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〔222〕帝国海軍大佐の「犬塚機関報告書」のフリーメイスン観 10/4加筆して重要修正しました

〔222〕帝国海軍犬塚機関のフリーメイスン観
 WWⅡの半分を担う「大東亜戦争」の総括を志した落合は、開戦に到るまでの日本側の事情を探ってきました。
    世界史上有数の大戦争でしかも人類史上初めての「総力戦」となった「大東亜戦争」はそれまでの戦争、すなわち「農地」「鉱山」「奴隷」「植民地」「貴金属」の獲得・争奪を目的として傭兵・徴用兵らの戦闘員が戦った武力闘争の位相(phaseⅡ)から出て「国家総力戦」の位相(phaseⅢ)に突入しましたから、日本社会はあらゆる階層とあらゆる分野(たとえば産業・消費・科学・教育・宗教などすべて)を包括した戦争体制に突入いたします。
 この「国民総動員体制」が来るべき戦争で「必然的に到来する」ことを認識していたのがWWⅠを経験した帝国陸軍のエリート層で、かれらが定期的に集まって意見を交換していた私的会合の「双葉会」「木曜会」がやがて統合して「一夕会」になります。
 その中心は、陸軍省では軍務局軍事課長の永田鉄山大佐(16期)、参謀本部では関東軍参謀として「満洲事変」を成功させた石原莞爾(21期)です。
 「総動員体制」へ向けて日本の改造を図るために荒木貞夫(9期)、真崎甚三郎(9期)、林銑十郎(8期)の三大将を担ぐ方針を立てた「一夕会」は、昭和六(1931)年に陸相に就任した荒木貞夫(9期)の評価を巡って分裂します。対ソ連方針を巡って深まった永田鉄山と小畑敏四郎の対立が、小畑が仰ぐ荒木が陸相となり、皇道派人事を強行したことが原因です。
 かくして「一夕会」は、永田を指導者とする「陸軍統制派」と小畑敏四郎(16期)に従う「陸軍皇道派」に分裂しましたが、ここで注目されるのは石原莞爾です。

 荒木・真崎の両大将に対する反発を露わにした石原の言動と、昭和天皇が石原について洩らした片言のため、史家からは「反皇道派」と見做されているようですが、落合はこれを「石原独特の演技」と感じています。
 ともかく表面では「皇道派」にも「統制派」にも属さぬ石原は、多田駿大将(15期)らと共に「満洲組」と呼ばれました。「満洲作戦」を見事に成功させながら、「内蒙古作戦」に反対したからです。
 石原莞爾のほかにも注目すべき存在がいます。
 「一夕会」の会員よりはるか先輩の陸軍長老宇垣一成(1期)で、「宇垣軍縮」を成し遂げた政治力と国際協調を重んじる見識を以て、当時の帝国軍人中で群を抜いた存在と見做されており、昭和十一(1936)年には元老西園寺公望の奏上により「組閣の大命」が一旦下されたほどです。

 その宇垣一成を、落合が「統制派」の黒幕と断じるのは、明治末期に田中義一(旧8期)と組んで上原勇作(旧3期)を担ぎ、帝国陸軍の改革を成し遂げた宇垣が、シベリア出兵の頃から田中と組んで上原勇作と袂を分かち、上原元帥の「主敵」に転じていたからです。田中と上原の関係は複雑で軽々に論じることはできませんが。今は宇垣を論じていますので控えます。
 上原元帥が薨去に際して荒木貞夫を後継者としたことを、現状の史家たちがほとんど知らないのは、そもそも「真の國體」を知らないのだから仕方がありません。ともかく荒木が「皇道派」の本山ですから、「上原の主敵」たる宇垣の立場は「反皇道・親統制」と観るのが自然ですが、現状の史学界は一応宇垣を両派のどちらにも属さない「独自の存在」と観ていますが、長年の陸軍大臣在任から陸軍内に数多い子分を「宇垣閥」としています。
 このように、昭和初期の帝国陸軍には「統制派」「皇道派」「満洲組」「宇垣閥」の四つが存在したとされています。落合はこのほかに「戴仁親王・寺内寿一に山下奉文・武藤章を加えた「一派」が存在した、と観ておりますが、ここでは控えます。

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