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〔253〕博恭王の偽装死と華頂博信=岡崎秀夫の渡米の真相 1/25大幅加筆 1/26字句訂正
〔253〕博恭王の偽装死と華頂博信=岡崎秀夫の渡米の真相
伏見宮に限らず皇族が各地にアジトを作っていたことを落合は以前に國體舎人から聞いています。
高松宮殿下も各地に十か所ほどの秘密御用邸(アジト)を所有されていたそうで、昭和四十七(1972)年の沖縄返還の前に、その一つの沖縄アジトに殿下の密命を帯びて潜入した國體舎人から聞いたのです。
伏見=華頂宮が「鞆の浦」に隠れ家を有していたことは、落合が縷々述べてきましたが、ここでは古えの「穴の済(アナのワタリ)」が変じた「安那(ヤスナ)駅」の後身で鞆の浦の北方十キロにある「神辺宿」と一体をなす「國體特区」として、室町時代に「永世親王伏見殿」が建てられた際に創設されたもの、と落合は推察しています。
伏見=華頂宮は佐世保市にも隠れ家を設けていました。
岡崎家の戸籍謄本をみると、佐世保市山手町と花園町あたりに何件かの別宅が散在していたようですが、山手町771番の家は「博恭王が明治末か大正初めころに建てた」と落合が観るのは、折しも明治三十七(1904)年に華頂宮から復帰して伏見宮の家督を継いだ博恭王(当時帝国海軍少佐)が「伏見=華頂宮」の棟梁として将来の帝国海軍を担うことが決まったのを機に全、国の海軍要所に隠れ御用邸が準備されたものと推察するからです。
この家について博恭王は、家族に「この家はたいへん貴重な材木を使っているので、将来壊すことになっても杉の板だけは取っておきなさい」と言い遺したそうですが、その後に不審火で消失したそうです(不審火については後日検討するつもりです)。
この地の隣人や現在の所有者は当時のことを伝えていますから、陽気が良くなれば、落合は老躯に鞭打って現地調査をするつもりでいます。
佐世保市花園町にも99番地と3番地に家があったことは戸籍簿から窺えます。99番地の地名は企画整理で現在はないそうですが、ともかく地域的には一体です。
伏見=華頂宮邸と云っても本来アジトですから、左傾人が嫉妬と羨望を以て想像するような壮大な宮殿ではありませんし、伏見とか華頂の表札を出していないのは当然です。
博恭王が昭和二十一年八月に東京の仮寓で薨去したと公開情報では発表されていますが、これは間違いなく偽装死です。
この落合の所論に反対する輩は、反証として皇室御用医師の診断書をひけらかすこともあるでしょうが、この輩はそもそも御用医師の「本当の任務」が何なのかを知らずに言い募るのですから、相手すべきものではありません。
あるいは、彼らの背後は「在日米軍配下の政体宮内庁職員」で、こんな時に備えて保存してきた「死亡診断書」を彼らに利用させるために下付することもあるでしょうが、その意図が透けると逆に馬脚が顕れます。
それはともかく、現実は「伏見宮博恭王が昭和二十五年八月13日午前5時40分に佐世保市山手町771番地の岡崎芳吉宅で岡崎芳吉として薨去された」ことです。
帝国海軍の水雷学校教官として終戦まで軍務にあった海軍中佐華頂博信侯爵は「ポツダム進級」で大佐に進級し予備役編入になり、次いで昭和二十一年四月に貴族院議員を辞任、公職追放になりますから、昭和二十五年には無職です。侯爵の身分も昭和二十二年に廃止され平民になります。
妻の不倫密通により昭和二十六年に華子と離婚した華頂博信が、日系米人で終戦直前に帰朝していたルース早川と結婚して渡米するのは昭和二十八年です。
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