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〔105〕華頂家伝と國體史観の照合(3)

 〔105〕華頂家伝と高松宮伝授國體史観の照合(3)
 華頂チャンネルなどで華頂家伝の概容を探った落合が、すべてを把握しない内に早速実行したのがこのnoteです。
 内容は、落合が高松宮妃殿下から(舎人を通じて)伝授を受けた國體秘事と華頂家伝の照合と、これに関する落合の洞察です。⑥まで済ませましたので、この〔105〕は⓻から始めます。

 
 ⑦博一さんの義祖母であった常子はハワイ人女性で体格が優れ、地域の女相撲では毎年勝ちっぱなしであった。勝者は「おてもやん」に扮しあるいは「ドジョウ掬い」などを踊るのが慣習で、祖父博信は「女相撲とおてもやんの真似、ドジョウ掬いだけは、何とか止めてほしい」としばしば常子に懇願していた。
 
 その後、時間があるたびに華頂さんの発信をアット・ランダムに眺めている落合は、その中から得た情報によりもとの内容を修正しながら「華頂家伝」に関する洞察を進めております。⓻についていえば、戦後人質としてアメリカに差し出された(元)侯爵華頂博信氏は、アメリカで常子さんと暮らし、昭和三十六(1961)年に帰朝したようですが、帰朝して住んだのは鞆の浦か佐世保か未詳です。

華頂侯爵家の始祖となった博信氏

 ちなみに霞会館編集の『平成新修・旧華族家系大成』では、「伏見宮家の第三男子博信王は大正十三年実兄博忠王の薨去により断絶した華頂宮家の祭祀を継承し、大正十五年親戚に降下して華頂の姓を賜り侯爵位を授けられた」とあります。
 これによると、元皇族(伏見宮三男)で臣籍降下して華頂侯爵家の始祖となった博信氏の跡継ぎは昭和五年6月4日生まれの長男博道で、次男博孝が伏見宮家を継いで邦英王を称し、女子は治子が松岡震三夫人となり、孝子は未婚のようです。
 ここで、博信侯爵の令嬢治子が日独伊三国同盟で有名な外相松岡洋右の四男松岡震三(1923~2010)に嫁したことが落合流國體秘史を構成するジグソー・パズルのピースです。
 落合が昭和三十九(1964)年に住友軽金属に入社する際、親会社の住金に松岡洋右の子がいると聞きました。当時四十二歳で部長級だった筈ですが、やがて昇進して専務取締役に至りました。
 松岡震三は佐藤栄作の伯父で後藤新平と佐藤栄作を繋いだ人物ですから紛れもなく國體奉公衆です。前掲書によれば華頂侯爵家の後継者は昭和五年生まれ博道氏です。生死は未詳ですが、霞会館では博道氏とその子華頂尚隆氏(昭和32年生まれ)を華頂家の当主として扱っています。

 Wikipediaはこれを基に、
 「現在、
YouTubeTwitter(X)で華頂博一という名義で活動している人物がいる。この人物は自身を「旧皇族 華頂宮当主」であるとし、「高祖父・伏見貞愛、曾祖父・伏見博恭、祖父・華頂博信、父・博祐」と自称している。しかしながら、華族令による華族全家の系図を載せた『平成新修旧華族家系大成』などには、博一自身や、博一の父とされる博祐の名前は確認できないため、あくまでも自称であり、実際の末裔ではないと考えられる」
として詐欺師扱いしています。

 これを一見した落合は当初、博一氏を「妖しい人物」と疑いましたが、そもそも当のWikipedia自体、晴信氏と博道氏を混同していて、アテにならないことから、國體舎人に打診したところ疑念は晴れました。
 ようするに博信さんは、一夫多妻主義で家女房などに多くの子を産まし、家系を何流にも分けて男系を確保する伏見宮家の伝統にしたがって生まれた「隠し子」ですから、『平成新修旧華族家系大成』などには登場しないのです。

落合莞爾・華頂博一氏

 博一さんは昭和三十四(1959)年に佐世保で生まれたそうですが、生母はむろん常子ではありません。
 生母が誰なのか博一氏も知らないのは「華頂家の子供は生後72日で生母から引き離され、三歳ころに2か月だけ生母と暮らすことを許され、その後は一生会うことがない」のが掟だからです。

 ところがここでまた問題が生じます。昭和三十六年頃までアメリカで人質生活を送っていた博信氏に昭和三十年生まれの娘幸子さんがいる事ですが、そもそも華頂本家に関心がないの落合は、これ以上考究せず、ただ元皇族華頂宮の当主は、博一さんの言を信じて博一氏、と考えています。

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