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〔241〕伏見宮と岡崎家に「二体分け」した永世親王伏見殿
〔241〕伏見宮と岡崎家に「二体分け」した永世親王伏見殿
このnote でここ何回か華頂宮家について論じてきた落合は、伏見宮家とその支流華頂宮家が江戸時代以前から広島県沼隈郡鞆町字後地(あざウシロジ)の備後安国寺周辺に秘密の根拠地を置いていたこと、および明治の中葉に長崎県佐世保市にも根拠を設けたことを述べました。
大覚寺統と持明院統の迭立を巡るいわゆる南北朝の対立が表面上で激化した嘉暦三(1328)年は、実は以前から両統首脳の間で秘かに進められていた「両統の永久統合」に向けての協議が秘かに整った年で、この年に建てられたのが「大塔政略」です。
その要旨は「大覚寺統の後醍醐醐天皇の王子護良親王の嫡子を持明院統の後伏見天皇の子の光厳天皇の籍に入れ、崇光天皇とすることで両統の強制的統合を図る」というもので、壮大な「政治的策略」です。
系図上の個人を入れ替えるのでそれなりの時間がかかり「大塔政略」が完成したのは明徳三(1392)年です。この年に南朝の後亀山天皇と北朝の征夷大将軍足利義満のもとで和約がまとまり、後亀山天皇が新北朝の後小松天皇に「三種の神器」を譲与したことで南北朝時代が終焉したのです。
というのはi実は表向きで、真相を言えば「醍醐天皇と後伏見天皇が後宇多天皇を父とする双子の皇子」という「國體秘実」から南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)統合が始まるのです。
ただしその際に極めて複雑な家系ロンダリングを施していて、これを言えば長くなるので、興味のある方には拙著「落合・吉薗秘史第三巻『日本皇統が創めたハプブルク大公家』をご覧いただくことをお願いします。
尤も、護良親王系への移行にそれなりの時間がかかったのは事実で、「大塔政略」により唯一の皇統となった護良親王の実子崇光天皇が、戸籍上で弟の光厳天皇に迫られた形で、その第二皇子後円融天皇に皇位を譲ります。
現代の史家は光厳⇒光明⇒崇光⇒後光厳⇒後円融⇒後小松⇒称光を「北朝天皇」と呼んでいますが、これは崇光天皇の由来を知らぬことからくる完全な誤りです。
國體秘史では光厳⇒光明の二代を「北朝」、それから崇光天皇を挟んで後円融から称光までの四代を「新北朝」と呼び、護良皇統に「畠を提供した家柄」と規定しているようです。
それはさて措き、護良親王の弟の後村上天皇から長慶⇒後亀山と続く「南朝天皇」の最後の後亀山天皇から「三種の神器」を渡されて南朝と新北朝を合一したのが後小松天皇で、その跡を継いだ称光天皇が後嗣なく崩御して合一皇統も終りとなります。
その間、皇位を継がずに待機していたのが崇光の皇子伏見宮栄仁親王で、第一王子が称光天皇の跡を継いで後花園天皇になり、第二皇子貞成親王が伏見宮を継いで「永世親王伏見殿」とされ、男系男子は未来永劫に皇位継承権を保有すると定められます。
伏見宮と並んで有栖川宮や桂宮など「四親王家」が天皇の血統バンクの永世親王とされますが、中でも伏見宮の存在感が著しく、天皇家の傍流どころか、本流の体(テイ)をなしてきました。
具体的には欧州の分家との間の交渉を行ってきたのです。これが伏見宮の特殊性ですが、明治維新の際に邦家親王の第十二王子知恩院宮博経親王が一代限りの宮家を許されて創設したのが華頂宮です。
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