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No.37 お寺の掲示板「名前を呼ぶよ」SUPER BEAVER


 表題曲は数年前の映画「東京リベンジャーズ」の主題歌でしたが、このバンドもこの曲も流す程度にしか私は聴いておらず、ほとんど意識の外でした。
 昨年末、お参りの際の車の運転中にこの曲がFM802から流れてきました。その時、初めて歌詞がはっきりと聴こえてきて、思いました。やばい、すごい曲やないんか、と。

名前を呼ぶよ 名前を呼ぶよ
 あなたの意味を 僕らの意味を

 お寺に戻ってきてから確認して、唸るような思いでした。名前ってそうか、人と人を分けるための記号やない。その人そのものを、その人がその人である意味を表しているのか。

名前を呼んでよ 会いに行くよ
 命の意味だ 僕らの意味だ

 ああ、名前を呼ぶ行為って、その人を最大限に認め、尊んでいる姿なのか。あなたの名を呼ぶという行為は、あなたがこの世に生を受け、名づけられ、これまで育てられ、今この瞬間に私の前にいてくれている、そのことに対するおおきな喜びと、感謝をも含めることすらもできる行為なのか。

 だから、逆に、呼んでもらえるなら、会いに行く。それは私がいまここにいるといういのちの意味だから。僕らがいるという存在そのものだから。
 この歌詞から、そんなことを感じました。

 「おーい」「お前」「あんた」「おにいちゃん」「おねえちゃん」「お父さん」「おかあさん」 家族の中では名前を使わずに呼びかける言葉は様々ある。でもそれは役割や関係性を表す言葉で、本当の意味でその人を呼んでいるわけではないのでしょう。

 子どもたちが小学校へ通うようになり、友達を作って仲良くなった子たちと下の名前で呼び合っている姿は、なんともほほえましく、温かい気持ちになります。友達に「おい、○○(息子の名)!」と怒りながら呼ばれていたとしても、そこには相手の存在を認め、自らの存在も大切にしている姿にみえるんです。

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さて、浄土真宗のみ教えをいただく立場から、この歌詞から大きな気づきをいただけるように思います。浄土真宗は「仏さまのお名前を呼んでいく」宗教やからです。「南無阿弥陀仏」と、阿弥陀仏という仏様のお名前の上に「南無」という大切にするという意味の言葉を冠して称える行為を称名念仏と言います。この称名念仏が浄土真宗の根本・基本です。意味として素直に読むなら「阿弥陀仏を拠りどころにします」という、私から仏さまへの信仰を表す言葉です。

 ただ(ここが面白いところですが)、浄土真宗はその意味をひっくり返して考えます。私が称えている念仏は、私の行ではなく、仏さまの行であると捉えるんです。そもそもで阿弥陀仏の「我が名を称え、お浄土に生まれてほしい」という願いがあり、その願いが私たちに届いた結果こそ、私たちが称える「南無阿弥陀仏」なんや、ということです。つまり、私の称名念仏は、阿弥陀様の呼び声がこだましている姿です。

名前を呼んでよ 会いに行くよ 命の意味だ 僕らの意味だ

  その名を呼ぶときに、私達は仏さまと出遇う。そこに、仏願(ぶつがん:仏さまの願い)の尊さを讃え、私達の命の尊さが讃えられるんです。私が仏さまに向かっておこなう行為が、そのまま仏さまから私たちへの呼びかけとして聴こえてくる世界があるんです。それを親鸞聖人以降、信心と言ってきました。
 
 勝手に切り取って都合よく書いてしまいましたが、こういった捉え方ができるSUPER BEAVERの「名前を呼ぶよ」、すごい曲やと思います。


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