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〔248〕ワンワールド國體天皇府の最高首脳伏見宮博恭王の事績(続)1/11朝、判りやすくするためかなり加筆・修文しました。1/13文末を修正

〔248〕ワンワールド國體天皇府の最高首脳伏見宮博恭王の事績(続)
 伏見宮博恭王の特異な事績を語るつもりで始めた〔247〕ですが、引用した「上高田日記」の内容が以前より一段と深く理解できたので、紙数が増え
てしまい、本論を〔248〕に持ち越してしまいました。
 因って今より本論に入りますが、その前に、〔247〕で引用した「上高田日
記」の残りの部分を片付けねばなりません。

「ポンピドーなる人物の名はさる人物から聞いたことがある」というと、「今はもうフランス国に帰ってしまった」由。青山学院の宗教の指導者との
こと。上原閣下とはどういうことか、と思う。
 甘粕ーー甘勝 アマカツア(不明)という軍人を伴って帰国した由。一昨年か?(引用終り)

〔解説〕渡辺政雄からポンピドーの名前が出たのを聞いた周蔵が、「ポンピ
ドーの名はさる人物(上原元帥のこと)から聞いたことがある、というと、
「もうフランスに帰りはった。青山学院の宗教の方の指導者ですわ」と政雄が教えてくれたので、周蔵は上原元帥の私邸で何回か見かけたポンピドー
が「上原とはどんな関係だろうか?」と訝しく思いました。
 ともかく、ポンピドーが甘粕か甘勝とかいう軍人を連れてフランスへ帰国
した、と聞いた周蔵は、アマカツという別人かとも思いながら、一応自分が知る甘粕であった場合、その渡仏時期を「一昨年(大正八年)のことか?」と推定したのは、大正九(1910)年一月30日に上原元帥の私邸で遭った時が甘粕との初めての出会いだったからで、それ以後も度々逢っていた甘粕がフランスへ行ったとしたら、時期はそれより前でなければならないからです。
 「上高田日記」はあと少し残っているので、下に掲げます。

 この人物たちは「偵察か」と判断す。
 辺さん云わるに「自分はそこまで深くは付き合わん」とのこと。
 自分は「王さん」と云わず、「周先生」と呼ぶことにする。
 時々來らるる由。普段は四谷城西教会か神田YMCAにおらるる由。
 辺さん「もし閣下などに伝うる気なら 自分を気に掛けないで良い」と云
わる。「自分は別に仲間なわけでないから」との事。
 「云わぬ」と答うる。
 自分も役目以外は遠くにおる事にする(引用終り)。

 大正六年の京都行で呉達閣・周恩来・渡辺政雄と知り合った周蔵は、以来
つきあいが始まったこれらの人物を観察していましたが、結論として「彼らの目的は日本偵察にあり」と判断しました。
 もしもアマカツ(?)があの甘粕大尉としたら、上原勇作と親しいのは自明です。またポンピドーもしばしば上原勇作邸で見かけたことから、この三者を同じ秘密結社の仲間と観なければならないのです。
 ということは、呉達閣・周恩来に加えて王希天も、さらには渡辺政雄もその仲間という事になりますが、政雄は「自分は彼らの仲間でないから、上原元帥に報告してくれても構わない」と言い切ります。
 ここに至って上原とポンピドーが甘粕を含めて秘密結社の仲間と判断した周蔵は、誰の下の結社か分からないが、自分はそれに加わらないでおこうと決意します。
 これを読んだ当初どのような結社か見当もつかなかった落合が、その後ずっと追求を続けてきたところ、今日までに知ったのは、その秘密結社は「大東社」と呼ぶべき政治結社、ということです。
 帝国陸軍のトップ上原元帥も、青山学院の教会の指導者ポンピドー牧師もこれに加盟していますが、実は帝国海軍にもその加盟者がいたのです。
当時、帝国海軍の軍事参議官であった海軍中将伏見宮博恭王こそ、まさにその人です。

落合・吉薗周藏秘史


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