張作霖問題(4)1/10
〔115〕張作霖を巡る二元外交の根源(4)
当時の陸軍大臣は明治四十四年から石本新六(旧1期)で、続いて明治四十五年四月から上原勇作(旧3期)、さらに同年十二月から木越安綱(旧1期)、大正二年六月から楠瀬幸彦(旧3期)が就いた。士官生徒の第一期と第三期が繰り返し陸軍大臣に就いたのは序列を尊ぶ陸軍人事ではめったにない奇観である。
ここで本稿はしばし脱線します。
組織内の序列を決める基準は封建制度のもとでは「身分」と「門地」が原則であったが、明治維新以後は維新に関わった志士たちが士族を称して新しい「門地」を形成した。いわゆる「新士族」である。
薩長土肥四藩の新士族たちは新政府において幕藩体制の「身分」たる士分に優越する地位を獲得し、旧士族に優越する立場で旧士族と協働して維新政府を構成したが、維新政府の理念は「五箇条の御誓文」が標榜する「四民平等」の実現であるから、このような藩閥優先による有司専制では済まされない。
ここに「四民平等」思想とは、日本古来の國體観念たる「一君万民」が、鎌倉時代に始まる封建制度を経験したあとに逢着した社会理念であり、紀州藩勘定奉行伊達宗広(千広)が、嘉永年間(一八四八年)に密かに著した『大勢三転考』で、その概容と沿革を明らかにしたものである。
維新政府の濫觴は如上の如く、維新活動に携わった各藩の「下士・卒族および部下奉公人」ら(維新後はこれを「維新の志士」と称する)が政体の主力となるが、統治にあたる人材の層が薄く教養も不充分であったから、結局維新活動に直接関わらなかった幕臣並びに各藩の士分や郷士階級に統治事業の多くを仰がねばならなかったが、帝国陸軍もその例に洩れなかったのは当然である。
いわゆる「紀州藩」とは「南紀徳川家」のことで、これが江戸時代における正式な呼称である。維新後に和歌山藩と称したが、その参政となった伊達千広の子息陸奥宗光が、中央政府の四等官(各省の少輔と同格でいわば第二次官)の身分を敢えて捨て和歌山藩権大参事に就いた目的は「版籍奉還」の実質的内容たる「廃藩置県」を実現するために、そのモデルを和歌山藩が造るためであった。
新政体のモデル造りという、わが国史上でも特筆すべきこの重大事を、明治以来国史学者を称する者がついぞ論じた事はないが、唯一の例外は紀州藩士堀内信が明治三十四(1901)年に完成した『南紀徳川史』である。
南紀徳川家に関する事績を資料に基づき、すこぶる詳細に述べた労作で貴重な歴史資料であるが、これを通読した史学者がいたとは思えない。もしも居ったとしたら、今日も流布されている史学上の誤りは既に修正されていなければならないのに、その気配が一向に見えないからである。
この理由は、明治以来の史学者が明治大正期には薩長史観に、戦前昭和期には皇国史観に、戦後は自虐史観にと、時々の政体が標榜する史観に反することを咎められる虞を抱いたからではないかと思う。
しかし、権力を怖れて史実を枉げる者はもはや史学者ではない。つまり、維新以後の日本に史学者と呼べるものは一人もいなかったのである。
近現代日本における教科書史学・報道史学の拠る歴史観が、あたかも根太のゆるんだ建物のごとく常にユラユラと揺れていたのだから、これを学ぶ国民も「どこかが違う気がする」違和感に満ちた歴史感覚を抱きながら生活してきたわけである。
この事態は、明治以来の日本史学がわが國體から眼を逸らしたことから生じたのであるから、今から日本国を建て直すとなれば、まずは正しい國體の認識から始めねばならないが、國體の正しい観念を簡単に示したものが見当たらないのが現状である。
だがしかし、白頭狸が落合莞爾の筆名で平成二十七(二千十五)年に発表した『日本教の聖者・西郷隆盛と天皇制社会主義』(成甲書房)は、その27頁に、「和傘の構造に似る日本社会」として日本國體の概念図を示している。この後に示すので御覧いただきたい。
この著は今から七年前に書いたもので、内容の大筋は間違っていないことを確認しているが、内容の細部は、その後の研究によって明らかになった事実と異なるものが少なからずあることをお断りしておく。ただし、これらの誤りは、その後の拙著による改訂が進んでいるので、読者はすでに御高承のはずである。
脱線は國體論に及びましたが、ここらで収拾することとします。
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