見出し画像

〔239〕華頂博一こと岡崎祐一氏の真相を論じ併せて大小メディアの誤謬を糾す(6)12/16修文 12/17文章を改良しました。2/18末尾部分表現改良

〔239〕華頂博一こと岡崎祐一氏の真相を論じ併せて大小メディアの誤謬を糾す(6)
 数日前に岡崎祐一さんが「紀州文化振興会」顧問の某工学博士の携帯電話に数枚の写真を送ってきました。博士が「紀州文化振興会」に転送してきたその写真の中に落合を真底驚かせるものがありました。それは〔237〕に掲げた「写真A」と「写真B」が驚くべき「國體秘実」すなわち皇室の秘史を白日の下に曝しているからです。
 「写真A」の被写体については〔238〕で述べましたが、岡崎祐一の説明では、中学時代の祐一がもたれかかっている女性は祖父岡崎秀夫の後妻常子(旧姓常盤)ということです。
 この女性は和装の普段着を着ていますが、かなりの縮毛で、体系からしても普通の日本女性に見えないのは実は「ハワイの王女」だからです。
 明治十四(1881)年に来日したハワイ王国のカラカウア王が明治天皇と会見して日本移民のハワイ入植および山階宮定麿王(伏見宮貞愛親王の弟・のち東伏見宮依仁王)と自分の娘カイウラニ王女との婚約、さらには「日本との合邦」を申し入れたことはよく知られています。
 帝国主義段階に入ったアメリカが狙うハワイを日本が併合することは、いま考えても理想的ですが、当時の日本の国力でアメリカと競り合うのは到底ムリ、と考えた明治天皇はこれに応じなかったのですが、そ粉に潜む深い理由については別に説明することにします。
 カラカウア王が明治二十四(1891)年に崩御すると、妹のリリウオカラ二が王位を継いでハワイ女王となりますが、アメリカの姦計によるクーデタなどが重なり、明治二十八(1895)年にハワイ王国は壊滅させられます。
 かくして廃絶されたハワイ王家の中から選ばれて日本に送られた王女が日本で常盤常子と称したのです。
 岡崎秀夫の戸籍謄本では、常子は常盤儀三郎とテイの長女として明治三十九(1906)年九月二十日に出生し、昭和七年八月二十二日に岡崎秀夫と結婚し、長崎県北松浦郡大野村瀬戸越免1313番地の2の常盤儀三郎戸籍を脱して秀夫の父岡崎芳吉の戸籍に入ります。旧民法は大家族制で、戸主のもとに三世代が入っているのが普通で、秀夫も父芳吉の籍にいたのです。
 大野村はその後佐世保市に編入されて現在は同市大野地区となっていますが、常盤儀三郎は大分県東国東郡姫島の旧家常盤家から出た人物です。
 昨年紀州狸庵を尋ねてこられた岡崎祐一氏が、開口一番「ハプスブルク大公と伏見宮の関係」を語り始めたので、落合史観の裏付けがこのような形で発現したことに感銘した落合は、その後、昨年九月16日に東京目黒の雅叙園で「戦略思想研究所」が開いた講演会で、華頂博一こと岡崎祐一氏と公開対談をした落合は、落合史観の新たな資料が出てきたと感じました。
 ところがその後体調が芳しくなく、やむなく延期したままで坤為地に至りました。
 

写真A



備後安国寺門前にて岡崎祐一氏と落合莞爾


岡崎祐一氏(華頂博一)氏のルーツ


写真B

 
ここから先、有料領域です。

ここから先は

4,990字

¥ 500

期間限定!Amazon Payで支払うと抽選で
Amazonギフトカード5,000円分が当たる

いただいたサポートはクリエイター活動の励みになります。