〔40〕白頭狸の時務随想 3/13
〔40〕白頭狸の時務随想 華頂博一氏との会談で得た驚異の歴史秘実
令和五(2013)年三月十二日午前十一時、白頭狸が〔39〕を書いていると珍客の来訪がありました。
狸が旧知の某女に案内されたその人物は、昨夜横浜を出て自動車で来たということで、お付き二人を従えておられました。名詞には社団法人日本文化振興会副総裁華頂博一とあり、ご本人によれば、父君は華頂博祐で、昭和三十四年に佐世保の伏見宮博恭王別邸で生れたとのことです。
霞会館発行の『旧華族家系大成(上)』によれば、伏見宮邦家親王の第十四王子博恭王(1874~1946)が妙法院門跡から還俗して帝国海軍に入り、累進して元帥陸軍大将になります。
伏見宮邦家親王の孫として一旦華頂宮を継いだものの本家の当主邦芳王が薨去したため伏見宮に復籍した博恭王の次男博忠王が華頂宮を継ぎますが、
大正十三年に急死して華頂宮家は断絶し、その祭祀を継いだ弟の博信王(博恭王の三男)が大正十五年に臣籍降下して華頂姓と侯爵を賜ります。
今回、狸庵を来訪されたのは華頂博信侯爵の子博裕氏の御子息で、伏見宮博恭王の曽孫に当るわけです。
華頂博信侯は高松宮宣仁殿下と生年が同じで、早生まれの殿下より海軍兵学校(53期)も海大(35期)も一期下です。お顔がそっくりなので、双子ではないか、との噂が囁かれたこともあったと聞きます。
華頂博一さんが狸庵に来られたのは、祖父博信さんから教わったことと酷似する史観を発表している人物の存在を知り、どうしても会わねばならぬと思ったから、とのことです。この前、東京で講演した際に会場へ来られましたが、挨拶を交わしただけだったのです。
会話の中心話題は伏見宮家の伝承ですから、当然ハプスブルク大公関連のことになります。驚いたのは博一さんの方から「周恩来はハプスブルク家の人」と言い出されたことです。
天津南開中学がハプスブルク大公家に関係することを博一さんが知っていたことに、白頭狸は驚きましたが、よく考えてみると驚くのはむしろアチラさんの方で、「狸のごとき市井人がなぜそのことを知っておるのか?」と大いなる疑いを持ったことでしょう。
周恩来に関しては、大東社のポンピドー牧師が謀主となり天津南開中学で養成した三羽ガラスを日本に送りこんできたことを狸が著作で明らかにしてから、数年が経ちました。
王希天と呉達閣(呉滌愆)についてはほぼ明らかにしましたが周恩来について確証が得られない狸は、消去法で「ハプスブルク以外にはあり得ない」との結論に達していましたが、華頂博一さんの言を以て確定としてよいと思いますから、懸案が一つ解決しました。
ここまでくればもう一つの懸案たる「張学良の正体」も、すでに解明されたも同然です。白頭狸が発表してきた落合史観に対するサポートが、このような形で出てこようとは!
しかし諸兄姉がたよ。今回の華頂氏との歴史的会見の成果はこれだけではありませんよ。華頂宮というか本家伏見宮までつながれば、落合史観はもう盤石です。あとは羨望嫉視の輩の下劣な妨害を払いのけるだけです。
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