〔129〕田中義一不自然死事件の考察
〔129〕田中義一不自然死事件の考察
昭和二(1927)年四月二十日に内閣総理大臣に就いた田中義一予備役大将(旧制8期)は昭和四(1929)年七月二十四日に辞任し、二カ月後の九月二十九日に薨去します。
田中義一の閲歴については周知として割愛し、ここでは田中の急死と上原勇作との関りなどを述べます。
大正四(1915)年に参謀総長が長谷川好道元帥(草創期)から上原勇作大将(旧3期)に交替すると、参謀総長もこれに合わせて明石元二郎(旧6期)から田中義一(士候8期)に交替します。
大正七(1918)年に田中義一は参謀次長から軍政のトップの陸軍大臣に遷り、軍令系統のトップ上原総長と並びます。陸軍改革運動を指導した上原=田中のコンビが、とうとう帝国陸軍の最高位に上り詰めたのです。
原敬内閣の陸相に就いた田中義一は、シベリア出兵を巡る諸問題ことにニコライエスク事件の対応などから、上原が率いる参謀本部と対立することになり、心労が重なったことで大正十(1921)年に狭心症を発して陸相を辞任します。
関東大震災の直前の八月二十四日に内閣総理大臣加藤友三郎が病死、外相内田康哉が首相を兼摂しますが、八日後に大震災が発生し、山本権兵衛に組閣の大命が下ります。
「虎ノ門事件」で山本首相が辞表を提出したのを受けて、組閣の大命は西園寺西園寺公望の推薦で清浦圭吾に下りますが、貴族院議員が多数を占めた清浦内閣に反発した立憲政友会は第二次護憲運動を起こします。
党内分裂したため総選挙で大敗した政友会の総裁高橋是清は辞意を固め、後任を選ぼうとしますが、有力候補の横田千之助が辞退したため、党外から総裁を迎えざるを得ない状態になりました。
総裁候補として名が挙がった伊藤巳代治や田健次郎は、かつて内紛で政友会を追われた因縁があり拒否、国民に人気が高い後藤新平も自分が立案した「帝都復興計画」を潰した政友会に入る意思はなく、結局総裁就任に応じたのが元陸相の田中義一だったのです。
宇垣陸相に予備役編入願を呈出した田中は、大正十四(1925)年に予備役に編入され、政友会総裁に就きます。
政友会は高橋総裁時代に三百万円の負債を抱えており、総裁就任の条件としてその解決が必要だったので、持参金として政友会に三百万円を持ち込んだ田中義一「陸軍機密費横領疑惑」が生じ、田中は「神戸の金貸し乾新兵衛から借りた」と釈明します。
大正十五(1926)年三月四日の衆議院で、野党憲政会の田中正剛代議士がこの問題を追及し、告発を受けた東京地裁検事局は受理を決めて手続きに入りますが、担当の次席検事石田基が大森・蒲田間の鉄橋下で変死体として発見されたことで手続きが延び、後任の検事正が「証拠不十分」として不起訴処分とします。
「陸軍機密費横領疑惑」の真相は「周蔵手記」により明らかですら、以下に略述して諸兄姉に供します。
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