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〔112〕伏見宮=ハプスブルク大公の世界経略(3)

〔112〕國體ハプスブルク大公の世界経略(3)
 近現代史の謎を追究する落合は、大東亜戦争の落とし処となった幾つかの事態のうち、三点に関して特に強い疑問があります。
 その第一が「WWⅡの後、満洲をシナ(中共)に渡したのはなぜか?
というものです。
 この文章には主語が欠けているので、奇妙な感覚を抱いた方もおられると思います。「なぜか?」より「誰か?」とすべきではないのか!と。
 落合はその「誰か?」を追究して、かれこれ三年になります。初めは、国連を創った連合国のうち、中華民国が実質日本領の満洲の割譲を要求し、他の四カ国もこれを認めたから、と考えていました。
 しかしWWⅡが終わると直ちに始まった「国共内戦」(中国共産党政府と中華民国国民党政府の間の軍事抗争)により、国連が思いもしなかった捩れ構造が発生します。
 捩れ構造とは、支那國體を担う階層が「商人階層」から「農民階層」に移行したことです。支那の伝統的農民社会が國體共産主義の洗礼を受けて、独得の巨大荘園社会としての本質を顕わしたので、WWⅡの前には近代主義が芽生えかけていた支那本部は、たちまち先祖返りして「中華帝国」になりました。
 中国共産党が政体の中核を握るのは、政体が「國體共産主義」に立つ以上当然ですが、官僚組織として公示される党内序列は一応のものです。
 中国共産党本部と行政院を統合して見た中共政府の実態とは全く異なり、
行政院を分担する各部長(大臣)の上に「党の長老」が存在しておるのが政治慣習ですから、彼ら「党員グループ」が事実上國體勢力の中核をなしていると見ることになります。

 これを観て思い出すのは、政体の顕官であった内閣大学士や軍機処大臣に対してさえ、政治的には優勢だった明代の「宦官」です。
 大明帝国と現代中国の政体は、皇帝を「国家主席」、宦官を「中国共産党員」に置き換えれば、構造的に酷似しているようです。

 ちなみに大清帝国は、明時代の國體勢力であった「経済人階層」が、取引安全・家族安泰という既得権益を壊されない形で、満洲人愛新覚羅氏を皇帝に迎えたフシがありますが、形式的には明代のままの「宦官」制が、運用では人数を大幅に削減して政治的権能を発揮させなかったのは、そもそも清朝が被さったことで支那國體の重心の半分が、一時的にせよ「漢族経済人」から「満族軍人」に遷ったからです。
 清末の辛亥革命により崩壊した宦官制度が、その後の民国時代にも、その後の中共時代(現代)にも復活しなかったと見えますが、実は中国共産党そのものが「隠れた宦官制」なのです。
 国共内戦終了後は、国号に「中華」を冠する国家として、「中国国民党政府」と「中国共産党政府」が出現します。
 前者の國體を担うのは中華文明の伝統として「経済人階層」です。後者の國體を担うのは一応は「農民階層」ですが、そのを占める文盲小作農を裏面で操ている者がいたことはたしかです。そは何者か? 魯迅の名作『阿Q正伝』を読めばわかる筈です。

 支那の小作農は社会階層として最下層ですが、人口としては当時の民国人の大半がこれに属していましたから、もし団結すれば、民主主義政体の下では、政体の主導層となれるのです。
 最下層が國體を担う場合、当該社会の社会的エントロピーは極大に達しますが、そこに成立する筈の「熱の死」の平衡状態は、外力の浸透で瞬時に破れ、当該「系」は次の平衡を求めて、流動を開始します。
 
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