見出し画像

〔233〕張学良の「西安事変反省録」11/19夜 

〔233〕張学良の「西安事変反省録」
 落合がこれから論じるのは犬塚きよ子著『フリーメーソンのアジア管理』の203頁に出てくる張学良の「西安事変反省録」ですが、原典が手元にないので、とりあえず犬塚著を引用します。

  張学良が書いた「西安事変反省録」によると、周(恩来)との会談の模様は次のようであった。 「ある夜、延安の教会で周恩来と会談し、およそ二、三時間話し合った。・・・周は蒋公(蒋介石)は国家に忠誠であり、抗日のためには、まず蒋公が指導することを擁護しなければならない、と認めた。周はもちろん、その他の共産党関係者もまた蒋公の昔の部下であり、抗日の綱領のもとで共産党は国民党と昔日の関係を回復し、あらためて蒋公の指導を受ける、と力説した」
 「西安事変反省録」によると、二人の会談では「共同抗日」を実現するため、共産党に関する条件として(以下省略)など十項目の合意に達した。
 張学良は「蒋公に極力進言して実現をはかる。互いに食言はしないよう約束しよう」と確認して別れた。張学良は、これで国内は太平となり、すべてが一丸となって抗日に向かって邁進できると、すっかりうれしくなってしまった・・・という。
 こうして彼は、共産党の統一戦線工作の道具になったのである。

 まず西安事変の事前に周恩来と張学良が延安の教会で行った秘密会談について考えます。
 周恩来は國體天皇府の最高幹部でメソジストの牧師であったポンピドーから委託を受けた張伯齢が経営する天津南開中学の卒業生で、張伯齢を奉天に呼んで教えを受けた張学良は天津南開中学の校外生徒です。
 つまりこの二人は幼少から「國體天皇府」の参謀教育を受けた同志で、この時は上層部の指示を受けて「国共合作」を工作していたのです。
 孫文が「第一次国共合作の一環」として大正十三(1924)年に創った黄埔軍官学校は「容共政策」に立ち、教官をソ連から招き、国民党と共産党の双方が生徒を送りこみました。
 校長は国民党の蔣介石で、共産党からは周恩来が政治部副主任、葉剣英が教授部副主任として参加しましたが、蒋介石の北伐が始まると「国共合作」が破綻して再分裂したため、ソ連および共産党の教官は引上げました。
 つまり蒋介石と周恩来は、この時から知り合っていたわけです。蒋介石は昭和五(1930)年に浙江財閥の宋嘉樹の三女宋美齢と結婚してフリーメイソンに入社していますが、周恩来は蔣介石より十一歳年下ながら、生まれながらの國體奉公衆で、年少時から國體参謀教育を施され、奉天で小学校を終えた後、天津南開中学で秀才と謳われて日本留学をしたほどですから、國體参謀としては周恩来の方が数段格上と観て良いのです。

  張学良は果して張作霖の実子か? 
  張学良は表向きで張作霖の長男とされていますが、これにはさすがに無理があります。 張作霖の伝記『張作霖』を著した白雲荘主人(中川小十郎・樺太庁第一部長・台湾銀行総裁)が、学良の母とされる張春桂と張作霖の出会いを「できちゃった婚」と述べているのは、,実際に分からないので誤魔化しているのです。
   張学良の父はおそらくハプスブルク大公系の人物で、「國體天皇府」が張作霖の長男として送り込んだと見るべきです。張学良の生年は「北清事変」の翌年の明治三十四(1901)年ですが、このころ愛新覚羅氏の満漢分離策が「國體天皇府」の承認のもとですでに始まっていたのです。
  明治二十七、八年の日清戦争で清軍に加わったものの日本軍に助命された張作霖が以後馬賊として頭角を現す一方、日本軍の軍事探偵として働く姿に眼を付けたのが「國體勢力」ですが、そもそも張作霖の家系に國體勢力に関係する要素があった可能性もあります。
 明治三十三年、当時二十七歳の張作霖の籍に長男として「ハプスブルク系の貴公子」を嵌めこむ策が建てられ、富豪趙家の娘春桂が母として選ばれたのですが、実際の夫婦生活を嫌って別居していたと見え実態が不明で、十一年後に死亡したことになっています。
   明治二十七・八年の日清戦争で清軍に加わったものの日本軍に助命された張作霖が、以後馬賊として頭角を現す一方、日本軍の軍事探偵として働く姿に眼を付けたのが「國體勢力」ですが、そもそも張作霖の家系に國體勢力に関係する要素があった可能性もあります。
 明治三十三年、当時二十七歳の張作霖の籍に長男として「ハプスブルク系の貴公子」を嵌めこむ策が建てられ、富豪趙家の娘春桂が母として選ばれたのですが、実際の夫婦生活を嫌って別居していたと見え、実態が不明で十一年後に死亡したことになっています。
 ともかく張学良の生誕事情として以上が推察さが、弟の張学銘(1908生)の生母も趙春桂と思われますが、末弟張学思(1916生)は趙春桂の死後に生まれていますので、この兄弟の正確な出自は結局未詳です。
 昭和天皇と同年生まれの張学良は、外見がに昭和天皇とそっくりで、来日した時に宮中の女官が見誤ったとの説さえあります。
 華頂博一さん(本姓岡崎氏)の素性がこのところネットで騒がれていると聞きますが、落合が以前このnoteで述べた通り、華頂博信侯爵の孫であることは間違いないでしょう。
 その岡崎(華頂)氏が師父華頂博信氏から聞いた話を落合が一応検証したところ、張学良はどうやらポンピドー牧師と血統的な繫がりがあるようですから、これについては退院後に本格的に調査を行いたいと考えています。




ここから先は

3,863字

¥ 500

いただいたサポートはクリエイター活動の励みになります。