遊びにきて、私の弁当をしっかり見て帰っていった。

私は初めから「世間話」としてお弁当のことを褒めていたのであって、お弁当作ってくれなくてかわいそうなんて100%中の1%くらいしか思っていない。

主婦はお弁当作る以外に大量な家事があるのだから、毎日それをやってくれるだけでもいいお嫁さんであると考える。

なので、〇〇さんはあんな綺麗なお嫁さんがいるならもっとお仕事頑張らないとねと、新入社員の男性に言ったら「ギョッと」した顔された。

この人たちはなんて考え方が狭いんだろうと思った。
そのころの私の口癖は「大人なのにそんなことするんですか?」とか「田舎だから?」とコミュニティーの狭い世界が理解できず、そんなことばかりを言ってしまっていた。

当然、えらい嫌われることになる。しかし、私は嘘をつけない性格なのでなおしようがなかった。

言っておくが、田舎には田舎の良さがあるし、大人気ない発言にも何か理由があってのことだと理解した上で言っていたのだ。
本音と建前を使い分け、察することを暗黙の了解にしている女社会に全く適応できなかった。

イエスかノーかはっきり言わない女社会に弾き飛ばされることになる。


なぜ、この人たちははっきり言わないのか。それは、虐待やいじめなどに他人から傷つけられてきた人たちに見られる特徴とリンクするらしい。

例えば、いつも自分を否定されて育ってきた人は、自分の意見と違う意見を持っている人を見ると「自分が否定された」と感じがちだということが知られている。

また、人から虐待的な扱いを受けてきた人は、人を見たときにまず「自分の敵か味方か」を区別したがる傾向にある。

心身の安全に関わるとても重要なテーマだからだ。

いつも自分を否定されて育ってきた人は、もちろん、自分の気持ちを率直に打ち明けることが苦手だ。

自分が傷つかないように、持って回ったものの言い方をしたり、「正論」風の言い方をしたりする。

また、他人から傷つけられてきた人は、「自分の領域」と「他人の領域」の区別がつきにくいという特徴もある。

自分を守るために、いつも相手の顔色を読みながら生きてきたような人も多いため、「察する」ことが当然のことになってしまい、「伝えなければわからない」ということを知らないのだ。

🍱🍱🍱

えっ?そうことなの?と私は思ってしまう。自分と他人の意見が違うなんて良くあることだし、多少傷つくことはあっても本当の評価を言ってもらいたい。後々、その嘘の評価で苦労するのは私自身である。

私はよっぽど他人に否定されて生きてこなかったのだなと親に感謝しなければならない。

そうなると、私は無自覚にいろんな人を傷つけるようなことを言ってきてしまったと言うことになる。なんで、あの人は勝手に怒っているのか、勝手に傷ついているのか頭をかしげたくなる場面がいくつもあった。

この世の中は競争社会である。ある部分、人に劣っていると感じてもそれをバネにして頑張ればいいだけの話である。
勝ったり負けたりの繰り返しが人生だと思うのだが、それで、「私傷つきました」って被害者面して、時に裏で手を繋いで私を攻撃していい理由にはならないと思うが。大人の癖に思ってしまう。

はっきりと言わない方が悪いと思ってしまう私の方が悪者なのだろうか?と最近気づいた。


参考:「整理整頓 女子の人間関係」精神科医 水島広子


↓こちらでも記事を書いています。興味のある方は読んでみてください。


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