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〔266〕新伏見宮と新閑院宮の対発生と対消滅(1)

〔266〕新伏見宮と新閑院宮の対発生と対消滅(1)
 諸兄姉に質問を発したまま終わった〔265〕の続きとして、その解答から始めます。と云っても、瞬間で解答を出された筈の諸兄姉にとっては蛇足かもしれません。
 答えはズバリ両元帥の「生年」です。同じ安政五(1858)年生れとされていますが、貞愛親王の方が上原勇作よりも七年早く生まれていたのです。
 嘉永四(1851)年(落合推定)生れの貞愛親王を七年遅らせて安政五(1858)年生れとしたのは父の邦家親王です。
 長男晃親王の不行跡の責任を問われて天保十三(1842)年に蟄居した邦家親王の跡を承継したのは、正妃景子が産んだ嫡長男で僅か七歳の貞教親王です。
 この一件は実は仁孝天皇を含めた朝廷の上層部の共同謀議による偽装で、目的は開国に向けて邦家親王の行動の自由を確保することにあったと思われるのは。禅楽と号して隠居した邦家親王がその後も國體天皇として國體国事を采配してからです。
 ところが貞教親王が文久二(1862)年に十七歳で薨去し、その跡を嫡三男の貞愛親王が継ぐこととなります。公称では安政五(1858)年生れの貞愛親王は当年五歳の筈ですが、実際は十二歳です。
 原則として生時に戸籍に登録しなかった王子は簿外の「御密子」として扱われます。貞愛親王の場合も、何らかの事情で簿外の「密子」とされていたのを、生後七年経った安政五年になって正妃鷹司景子所生の嫡子として家譜に入れたわけです。
 そもそも正妃景子の所生となれば、将来永世親王伏見殿を承継する資格が生じます。こんな大事が、いくら國體天皇の邦家親王であっても、むろん一人でできることではありません。
 つまり孝明天皇の首脳部がハラを合わせて伏見宮の系図捏造(貞愛親王の家譜Wの記入)を承認したわけですが、その時に実際の生年(と推定される)嘉永三(1851)年へ遡及させる処置を講じなかった理由は何か? 「公家たちが地下(一般社会)を舐めていたから」、と落合は目下のところ考えています。
 ところが明治三年に帝国陸海軍の軍制が固まり、皇族男子がすべて陸海いずれかの軍人になる義務を負うこととなります
 およそ軍人は少年から成人にかけての軍人教育が必須とされますが、軍人教育においては野外訓練が机上の座学以上に重視されますから、体力がなくては勤まりません。  ことに成長期の青少年が団体行動する士官学校ないし兵学校においては出身階層の如何を問わず、同級生同士の年齢のバラツキをなくすため、入学と卒業の年齢を一定の範囲に抑えるのが大原則です。
 伏見宮貞愛親王とその王子伏見宮(華頂宮)博恭王の軍歴は、上記の厳しい年齢制度を全く無視したように見えますが、これが戸籍上の年齢を五年から七年遅らせたために生じたことは、これまで重々説明してきたのでここでは省略します。
 この生年詐称は博恭王で終わったようです。
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