〔214〕大東亜戦争の総括(4)9/6加筆しましたので再読をお願いします
〔214〕大東亜戦争の総括(4)
昭和九(1934)年に「昭和神聖会」を創った内田良平と王仁三郎は以前から親しい関係でした。
福岡藩士の子息に生まれた内田は、国事結社「玄洋社」の創立に関わった叔父の平岡浩太郎に倣い、国事を心がけますが、ロシアに注目して東京外語学校の露西亜語科に学んだ後、明治三十四(1901)年に「黒龍会」を創立します。
欧米植民地となったアジアの独立を念願とした内田は、同じ願いを持つ朝鮮の両班李容九とともに「日韓の対等合邦」を主張しますが、結局は「日本による韓国の併合」となり失望しますが、その後も満蒙を拠点に満蒙工作に携わります。
世人は今もって「黒龍会」を「玄洋社の別動隊」のように言いますが、事実はその逆で「玄洋社よりは一格上とのことです。理由は「福岡藩士でも上士が加わったから」ということですが、落合にはそんな事よりも「政治団体としての理念が玄洋社より一段高い」ことのように思えます。
それは「玄洋社」が満蒙および支那インドを活動の対象としているのに対して「黒龍会」はロシア共産主義に対する対応に特化しているからです。
つまり「黒龍会」は日本國體の隷下にあり、欧州國體ハプスブルク大公隷下の秘密政治結社「大東社の東洋本部」とも云うべき存在ですが、國體勢力が主敵と目するのは「国際共産主義者」と「植民地主義勢力」です。
黒龍会と玄洋社は同根で幹部も重複していますが、そもそもロシアを対象として創られた黒龍会は、共産主義国家として成立したソ連に対応することに集中しましたから隠密工作も多く、秘かに関わっていた後藤新平が重大な役割を果たしたことを知る今人は皆無と云ってよいうほどです。
つまり黒龍会は、アジア諸民族の独立運動に邁進した「玄洋社」とは活動の在り方が異なるのです。
一方の王仁三郎(上田鬼三郎について謂えば、吉薗周蔵の「周蔵手記・別紙記載」には、大正三(1914)年に祖母ギンヅルの命を受け、渡辺ウメノを尋ねて綾部まで行った周蔵が、大本教本部で出口王仁三郎に会ったことを記しています。
その時に出口が、周蔵に「爺さんには遭ったか?」と尋ねたのは、周蔵が青森県下北半島の小目名で大本教の看板を挙げていた槙玄範に遭ったことを知っていて、「槙玄範の実父で王仁三郎の祖父の上田吉松に遭ったか?」との意味です。(拙著に詳述)
明治七年に偽装死した上田吉松は、その後下北半島の小目名に向かったのは息子の鬼一郎が三代目槙玄範となって住んでいたからで、玄範を教育してアヤタチを継がせる目的がありました。
その後、霊媒を業として全国を回った上田鬼三郎(戸籍名は喜三郎)は、 いとこの渡辺ウメノを通じて知り合った綾部の霊媒出口ナヲと組んで明治二十五年に大本教を開いたのち全国を回りますが、大正三年当時は下北半島に住んでいたので、王仁三郎は周蔵に「爺さん」の様子を尋ねたのです。
大正八年に米騒動が起こります。米騒動は古来、社会変革の兆しですから、これを睨んで本格的に布教活動を始めた大本教(正式名称は皇道大本)は、時局に乗じたその教勢が余りにも盛んなため、明治政府を建てた薩長勢力の畏れるところとなり、検事総長平沼騏一郎と内務省から激しい弾圧を受けたのが大正十(1921)年の「第一次大本事件」です。時の内務大臣床次竹二郎はかつて神社合祀運動を進めた人物で、宗教に対する官僚の偏見が窺われます。
ここで〔213〕の「下記の一条」の後半の文面を再掲します。
満洲事変の時も板垣、土肥原大佐が支那の秘密文書を押収したら、日本の大官連中がワイロを貰っていることが判り、本庄中将を二階に押し込めておいてやったのである。王仁が「満洲で働いた」ことの記録もあったので返してくれた。
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