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〔257〕博恭王の年齢詐称で浮上した貞愛親王の出自疑惑 2/3改題・後半修文

〔257〕博恭王の年齢詐称で浮上した貞愛親王の出自疑惑
 〔255〕ではハワイ王国から招かれて博信王(華頂博信)の「家女房」になった「常盤常子」の正体を考察するつもりで始めたところ、博恭王の年譜に疑いが生じました。
 落合は予てより、岡崎芳吉と伏見宮博恭王が「二体分け」と観られるのも関わらず、生年が「芳吉が明治三年で博恭王が同八年と五歳も違う」ことの合理的解釈を試みた結果、次のように考えました。
 つまり備後国沼隈郡鞆町字後路994番屋敷に住む岡崎芳吉なる明治三年生れの人物が実在していて、それに背乗りしたのが明治八年生れの伏見宮愛賢王(後の伏見宮博恭王)と考え、本体の岡崎染吉は亡くなったか行方を晦まして「別の名前で生きている」のだろう、と一応考えていたのです。
 ところが、今回「岡崎盤常子に関する岡崎家伝」を聞いて貰えまいか」とH博士に要請した落合は、ついでに「博恭王の生年が芳吉と異なることに触れたところ、博士は「祐一さんが以前から博恭王は年齢を偽っていたと云っていました。なんでも七つほど違うとか」というのです。
 まさに「瓢箪から駒」です。「問いより先に答えが出た」のに驚きましたが、「これで博恭王の本当の出自が判るかも知れぬ」との期待が落合の心に芽生えてきました。
 それからの展開は諸兄姉の御高承のところですから、割愛いたしますが、「伏見・華頂家の公式年譜」に博恭王の「生年が五歳も若く」表示されているのが、落合の疑問に対する解答だったのです。
 古来、元帥軍令部総長博恭王を論じた史家・知識人は極めて多く、この偽装に気が付いた人もいた筈ですが、これを公然と指摘した人はいたのでしょうか? 
 いたとしても、それほどの人ならば「文献絶対主義者」や「物証崇拝者」の没義道かつ下劣な雑言に晒されることは先刻承知ですから、「触らぬ悪霊に祟りなし」との「明哲保身」に徹して眼を背けてきたのでしょう。
 ともかく落合はこのような「史実捏造」を眼前にしながら放置するわけにはいかないのです。わが家系には少なくとも三件の「偽装死」があります。わが曽祖父も「二体分け」をしており、そのために「生前葬式=偽装死」を行っていますが、生涯公職に就かなかった庶民のために問題にならないのです。
 これに対して皇族は、その身分から「二体分け」はやりにくいものの「生前葬式=偽装薨去」をした実例を落合は知っております。これは「二体分け」の一種ですが、偽装死後に名前を変えるので「二体が同時に存在しない」ところが異色なのです。
 落合の使命は古来政治的必要から行われた史実の歪曲を正すことですが、そのためには史実歪曲の存在を暴露して、歴史的事実の真相を明らかにせねばなりません。
 その最大のものが、「南北朝の強制統合」と「明治天皇の入れ替わり」です。これに「ハプスブルク大公と日本皇統の関係」が落合莞爾の提唱する史観の骨子を成すのです。
 この落合史観を政体の学校歴史が受けいれるまで落合の歴史戦が続きます。戦争目的は落合の生前には達成できないと思いますが、諸兄姉には、今後も引き続きご支援をお願いする所存であります。
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