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大室寅助が選ばれた理由2

〔2〕令和四年五月二十九日 /六月十日改訂
拙論の内容はすでに既刊の拙著で述べたからここでは略するが、偽装崩御される孝明天皇の後継がなぜ、長州藩奇兵隊士大室寅助でなければならなかったのかという点については、十分に述べたとは言えないと思う。
そもそも一君万民のわが國體は、皇位に就く資格を神武天皇の遺伝子を有する男子に限るのが原則であったが、嘉暦三(一三二八)年に一大改正がなされ、皇位継承資格をさらに絞って大塔宮護良親王の男系子孫に限ったのである。
これについても拙著『南北朝こそ日本の機密』に詳述したから、これ以上は控えるが、ここで明言するのは「皇位継承に際し護良親王の直系男孫であれば国籍を問われない」ことである。付言すれば皇族は日本の戸籍を有さず、いかなる外国籍にも属さない。
さて孝明天皇の偽装崩御は、ワンワールド國體勢力が開国にあたり企てた綿密且つ壮大な計画の一部で、目的を一言で言えば、本邦が世界史の大舞台に登場するための条件整備である。
鎌倉時代以後、本邦では國體の中枢たる天皇家が政体天皇と國體天皇に機能分化し、政体天皇は自ら権威を保ちつつ大政を幕府将軍に委任する一方、上皇が院政を敷いて國體を担う形であった。
幼くして皇位に即いた天皇が、いまだ青年のうちに皇子に譲位して上皇になり國體事項を統裁する院政が伝統的な政治形態であったが、この状態は開国によって到来する外国勢力の付け入る処となる恐れがある。
仁孝天皇(一八〇〇~一八四六)が光格天皇の崩御(天保十一=一八四〇)後も譲位せず天皇のまま崩御したのは、このような事情により、「天皇一本化」を図ったと見るべきであろう。
しかしながら、宮廷を天皇で一本化した場合には、宮中の祭儀・儀礼と國體事項の統裁を御一人で担われる天皇のご負担が過重になることから、國體と政体を分ける必要がある。
政体・國體の分離の端緒は古く平安時代に生じた院政である。律令制口公民制が形骸化する中で、本来公領であるべき荘園の摂関家による私有化が進むのを國體上最大の変事とみた醍醐天皇が延喜二(九〇二)に発令した「延喜の荘園整理令」に始まり、幾多の変遷を経て不正荘園の調査・摘発、書類不備の荘園の没収などを行なう「記録荘園券契所」を延久元(一〇六九)年に発令したのが後三条天皇であった。
 藤原氏を外戚としない後三条天皇は、摂関家の進める公領私物化を阻むが、その流れを受け継いだ皇子の白河天皇が退位後三代にわたる代で法皇として政務を総覧し、「治天の君」といわれたことが、國體天皇の俑を成すのである。
 以後、治天の君が國體を総覧し、天皇は祭祀にのみ関与して政治を武家政権に委任する形を取ってきたが、十八世紀も半ばを過ぎて行詰まった国際政治が日本の開国を強く求めるようになると、これに対応するために天皇の政体機能と國體機能を整理する必要が生じたのである。
 かくして孝明天皇は偽装崩御して堀川御所に隠棲し國體天皇になるが、皇太子睦仁親王もこれに随従したので、政体天皇を継ぐべき皇族として、かねて準備されてきた長州奇兵隊士大村寅助が明治天皇として選ばれたのである。

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白頭狸
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