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〔229〕「因縁」の本質は「記憶遺伝」か?

〔229〕「因縁」の本質は「記憶遺伝」か?
 前項〔228〕は「落合莞爾のユダヤ研究私史(その三)」と題しながら内容が次第に因縁論に傾き、「因縁の本質は記憶遺伝」のなせる業」との結論にいたりました。
 これを書き始めたのは十月二十日ですが、翌日から中森護君が主宰する戦略思想研究所の録画が始まり、本格的に筆を持ったのは二十二日で、「物故した親友和田捷平君と落合莞爾の因縁」から説き始めました。
 一旦記憶をたどり始めると様々なことが思い浮かびますが、走馬灯のような記憶の流れを意識的に止めて一つの事象に意識を集中すると、その事象の経緯胸に浮かんできて、終にはその時の周辺の環境が一枚の絵となって見えてきます。あの時は「誰が何したのに対し、自分がどうしたから、こうなったのだ」という具合です。
 この状態を文章で表わそうとしても、なかなか前に進まないうちに睡魔に襲われて寝に就いたのが十月二十三日の夜半で、翌朝小用を足すために起きたところ、足が立たなかったが、偶々同宿していた中森護君が救急車を呼んでくれたのです。
 さて二十八日に退院帰宅した落合は、以後四日間は寝たきりで、月が替わってようやくデスクに向かい、十一月二日に至り「記憶遺伝」と「因縁」の関係に関する簡単な考察をまとめて〔228〕を完了することが出来たので、投稿すると、午後九時に至り、門人某氏からサポートとともに次の感想が送られてきました。

  先祖から子孫への個別的波動が、やがて特有波紋のように継承蓄積されたものが家督かな…未来への言霊波紋…と、ふと脈絡なく思いました。
 
 落合の所説が「先祖代々の記憶遺伝」を「個人としてたどる」のに対して某氏の所説は「家門としてたどる」もので、そこに「家督」の意義を感じる落合は、これこそ日本社会の伝統たる「家族主義と家督制」の本質と察し、真に卓見と感じましたので、以後はこれを念頭に追究していきたいと考えております。
 それはさて置き井口莞爾(復姓するも筆名は落合)と四天王寺の因縁は「天王寺屋」の米谷氏だけではありません。
 本町小学校時代の恩師で後に高名な日本画家になられた稲垣伯堂画伯のパトロン某氏が狸庵に伴ってきた人物も井口家とは深い因縁があります。
その人物とは天台宗の高僧東光院智應大僧正で、生家が四天王寺の塔頭有栖山清水寺と言うのです。
 話を聞くと、先祖は鳥取藩主池田氏の末裔健代氏で、江戸時代に医者になっていたところ殿さまの治療を間違えたことで、「切腹か坊主になるか、いずれかを選べ」との沙汰で僧侶になった、との事です。
 東光院智應大僧正と四天王寺との関係は、藩主と同族の池田氏の姉妹が四天王寺塔頭の清水寺(新清水)と正善院(荒神さん)にそれぞれ養女入りし、新清水に入った方と結婚して同寺を継いだ健代氏の次男が東光院大僧正という事です。
 護良親王と共に北条幕府と戦った楠木正成の嫡子正行は摂津国野間荘の内藤氏から妻を容れていましたが、内藤氏が高師直に寝返ったので離縁して内藤家に戻します。当時妊娠中の妻が、のち摂津池田氏に嫁いで産んだ正行の子が池田家を継いで池田教正と名乗ります。
 以後摂津池田家は楠木流池田氏になりますが、そもそも遠祖の河内国和泉監(のち和泉国)住民の池田首は淵源が熊野和田氏です。つまり楠木氏と池田氏は熊野発祥の神別橘氏流の同族なのです。
 建武元(1333)年に後醍醐天皇を補佐して「建武の新政」を達成した楠木一族は南北朝時代に入り、正成の嫡子正行の子が母の再婚先の摂津池田氏の嫡子を差し置いて家督を継ぐのも、神別橘氏流宗家としての在り方であろうと思われます。
 以上長々と述べたのは、➀建武新政における楠木正成と四天王寺、および➁楠木正行と摂津池田氏との深い関係、③明治維新における池田一族健代氏の四天王寺入りが因縁によることと、これと並行して生じた➃建武新政時に護良親王の王子が紀州粉河井口氏の家督を継ぎ皇別井口氏となったこと、⑤皇別井口氏の末裔井口幸一郎が、四天王寺の土地管理に当たってきた天王寺屋の末裔阪口三代子と結婚した事です。
 これを観れば、和歌山城下鷹匠町の狸庵に流遇する井口莞爾を東光院大僧正が訪ねて来たのは、単なる偶然などで済ませる事ではありません。

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