張作霖問題(7)1/18
〔119〕張作霖問題(7)
ここで西園寺公望について簡単に述べる。
そもそも西園寺公望の祖先は護良親王末裔のベルギー王室から東山天皇の皇子として潜入し、中御門天皇の弟となった閑院宮直仁親王である。
直仁親王の第一皇子典仁親王(慶光院太政天皇)の王子兼仁親王が即位して光格天皇となり光格→仁孝→孝明と続く光格王朝が始まるが、光格の弟が鷹司家に入って鷹司輔平となり、ベルギー系皇別の鷹司家が始まる。よって光格皇統(京都皇統)と皇別鷹司家との関係は、あたかも御花園皇統と永世親王伏見宮家のごときものである。
鷹司輔平の子が政煕、その子が政道で、その子の輔煕が一五歳の時に出来た密子を父政道の籍に入れたのが徳大寺公純である。公純は徳大寺実則、西園寺公望、住友友純など大勢の子息がいるが、生前に婚姻しなかったため、すべて庶子扱いになった。
ようするに、ベルギー系光格皇統の分枝皇別鷹司家に生まれたのが西園寺公望で、明治三(1870)年に二三歳にしてフランス留学を命ぜられ、渡仏する。翌年に発生したパリ・コンミューン事件に遭遇し、民衆の蜂起を目の当たりにした公望は、同時期にフランス・スイスに留学してきた元陸軍少将大山巌から紹介されたフランス語教師のウクライナ人レフ・メチニコフを日本に招いて東京外語学校の教授に就けた。
レフ・メチニコフは一八七〇年ころ帝政ロシアで発生した社会運動家集団ナロードニキの一人であったから、明治十三(1880)年に帰国した西園寺公望が革新思想を抱き続け、新聞界に入ったのは、パリ・コンミューンおよびレフ・メチニコフの影響があると思われる。
西園寺公望と大山巌はいうまでもなく大東社員であるが、大東社との関係がよくわからないメチニコフの生地は、目下ウクライナ事変の戦場となったハルキュー州である。レオン・トロツキー(ヘルソン県)、アドリフ・ヨッフェ(クリミア半島)ら国際共産主義の中心人物がウクライナで生まれているから、メチニコフもその一味であった可能性が高いと思う。
辛亥革命が清朝の倒壊をもたらした大正元(1912)年には、日本首相西園寺公望、陸相石本新六はともに大東社員であった。
後に首相になる原敬は、明治十八年から同二十一年まで外交官としてパリに滞在しており、帰朝後に陸奥宗光の薫陶を受けたこと、また西園寺公望の政友会に属した亊歴からすれば大東社員とみるべき筋合ではあるが、とすれば、後年に生じた上原勇作および後藤新平と原敬との深刻な対立は何に起因するものか、一考を要する課題である。
第一次満蒙独立運動は、愛新覚羅家の要請で奉天に軍事政権を建てた張作霖の抵抗と日本外務省の反対ですぐに中止となった。外務大臣は首相桂太郎が兼任していたが、満蒙独立に対して反対したのが大東社から受けた指示に従ったものかどうかは判らない。
第一次満蒙独立運動が頓挫した川島浪速と粛親王は帝政復活を図る袁世凱に対する反対運動の炎上に乗じて第二次満蒙独立運動を起す。
大正五(1916)年一月に参謀本部次長田中義一中将、第二部長福田雅太郎少将らが第二次満蒙独立運動の計画を進めたのは、暗に大隈内閣に奨励されていたからで、満蒙視察から帰った小磯国昭少佐に川島浪速らの計画を告げ実行を促した。
大正五年三月に袁世凱が急逝すると、その混乱に乗じて奉天城の乗っ取りを計画した川島配下の志士が同年五月二十七日に奉天督軍張作霖の殺害を図るが失敗した。
この動きを知った外相石井菊次郎は小池政務局長に命じ、在満各地の領事に暗に支援するように通達させたところ、朝鮮総督寺内正毅および在支公使伊集院彦吉から、「今は奉天の張作霖を秘かに支援して満蒙独立運動をさせた方が現実的」との反論を受けた。
この寺内の提案に、外相石井菊次郎も参謀次長田中義一も賛成したことで満洲政策の二元化が始まった。一つは粛親王の宗社党を担いだ土井一之進大佐(旧11期)と川島浪速が進めた第二次満蒙独立運動である。
第二は、奉天督軍張作霖に兵器から軍資金にいたるまで参謀本部が支援して奉天政権を創らせる張作霖擁立政略であるが、内外の史家がここまでしか述べないのは、その裏を知らないからである。
裏とは、張作霖の傭兵起用はそもそも醇親王と堀川辰吉郎が図ったもの、ということであるが、すでに述べたからここは略する。
要するに張作霖擁立は堀川辰吉郎を総帥とするワンワールド國體が定めたもので國體隷下の西園寺首相、寺内朝鮮総督、さらに上原勇作参謀総長らはこれを堅持したのである。
第二次満蒙運動は大隈内閣の方針転換で状況不利となる。郭家店において進退窮まった勤王帥扶国軍を即時無条件で撤退させよ、との密命を与えて参謀本部が派遣した第四(支那)課長浜面又助大佐(新4期)は、このままでは勤王帥扶国軍が中華民国軍の攻撃を受けて全滅するのを見過ごせず、独断で武器を与えたが、バブジャップが機関銃による銃撃を受けて戦死したことで、勤王帥扶国軍は解散した。
参謀総長は大正=民国四年十二月に長谷川好道元帥に代って上原勇作大将(旧3期)が就く。上原は帝国軍人というより大東社首脳の一人として張作霖擁立派で宗社党の満蒙独立運動に反対の立場であったが、参謀総長としてはその立場を明確にせず、参謀次長田中義一中将と第一部長宇垣一成少将のなすところに従っていたものと思われる。
これから推して田中義一(旧8期)と宇垣一成(新1期)は大東社に加盟しておらず、そのゆえに後年、上原勇作とは路線を異にして暗闘することになったものと考えられる。
かくして、辛亥革命後の満洲は醇親王の傭兵張作霖が帝国陸軍の支援の下に僭主となって統治するに至り、この状態が昭和三(1928)年まで続くのである。
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